バックナンバー タイトル

バックナンバー
連載
各号
Vol49 2005.03.20
Vol47 2004.06.30
Vol46 2004.03.30
Vol42 2002.10.30
Vol41 2002.07.25
Vol39 2002.02.10
Vol37 2001.08.30
Vol36 2001.04.30
Vol35 2000.12.28
ヤイユーカラパーク ごまめの歯ぎしり

VOL392001 08 30

情けない……

北海道新聞1月22日朝刊。『道ウタリ協会(秋田春蔵理事長)は21日、札幌市内で理事会を開いた。国と道が進めるアイヌ民族の伝統的生活空間「イオル」(アイヌ語)の再生構想で、中核施設を設ける地域の選定について、協会として候補地絞り込みを見送り、道設置のアイヌ文化振興等施策推進北海道会議(座長・辻井達一北星学園大教授、十人)に最終判断をゆだねることを決めた。……<以下略>』

その前日の同紙に掲載された施設誘致地は、札幌・旭川・帯広・釧路・静内・平取・白老。『誘致合戦は熱を帯び、理事会でアイヌ民族が候補地を絞り込めるかは微妙な情勢だ』と報じられていたし、私自身もその難しさは理解していた。当該地のアイヌ住民と選出理事の主張は拮抗、対立し、幾つかの候補地選定にまとめるのは至難の業であろうと……。

もともと、アイヌが一つの民族として統一的な形態・意思を持っていたことは、歴史的にも存在しなかったというのが、現在では定説である。喧伝されている「全道アイヌが結集・蜂起したシャクシャインの戦い」も、実際にはイシカリのハウカセのように「我らは関知せず」と宣言し関わろうとしなかった人びとがおり、日高を中心とした一部アイヌの蜂起であったことは知られている。

しかも事は――国が財政負担せず、道はじめ自治体の財政負担になるとはいえ――アイヌにとっての利害、利権に大きく関わるのである。論議している各理事の利害にも深く関わっているのだから、もめない方がおかしい。

にも関わらず、というより、だからこそアイヌ自身によって決めて欲しかった、決めるべきだった、と思う。

世界の先住民は"自決権の回復"をめざして闘いを続けてきたし、徐々にではあるがそれを獲得しつつある。彼らとの連帯の中で、アイヌの中にも――それがまだ一部ではあっても――この国における先住民の"自決権"を考える人が出はじめた。『ヤイユーカラの森』の「フォーラム'99/先住民会議」(1999年)と、『アイヌの女の会』の「先住民女性フォーラム2000」(2000年)での決議は、その表われだった。重要な問題についてアイヌが一つになることと、その上で自らの先住権、自決権について明らかにしていくことが、いま最大の課題なのである。

今回の協会理事会の決定は、明白に"自決権の放棄"である。アイヌの解放運動――闘いとまでは言わないにしろ――を、少なくとも20年くらいは過去に引き戻したことになる。アイヌ同胞だけではなく、海外の先住民への裏切りだったと言っても過言ではないだろう。アイヌのことはアイヌ自身が決めるべきであり、決めるべきだった。

大抵のことは、笑ったり、皮肉を言ったりで過ごしてきた私だが、今回のことは「情けない……!」の一言である。


付け加えれば、この『アイヌ民族の伝統的生活空間「イオル」再生構想』なるものは、1996年内閣官房長官の私的諮問機関の提言によって道が設置した検討委員会が、99年に基本構想をまとめたものだそうだが、その内容は、1991年創立の『ヤイユーカラの森』の創設趣意書にすべて書かれている。10年前に私たちが作ろうと思い描いたイメージのコピーのようなものである。

残念ながら私たちはそれらの内のごく一部分しか現在までに実現できてはいないが、その構想を非現実的に拡大コピー(それもカラーで)させてでっち上げたのが、件の『再生構想』である。本当に数百年前の生活形態に戻ろうとするアイヌがいない限り、「イオル」なるものは単に巨大なジオラマでしかない。そしてジオラマとは、所詮見世物でしかないのだ。アイヌ語を名乗れば、羞恥心を忘れることができる訳ではないだろう。

誰の目にも明らかなこんな企画(?)に、何故多くのアイヌが右往左往するのか? 金が動くから……しかあるまい。こうやって、国や政治家のめざす予定調和点――民族の消滅という――へと進んでいくのだろうか。政治家の相次ぐ"単一民族論"が何に依拠しているのか……、どうして分らない!? 情けない……!


メッセージ

子どもたちがいない大晦日は、思い切り手抜きの大掃除を早々と終え、風呂あがりのビールに始まってついには酒瓶を抱え、テレビと差し向かい。レコード大賞やら歌合戦やらを眺めて新年を迎えた。二昔三昔前の唄しか知らないのは当然だが、それにしても"何だかわからない"唄ばかりが続く。見てて、聞いてて、何も感じられないのである。「歳のせいか……?」とも思ってみたが、どうもそうではないらしい。なにせ"気ばかりは若いジサマ"なのだ。

ほろ酔いになりかかった頃に気がついた。「歌からメッセージが伝わってこない……!」

時代ごとにヒットし、愛された歌には、何かしらのメッセージが込められていたように思う。プレスリーしかり、ビートルズしかり、「見事なほど無思想」と言われた陽水だって彼のメッセージを伝えてきた。それは必ずしも歌詞によってだけではなく、メロディーやリズムと相俟って聞く者たちの心に届いてきたのではなかったか。

画面の中に展開される"今出来"の唄や歌手からは――ルビがなければ読めないような難解な漢字や言葉使いの歌詞が多いのにも関わらず――何も、伝わってはこない。「メッセージソングは、すでに旧いのか……」

ところが、「!」……。おそらく20年ほども前に坂本 久が歌っていた『明日がある』という唄がさかんに流れる。歌っているのは、吉本(多分)のお笑いタレントたち。歌詞は、オリジナルとは変わっているらしい。………これは、やばい!

思い返してみると、これが歌われ始めたのは現内閣がスタートした直後の頃ではなかったろうか。車のラジオでも何回か聞いた記憶がある。"構造改革"のかけ声と同時に――あるいは裏腹に――進行する右傾化・反動化政策。ニューヨークの同時多発テロに連動して採択・実施された軍事行動。そして、有事立法を経て進んでいくであろう軍事国家への道筋……。それでも「明日を信じて、今日も元気に生きなさい!」というメッセージなのだ。

泡のように生れ、消えていくお笑いタレント集団にこれを歌わせ、若者たちに合唱させているお笑い産業とテレビ界……勝れて政治的なメッセージと受け止めなければならないだろう。ジョン・レノンの『イマジン』が発信したのとは180度違う彼らのメッセージが、無批判に受け入れられ、支持されるこの国の現状と明日は、怖い。


茶番劇にしか見えないが……

まるでテレビのワイドショーのために仕込まれたような政治ファルス(笑劇)が演じられ、唖然としてしまう。まさに衆愚政治の見本だろう。しかし怖いのは、これによって"政局"がどうなろうと、今より悪くなることがあっても良くはならないことである。

茶番劇にしか見えない三流劇の恐ろしさは、その後の展開によって明らかになってきた。

上智大学教授でNGO活動の真っ只中にいる村井 吉敬さんが、メールネットに掲載した二つの文章を転載・紹介します。まったく同感です。

外相更迭では済まない (1月30日)

みなさん(私見を述べさせていただきます)

アフガン復興会議へのNGO参加拒否問題で、小泉内閣は外相、外務事務次官の更迭、鈴木宗男議運委員長辞任で決着をはかることに決めたようです。実にくだらない「喧嘩三成敗」(外務省と鈴木はグルなのでやはり両成敗)に落ち着けようというのでしょうが、こんな猿芝居(猿、ごめん)には乗らない方がいいと思っていますので一言。

そもそも今回の「勝者」は外務省であることをまずはっきりさせるべきです。事務次官の更迭など、彼らにとっては屁でもない事態です。鈴木との癒着(おそらく腐敗)関係はこれでは揺るぎません。NGOを尊重する立場にもないことは今後も続きます。鈴木の圧力に屈したのでなく、独自にNGOを拒否したというのが外務省の公的立場で、彼らはこれを一言片句たりとも変えていません。政府に批判的NGOを今後も拒否する論理は貫かれています。

NGOにはさまざまあり、外務省(お上)を批判せず、ただただ協力したがるNGOもあれば、政府以上に国威発揚型「日の丸NGO」もあります。しかし市民社会の論理に立ってNGO活動をしている多くのNGOにとっては、今回の決着猿芝居を容認すべきではないでしょう。少なくとも外務省がNGOにどのような考えを持ち、どのような「協力」を望んでいるのかについての原則を示さない限り、安易に尻尾を振ることは差し控えるべきであるとわたしは考えています。

NGO側から政府とのつきあいガイドラインのようなものを提唱していくべきではないかと考えています。みなさんの考えをお聞かせください。  <村井 吉敬>

外務省が「えらい」わけ (2月2日)

みなさん

小泉内閣は、田中真紀子外相を喧嘩両成敗の論理で切り捨て「終わりの始まり」の坂を転げ落ち始めました。これはこれでめでたいことかもしれませんが、外務省はただ一度として、NGO軽視・蔑視=市民蔑視を謝っていません。官僚が市民に謝ることはほとんどないことですが、それにしても外務省の厚顔無恥にはあきれたものです。あんな役所に頭を下げて、われらの税金であるNGO事業補助金や草の根無償のカネをもらおうとするのは、私たち自身の恥なのかもしれません。

なぜ外務省が「えらい」のか。ある人から教えられました。それは「特命全権大使」が天皇から直接、信任状を与えられ任地に着くからであるというのです。そういえば、在外公館には天皇の「御真影」が飾ってあります。外務官僚というのは天皇直属だという馬鹿げた意識に支えられているようです。

「外地」の法人序列を見れば明らかです。大使から大使館員、そのつぎに付属のJBICやJICAや交流基金など付属役人が続きます(この付属役人たちもその夫人たちも、正規大使館員とクルマを乗り合わせるときには末席にしか座れません)。企業もすべて序列があります。天皇に近いかどうかで、ものの見事な序列がついているわけです。官尊民卑というのはこういう場面に最も如実に現れます。

NGOなど民でも「最下層」にすぎないのです。呼んでもらえるだけありがたく思え、カネをもらえるだけありがたく思えというのが外務省の基本的スタンスであるということを忘れないようにしたいものです。

東大教授など旧帝大教授は、大使館に訪問を告げると便宜供与を受けることができます。これも実に馬鹿げた風習ですが、それで喜んでいる教授もいるのだから、日本に民主主義など期待できるのでしょうか。

鈴木宗男のような「下品な」議員が威張れるのはひとえに天皇が出席する国会のメンバーだからにほかありません。ああいう人びとを選ばないようにする以外にないのですが、選ぶ側にも天皇制が根強くあり、官尊民卑を甘んじて受け入れる体質があります。

人ごとなのですが、PARCの越田さんから聞いた話(越田さんごめん、まだオフレコ?)によると、JANICで今回のドタバタに絡んで真相を解明せよとの声明を出そうとしたところ、内部にかなり反対意見がありまとまらないそうです。NGOのなかに「お上、ごもっとも」という意見がある限り、日本には健全NGO社会はなかなか生まれないかもしれませんね。こまったもんです。  <村井 吉敬>