その将軍は、崖を降りる鹿を指差し馬上で言った。「だが見たまえ。あの鹿は、君が降りるのが不可能だと指摘した崖を、悠々と降りていっている。あの鹿にできて、我々にできないその理由は、一体なんであろうか」






6.『興廃は、このときこの場所に』



 セレーネの降伏勧告に対するヴァレス神聖王国の回答は、「否」だった。
 それだけでなく、剣を持つ者に対しては剣で応えるという文章も並び、明確な戦意もその書面に示されていた。国家元首のファリナ=ヴァレスの署名と国章が押された書面をもう一度眺めると、セレーネは手に持っていた回答書を放るようにして机の上に置いた。
 艦橋にある総司令私室に、彼女はいた。
 室内なので海風を感じることはないが、東向きの微風であることは、部屋のギヤマンを通して見える軍船の帆の膨らみ具合で知ることができた。
 戦争になることは、セレーネにとって想定の範囲内の出来事だった。むしろ、ノーヴ帝国の軍人たちの大方は、戦争になるという見方で一致していた。
「……わたしは、ひとときとはいえ、祖国に剣を向けねばならないのか」
セレーネは呟く。いや、セレーネとてこうなることは覚悟していたのだ。ただ、一縷の望みを託して、降伏勧告をしたに過ぎない。
 8年間の月日は、ファリナをすっかり大人に変えていた。妹の見違えるような成長を頼もしく、そして好ましく思いつつも、彼女の成長を見届けることができなかったことは、セレーネにとって悔恨だった。まして、これから剣を交えるのだと思えば、心は一層重くなる。
 降伏勧告をした日を思い出す。セレーネの理想を伝えたとき、昔のままのファリナの青い目は、たしかに揺らぎを見せた。自分の言葉はこの妹の深いところに届いたのだと、セレーネは少なからず満足感を持ったものだ。
けれど、戻ってきた勧告への回答は「否」だった。
もしも、もっと時間と言葉をかけて説得したならば、ファリナは同意を示しただろうか。いや、そんな「もしも」は、開戦の運びとなった今となっては、もはや詮無いことなのだが。
 それにしても、一士官が独断で行ったヴァレス王国への威嚇行為は、かえすがえす残念だとセレーネは思う。あの一件で、ヴァレス王国の世論は、一気に態度を硬化させてしまったに違いない。無断で情報伝達用の快速船に大砲を積み込み、さらに交戦状態にない国へ大筒の弾を撃ち込むなど、ノーヴ帝国軍であっては、軍紀を乱す許されざる行為だ。独走した一士官には軍法に照らして然るべき処分を行ったが、ヴァレス神聖王国に対しては、今更謝罪をする意味も無いだろう。これから、もっと多くの砲弾を送り込まなければならないのだから。
 セレーネは唇を強く噛んだ。そして、自らを奮い立たせるように、呟く。
「犠牲を惜しむものに、理想は叶えられない」
 それは、ノーヴ帝国の現皇帝ナザール=ノーヴが、公子だった時代から言っていた言葉だった。彼も何の犠牲も払わずに、今の地位を手に入れたわけではない。そして、この言葉は、セレーネたち『同志』にとって、ひとつ台詞のようになっている言葉だった。

「失礼します、師団長どの」
 丁寧なノックのあと、総司令室の扉が開かれた。現れたのは、今のセレーネと同じく、黒のノーヴの軍服に身を包んだ参謀長だった。
「ご報告します。あと半刻ほどで、ヴァレス海軍と接触致します」
「そうか。ご苦労」
 セレーネは気丈な女性だった。この数分の懊悩など微塵にも感じさせない強い声で応えて振り返ると、かすかな微笑すら浮かべてみせた。



                               ◆◇◆



 ヴァレス王国軍の一兵士であるベヤールは、海を見ていた。きらきらと光る水平線に、ところどころ途切れる場所がある。きっとそこに、ノーヴの軍艦があるだろうということは、この無学な男にも予測が出来た。
 ぶるる、と武者震いが来て、ベヤールは、しっかりとした顎の上にある頬の傷を撫でた。彼は、かつて傭兵だった。だが、戦争を求めてあちこち飛び回るのに嫌気がさして辞めた。ヴァレス国軍に入隊したのは、30歳の少し前だった。彼がヴァレス神聖王国の水兵になって、何年かが経っていた。
 しばらく頬の傷を撫でていると、ベヤールへ呟きかける者があった。同僚のヒルルだった。去年入ったばかりの新参なので、年のころは、ベヤールよりも若い。
「もうすぐ戦闘なるのか」
 そうだな。ベヤールは、小声で頷いた。
「嫌だねぇ」ヒルルが言った。「女がウチらの大将だってのも嫌なのに、しかも折り紙つきの奇行姫と来てる」
 嫌だねぇ、ともう一度言って、ヒルルは、あんたもそう思わないかい、とベヤールへ水を向けた。ベヤールは、別に、と首を横に振った。
「俺は、あの大将のために戦える」
 へえ、とヒルルは意外そうな顔を作った。
「あの女に、俺たち下っ端の気持ちがわかるってのか。あのご立派な白い王城で、ぬくぬくと育ったお姫さまにさ」
 ヒルルは東へと顔を向けた。今は遠くなってしまって海しか見えないが、そちらにはヴァレス神聖王国があるはずだった。
「わからねぇさ、そりゃ」
 わかるわけねぇ、とベヤールは水平線を強く見据えながら答えた。
「けれど、あの大将は、少なくとも俺たちを見捨てたりしねぇ。それはわかる」
 なんでだよ、という顔をヒルルはした。そしてそれが言葉になる前に、ベヤールは言葉を継いだ。
「少なくとも、あのお姫さんは、海軍を解体しようとはしなかった。他の貴族たちが、訳知り顔で財政改善のためだとかほざいて、軍隊の縮小を迫ったにもかかわらずだ。どころか、ちょっとだったが俺たちの給料もあげてくれた。ファリナの大将と俺らじゃ、育ちがまるきり違うから、わかりあえることもあるめぇよ。けれど、あの大将は俺らを見捨てねぇ。少なくとも、今は見捨ててない」
 土壇場じゃあわからねぇが、とベヤールは何か見てきたかのように笑った。いや、彼が傭兵だった時代には、日頃立派ぶっている人間が、極限状態で真実の姿をさらすところをなんども目にしているのだろう。
「なあ、ヒルルよ。ひとは死ぬよ。兵士ならなおさら死ぬ。でも同じ死ぬなら、自分の信じられる大将のために命を張りてえんだよ。けれど、そんな大将にはそうそう会えるもんじゃない。けれど、俺は会えた。その幸運は命を張れる理由になる。そうじゃあないかい」
 そうベヤールが視線を向けたが、ヒルルは何も答えなかった。けれど、ヒルルは視線を水平線の方へと向けて、眼光を鋭くした。その方向は、先ほどまでベヤールが見ている方向と同じだった。ベヤールは苦笑して、ノーヴ帝国軍が迫り来ているだろう方角へと、改めて視線を戻した。



                                ◆◇◆



「ファリナ様。城内に留まることがならぬのであれば、せめて、どうか船室内にお入りください」
 言ってきたジークヴァルドを、ちらりと横目で眺めると、ファリナは応えた。
「船内では、戦況が見えない」
「戦況は逐一士官に報告させます。ですから、どうか、御身を大切になさってください」
「……現れたな」
 再三のジークヴァルドの請願は取り合わず、海風に髪をなぶらせながら、ファリナは目を細めた。水平線上に、黒い影が現れた。艦影だ。そしてその黒い影は、海の向こうから次々と増えていく。ノーヴ帝国海軍に違いなかった。
「全船に増速の命令を。ついでに、のろい敵の弾に当たるな、と」
 傍らの士官を顧みて、ファリナが言った。敬礼した士官は信号手に伝令を伝え、ヴァレス王国海軍旗艦『ラティーナ』のマストにするすると信号旗があがる。やがて、後続する大小の船舶から了解の返信があり、ヴァレス王国海軍はその速度をあげた。まもなく、両軍は砲・魔術の射程範囲に入るだろう。
 ファリナは、旗艦ラティーナの艦橋にいた。多くの貴族たちが国内に留まるなか、彼女は軍事最高責任者として出陣していた。ジークヴァルドやシルフィなど、ファリナと近しいものだけに留まらず、多くの者が反対したが、結局ファリナはこうして戦場へと向かっている。
 兵力は、ノーヴ帝国側が有利だった。全体の船数ではヴァレス王国側が優るものの、中小型の船舶が多かった。勝負を決すると言われる、いわゆる大型の『軍艦』の数は、ヴァレス王国側がたった5艘なのに対し、ノーヴ帝国側では10艘。つまり、主力戦力の数では、ノーヴ帝国側が圧倒的に優勢だった。
「ファリナ様」ジークヴァルドは、声を強めた。「どうか、船内にお戻りください。ここは戦場になります」
「船内に入れば、そこは戦場じゃなくなるの?」
 ファリナの後ろに控えていたジークヴァルドは、一歩間合いを詰め、ファリナの耳元へ口を寄せる。少しいらだった言葉。
「ここでは、矢弾に直接さらされます。……怖くはないのですか?」
 ファリナはそれに言葉では応えなかった。振り向きもせずに、いきなりジークヴァルドの顎に裏拳を命中させた。そして、ひるんだジークヴァルドの襟元を掴むと、ひきよせて言った。
「怖いに決まっているじゃない。わたしがそんなに鈍感な女だと思っているわけ? 無礼もたいがいになさい。
 ……心配してくれて、ありがとう」
ジークヴァルドは、鈍痛が残る自身の顎をさすりながら、真剣な眼差しをファリナに向けた。
「……ファリナ様。御身は、我が命を盾にしてお守り致します」
 ファリナは片眉をひょいとあげて、
「期待しているわ。でも私よりも先に盾が死ぬなんてこと、無いようにしてね。まだまだ、この戦いが終わってからも、ずっと守ってもらわなきゃならないんだから」
「相変わらず、ご無理をおっしゃる」
「その無理な命令に、今まで応えてきてくれたこと、感謝しているわ」
 ふっ、と、ジークヴァルドは溜め息のように笑いをこぼした。銀の髪が、海風に揺れている。
「では、お約束します。私は、この戦いを生き抜き、その後も――ファリナ様をお守りし続けることを」
「ずっと?」
ファリナの手は、ジークヴァルドの襟元を掴んだままだ。ふたりの顔は、近い。
「はい。ずっとです」

「敵影、旋回を始めました!」
 旗艦の物見から、大きな報告の声があがった。ファリナは掴んでいた銀髪の男の襟元を放した。
ジークヴァルドはようやく解放された襟元を整え、ファリナから一歩離れる。おそらく周囲は、今の二人の会話を、身辺警護を担当する近衛へファリナがなんらかの特命を言い渡したのだろうと見るだろうと彼は思った。実際、交わされた言葉を要約してみれば、確かにその通り。特命を受けただけだ。
 けれど、その特命は、本当に特別なものだとジークヴァルドは感じていた。特別の中の特別。運命めいたものすら感じさせるもの。
 じっと前方の海を見詰める女性のくすんだブロンドは、彼女の青色のマントとともに、相変わらず風になぶられている。統率者としての強い意志を感じさせる背中を頼もしく思いながら、小さな背中だなと思う。意志は強くとも、彼女がただの女性にすぎないことを再認識する。相反する感想を胸に抱きながら、ジークヴァルドは、先ほど誓った「特命」の遂行を、文字を銅版に彫り込むようにして、心に刻んだ。



                                 ◆◇◆



 ファリナの率いるヴァレス王国海軍と、セレーネの率いるノーヴ帝国海軍が交戦を開始したのは、正午をやや過ぎた時刻だった。
 両軍は互いに互いを視界に収めながら、より有利な陣形でぶつかるべく海域を回遊していたが、結局、速度と操船技術に優るヴァレス海軍が先手をとった。縦に伸びたノーヴ海軍の横腹に、単縦陣形で魔術と砲による攻撃を仕掛けた。ノーヴ軍もその場で応戦し、合戦が始まった。
 戦闘は、やや離れた距離からの魔術と大砲の撃ち合いになった。それぞれの船は木造とは言え、「魔術打消し」の表面加工が施されている。だから、船の耐魔術の表面加工を砲などで物理的に破壊し、そして炎熱魔術で攻撃して敵船を沈めてしまうのが一般的な海戦戦術だった。
 だが、互いに動きながら砲を当てることは容易いことではないし、砲を防ぐほどの防壁魔術も存在するので、そう簡単には勝負はつかない。海戦は、互いのミスと幸運を狙った、消耗戦の様相を示すのが常だった。
 戦況は、当初、ヴァレス王国海軍に有利だった。
 さすがに海洋国家なだけあって、操船をする水夫の練度や砲術や遠距離魔術の精度など、とても新造のノーヴ海軍の及ぶところではなかった。ヴァレスの中小型船は、まるで猟犬のように戦闘海域を走り回り、巨象のようなノーヴ海軍に砲弾を送り込み、そのうえで炎熱魔術を放っていくつかの艦を炎上させた。一方で、ノーヴ帝国海軍の放つ砲弾はまるで当たらず、勝負はそのままついてしまうかのように見えた。
 しかし、状況を不利とみたノーヴ帝国海軍は、戦術を変えてきた。
 彼らノーヴ軍は舳先を相手の横腹にぶっつけるようにして体当たりを始めた。あるいは船を横付けにし、彼らが「鶴の首」と呼んでいる、梯子の先に尖った鉄杭がついているものを敵船に向かって倒し、船同士を繋いでしまう。
 そして、自分たちの船から相手の船へと乗り移り、白兵戦を展開した。ノーヴ帝国軍は、大陸では覇を唱えるほどの実力を持つ。海戦は確かに苦手かもしれないが、船を繋いでしまえば陸戦と変わりがない。彼らは本来の驚異的な強さを発揮し、まるで怖いもの無しだった。
そして、戦況が長引けば、所詮風任せの帆船で構成されている艦隊は、艦隊行動が取れなくなって単艦同士の叩きあいになる。そういう状況になれば、大型戦艦を多く備えるノーヴ軍が有利でもある。
 もともと、ノーヴ軍は物量で優れていた。戦術を変えてからは地力を発揮し、ノーヴ軍はどんどんと戦況を押し返した。


「少し残念な気もしますな。せっかく訓練を重ねましたのに」
 ノーヴ海軍の旗艦。師団長である傍らのセレーネを顧みて、参謀長が言った。
 実は、ヴァレス王国に侵攻する前に、新造のノーヴ海軍で海戦を想定して、操船と砲術の訓練を重ねたのだ。
従属国とした海洋国家の通商同盟であるレンザ同盟から、ノーヴ帝国は、海洋技術者として船乗りたちをわざわざ選り抜いた。そしてその彼らを指導層として据え、かつては陸で剣矛を振るっていたノーヴ帝国の騎士兵士を立派な海軍として機能させるべく、3ヶ月の徹底的な訓練を行った。
 海の者と陸の者との違いなのか、レンザ同盟出身者とノーヴ帝国は何から何まで考え方が合わなかったが、それでもなんとか3ヶ月の訓練を終えた。新造のノーヴ海軍は、なんとかかたちにはなったかのように思えた。
 そして、その訓練の成果を試すべく、ヴァレス王国海軍に海戦を挑んでみたが、残念ながらというか当然というか、その技量には子供と大人ぐらいの開きがあった。それで仕方なく、戦術を体当たり方式に切り替えた。帆船を巧みに操り、華麗に海戦場を動きまわることはできなくても、捨て身の体当たりくらいは新造海軍でもなんとかできるし、効果もある。
 だがしかし、参謀長は血の滲むような苦労をした3ヶ月間の訓練が無駄だったような気がして、そのことを指摘したのだ。
「まあそう言うな。華麗ではないかも知れないが、確実な戦法だ」
 セレーネがたしなめるように言った。大方の戦況は決まったとことを感じているのか、声は落ち着いたものだった。
「祖国への贔屓目が入っているかも知れないが、ヴァレスの海軍は本当にたいしたものだ。彼らに付け焼刃の訓練が通じなかったとて、恥にはなるまい」



                             ◆◇◆



 時間が経つごとに戦況が不利になっていると、ファリナは感じていた。
 ファリナは、相変わらず旗艦ラティーナの艦橋にいた。そこには、護衛のジークヴァルドだけではなく、参謀士官たちと旗艦の実指揮を担当する艦長が居た。
 右廻しにした船の左舷から、自軍の軍船が見えた。一見すると損壊の程度はたいしたことはないが、船員という血を失い、ただ洋上に漂っている。ノーヴ軍艦と白兵戦を演じ、敗れた船のなれの果てだった。砲や魔術を放って戦えているヴァレス王国の船は、当初の半分とはいかないまでも、かなり少なくなってきた。2割近い船が、戦闘不能状態に陥っているようだった。他の船も、攻撃の頻度は目に見えて落ちている。
 最初の海戦が分水嶺だ――。
 こうした意見は、ファリナだけではなく、彼女の参謀たちの間でも一致した意見だった。ノーヴ帝国軍は強い。量でも質でも、ヴァレス王国軍を上回る。何しろ、あちらは大陸中で連戦し勝利してきたまさに精鋭であるのに対し、ヴァレス王国軍は、平和という眠りから叩き起こされたばかりの兵士たちなのだ。
 しかし、ヴァレス王国軍にも有利な点があった。それは、島国という性質上海洋国家であったヴァレス軍に、海軍の伝統があるのに対し、内陸国家で海を領していなかったノーヴ帝国海軍は、所詮は新造の寄せ集めだった。操船技術や船上での戦闘能力であれば、ヴァレス王国軍が優れているのは明らかだった。
 であれば、緒戦となる海戦でノーヴ帝国海軍を叩きのめし、撤退させるというのが、ヴァレス王国軍の――ファリナの考えている戦術だった。もしこの戦術が成功しなければ、ファリナたちは、ヴァレス島内で敵軍を迎え撃たなければならなくなる。そうなれば、兵士の量質ともに劣っているファリナたちに、勝ち目がないの明白だった。
 どうにか戦況を打破しなければ、とファリナが胸に焦りを覚えたそのとき、ファリナの乗る旗艦ラティーナに、一艘のノーヴの軍船が、左舷後方より追いすがってきた。
『ラティーナ』の艦長が指揮を取り、すぐさま砲で応戦させる。左舷側の砲全門が砲弾を放ち、たちまち水柱と水煙がノーヴ軍船を囲んだ。ノーヴ軍船は砲だけではなく魔術でも応戦してきた。敵船から幾筋もの火線が飛び出し、『ラティーナ』も周りに落ちる。魔術の熱で、海から水蒸気があがる。
 誰ともなく叫ぶ。
「あれは当たるぞ!」
「魔術兵団、防壁準備!」
 旗艦ラティーナ後部に陣取っていた魔術兵団が、瞬時に文様を描画し呪文を唱え、旗艦後部に魔術による防御障壁を作り出した。銀色の壁の前に、敵の攻撃魔術の火線がいくつか弾けて、連続した軽い衝撃音と眩い光を放つ。
 その一方で、『ラティーナ』の放った砲弾が、たまたま敵船のメインマストに命中した。メインマストがへし折れて敵船が急に減速、蛇行し、操船不能になった。
旗艦ラティーナはその敵に興味を無くして攻撃を止めた。

 ファリナがほっと胸を撫で下ろしたそのとき、数隻が散らばる艦影の奥に、ひときわ大きな船影が見えた。
(あれは、敵の旗艦じゃないの?)
 ファリナは反射的にそう思った。そして、そのことを確かめるために艦長へ尋ねた。艦長も掲げている旗の様子から間違いないと同意した。
「あの船まで、辿り着ける?」ファリナが聞いた。
「難しいルートになるが……おそらくは可能だ」白い髭をしごきながら、艦長は言った。海の男らしく重々しい肉体を持つこの艦長は、声質すら重々しかった。
「では、あの船に突撃を。それに、全員に白兵戦の用意をさせて」
 それだけを、ファリナは命じた。
 それは余りにも短い命令で、その場にいた皆があっけに取られた。突撃と単純に言うが、勝算があってのことだろうか。いや、この戦場経験も無い女の作戦が、どれほど信じられるというのだろうか。その戸惑いと疑いを、ひとりの参謀士官が婉曲に表現した。
「ファリナ様。我らの旗艦が敵旗艦に仮に取り付くことができたとしても、敵旗艦には、おそらくこの船の倍近い戦闘員が乗っています。その状況で我らが勝利するには、なんらかの策が必要かと思われますが」
「策は無いわ」ファリナは言った。「けれど、あの敵の旗艦を落とすことができれば、この戦いは終わる」
 何の根拠もないことを、ファリナは言い切った。
「確かに、この海戦は我々の敗色が濃くなっています」別の士官が言った。「しかし、ここで例え兵を退いたとしても、ヴァレス城に立て篭もれば、1年以上を戦うことができます」
「民の疲弊と引き換えにね」皮肉めかして、ファリナは応えた。「そして、古来から援軍のない篭城戦で勝ったためしはないわ。この島国ヴァレスに、援軍が期待できるかしら?」
「しかし、時間を稼げば国際情勢も変わります。ノーヴ帝国の優位が今後も続くとは限りません」
「楽観論ね」ファリナはぴしゃりと切って捨てた。「ヴァレス王国が勝利するには、この海戦しかない。そして、この海戦に勝利するには、この戦機を掴むしかない」
 もう、ファリナに議論をする気は無かった。この先に必要なのは、ただ必要なことを遂行するために、絶対に折れることのない意志だけが必要だった。
 ファリナは腰の細剣をすらりと抜き放った。鍛えぬかれた鋼が、柄の飾り細工と相まって鋭く光る。そして、彼女は魔術文様を空間に描画した。文様の様子から、音声拡張の魔術だと知れた。
『ヴァレス王国国家元首ファリナより、旗艦ラティーナ全乗組員に玉令する』
 静かな、だが烈しい意志の篭もった声で、ファリナは旗艦の皆に告げた。
 ファリナの声が、分厚い石造りの講堂に反響するような響きで、旗艦全体に伝わる。作業をしていたものたちは、士官から下士官、水夫に至るまで、彼女の声に耳を傾けるために今までしていた作業を止めた。
 あるものは慈雨を受けるかのように顔をあげ、あるものはせせらぎを聴き澄ますように顔を俯ける。

『私は、この戦いが祖国を守ることに繋がると信じて、この戦場に出た。そして、この思いは皆も同じものだと信じている。そして、ここでの勝利が、祖国と、そして独立の誇りと自由とを守ってくれるのだと、私は確信している。
 私は今ここに、ひとつの戦機を見出した。そして、私は、私の運命をこの戦機に賭けようと思う。――だから、皆の運命を私に貸してもらいたい』
 ここで、ファリナは大きく息を吸い込んだ。表情はこわばってはいるがしかし、目にはぎらぎらするほどに強い感情が宿っている。
 兵士も水夫も、旗艦に乗る者ものたちはすべて、黙ったままファリナの次の言葉を待っている。大砲の音すらも、今は遠くなるようだった。
『これより、旗艦ラティーナは敵旗艦へと突撃する。我々が守るべき祖国の興廃はまさにこの時間、この場所にある! 総員、それぞれ武器をとり、死地にて奮戦し、勝利せよ!』
 旗艦ラティーナに、ファリナの命令が響き渡る。
 しかし、旗艦には沈黙が降りたままだった。
 ファリナは、通信を終えて魔術を解いた。剣を杖代わりにして体を支えると、肩で呼吸をするように、大きく息を吐いた。体はじっとりと汗ばんでいる。すべての想いを絞り尽くしたような、そんな気分だった。
「……こんなことで、勝てるわけがない。正気じゃない。やはり貴女は、『奇行姫』だ」
 怯え混じりの青い顔でそう言ったのは、ファリナの傍にいた参謀士官のひとりだった。
 ファリナは、額にはまだ汗が浮かんでいたが、その参謀士官へ顔を向けて、気丈にも微笑みさえ向けた。
「あら、今ごろ気がついた? でも、こちらが死に物狂いにでもならなければ、勝てない相手だわ」
 その参謀士官が反論しようと口を開いた、そのときだった。
 突然、『ラティーナ』をつんざくような声が、そこかしこから起こった。
 それは歓声であり、雄たけびであり、感情が入り交じった絶叫であり。そして。
 何より、ファリナを称える声だった。
『インペラトール・ファリナ!』
『インペラトール・ファリナ!』
 インペラトール・ファリナ――。
 士官、下士官、水夫を問わず、甲板に集まり、ファリナたちのいる艦橋を見上げていた。そして、くちぐちにファリナを称える歓呼を口にしながら、足を踏み鳴らしていた。
 この旗艦ラティーナには、2,000人近い人数が乗っていたが、そのほとんどすべてが集まっているように思えた。兵士たちの足踏みは地鳴りのように響く。そして彼らが船板を踏み鳴らすたびに、船が沈んでしまうのではと思えるほどに激しい音だった。
「どうやら、方向は決まったようですね」
 地鳴りと歓声の中、口を開いたのは、長身のジークヴァルドだった。
「多くの貴族たちは国のなかにひきこもっているのに、貴方は矢弾の届く前線まで出てきている。一緒に戦う我々も、命の張りがいがあるというものです。皆、貴方を信頼しているということですよ」
 ファリナは黙って頷いた。ただこのときはこの支持を噛み締めた。
 そして、彼女は彼らに報いるために、彼らに向かって手を振った。
 わっと歓声がひときわ大きくなる。
 もう言葉は必要ないと彼女は思った。
 
 その背後で、重々しく旗艦艦長が頷いた。そして、艦長は敵旗艦に向けて取舵を命じた。