伊丹《再》発見D さらに、遺跡ウオッチングなどをつづけます。
伊丹の北郊に、なぜか快慶(?)の遺作が……。
慈眼寺(じげんじ)の「釈迦如来坐像」は、国指定の重要文化財。
(写真14枚)
上の写真は、慈眼寺(じげんじ)の「木造釈迦如来坐像」と、山門(鴻池6丁目)。お寺の
ご本尊であるこの「お釈迦(しゃか)さん」は、平成2年(1990)、国の重要文化財(彫刻)に
指定された。建久6年(1195)に制作されたこの仏像は、鎌倉時代初期の慶派(運慶・快慶
らの仏師グループ)の特色がみられるという。
【伊丹市内にある国指定文化財は4件】
伊丹市域には、合わせて4件の国指定文化財がある(個人所蔵は除く)。@伊丹廃寺跡
(緑ケ丘4丁目=昭和41年〈1966年〉国の史跡に指定)、A有岡城跡(伊丹1・2丁目=昭和
54年〈1979年〉国の史跡に指定)、B木造釈迦如来坐像(鴻池6丁目・慈眼寺=平成2年
〈1990年〉国の重要文化財〈彫刻〉に指定)、C旧岡田家住宅〈店舗・酒蔵〉(宮ノ前2丁目=
平成4年〈1992年〉国の重要文化財〈建造物〉に指定)の、計4件である。
このうち、とくに有岡城跡については、このホームページ(『伊丹の歴史グラビア』)で繰り返し
取り上げてきた。それは、筆者が伊丹の郷土史研究にのめり込む“原点”となった、特別な場所
だからだ。
しかし、慈眼寺の「お釈迦さん」は、まだ一度も取り上げていない。そこで、今回はぜひとも、
その「お釈迦さん」のことを書いておきたい。
上の写真は、伊丹のグラフ情報誌『いたみティ』43号(2000年4月号=伊丹
経済交友会発行)から転載させていただいた。慈眼寺の「木造釈迦如来坐像」の
全身が写っているからだ。
なお、以下の文章は、筆者が同誌のために執筆したものである。「お釈迦さん」の
詳細を伝えるべく、その文章に補筆し、ここに転載させていただく。
伊丹の北郊に、超ド級の仏像をたずねて
伊丹スポーツセンターの北西に広がる鴻池(こうのいけ)地区は、「清酒発祥の地」として知られた
古い村である。村内には黒池、西池があり、天王寺川が流れている。その川の西側は、もう宝塚
市域だ。
さて、慈眼寺(じげんじ・曹洞宗)は、鴻池神社の向かい側、伊丹市鴻池6丁目にある。山門を入る
と、広い境内の正面が本堂だ。
国指定の重要文化財、「木造釈迦如来坐像」は、その本堂に悠然と鎮座していた。このご本尊
は、市や県の指定を飛び越して、いきなり“3階級特進”の国指定である。本堂が改修されるさい、
この仏像は修理に出され、そのとき初めて超ド級の大物とわかったのだそうだ。
しかも、その経緯がなんともドラマチックであった。つまり、それまで“無名”だった「お釈迦さん」が
修理に出されたとき、その胎内から多くの墨書銘が見つかった。その結果、建久6年(1195)に制作
されたトップクラスの仏像と判明。平成2年(1990)、国の重要文化財となり、ヒノキ舞台に躍り出た
のである。
トップクラスの大物といっても、その像高は51.8a。小柄の部類であろうか。像の構造は割矧
(わりはぎ)づくりで、体部は一材から刻み出し、前後に割って内ぐりしたあと、再び寄せる手法。頭部も
本体と同じ木だが、首のところで本体から割り離し、膝(ひざ)は横一材を寄せてあるという。目には
玉眼(ぎょくがん)をはめこみ、全体に金箔(きんぱく)をほどこしている。仏像のお姿は、両手を重ねて膝の
前に置く「禅定印(ぜんじょういん)」の印相だ。
この慈眼寺の「木造釈迦如来坐像」は、張りがあり生気が感じられる面相や、写実的な衣文(え
もん)などに、鎌倉時代初期の慶派(運慶・快慶らの仏師グループ)の特色が現れているという。
そればかりではない。快慶の号の一つに「安阿弥(あんあみ)」というのがあるそうだが、仏像の胎内
から見つかった墨書の中に、それとよく似た文言があることから、この「木造釈迦如来坐像」の造立
仏師は快慶――との見方もあるようだ。
なお、国の重要文化財(彫刻)に指定されている仏像は、伊丹市内では慈眼寺のこの坐像だけ
である。
それにしても、ひなびた村の知られざるお寺に、慶派の仏像が鎮座しているのはなぜであろうか―
――。これは、大いなるミステリーといっても過言ではあるまい。
慈眼寺境内のたたずまい。広い境内の奥に本堂があり、そこに「お釈迦さん」は鎮座している。
お寺を訪れた日は、ちょうどサクラが満開だった。
左=慈眼寺の本堂。右=本堂の背後(北側)には、黒池の水面がひろがっている。その黒池
は、昔、鴻池(こうのいけ)という名の池で、これが「鴻池」なる地名の由来となっているのだ。
『摂津名所図会(ずえ)』(1798年刊)は、この鴻池について、「鴻池村にあり、広さ三百畝。一名
畔池(くろいけ)といふ」「此池岸に鴻多くあつまるゆゑ此名をよぶ」と伝える。
黒池のそばに小さな公園があり、そこは「清酒発祥の地」であった。お稲荷(いなり)さんが
祀(まつ)られ、「鴻池稲荷祠碑」(左上の写真)が建っている。
なお、江戸時代の鴻池地区には特筆すべき歴史があるので、そのことに触れておきたい。
鴻池家の祖・鴻池新六が、「鴻池村」で清酒の醸造に成功
この「鴻池村」で、近世初頭、画期的な出来事があった。それまでの濁酒(にごりざけ)に代わり、
初めて清酒(すみざけ)が開発されたのである。
『日本山海名産図会(ずえ)』(1798年刊)に、「伊丹ハ日本上酒の初めともいふべし(中略)。
慶長の頃よりおこりて、江府に売り始めしは伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり」とある。ときは慶長
5年(1600)、清酒を誕生せしめた人の名は山中幸元。戦国武将で名高い山中鹿之介の次男で
あった。
幸元は父の死後、遠縁を頼って「鴻池村」へ逃れ、名を新六と改めて商人に徹した。清酒の醸造
に成功した彼は、馬の背に酒樽を二つ積んで遠路、江戸へ下る。その透明の液体は花のお江戸で
大フィーバー。これが江戸積酒造業の始まりで、新六は巨万の富を築いたという。
この新六こそ、のちに大坂の豪商として君臨する鴻池家の始祖、鴻池新六(1570〜1650)で
あった。彼は「鴻池村」の村名にちなんで「鴻池屋」を屋号とし、「鴻池」姓を名乗ったのである。その
子孫たちは酒造業のほか、廻船問屋、両替商、新田開発などの多角経営を展開し、鴻池一族は
大いに栄えた。
先に述べた黒池のそばの公園(鴻池6丁目)が鴻池新六の居宅跡で、そこに小さなお稲荷(いな
り)さんがまつられ、「鴻池稲荷祠碑」が建っている。鴻池家の故事来歴などを刻んだこの石碑は、
平成3年(1991)、伊丹市の文化財(史跡)に指定された。
《平成21年(2009年)11月制作》
伊丹市文化財保存協会が「文学碑めぐり」(現地講座)を開催。
村重、西鶴、鬼貫、山陽、牧水、虚子など…… in 伊丹郷町。
(写真17枚)
「文学碑めぐり」は有岡城本丸跡(JR伊丹駅前)からスタート。上の写真=古い石垣が残る
本丸の西北隅。有岡城主・荒木村重とその正室・だしの歌碑の前で。下の左=JR伊丹駅前に
ある城跡の丘陵。伊丹城主・伊丹之親の歌碑の前で。下の右=城跡にある荒村寺の境内。
江戸時代の俳人・上島鬼貫(おにつら)の句碑の前で。
鈴木充先生は、有岡城跡発掘調査団(昭和50年代)の団長だった。左=荒木村重・だしの
歌碑。最後の行に、「鈴木充 書」と刻まれている。右=昭和52年(1977)に行われた、有岡城 庭園跡での現地説明会風景。画面左端のマイクを持つ人が、鈴木先生だ(この写真は昭和52年に撮影)。
「文学碑めぐり」が行われたこの年(2009年)は、有岡城跡の「国史跡指定30周年」である。
その記念すべき年に、城跡に居あわせるのは、まことに感慨ぶかい。そして、30年以上前の発掘
調査団長だった鈴木充先生の書が刻まれた文学碑が、そこ(本丸跡)にあるのは意義ぶかいことと
思う。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
「30年目の有岡城跡」(写真52枚)
有岡城本丸跡の晩秋のたたずまい。右の写真は、戦国時代最古とされる“野面(のづら)積み”の
石垣だ。本丸の西北隅に残るこの石垣は、天正2年(1574)ごろ荒木村重が築いたもので、昭和
51年(1976)、JR伊丹駅前再開発に先立つ緊急発掘調査によって発見された。当時、発掘調査
のリーダーは、前記した鈴木充先生であった。
左=三井住友銀行(中央3丁目)の前にある鬼貫(おにつら)の句碑の前で。鬼貫は伊丹の
酒造家(清酒メーカー)の生まれで、この碑には「鬼貫出生の地」と彫り刻まれている。右=その
銀行の場所に、昭和37年(1962)まで、鬼貫の生家の酒蔵があった。右端に写っている白壁
の建物が、それである。この写真は昭和29年(1954)に撮影したものだ。55年前の撮影当時、
筆者は県立伊丹高校の3年生であった。
なお、この「文学碑めぐり」の日の1週間後(2009年11月)、同銀行の伊丹支店は200bほど
西(中央4丁目)へ移転した。鬼貫の句碑もやがて撤去されるのだろうか。
左=産業道路ぞい、伊丹郵便局の東にある頼山陽の詩碑(漢詩)の前で。山陽は江戸時代の
儒学者で、伊丹の銘酒「剣菱」の大ファンだったという。右=産業道路ぞい、白雪ブルワリー
ビレッジ長寿蔵の前にある、若山牧水の歌碑の前で。明治・大正期の歌人・牧水のこの歌には、
伊丹の銘酒「白雪」が詠み込まれている。
宗因・西鶴の“大物”師弟コンビが来伊。酒づくりで栄えた「本町通り」(産業道路)のにぎわい
を、俳句に詠んだ。左=西山宗因の句碑(柿衞〈かきもり〉文庫の北=伊丹パークホームズ前)。
左側の石柱に、「昭和五十八年三月 伊丹市文化財保存協会建之」と刻まれている。右=井原
西鶴の句碑(産業道路「北ノ口」の坂の上=安井内科クリニック前)。
宗因は江戸時代の俳諧宗匠(談林派の総帥)。文豪・西鶴はその愛弟子、伊丹の鬼貫も同じく
宗因の門下生であった。そうしたよしみで、宗因・西鶴のビッグ・ネームがしばしば伊丹の町を訪れ
たようである。
左=伊丹郷町の最北端、猪名野神社の境内にある鬼貫の句碑(宮ノ前3丁目)。右=伊丹
アイフォニックホールの北側にある高浜虚子の句碑(宮ノ前通り)。
虚子は正岡子規の高弟で、明治・大正・昭和時代の俳人。句碑には、伊丹の「宮ノ前通り」を
歩いたときに詠んだ句、「秋風の伊丹古町(ふるまち)今通る」が刻まれている。しかし、情緒ある
「古町」の面影は、再開発のためすっかり失われてしまった。
「文学碑めぐり」の最後に行われた拓本づくりの“実演”。参加者たちの見守るなか、
山本喜與士・文化財保存協会理事のお見事な手さばきだった(JR伊丹駅前)。
この第3回「文学碑を訪ねて」(現地講座)は、平成21年(2009)11月8日(日曜日)、「歴史・
文化が醸し出す伊丹ロマン事業」の一環として、伊丹市文化財保存協会によって催された(共催:
伊丹市教育委員会)。
参加者たちは同協会理事さんのガイド・解説で、有岡城跡〜産業道路界隈〜猪名野神社〜
宮ノ前通りなどを散策。晩秋の伊丹郷町に、そこはかとなくロマンの香りがただよっていた。
【参照】――「伊丹《再》発見C」……昆陽池公園にある文学碑を訪ねて
なお、伊丹市内には、伊丹市文化財保存協会が昭和60年(1985)前後に建立した、60基もの
文学碑が点在している。今回の現地講座は、そのうち、「伊丹郷町」のエリア内の主なものに対象を
しぼって行われた。
それぞれの歌碑、句碑、詩碑などに彫り刻まれた作品については、『文学碑をたずねて』(新書判
・136n)をご覧いただきたい。同書は、伊丹市文化財保存協会の事務局(伊丹市宮ノ前2丁目・
旧岡田家住宅内/月曜休館))で、1000円で販売されている。
《平成21年〈2009年〉12月制作》
伊丹の四季――その@ 【梅の香りのただよう頃】
東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
(写真45枚)
「緑ケ丘の梅林で」(この写真だけは平成5年〈1993年〉
に撮影。まだデジカメのない時代だった)
@臂岡(ひじおか)天満宮(鋳物師1丁目)
祭神は菅原道真公(845〜903)。上に掲げた歌の作者としても知られる。この歌は、道真公
が太宰府(九州)へ流されるとき、自宅(京都)の庭で詠んだものだという。
そのゆえか、どこの天神さんの境内にも、梅の木はあるようだ。太宰府天満宮や北野天満宮(京
都)もしかりで、伊丹の臂岡天満宮も、拝殿前に植えられた紅白が美しい。
付近には緑地帯が多く、ヒヨドリ、メジロなどの鳥たちも飛来。臂岡天満宮は、国道171号線
ぞいの、切り断ったような崖の上にある。国道側から天神さんへ向かうには、急勾配の坂を上る
か、または駄六川べりの坂道を進むかだ。
その地に「臂岡(ひじおか)」という地名はない。昔、菅原道真公が左遷される道すがら、この丘で
肘(ひじ)を枕にして休憩なさった――との伝承があり、そのことから「臂岡天満宮」と呼ばれるように
なったらしい。
なお、この場所の南2`の地点にある猪名野神社(宮ノ前3丁目)から、伊丹段丘の東端の崖の
中腹をまっすぐ北へ「伊丹緑道」がつづく。また、この臂岡天満宮のすぐ西側には梅林の広がる「緑ケ
丘公園」があり、そこから西の瑞ケ池→昆陽池へと、「たんたん小径(こみち)」が連なっている。
A伊丹緑道とその周辺(春日丘・高台地区)
伊丹緑道にそびえる珍しい梅、「緑萼(りょくがく)」の大木。高さは5b以上もあるだろうか(春日 丘4丁目)。宮ノ上公園のそばにある。猪名野神社(宮ノ前3丁目)から0.5`ほど北だ。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
「伊丹緑道」(写真52枚)
メジロなどの鳥たちも飛来(右下の写真は春日丘6丁目、他は同4丁目)。伊丹緑道は市内に
残された唯一の自然遊歩道だ。梅の花をめで、その香りを楽しみ、小鳥のさえずりを聞けるのもうれ
しい。
猪名野神社をスタートし、緑道を北進。旧西国街道の伊丹坂を横切り、全長1.2`の散策コース
をさらに北上すると、前掲の臂岡天満宮にたどり着く。
3月には、伊丹緑道にカンザクラも咲く。猪名野神社のすぐ北側だ(春日丘4丁目)。そのカン
ザクラは、枝ぶりのよい見事な古木である。そこへ鳥たちもやってくるし、竹林が美しい散歩道では、
ウグイスの鳴き声を楽しむこともできる。
筆者自宅の庭。伊丹緑道の西側に位置しており、白梅が1本ある(春日丘4丁目)。緑道から
は100bと離れていないので、よく小鳥たちがやってくる。
今春(2010年)は例年より早く、3月上旬に庭でウグイスの初音(はつね)を聞いた。しかし、ウグイス
が実際にその優雅な姿を見せたときは、もう梅のシーズンは終わっていた(左の写真に写っている鳥
はメジロ)。
幽霊坂の上の“知られざる梅林”。コニカミノルタ伊丹サイトの東側にある(高台5丁目)。そこ
は伊丹緑道の終着点で、坂の上には「自然居士之墓」と刻まれた墓碑が建っている。すぐ近くを国道
171号線が走っており、その東くだりの長い坂の向こう側(北西)の丘の上が、緑ケ丘公園、そして
臂岡天満宮だ。
幽霊坂と呼ばれる急な坂道を登ると、突然、視界がひらけ、梅林が広がっていた。30本余りの
白梅が整然と3列に列植されているのだ。そこは野菜や果樹などが植えられた畑地だから、梅は実を
収穫するためのものであろう。静かな場所であるだけに、メジロなどが渡ってきて、悠然と梅の花を
ついばむ。
上段の2枚に写っている鳥はメジロ。下段の左はジョウビタキであろうか(高台5丁目)。“知ら
れざる梅林”に隣接する伊丹緑道の竹林の辺りから、しきりにウグイスの鳴き声が聞こえたが、その
姿を見ることはできなかった。
それにしても、路線バスの通る幹線道路から30bばかり入っただけの場所に、前世紀にタイム
スリップしたような、のどかな畑があって、そこで梅の香りがただよう抒情的な光景に出会えたのは、
意外でさえあった。
B緑ケ丘公園の梅林(緑ケ丘1丁目)
「上池」が埋め立てられ、梅香る丘陵に変貌! ここで昔話を一つ。筆者は60年近く前(昭和26
年=1951年)、「緑ケ丘」にある県立伊丹高校へ入学した。登下校時、緑ケ丘公園の「上池」と「下
池」との間の道を通るのだが、その道は二つの池をへだてる堤防で、道幅は2bたらず。右下の写真
の、犬を散歩させている女性の歩く辺りが、その道であった。
当時はむろん、梅林などない。サクラの季節以外はおおむね殺風景で、静寂に包まれた堤防の
両脇に、青い水面があるだけだったように思う。
ところが、現在は「上池」が大きく埋め立てられ、約50種・400本の梅が妍(けん)を競う。池の上に
出現したその丘陵は、およそ5,600u。2月下旬には毎年、「観梅と野点(のだて)の会」が催される。
当日は梅林内に抹茶席が設けられ、公園の特設売店でも甘酒、ぜんざい、あべかわ餅などが売られ
て大にぎわい。まさしく隔世の感がうかがえる。
梅林の丘の上に、風情ある東屋(あずまや)が……。和風にしつらえられた休憩所の周りは、絵に
なる風景だ。梅林は「上池}の一部を眼下に見おろす南下がりの人工的な丘陵(埋立地)だが、築造
(昭和57年=1982年)から28年が経過して、もうすっかり自然の中にとけ込んでいる。
緑ケ丘の“花鳥風月”……。梅は古来、桜よりも珍重され、風流の象徴、情緒あるものの代表的
存在とされてきたようである。高貴な香りがするからだろう。
『小倉百人一首』の中に、平安時代のスーパースター・紀貫之(866?〜945)の、次の歌が
ある。
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける
一般に「花」というと桜を指すが、この歌にでてくる「花」は梅のことである。「香」が「にほふ」わけだ
から、桜ではない。梅は古来、「花と香り」をセットで愛(め)でるものであるらしい。
ただし、「梅にウグイス」は現代の“季”に合わないようだ。地球温暖化が影響してか、ウグイスの
登場を待たずして、梅の花がピークを過ぎてしまう。そのため、このホームページではメジロに“代役”
を演じてもらった。
それにしても、この2月・3月は、伊丹の【梅】を満喫させていただいた。筆者は今年、75歳になる
のだが、今後とも健康に留意し、伊丹の歴史や文化、それに“花鳥風月”を撮りつづけたいと思う。
《平成22年(2010年)4月制作》
むかし懐かし、「伊丹郷町」かいわい。
今に残る“古き佳き時代”の面影を探し求めて……。
(写真43枚)
「平成」に入って20年以上もの歳月が流れると、昔の懐かしい光景は次第に失われて行く。
まして、古い歴史に彩られた「伊丹郷町」(江戸時代に酒づくりで栄えた伊丹の旧市街地)の
場合は、なおさらのことであろう。
このホームページ(『伊丹の歴史グラビア』)の本編、それに番外編の「伊丹今昔」「モノクロ
写真で見る伊丹の昭和50年代(1975年〜)」などでは、30年前・40年前に自分が撮影した
古い写真をふんだんに使った。しかし、そうした往時の町並みや古い駅舎、そして酒蔵の多くは
もうすっかり姿を消した。有為転変(ういてんぺん)は世のならいとはいえ、寂しい限りだ。
それでも、まだ、「伊丹郷町」のそこかしこに、“古き佳(よ)き時代”の痕跡が少しは残って
いるのではないだろうか。今のうちに、それらをしっかり写真に撮っておかなくては――。そん
な思いで、「伊丹郷町」のエリア内に、“昭和レトロ”をたずね歩いた。
≪平成22年(2010年)5月制作≫
60年前に見た老舗(しにせ)のたたずまいが、今も「昔」のままで……。猪名野神社の前を西へ
100bばかり、「清水橋」の交差点に出る少し手前に、そのお店はある(宮ノ前3丁目)。
写真のように、古典的な雰囲気の店構えだ。店主に話を聞くと、「昭和の初めごろから店はあった」
という。筆者が「緑ケ丘」の県立伊丹高校へかよっていた昭和20年代の後半(1950年〜)、いつもこの
時計店の前を通った。当時、その家には、中学・高校時代の1年先輩の女性がおられた。スラッとした
色白の“メガネ美人”だったように思う。
猪名野神社の大鳥居のそば、歴史を刻んだ看板が……。この鰹節(かつおぶし)店も、古くからつづ
く老舗だ(宮ノ前3丁目)。ここの老婦人(故人)は、伊丹の歴史に造詣の深い人だった。すぐ近くの「花
摘(つ)み園」の場所に、昔、伊丹の銘酒「剣菱」の巨大な酒蔵があったことを話してくださったことが、
思い出ぶかい。
金剛院の近く、「宮ノ前通り」に面して古い看板やのれんが歴史を物語る。上の2枚は楽器店
(宮ノ前2丁目)、下の2枚は寿司店(宮ノ前1丁目)。楽器店の店主は、猪名野神社の秋祭りの日に
繰り出す「宮ノ前」ふとん太鼓の、太鼓総代(リーダー)だ。
祭りの日のにぎわい in 「伊丹郷町」。上の左=「宮ノ前」のふとん太鼓。上の右=「伊丹郷町」
の最北端に位置する「宮ノ前」(旧北少路村)のふとん太鼓(右)と、最南端にある「植松」(旧植松村)
の太鼓(左)が行き交う。下の左=猪名野神社の神輿(みこし)。下の右=「植松」の太鼓。
再開発などで「伊丹郷町」の町並みは大きく様変わりしたが、神輿や太鼓が威勢よく繰り出す祭り
の日だけは、少しばかり「昔」の雰囲気をかいま見ることができるようだ。
変貌する町に、築330年超の国指定重要文化財(宮ノ前2丁目)。左の写真が、その旧岡田家
住宅(店舗・酒蔵)だ。造り酒屋(清酒メーカー)だった旧家で、建物は延宝2年(1674)から、この
場所に存続している。
右の写真は、旧石橋家住宅。旧岡田家住宅の東隣にあり、県指定の有形文化財である。江戸
時代から「宮ノ前通り」にあった商家で、近年、再開発のため、この場所に移築された。
旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)の「店の間」に、前世紀を彩ったお雛(ひな)さん(宮ノ前2丁目)。
♪♪灯(あか)りをつけましょ、ぼんぼりに。お花をあげましょ、桃の花。五人囃子(ばやし)の笛太鼓、
今日は楽しい雛祭り……♪♪。場内には、静かな音量で『雛祭り』 のメロディーが流れる。なぜか、
切ないような、懐かしい雰囲気だ。
毎年2月から3月にかけ、伊丹市文化財保存協会の主催で、「ひなかざり@伊丹郷町館」が
催される。展示されるのは、明治・大正・昭和時代の格調高いお雛さん。土曜日、日曜日には、“古き
佳き時代”を懐かしむ人々でにぎわった。
下の左=旧岡田家住宅の正面入口付近。下の右=同住宅の土間には、伝統的な酒造用具など
が展示されている。
伊丹は「清酒発祥の地」……、商工プラザ1階にPRコーナー(宮ノ前2丁目)。“新”飛行場線に
面した左の写真が、そうである。灘や伏見が台頭する以前の江戸時代、伊丹郷は日本一の“酒造
産業都市”で、年間およそ20万樽(約8万石)もの清酒を江戸へ積み出したという。
右=旧岡田家の酒蔵(右側の建物)。店舗の奥にある。現在は文化イベントなどの行われる
ホールとなっており、前記した店舗とともに国の重要文化財に指定されている。
「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵と、その前にある売店(中央3丁目)。伊丹の銘酒「白雪」の
醸造元・小西酒造は、創業460年に及ぶ。天文19年(1550)、有岡城の前身である伊丹城の城下
町で創業したという。まさしく、伊丹の歴史そのものであり、業界きっての老舗である。
長寿蔵の入口や2階などにつるされた杉玉「酒林(さかばやし)」。酒蔵に受け継がれた伝統的な
風習で、良い酒ができるようにとの願いを込めたものだ。昔はどの酒蔵でも見られた。その独特の
雰囲気が懐かしい。右の下=旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)の軒下にも、杉玉がつるされている。
「白雪」長寿蔵の2階は、“江戸時代”を体感できる、珍しいミュージアム。酒蔵の天井が迫る
薄暗い中2階に、丹波杜氏(とうじ)や蔵人(くらびと)たちが使った昔の酒造用具が、伝統的な酒づくり
の工程順に展示されている。その幻想的な光景は圧巻そのもの。江戸時代にタイムスリップしたよう
な、なぜか懐かしい雰囲気だ。
「白雪」蔵まつりのにぎわい。“菰(こも)巻き”の実演風景が圧巻だった(中央3丁目)。毎年2月
中旬、清酒「白雪」醸造元の小西酒造により、長寿蔵とその周辺などで催される。上段の写真は、熟練
の社員が、吉野杉で作られた4斗樽(72g入り)に、「白雪」の菰を巻く場面。その鮮やかな手さばき
は、“匠(たくみ)のワザ”だった(“菰巻き”の場面は富士山蔵=東有岡2丁目)。
当日は、長寿蔵の中庭や前の通りも大にぎわい。人々は振舞い酒に列をなし、馥郁(ふくいく)たる
新酒の味わいを楽しんでいた。それにしても、伊丹の酒蔵が次々と姿を消したのは寂しい。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「C伊丹の酒蔵」(昭和50年代〈1975年〜〉に撮影した古い写真20枚)
*「伊丹《再》発見C」の中の、「在りし日の万歳1号蔵」など
古いお寺と新しいマンションとのコントラストが絶妙だ。左=法巖寺(中央2丁目)。境内に
クスノキ(県指定天然記念物)がそびえる古刹である。背後の建物は、みやのまち3号館(宮ノ前地区
再開発ビル)。右=本泉寺(伊丹2丁目)。本堂の大屋根が横幅19bという巨刹だ。背後は、アリオ
1号館(JR伊丹駅前再開発ビル)。
街道筋に残る町屋が、「伊丹郷町」の面影を今に伝えて……。いま、“古民家”ブームのようで
ある。上の2枚=JR伊丹駅の南方にある田中氏邸(伊丹3丁目)。かつて清酒「誉鶴」(ほまれ
づる)を醸造していた旧家だ。下の2枚=「大坂道」ぞいにある筧(やの)氏邸(伊丹5丁目)。この
お宅は昭和60年(1985)、伊丹市都市景観形成建築物に指定された。
「大坂道」は神崎(尼崎)・大坂(大阪)方面へ向かう旧街道だった。「伊丹郷町」(右の写真)は、
北は猪名野神社(宮ノ前3丁目)から南は鵯塚(ひよどりづか・伊丹7丁目)まで。その区域は戦国時代、
町ぐるみを城塞化した有岡城の“城内”であった。「大坂道」は「伊丹郷町」の南部を南北に貫く古い
道筋で、その沿道は郷町の町場を形成。江戸時代から民家や酒蔵、商店などが建ち並んだ。
左の写真(伊丹4丁目)は、そこに昭和50年代(1975年〜)まで小西酒造の「南蔵」があったこと
を示すモニュメントである。
この付近は、昭和51年(1976)まで、「外城(とじょう)」という地名であった。これは、戦国時代、
近くに有岡城の南の砦(鵯塚砦=出城)があったことにちなむ地名で、在りし日の“総構え”(町ぐるみ
の城塞)を思わせるものといえた。ちなみに、「鵯塚砦」は有岡城の南の防備を固める出城として、
その名が『信長公記』に出てくる。「外城」とは、本城に対する出城の意味である。
だが、その「外城」なる旧地名は、もうない。30年ほど前に、忽然(こつぜん)と消え失せたのだ。
「伊丹郷町」のエリア内には、有岡城や酒づくりの歴史を物語る古い地名が多く残されてきたのに、
「住居表示法」という、歴史をないがしろにした法律の施行により、こうした由緒ある歴史地名(小字=
こあざ)が、ことごとく失われたことは、かえすがえすも惜しまれてならない。
《平成22年(2010年)5月制作》