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Epiphone Casino JL Vintage 1993

■エピフォン カジノ JL ヴィンテージ

・1993年 NATURAL 日本製
・BCC(ビートルズ・シネ・クラブ=現ザ・ビートルズ・クラブ)と山野楽器による共同開発オリジナル限定生産品(ジョン・レノン・モデル~レット・イット・ビー・カジノ)
・定価:\160,000(割引無し)
※サンバーストは定価170,000円(次期により割り引き有りの記録)
※限定36本製造のうち、ナチュラル仕上げとサンバースト仕上げがそれぞれ18本ずつ製造されたことを直接「ザ・ビートルズ・クラブ」に問い合わせて確認した。

・16フレットジョイント
・ギブソン社製オリジナルCASINO・シングルコイル・ピックアップ(P‐90)2器装備
・トラスロッド・カバーは2点止め
(製品としては3点止めだったが、付属していた2点止めのカバーに自分で交換する)
・ブルー・ラベル
・フィンガーボードのインレイはプラスチック製。

・ポリ塗装が施されているカジノに比べ、マイルドな音質。オルガンのような甘くウォームなトーン、素直な箱鳴りのするギター。
・カジノはセミアコではなく、フル・アコースティックのシンライン・タイプである。セミ・アコースティック・ギターにはボディー内にセンターブロックがあるが、エピフォン・カジノにはそれが無い。よって、「セミアコ」に比べ、かなり重量が軽い。

・ジョン・レノンが1966年からビートルズ解散後も使用したエピフォン・カジノは1965年アメリカ製。1966年6月、7月に開催された日本公演でも使用した。8月のアメリカ公演でもサンバースト塗装のままで使用していたが、1968年9月4日に撮影された「レボリューション」のプロモーション・フィルムや1969年1月の「ゲットバック・セッション」の模様を収めた映画「レット・イット・ビー」では、ボディー塗装が剥がされ木地のままとなったこのエピフォン・カジノを見ることができる。よく知られたアップル社ビル屋上ライブ(ルーフトップ・セッション~1969年1月30日撮影・録音)でも同ギターを使用し、また、1971年に制作された、アルバム「イマジン」のレコーディングでも使用されている。



※写真:月刊’The Beatles’1993年9月号より


■ 他の多くのレプリカ製品と同様、レノン本人のカジノとはパーツ、細部、風合いの点で異なる部分がある。
①ボディー
ボディーがラッカー塗装によってうっすらと均一に半光沢処理してある。レノン本人のギターは木地そのままであり、使い込まれた風合いを出すため、紙やすりで表面をわざと荒らす必要がある。ただし、カジノのボディーは5プライ合板であり、表面の化粧板の厚さはわずか0.6mmしかない。削りすぎによって二枚目の合板の表面が現れないよう慎重に作業を行う必要がある(二層目の板が露出した悲惨な状態のカジノの画像はこちらで参照できる)。さらに、1969年1月に行われたゲットバック・セッション時の様子を撮影した種々の写真を見ると分かるが、レノンは普段からカジノを結構無造作に扱っていたようで(レノンの血液型はO型である)、それを念頭に普段から使用感や無造作感を出していく心がけも必要。

②木目
・レノンの使用したカジノはボディー表面の木目がうっすらと浮かんでいる程度であり、特にこの木目の風合いはレノンのカジノ全体の風合いを引き出すうえで重要なポイントなので、レノン仕様にカスタマイズすることを考えている方はナチュラルフィニッシュのカジノやレプリカ製品を当初から購入するのではなく、レノンのカジノと似た風合いをした木目で、しかもサンバースト塗装されたカジノをショップで直に見ながら探し出し、自分自身で紙やすりを使用して手作業で塗装を剥がし、各種パーツも交換し、世界に一台だけの、しかもレノンとの繋がりを感じさせるような自分だけの「作品」に仕上げていくことが大事。

③サウンドホール切削面
1992年12月から約2か月間開催された「JOHN LENNON MEMORIAL EVENT ~ ジョン・レノン もう一つの顔」展でレノンのカジノ現物を見た際、色ははっきりと覚えてはいないが、F型サウンド・ホールの切削面にはかつてのサンバースト塗装の剥がし残りと想われる塗装痕が一部にそのまま残留していた。黄土色のような比較的茶色っぽい色であるが、部分的にはより濃いめの褐色になっていたように思う。市販のレプリカ製品は一般に木地のままであるため、透明色系の黄色ラッカーや茶色ラッカーを切削面に塗り重ねて再現する必要がある。


④黒いボリューム・コントロール・ノブ

付属品である黒いボリューム・コントロール・ノブが、レノン本人のカジノに使用されていたものとは仕様が異なり、トップがフラットなタイプとなっていたため、交換が必要。トップにメタルの付いたブラックのノブを入手し、そのメタルを精密ドライバー(マイナスドライバー)等を使用して剥がし取る必要がある。ただし、ノブのトップ付近の縁を支点にメタルを剥がすと縁が簡単に割れてしまうので、作業は慎重に行う必要がある。

⑤黒い円形プレート
トグルスイッチのベースにあるプラスチック製の黒い円形プレートの直径が小さい。コントロールノブの大きさに近いサイズのものを探すか自作するかして交換する必要がある。

⑥ゴムチューブとネジ、ワッシャー

ピック・ガードを装着するためのパーツの一つであるゴム・チューブが、ピックガードをネジ止めするネック脇に接着剤で貼りつけてあるだけで、また、L字型ブラケットを装着する部分にも同様にネジ穴が一切空いていない。レノンカジノ現物には、ネック付近のネジ穴にゴムチューブ、さらに黒っぽいワッシャーらしきもの、ネジ(なべ型)という3種のパーツが装着されているようなので、ピックガード取り付け位置に合わせ、細めのキリを使ってボディーに穴を空けてからこのパーツ3種を装着する必要がある。

⑦ブリッジ固定ナット
ブリッジの高さを調整し固定するためのナットが2個のみしかない。1969年1月のゲットバック・セッション時にはそれぞれのボルトにナットが2個ずつ、計4個装着されている。別途ナットを2枚購入して装着する必要がある。ただし、追加する各一枚はブリッジ側にではなく、ボディー側に締め込む。

⑧ネックヘッドのサイド(面取り部)
レノンカジノ現物には、ネックヘッドのサイドエッジ(面取り部)にトップの黒い塗装がはみ出た感じに厚めにぼってりと塗り残っているが、JL-Vintageは当該箇所にもネック裏と同じ濃茶色の塗装が均一にしてある。車用のタッチペンやMr.Color等の塗料を使用し、やや厚めに、また、わざと少しはみ出た感じに塗り加える必要がある。色は艶の出る黒色を選ぶ。

⑨トラスロッドカバー(アジャストカバー)
・3点止めのカバーが装着されているため、ネックのヘッドに自分で細い穴を開け、付属している二点止めカバーに交換する必要がある。

⑩インレイ

レノンカジノ現物のインレイには「エイジド・ホワイトパール(黄化したホワイトパール)」のような自然な色合いで光輝も放つが、JL-Vintageのインレイはプラスチック独特の色合いと質感となっている。「インレイステッカー」という商品があるそうだが、レノンカジノのインレイと似た風合いのものがあるのであれば、入手して貼り付ける必要がある。

⑪ネック裏
多くの市販レプリカ製品と同様にネック裏面は濃茶色で均一に塗装されているので、軽くやすりがけをするなどして、レノンの施した手作業の風合いを出す必要がある。

⑫テイルピース
テイルピース本体のサイズ(長さ)が異なるようで、菱形をした浮き彫りも小さめでる。また、ナットの形状も異なるため、テイルピースそのものを規格の近いものに交換する必要がある。

⑬その他
ヘッドのロゴの色や形状など。


■市販のレプリカ製品
レノンモデルのカジノはこれまでに種々生産されているが、どれもこれも美しく丁寧に仕上げすぎていて、外見的には何となく似せて作ってはあるが、全体の印象としても、細部においても異なる点が多々あり、しかもレノンカジノ現物を目にして感じた、レノン本人が使い込んだ、そしてビートルズの歴史やレノンの生き様が刻まれた、まさにレノンの生命のバイブレーションが伝わってくるあのカジノの風合いが、当然ながら一切無い。まったくの別物、ただの工業製品という印象しか持てず、個人的にはありがたみの欠片も抱けない。以下項目に掲載した画像と比較すれば明白であるとおり、どの種のレプリカ製品も全てレノンカジノ現物の印象とはかけ離れていると言ってよい。

ボディー表面の木目自体、個体差が大きく、そもそも完成度の高いレプリカなど有り得ない。ならば、ジョンの思いに馳せ、魂に共感し、ジョンの命のバイブレーションを感じ受けながら、自分自身でサンバースト塗装を剥がし、納得のいく限り工夫を凝らし、思い入れを込めて加工したほうが、多少仕様が異なっていたとしても、
レノンとの心の繋がりを感じさせる世界に一台しかないオリジナルレプリカとしてどれだけ価値が有り、愛着も深まることだろう。

特にギター本体の塗装を剥がすと
音質的にもポリ塗装されたカジノとは異なり、1968~69年にジョンがプレイしているカジノのサウンドのように、落ち着いた温かみのある乾いた感じのサウンドとなる。ただし、カジノのボディーは5プライ合板であり、表面の化粧板の厚さはわずか0.6mmしかないそうだ。本体表面の削りすぎによって二層目の板が露出しないよう慎重に作業を行う必要がある(二層目の板が露出した悲惨な状態のカジノの画像はこちらで参照できる)。また、塗装を剥がすと特に湿気が浸透しやすくなり、ボディーやネックのバインディングが剥離するリスクが高まる。そうなると専門店に修理を依頼する必要が出てくるので、固着度を維持するため、ネックについても本体についても、バインディング部分には目立たない程度にでも塗装等の保護措置をある程度施しておくことをお勧めする。

       






Epiphone Casino John Lennon


■参考写真①
レノン本人のカジノ
※「エレキ・ギター・ブック 2」(シンコーミュージック)より
※当項目に掲載した各カラー画像の色調は、撮影条件及び複写条件等により、ギター現物の色合いと異なっています。

・ボディー本体のシェイプ、テイル・ピース本体、そしてそのひし形装飾の大きさ、ブリッジ・サドルの材質、インレイ・マーカー、ヘッドのロゴのデザインとその色合い、コントロール・ノブのメタル・トップ形状など、各種レプリカ製品と異なる点が多々ある。ボディートップの木地には大きな木目や目立つ木目がほとんど無い。


・レノン本人のカジノ。1992年12月5日から翌年1月31日まで渋谷BEAM(4F)の「BEAM SQUARE」で開催された「JOHN LENNON MEMORIAL EVENT ~ ジョン・レノン もう一つの顔」展
のパンフレット、「JOHN LENNON DAYS」より。
展示会では「黒ノブ」をはじめオリジナルのノブが装着されていたはずだが、パンフレット用の写真では別のノブに全て交換されているようで、トップのメタルはつや消しゴールドのような風合いであり、ヘアライン処理がよく見えない。


■ヘッド

・ご覧のとおり、ヘッドの両サイドにあるエッジの面取り部に黒い塗装がはみ出すようにして残っている。1992年12月5日から翌年1月31日まで渋谷BEAM(4F)で開催された「
JOHN LENNON MEMORIAL EVENT ~ ジョン・レノン もう一つの顔」展でジョンのエピフォンカジノ現物を見た限りでは(写真撮影は禁止)、そのはみ出した塗装の色はヘッドの表面と同じ漆黒で、画像でもわかるとおり塗装膜として結構な厚みがあった。レプリカ製品にはこの面取り部までを忠実に再現したものは存在しないようだ。また、「Epiphone」のロゴマークは黄色味を帯びた「エイジド・ホワイトパール(黄化したホワイトパール)」のような印象だった。アジャスト・カバーに印刷された’e’のロゴ・マークも現行モデルとデザインが異なる。

・現存するジョンのカジノのペグは、オリジナルのクルーソンタイプからグローヴァー102のゴールドに換装されている。また、ペグ換装の際のものと思われる塗装の剥がれが、1、4、5、6弦ペグ装着部の一部にあり、木地が剥き出しになっている。恐らくジョン自身の作業によるものだろう、マイナスドライバーで強引に固定リングを引き剥がしたかと思われるような激しい損傷だ。

・1969年1月31日に「ゲットバック・セッション」が終了するまでカジノのペグはクルーソンタイプだったが、同年2月22日から8月25日までの6か月間に「アビーロード・セッション」が行われており、このセッション後期に撮影されたと思われるグローバータイプのペグに換装されたカジノを演奏するジョンの画像が残されているので、
現存するカジノに装着されたグローバータイプのペグは「ゲットバック・セッション」終了後の2月以降に換装されたものだということになる。


■Kluson pegs ~ クルーソンタイプのペグ(January,1969)

※1969年1月に行われたゲットバックセッション時のショットから一部を拡大。この時点では、カジノのペグはグローバータイプではなくクルーソンタイプだった。


■アビーロード・セッション時(1969年2月22日~8月25日)における画像情報
①:髭を伸ばしはじめた時期のジョンとカジノ
ジョンの髭の長さから、アビーロード・セッション前半期と思われる(やる気無さそう)。ペグの大きさ、形状、反射具合から推測するにグローバータイプだが、クルーソンタイプに見えないこともない。画像が不鮮明なため、シャープネスをかけても明確な判断が難しい。
②:顎髭がかなり伸び、ジョンが仙人に変化(へんげ)し遂げた時期のカジノ
ジョンの髭の長さから、アビーロード・セッション後半期(1969年8月?)と思われる(仕方なく仕事している感じ)。この時点ではペグがグローバータイプとなっていることは明らかだ。
③:
塗装が剥がされたジョージ・ハリスンのカジノ
ピックガード取り付け用のネジ穴が無い。パテ埋めしたのだろうか。また、当時のジョンのカジノよりもピックアップカバーの光沢も強く、テカテカとしている。いずれもジョージの几帳面さの表れかもしれない。


・1969年1月に行われた「ゲットバック・セッション」終了後の他の主な出来事として、3月12日にポールとリンダ゙の結婚式、また、同日にはジョージとパティーが麻薬所持で逮捕、3月20日にはジブラルタルでジョンとヨーコの結婚式、25日にはアムステルダムのヒルトンホテルで「ベッド・イン」のイベント、4月22日にはアップルビル屋上で「ジョン・オノ・レノン」への改名式、5月26日にはモントリオールでの二度目の「ベッド・イン」、6月1日にはベッド・イン中に「平和を我らに」の録音、7月1日にジョンの自動車事故(ジョンがヨーコ、キョーコ、ジュリアンを伴いスコットランドを旅行中だった)、8月8日にはアルバム「アビーロード」のジャケット写真の撮影、などがあった。そして、8月20日には「I want you(She's so heavy)」のレコーディングが行われたが、この日がビートルズの四人が揃って演奏した最後の日となり、9月20日、ついにジョンはポール、ジョージ、リンゴの3人にビートルズ脱退の意志を告げることになる。


■The back of the neck ~ ネック裏側の様子(January,1969)

※ 月刊「The Beatles」より。

元の写真はスタジオ内の、おそらく蛍光照明のもとでフラッシュが焚かれずに撮影されたものらしく、全体が青色、顔が緑色をしていたので色調を補正したが、それでもまだ不自然な色調のままであるので、あくまで参考にとどめてください。映画「Let it be」では、光量の影響か、ジョンのカジノのネック裏はこれよりもっと濃く映って見えている。また、1969年9月13日収録「スイート・トロント」や「ビートルズ・アンソロジー」でも、やはりこの写真より濃く映って見えている。「スイート・トロント」では、強い照明が当たったステージ上のカジノの表面と裏面も観察できる。

鮮明な写真ではなく色合いも自然ではないので断定的なことは言えないが、ジョンのカジノのネック裏は濃淡に差があり、ムラになって見えてもいる。残留塗装か、あるいは、使用に伴う変色かもしれない。

ギターの塗装は、使われている塗料の種類や配合の具合、透明度、濃度によって、また、撮影フィルムの種類、照明の種類、光量、照射角度などによって写り具合が様々に変わる。写真をもとにこの色一色で均一に塗装する、というような一元的な発想でこうした微妙な色合いを表現することはできず、再現することも困難だ。


■カジノのピックガード取り付けネジ

・カジノのピックガードを固定する器具の一つであるゴムチューブがそのまま残され、そこにネジを入れたままになっている。レノンカジノ現物を見た限りでは、ネジはヘッドの形状が平らな「皿型」ではなく、ピックアップの固定にも使用されているような「ナベ型」である。また、ネジの色は上の画像では強い照明により褐色に見えているが、実際にはもっと黒っぽかった。さらに、ゴムチューブが外れないようにするためか、確か「黒っぽいワッシャー」をはめていたように記憶しているが、上の写真でははっきりと見えない。

フィンガーボードのインレイを見ると、やや黄色がかった「エイジド・ホワイトパール(黄化したホワイトパール)」のような風合いのものであり、現行品や各種レプリカ品とはまるで異なる。


・1992年12月5日から翌年1月31日まで渋谷BEAM(4F)の「BEAM SQUARE」で開催された「JOHN LENNON MEMORIAL EVENT ~ ジョン・レノン もう一つの顔」展のパンフレット、「JOHN LENNON DAYS」より。
・ピックガード取り付けネジとゴムチューブ。ネジはやはり「皿型」ではなく黒っぽい「ナベ型」のものであるようだ。ワッシャーもあったはずだが、この写真ではよく確認できない。また、ネジとネックとの間のボディー表面にうっすらと当初のブラウン塗装がわずかに残留しているのが確認できる。レノン仕様にカスタムするうえでは、もちろんこの点もある程度再現する必要がある。


■ピックアップ、ブリッジ

・ブリッジ・サドルは金属製ではなくプラスチック製。経年により変色したのか、やや黄ばんでいる。また、上の画像では確認できないが、ブリッジの高低調整用ナットは各ボルトに2枚ずつある。一枚はブリッジの固定用に、もう一枚はボディー側に締め込んである。ナットのゆるみ防止のためなら2枚のナットをぴったりと合わせるはずなのにジョンがそうしていない理由はわからない。音響上の効果を想定したのだろうか。



※ゲットバックセッション時のショットから一部を拡大。ブリッジ固定用のナットはボルト一本につき各二枚。一枚はボディー側に締め込んである。


■テイルピース

・テイルピースのひし形は現行モデルより大きめで、ナットも平たいタイプ。アームの長さ、ボディーへの装着ステーの形状等、多くのレプリカモデルとは異なる点が多々ある。



■コントロール・ノブ

・黒いボリューム・コントロール・ノブは、コントローラー本体の軸が差し込まれる部分に、ノブ脱着、及びノブ使用に伴う塗装剥がれと思われる若干の痕跡があるようだ。また、その外側にあるリング状のスジは、ノブ本体の透明なプラスチックが照明を受けて反射しているのではないだろうか。レノンカジノ現物では、黒いノブのトップ部分はフラットではなく、ゴールドのノブと同様、メタルがはめ込めるような緩やかな湾曲した凹みがあったように記憶している。

・ゴールドのノブについても、ゴールドの色合い、全体の質感、また、トップに貼り付けてあるゴールドのプレートの湾曲形状、ヘアライン処理等、全てに渡って現行品とは質感が全く異なっている。盗まれやすい、あるいはすりかえることも決して難しくないパーツでもあるためかオリジナルのノブ以外に予備のノブがあるようで、例えば展示会用プログラムに掲載されている公式写真等の中にはトップのメタルが4個とも新品らしきノブに付け替えられているものを目にする。
・ジョンのビートルズ時代のカジノの写真には、ノブのメタルにヘアライン処理されていないように見えるものが多いが、これは撮影時の状況、フラッシュや照明の当たり具合、あるいは現行品との微妙な仕様の違い等によるのかもしれない。いずれにしても、上に掲載した画像に写っているノブ3個は恐らくオリジナルのノブであろう。ゴールドのノブにはヘアライン処理による独特の光輝が確認できるが、メタルの湾曲度合いが異なるためか、あるいは照明の当たり具合にもよるのだろうが、現行品のノブのメタルトップの発する光輝とは質感が全く異なる。

・切り替えスイッチのベースにある黒いプラスチックのプレートの直径は、ノブの直径よりわずかに小さめだろうか。

・レノンのカジノ現物では、コントロールノブ周辺のボディー表面には経年に伴う微細なひび割れが広がり、ボディー全体としても「ひどくがさついた木肌」といった印象を強く抱いたことを記憶している。また、プレイヤーズコンディションとして、当然「使い込まれてくたびれた」印象のギターでもあった。カジノ本体の合板表面の化粧板の厚さはわずか0.6mmだそうなので、当初のラッカー塗装という保護皮膜が失われたために木地の劣化が進んだのだろう。木地が剥き出しの状態であり、何らかの保護塗装が行われている形跡は一切確認できなかった。レプリカ製品に一般的な「スベスベ・ツルツル・テカテカ」した感触では決してない。レノン仕様にカスタマイズする際には、ギターのボディーを紙やすりで荒らして「やすり痕」をわざと残し、使用感や経年感等を出す工夫が必要となる。

紙やすりの番手については、「150番」以下は荒すぎて表層面を一気に削り落としてしまう恐れがあり、「400番」以上では細かすぎて「やすり痕」が残りにくく作業もは捗らない。そのため、「200~300番」のものを選び、ボディー表面を軽くなぞるようにして「やすり痕」を残しながら、いかにもといった「手作業感」を出すとよいだろう。尚、作業上の注意点として、合板の表層を削り過ぎて二層目の板が露出した悲惨な状態のカジノの画像を予め見て確認しておいてほしい。

いずれにしても、ジョンの思いに馳せ、ジョンの魂に共感し、ジョンの命のバイブレーションを感じ受けながら、自身で納得のいく限り工夫を凝らし、思い入れを込めて加工してこそ、「ジョン・レノンの感性や生き様を反映した、ジョンと自分との心の繋がりを強く感じさせてくれる、レノンカジノに最も近い、世界にただ一台しかないオリジナルレプリカ」が完成するのだ。

※追記:ボディーやネック等の塗装を剥がすと、使用状況、保管状況等によっては、バインディングが剥離する恐れがある。当方のBCCカジノはネックのバインディングが20cmほど剥離してしまった。特にバインディング付近は完全に塗装を落としてしまわず、保護膜としてうっすらと塗装を残留させておくか、別途保護塗装をしたほうがよい。


サウンドホール切削面
レノンカジノ現物を見た際に確認したが、F型サウンド・ホールの切削面には、かつてのサンバースト塗装による塗料が残留している部分が各所にあった。色ははっきりとは覚えてはいないが、黄土色のような、比較的茶色っぽい、濃いめの色だったように思う。また、ややぽってりとした厚みや光沢もある程度残っている部分もあったように記憶している。

・上の画像:1992年12月5日から翌年1月31日まで渋谷BEAM(4F)の「BEAM SQUARE」で開催された「JOHN LENNON MEMORIAL EVENT ~ ジョン・レノン もう一つの顔」展のパンフレット、「JOHN LENNON DAYS」より。サウンドホール切削面の様子。

・木目が見えているところもあれば、うっすらと塗料が残留しているところもあり、やや厚めに塗料が付着して褐色に見えているところもある。要するに状態に斑(むら)があるということだが、特に「f形」両端の円形部分は塗料の削り落としがしにくい部分でもあり、やや多めに塗料が残留しているようだ。

・展示会のパンフレット用に撮影されたカジノのノブのメタルは展示用の予備品らしく、ヘアライン処理が確認できない。

・レノン仕様にカスタムを行う際の重要なポイントの一つが、切削面のこの残留塗装の再現である。レノンカジノ現物の場合、サンバースト・フィニッシュを構成する塗料が切削面にところどころ残留しているので、透明色で艶のある黄色ラッカーと茶色ラッカーを混色するか塗り重ねるなどし、乾燥後に紙やすりでざっと削り落としを行い、部分的に塗料を厚めに残したり切削面の木目を露出させたりしてジョンが行った塗装はがしと同様の作業を再現するとよいだろう。また、楽器店に出向いてエピフォンカジノのサンバーストタイプではサウンドホール切削面がどのような状態になっているか、実際に数台観察して参考にするとよい。ただし、塗料の吹きつけは手作業によるため、年代によっても個体によっても仕上がり状態がさまざまであるため、この点も念頭に置くべきである。


・上画像:ジョンがライブで使用している際のカジノの画像を一部拡大。(1966年頃?):『The Beatles 365 Days』(Produce Center)より。
・塗装が剥がされる前のサウンドホール切削面の様子がある程度わかるので、カスタマイズするうえでの参考になろう。
・特にフロントのボリューム用ノブのメタルがシルバーに写って見えているが、これは強く当たったフラッシュによってゴールド色を構成する波長が極端に減衰したためだろう。写真というのは撮影状況や光源の強さ、角度等によってさまざまに色調や映り方が変化するものである。



・上画像:アビーロード・セッション時の画像を一部拡大。撮影は恐らく1969年夏。
アビーロード・セッション時代のジョンのカジノ


■黒ノブの加工について
ゴールドタイプと同じタイプで黒いノブを探し、トップに貼り付けてあるメタルを剥がし取れば、それらしく似せることができる。ただし、ノブのメタルを剥がし取る際、ミニドライバーなどでノブの縁(へり)を支点にして力を入れたりすると、その縁部分が簡単に割れてしまうので、メタルを剥がし取る際には細心の注意が必要。また、メタルを剥がし取った後には固形化した接着剤がそのままノブに残っているので、念のため。

      

■「レボリューション・カジノ」?

1968年9月4日に撮影されたプロモーション・フィルム、「レボリューション」(1968年9月4日撮影)では、ジョンは塗装が剥がされたカジノにピックガードそのものを装着せず、ピックガード固定用のL字型取付金具(ブラケット)のみをボディーにネジ止めしたまま使用している。この曲、「レボリューション」に因んだものなのか、かつて「レボリューション・カジノ」という世界1965本限定で生産されたかなり高額なレプリカ製品が販売された。ところが、このカジノにはアビーロード・セッション期(1969年2月)以降の仕様であるグローバータイプのペグが装着されており、曲の「レボリューション」が制作された当時(1968年7月)のカジノの仕様を再現した製品ではないにもかかわらず、あたかもそうであるかのように「世界的に」誤解されているのが現実のようだ。ネーミングの趣旨が特に「レボリューション」という曲に因んでいるわけではないとしても、ジョンが使用したカジノの仕様の変遷を十分に検証せず、また、ジョンの音楽活動の歴史を深く認識せずに企画、製作されたのではという感が拭えない。年代的な仕様の違いを基準にネーミングするならば、このレプリカ製品の場合は「レボリューション・カジノ」というより、「
アビーロード・カジノ」、もしくは「イマジン・カジノとするのが妥当だろう。


■時期によるレノン仕様の違い
おおざっぱに表現すると、ボディーの塗装を剥がし、クルーソンタイプのペグをオリジナルそのままに、ピックガード固定用の取り付け金具(ブラケット)を装着したままにすれば、ホワイトアルバム期(1968年)の「
本来的なレボリューション・カジノ仕様」となる。また、ブラケットを外した場合は1969年1月期の「レットイットビー・カジノ仕様」(「ゲットバック・カジノ仕様」でも何でもよいが)となり、そして、グローバータイプのペグに替えると1969年2月以降の「アビーロード・カジノ仕様」となる。さらに、アジャストカバー(トラスロッドカバー)付近に白い紐を回してぶら下げれば「イマジン・カジノ仕様」、あるいは「現存カジノ仕様」となる。

■Sgt. Pepper's Casino ~「サージェント・ペパーズ・カジノ」(February 1967)


※’Sgt. Pepper's Casino’。塗装された模様と濃淡がはっきり現れるよう、元画像の階調、色調を調整した。元々ジョンの顔にカメラの露出が合わせてあることでギターは逆に露出オーバーとなり、「白飛び」して写ってしまっているため、塗装細部の微妙な階調まで再現するのは困難。

1967年2月1日から3月6日までの期間にアルバム「
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が制作されている(アルバムのジャケット撮影は3月30日)。この期間に、ジョンのカジノには、スプレーを使用してヘッド背面、ネック背面、ボディー背面にサイケデリックペイントの趣が感じられる、おおざっぱな吹きつけ塗装が行われた。パーツ類を外さず、テープ等でマスキングを施すこともせず、ただ無造作にスプレーを吹き付けただけの可能性が高い。

その色は「白とグレイ」だと記載された英語サイトの記事があるが、その根拠が示されておらず、カラー画像でもないモノクロ画像をもとに「見えたまま」白とグレイだと単純に判断された可能性もある。色の判断としては信憑性がかなり薄いと言えるだろう。なぜなら、上の画像の、ジョンの着用したスカーフの色をモノクロの状態でそれぞれ正確に区別することが難しいように、本来の色が黄色やピンク、水色などの薄い色であってもモノクロ写真では白っぽく写ってしまうし、フラッシュなど光源の強さによってはブルーやレッドなどの濃いめの色ならグレーっぽく写ってしまうのだ。

ちなみに、グレーに写って見えている
ジョンのスカーフの色は、赤、青、黄、緑、白、黒などの系統色でデザインされているが、モノクロ画像でこれらの色を全て正確に識別できる人が一体いるのだろうか。モノクロ画像を見たままの感覚を根拠に白とグレイだ、いや、白と銀色であるなどと判断されてしまったとすれば、いかに無意味で馬鹿げているかということがお分かりいただけると思う。上の画像は本来カラーで撮影されたはずだが、残念ながら現時点で公開されていないのか、ネット上ではこれに類したカラー画像も一切見当たらない。

ジョンのカジノの白く見える部分には、実際に白か、あるいはその他の明るめの色が塗装され、グレイに見える部分については、ギター本体にもともと塗装されている本来の濃いブラウンが透けて見えているだけではないかと個人的には推測している。つまり、白、または白っぽい塗装以外の塗装は行われていないのではないか、ということだ。

白っぽく見える部分については、他にも「白が塗装された」と断言する研究書籍もあるが、残念ながら、やはりその根拠が明示されていない。その書籍の筆者もまた、「
モノクロ画像ではその名のとおり、撮影対象の色を単色の濃淡でしか再現できない」という点を考慮せず、単に「見えたまま」白であると誤認してしまった可能性がある。ただ、実際には、ポールのリッケンバッカー4001Sに施されたサイケデリックペイント(白・銀・赤)のように、このカジノもまた、画像における発色具合からすると、白が最も有力であろうという漠然とした予感は働く。もしかしたらポールが使用した白スプレーと同じスプレーを使用したのかもしれない。


それにしても、このおおざっぱな吹き付け方を見ると、ジョンが自身の手作業で行ったものに相違ないだろうが(ジョンの血液型はO型)、画像情報が限られていることもあり、この作業がボディーの表面にまで及んで無事完結したのかどうか、気になるところである。「パーツ類外すの面倒だし。。。」と、作業が無惨にもこの段階で中断され、そのうちにボディーの鳴りが気になって、「塗装剥がしたほうが音が良くなるっていうし、俺の塗装もキッタネェし、やっぱ全部剥がしちまおう!」という経緯になったのかもしれない。

あるいは、もしあのエピフォン・カジノのボディーが、目の覚めるような美しい純白に全面彩られていたとしたら、いったいどんな姿のレノンカジノを目にすることができただろう…… あのジョンなら、何かのきっかけで本当にそうしていたかもしれない…… そして、それがいつしか「
ジョンとヨーコのホワイトカジノ」と呼ばれるようになっていたに違いない、などと勝手な妄想に浸ってしまう。というか、そんな確信めいたものが胸の内にある。


■Real Revolution Casino ~「リアル・レボリューション・カジノ」(September 4, 1968)

※’Real Revolution Caino’。
1968年9月4日に撮影された「Revolution」演奏時の一コマ。フロント用ボリュームノブは既にこの時にブラックとなっている。また、クルーソンタイプのペグはそのままに、ピックガード固定用の取り付け金具(ブラケット)が装着されたままになっている。「ホワイト・アルバム」の収録期間は1968年5月下旬から10月中旬だが、その後12月に行われた「ロックンロール・サーカス」の収録時にはこのブラケットは外され、「レットイットビー・カジノ(ゲットバック・カジノ)仕様」と同じになった。


・ピックガード取り付け用金具(ブラケット)の形状は正確には「L字型」ではなく、角をさらに折って面取りした形状となっている。また、テイルピースのステイがボディからやや離れた高い位置で直角に折れ曲がっているのがおわかりだろうか。

■Get Back Casino 「ゲットバック・カジノ」(January, 1969)

※’Let it be Casino’、あるいは’Get Back Casino’。「Let it be」an abkco managed companyより。1969年1月撮影。ペグはまだクルーソン・タイプが装着されたままである。画像には写ってはいないが、もちろんピックガード固定用のブラケットはこの時既に外されている。


■Abbey Road Casino ~「アビーロード・カジノ」(August 1969)


※’Abbey Road Casino’。
1969年2月22日~8月25日に行われた「アビーロード・セッション」時のジョンとカジノ(アルバムのジャケット撮影は8月8日)。ジョンの顎髭はかなり伸び、いよいよ仙人に変化(へんげ)し遂げた時期であることから、撮影されたのはセッション終盤(8月?)だと思われる。気もそぞろ、心ここにあらず、といった様子がありありと窺える。仕事、やる気無さそうである。ペグがグローバータイプに換装されているのが確認でき、このアビーロード・セッションの時点において、ジョンのカジノは「現存カジノ」と同仕様となっていたことになる。レコーディング期間中にペグの換装作業を行う暇など無いだろうから「ゲットバック・セッション」が終了した直後、1969年の2月1日から2月21日までの3週間の間のいずれかの日時に換装作業が行われた可能性があるが、情報不足により現段階では推測の域を出ない。


■Imagine Casino ~「イマジン・カジノ」(1971)

※’Imagine Casino’。ジョンのアルバム、「
Imagine」(1971年)の制作過程が収録されたDVD、「Gimme Some Truth - The Making of John Lennon's "Imagine" album 」でのオープニング、および「How do you sleep?」のパートで、アビーロード・セッション期(1969年2月~8月)と同じ、もしくは現存するカジノと同じグローバータイプのペグを装着したエピフォン・カジノをジョンが使用しているシーンが見られる。ヘッド下端のくびれ部分に「白い紐」を巻いてぶら下げているので、「イマジン・カジノ仕様」、あるいは「現存カジノ仕様」を再現する場合にはこれが一つのポイントとなるだろう。

むさくるしい仙人時代の風貌からすると随分とさっぱりして別人のようだ。寝起きから間もないようであるが、仕事、やる気満々である。かなり本気である。さらなる精神的成長もあったことだろう。型にとらわれず、群れず、流されず、媚びず、あくまで自分流を貫き通したジョンの存在は偉大だ。四発の銃弾を浴び、全身の八割もの血液を失い、そのまま帰らぬ人となったジョン・レノンその人の魂の叫び、世人へのメッセージは、いつまでも人々の心を打ち、受け継がれてゆくことだろう。


■ボディーの陰影

・ジョンが抱えているカジノの写真を見ると、ボディートップのこの膨らみがある部分にコントラストのはっきりとした陰影(明暗)が大概映っているが、これがジョンのカジノを特徴づけるポイントの一つとなっている。膨らみのピークの部分のシェイプがややシャープなようで、光の当たり具合によってこの明暗は逆転し、いずれの場合もくっきりとしたピークラインが出現する。下の画像は陰影が逆転した状態のもの。


レプリカ製品をはじめ、現行モデルやレプリカ製品にはこのようにシャープなピークラインと陰影(明暗)は現れず、どれもややのっぺりとした印象を与えるものばかりだ。オリジナルレプリカを制作する際には、この点をどう工夫して再現するかがポイントの一つになる。作業を行う際は、ボディー表面を削りすぎるとプライされた2層目の板が露出してしまうので注意が必要(その悲惨な状態のカジノの画像はこちらで参照できる)。また、木地表面の状態をよく観察し、アクリル絵の具などを利用してボディー表面に現れているレノンカジノに独特な濃淡の微妙な風合いを出す工夫も必要である。アクリル絵の具は黄土色や茶色などを適宜混ぜて水でごく薄く溶き、布などでギター本体にこすりつけるようにして塗り重ねていくとよい。

■こうして見てくると、価格の如何を問わず、市販のレプリカ製品はジョンとの心の繋がりを感じさせてくれることのない、どれもこれも中途半端な仕様の「別物」ばかりであるという認識を新たにするに違いない。よりマニアックな方にしてみれば、きっとこのようなレプリカ製品に満足を覚えることはなく、さしたる値打ちも有り難みも感じられないでいることと思う。



・1992年1月、聖地ダコタ前にて撮影。ニューヨークに一週間滞在した折、ダコタを3回巡礼しました。ありがとう、ジョン・レノン。


※当サイトの記事は極めて限定的かつ不確実な情報をもとに、個人的な趣味の範囲で推測した内容にとどまります。錯誤や誤解も十分ありえますので、その点、ご承知おきください。



Epiphone Casino White

■Epiphone Casino White

・1990年 WHITE 日本製
・1965年型復刻品
・シリアルナンバー:05***(※「0」ではじまる五桁)
・定価:\89000

・17フレットジョイント
・ギブソン社製オリジナルCASINO・シングルコイル・ピックアップ(P‐90)2器装備
・オレンジ色ラベル
・ピックガードのエピフォン・ロゴはプリント。
・黒のコントロールノブは当方による加工品。

・購入当初、ボディーはピックガード同様、目の覚めるような純白だったが、経年変化により、現在はしっかりとアイボリーになってしまった。また、1965年型復刻品とのことだが、実際には相違点が多い。
フィンガーボードに埋め込んであるインレイについては、JL-Vintageのインレイはプラスチックの質感が強いが、こちらはどちらかというと「ホワイトパール」の質感に近い。材質の固さ、模様、色合い、反射具合がホワイトパールにかなり近く、いくつかのインレイはうっすらとした虹色の光彩を放つので、実際にホワイトパールである可能性もある。

現実にはジョンはカジノ全面を白に塗装するような「カスタマイズ」を行うことはなかったが、ジョンとヨーコ、二人の純粋な愛と絆、そして、激動の時代における二人の生き様を象徴する色として、この白いエピフォン・カジノは、個人的な妄想の中で「
ジョンとヨーコのホワイト・カジノ」として生きている。ジョンならばきっと何かのきっかけでエピフォンカジノを真っ白に塗装していたに違いない、あるいは、ビートルズを踏み越え、エピフォンカジノを純白に塗り替えて新しく生まれ変わらせていたに違いないといった確信めいたものが胸の内にある。レノンファンの方にはきっと共感してもらえると思う。


※当方で所有する1990年4月版「EPIPHONE COLLECTION」(山野楽器)より



※当方で所有する1990年4月版「EPIPHONE COLLECTION」(山野楽器)より



※当方で所有する1990年4月版「EPIPHONE COLLECTION」(山野楽器)より



※当方で所有する1995年版エピフォン・カタログ(山野楽器)より
※左のギターは”Riviera”

・おなじみ韓国製エピフォン。見た目の印象として、全体的につやつやとして綺麗。また、個体差もあるだろうが、ボディー・トップに木目が一切見えていない。ピック・ガードのエピフォン・エンブレムはアルミ地に特殊コーティングを施したもの。韓国製カジノの音質や品質については不明。

■韓国製カジノスペック(95年カタログより)
・\70,000(ハードケース付)
・ボディー:Maple(Laminated)
・ネック:Mahogany、24・3/4”scale
・フレット:Rosewood
・色:Natural、Vintage Cherry Sunburstの2色

■油彩画

・2004年に当方が制作。油彩・F8。金箔をまぶしました。



Gibson J-160E

■Gibson J-160E

・1993年製 Vintage sunburst
・15フレット・ジョイント アメリカ製 
・単板タイプ
・価格:\230,000

・シングルコイル・ピックアップ1器装備。
・ボリューム、トーン、各コントロールあり。
・「アクロス・ザ・ユニバース」のイントロ3小節の音が欲しいが為に購入したが、残念ながら音質が全く異なっていた。

■J-160Eによるジョンのリズミカルなエレアコ・サウンドを聴くことができる「アイ・フィール・ファイン」では、世界で始めてジョンがフィードバックサウンドを楽曲に使用。イントロ出だし、A音の効果音がそれで、ポールのカール・へフナーの開放ミュートA音と同時にジョンがJ-160Eの開放ミュートA音を同時に出して作っている。アンプを通して「I feel fine」を弾くと、まさにあのエレクトリック・ピアノのような軽快なエレアコ・サウンドが再現できる。

ジョンのJ-160Eは1963年に盗難に遭い(2015年発見、約3億円で落札)、その後は1964年製を所有したが、音質の問題からレコーディングではジョージのJ-160E(1962年製)を借りて演奏することが多かった。その後ジョンは一時サイケデリック・ペイントを施した後、エピフォン・カジノ同様、1968年頃にボディーの塗装を剥がした。

■ジョンとジョージが初めて入手したギブソン・ギターであるJ‐160Eの「J」は「Jumbo」を意味し、「E]はピックアップ装着による「Electric」を表す。二人がリバプールのラッシュワース楽器店でこのギターを入手したのは1962年の8月頃と言われ、同店で二人がギターを受け取る際の広告写真が残されている。

1962年製モデルはサウンドホールに沿った口輪が一本しかない、俗にワンリングと呼ばれるものだったが、1963年、ロンドンのフィンズベリー・パークのアストリア・シネマで盗難に遭い紛失。そのため新たに入手した1964年製J‐160Eはダブルリングとなっている。1966年の日本公演の際にもジョンはこれを持参していたが、ステージで使用することはなかった。

同じギブソン社製のギターでも、1960年代製の音と現行モデルのそれとは全く異なる。個体によっても音質は変わるが、単板タイプと合板タイプとでもサウンドは大きく異なる。当方で所有する93年製のこのJ-160Eは音の伸びも響きも当時のギターとはまったくの別物と言ってよい。購入後数年経ってから1964年製のJ-160Eを知人に弾かせてもらってその違いの大きさに初めて気づかされた。私が知人に弾かせてもらった1964年製モデルのほうが現行モデルよりボディー本体の厚みが数ミリメートル厚く、音質もふくよかで、サスティーンも豊かだった。後でギブソン製品には山ほどのクズ製品があり、それらが出回っているのだと聞き、ひどく落胆した覚えがある。




Jai Guru Deva,Om

■Jai Guru De Va, Om
「アクロス・ザ・ユニバース」は1968年2月中旬に始まるビートルズのインド滞在直前にレコーディングされた作品で、また、ジョン・レノンが松尾芭蕉に影響を受けて作詩されたものとされる。

万華鏡に映し出された無限に広がるきらびやかで幸福感に満ちた世界に静かに浮遊し、自我を解き放ってゆく。あらためて詩を読んでみると、ヨガにおける瞑想中に独特の心理的現象や心理状態がジョン独自のレトリックと感性によって彩り豊かに描写されているようだ。「Nothing's gonna change my world」「Jai guru de va,om」の部分以外の詩に解釈を求めるのは無意味ではないだろうか。ヨガ式の瞑想をすれば初歩的な段階でジョンがこの作品で描写した体験と類似した体験をすることが出来るだろう。

■Jai Guru De Va, Om 
・Jai(ジャイ)… サンスクリット語(古代ヒンドゥー語)で「~を称える(praise be to ~)」「~に感謝を捧げる(give thanks to~)」。
・Guru(グル)…サンスクリット語で「(ヒンドゥー教の)導師」。英語では「グールー」。
・De Va(デーヴァ)…ビートルズが傾倒していたインドの導師マハリシ・マヘシ・ヨギの導師名が「Dev」であるが、特定の個人名を使用するのを避け、「a」を付加して「Deva」としたようだ。マハリシの師、スワミ・ブラーマナンダ・サラスワティもまた「Dev」と呼ばれている。英米人がよく「karaok
e(カラオケ)」を「キャリオゥキ」、「sake(酒)」を「サキ」、「karate(カラテ)」を「カラーリ」と発音し、また、ディープ・パープルの曲、「Woman from Tokyo」でイアン・ギランが「Tokyo」を「トケィオゥ」と発音して歌っているように、音節やアクセント等の関係から単語の一部でアルファベット単音での発音と同じ発音がされることがあり、「de va」もまた英語風に「デイーヴァ」と発音されている。
・Om(オム)…「オム」はすべての根源にある聖なる音であり、ヒンドゥー教で最も短いマントラ(特定の意味をもち、神聖なバイブレーションを発する呪文)の言葉。常にそれぞれの祈りの前または後に用いられ、「ォオームー…」と長く伸ばして唱える。※ 「ム」は唇を閉じる。

「オーム」という発音については、古来インドでは「a・u・m」の三字からなると解釈され、それぞれ「創造・維持・終滅」を表している。この一語で、全世界が成立し、そして滅びる過程を象徴している。仁王像や狛犬の「阿吽(あうん)」はこの梵字に由来し、同じく「万物の始まりと終り」を示すとされている。

よって、間投詞「Om」の前にカンマを打って独立語として表記するのが正しく、
「 Jai Guru De Va,Om.」とし、「デーヴァ導師を称えます、オーム…」、または「デーヴァ導師に感謝を捧げます、オーム…」と、ジョンは「超越冥想(TM)」の創始者マハリシを信奉してマントラを唱えていたことになる。

因みに「 Jai Guru Dev」は「TM(超越冥想)」においてマハリシ、あるいはマハリシの師であるGuru Dev(スワミ・ブラーマナンダ・サラスワティ)を称える言葉として関係者の間で現在も使用されている。

※マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー:1917年1月12日~2008年2月5日

      

◆ 以下は月刊「The Beatles」誌1993年1月号掲載記事より一部を引用した。「across the universe」「nothing's gonna change my world」のフレーズの意味を探る重要な手がかりがあるのでは?

五人(レノン、シンシア、ジョージ、パティー、パティーの妹ジェニー)はそれぞれ個室にこもり、ひとりきりで瞑想に入る…ジョンは時々、一日中一人きりで深い瞑想に入ることがあった。

ジョン:「瞑想とは、どんなにひどい日でも、自分自身にとって、また他人にとっても自分が価値ある人間になることだ。瞑想を終えると、とにかく何かしなくてはという気持ちに急き立てられるのだ」

ジョージ:「…より鋭い思考の段階まで超越して、普段自分が考えていることを特別な言葉や音(=マントラ)で転換させる、というのが瞑想の概念。瞑想中はその言葉や音を心の中で繰り返し唱える。そして瞑想の目的は最終的に純然たる意識の段階に到達することだ。心の中を空白にすること。それによって、過去の体験からは比較できないほどすばらしい経験ができるのだ… ドラッグでは瞑想やヨガのように、自分の内面や自己の本質まで到達することなど不可能だ」


■ACROSS THE UNIVERSE
溢れ出す言葉は
紙コップの中に際限なく降り注ぐ雨のよう
流れ広がり
この宇宙を超えてくまなく巡る

悲哀の淵 歓喜の波動は
解き放たれた僕の心の中を漂いながら
僕を虜にし 愛撫する

Jai Guru De Va,Om...(デーヴァ導師を称えます、Om…)
僕の世界を変えることは出来ない
何ものも
僕の世界は変えられない

屈折した光のイメージが
無数の眼のごとく踊り舞い
絶え間なく僕を誘う
この宇宙を超えたところへと

さまよう僕の思いは
郵便箱の中の落ち着かなげな風のよう
でたらめに転げ回っては
向かってゆこうとする
この宇宙を超えたところへと

Jai Guru De Va,Om...(デーヴァ導師を称えます、Om…)
僕の世界を変えることは出来ない
何をもってしても
この僕の世界は変えられない

人々の笑い声
生命の陰影は
僕の解き放たれた心に鳴り響き
僕をそそのかし
僕を招き寄せる

限りなく
そして不滅の愛は
無数の太陽のごとく僕をとりまいて輝き
絶え間なく僕を誘う
この世界を超越したところへと

Jai Guru De Va,Om...(デーヴァ導師を称えます、Om…)
僕の世界は変えることはできない
何をもってしても
この僕の世界は変えられない

Jai Guru De Va...(デーヴァ導師に感謝を捧げます)
Jai Guru De Va...(デーヴァ導師に感謝を捧げます)


by JOHN LENNON

※ 内田久美子氏の原訳を参考にしました。


■ ビートルズのマハリシとの出会いは1967年8月24日、ロンドンで開催されたマハリシの講演時だった。超越瞑想(TM)に強い関心を抱いたビートルズは、その翌日、25日にはウェールズでのマハリシの瞑想修行に参加している。さらに翌1968年2月16日にはジョン、ジョージ夫妻、20日にはポールとジェーン、リンゴ夫妻が共々マハリシのもとで瞑想を行うためにインドでの滞在を開始している。

レット・イット・ビー版「アクロス・ザ・ユニバース」は1968年2月4日にレコーディングが開始され、アンソロジー版「アクロス・ザ・ユニバース」もその前日、2月3日にレコーディングされているので、「アクロス・ザ・ユニバース」はジョンのインド滞在中に作曲された作品ではない。

ビートルズ・アンソロジーに収録されている「アクロス・ザ・ユニバース」には特徴的な「変拍子」の部分がまだない。この曲、「アクロス・ザ・ユニバース」は実際にフルコーラス歌ってみるとわかるが、歌詞の量に比し、息継ぎする間がわずかなので、恐らくプロのシンガーでも歌っている途中で酸欠気味になり、発声も崩れてくる。変拍子を採り入れたオリジナル・バージョンの「アクロス・ザ・ユニバース」でさえ、かなり苦しい。「酸欠対策」のために変拍子を入れざるを得なかったのだろうと推測するが、ジョンの声が後半でだれ気味なのはそのせいもあると思われる。アンソロジー版を聴くとジョンが歌唱に苦闘している様子が窺われる。是非ご自身、試しにフルコーラス歌ってみてください。

ジョン…「曲は抜群なのに演奏にはガッカリしたね。ギターのキーは合っていないし、僕の歌も調子っぱずれなんだ」

パストマスターズに収められたバード・バージョンの「アクロス・ザ・ユニバース」がピッチを上げてあるのは、ジョンのだれ気味の歌唱をリカバーするためであったとも考えられる。レット・イット・ビー版「アクロス・ザ・ユニバース」は逆にピッチを落としてあるが、これは単にフィル・スペクターのプロデュース上の都合だろう、と想像する。

「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のブレイク部などで流れるように響く美しくきらびやかで金属的なハープ・サウンドは「スワルマンダル(ソードマンデル)」を使用してジョージが演奏しているものだが、アンソロジー版「アクロス・ザ・ユニバース」でも恐らくジョージ自身によるスワルマンダルの演奏をふんだんに聴くことが出来る。(ちょっと演奏がぎこちないのでインド人のプロ奏者ではないだろう)

「アクロス・ザ・ユニバース」の詩作においてジョンが高い文学性と美を追究している点で、松尾芭蕉の俳諧文学との共通性が認められる。ジョンは独自の感性を信じて、芭蕉のように一つ一つの言葉を大切にし、それを紡いでいくことで美を表現しようとしたのだろう。


芭蕉の句
  静寂…古池やかはず飛び込む水の音
  幽寂…枯枝(かれえだ)にからすのとまりたるや秋の暮れ
  無常…夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
  閑寂…閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声
  無常迅速…やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
  調和美…白露(しらつゆ)もこぼさぬ萩(はぎ)のうねりかな
  幻影・・・旅に病んで夢は枯野をかけめぐる


※通釈
・古池やかはず飛び込む水の音… 古池に、辺りの静寂を突如破る、小さな蛙が水に飛び込むかすかな水音。そして、直後に支配するいっそう深い静寂とその余韻。私の心にも静かに、深く、それは広がってゆく。
・枯枝(かれえだ)にからすのとまりたるや秋の暮れ… 日が山の端(は)に落ちようとしている暮れ方、ふと見ると、高々とした枯れ枝にからすが一羽止まっている。黄昏の中の静けさ、ひっそりとした秋の風情の、このもの寂しさであることよ。
・夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡…ここは昔、源義経の家臣の武士たちが戦い、働きや手柄を競った跡地であるが、時の経過は空しくもすべてを押し流し、今となっては武士たちの夢はすべて跡形もなく消え去り、ただ一面に夏草が、昔のままに深く茂っているのみである。眼前の夏草の実相を通じて歴史の波を懐古し、それが今となっては夢のように儚(はかな)いことだという、無常の感懐である。
・閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声… 山寺へ向かう参道の道すがら、格別清らかでひっそりとしたしじまの中に響く蝉の声は、辺りの古びた岩にしみ入っていくようで、私の心もまた、静かに、深く澄みとおっていったことだ。
・やがて死ぬけしきは見えず蝉の声… 激しい命の燃焼の中に潜む死の影である。それは、人の世の移ろいの空しさ、人生の無常を映し出す姿そのものである。私は、私自身の命をも見つめ、向き合い、そして、それを静かに受け止めたのだった。
・白露(しらつゆ)もこぼさぬ萩(はぎ)のうねりかな… 萩と、美しく清楚な印象を与える白露との、繊細にして絶妙なる均衡と調和である。
・旅に病んで夢は枯野をかけめぐる… 九州への旅の途中、大阪で病床に臥(ふ)してしまった私だが、夢に見るのは、今なお旅人として寂しい枯野の中を颯爽(さっそう)と歩み、さすらう、私自身の姿であった。芭蕉、生涯最後の作品であり、この句を詠んだ四日後、彼の地で客死する。

      

■おまけ
Strawberry Fields Forever

君も連れて行ってあげよう
ストロベリー・フィールズへ
現実なんて幻に過ぎないのさ
煩わしいものなんて何一つありはしない
ストロベリー・フィールズは
いつだってそんな場所なんだ

目をつぶっていさえすれば
生きることはたやすい
目を見開いて生きていれば
誤解ばかりしているのだから
出世するのが難しくたって
いずれどうにかなるものだろう
どっちにしたってそんなこと
僕にとってたいしたことじゃないんだ

君も連れて行ってあげるよ
ストロベリー・フィールズへ
現実なんて幻に過ぎないのさ
煩わしいものなんて何一つありはしない
ストロベリー・フィールズへ行ってみれば
それがわかるから

僕の登った木には
他には誰もいないようだ
つまり
僕の気分の高揚も沈鬱も
君には共鳴出来ないということ
でも
それでいいのさ
悲しむほどのことじゃないよ

君も連れて行ってあげるよ
ストロベリー・フィールズへ
現実なんて幻に過ぎないのさ
煩わしいものなんて何一つありはしない
一緒に行こうよ
ストロベリー・フィールズへ

これが僕なんだと
いつも…
いや、時々思うことがある
でも、そう、
それは夢の世界だとわかってはいる…
"そうだ"と肯定していることが
すべて間違っていて…
つまり
自分自身がちぐはぐなんだ

君も連れて行ってあげるよ
ストロベリー・フィールズに
現実なんて幻に過ぎないのさ
煩わしいものなんて何一つありはしない
ストロベリー・フィールズよ
ずっといつまでも

ストロベリー・フィールズよ永遠に


by JOHN LENNON

※ 内田久美子氏の原訳を参考にしました。










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