30年目の有岡城跡(国指定史跡)
「国史跡」指定から30年――“戦国の城”の「今」を訪ねて
(写真35枚+17枚)
JR伊丹駅前にある有岡城跡は、昭和54年(1979)、「国の史跡」に指定されました。
当時、筆者は43歳。有岡城跡に近い、伊丹の中央2丁目に住んでいました。そこは、“総
構え”の城(町ぐるみの城塞)の、“城内”(旧城下町)だったのです。
このページを制作している現在は平成21年(2009)ですから、それからちょうど「30年」
の歳月が流れたわけですね。
では、その有岡城跡はいま、いったい、どんな様相を呈しているのでしょうか――。変貌
する現地を訪ね、カメラ・ルポしてみました。
なお、この項目のラストに、「30年前」(1975〜80年ごろ)に撮影した有岡城跡とその
周辺の写真を掲載しています。「30年」もの“時”を超えると、同じ場所でも、もう“別世界”の
ようですね。 《平成21年(2009年)4月制作》
有岡城本丸跡の周辺を、ハイ・アングルで望む。アリオ(JR伊丹駅前再開発ビル)の11階
から撮影。写真中央部の緑におおわれた場所が、有岡城の本丸跡だ。奥(北)に見えるのは、
五月山(さつきやま=池田市域)など、北摂の山なみである。右下の写真では、JR伊丹駅の向こう
(東)にイオンモール伊丹テラス(旧名ダイヤモンドシティ=大型商業施設)、さらに、その向こうに
伊丹空港が見える。
左=西方から見たJR伊丹駅前通り。奥にアリオ(駅前再開発ビル)がそびえ、その向こうに有岡
城跡、JR伊丹駅がある。右=有岡城本丸跡の真ん中から、巨大な陸橋が東へつづく。橋はJR
伊丹駅やイオンモール伊丹へつながっているのだが、「国指定史跡」の中央部に無粋な構築物が
出現したのは、驚きであった。
本丸跡の中央部(JR伊丹駅前)に建てられた標識。「史跡 有岡城跡」と彫り刻まれている。
左の写真に見える石段を上ると、本丸跡(西北隅)だ。そこには、戦国時代(430年前)の石垣が
残されている。
なお、この写真に写っている石垣は、近年に構築された新しい石垣である。有岡城は中世の
城だから、当時はこのように整った「打込みハギ」の石垣が存在したとは思えない。
本丸跡の西北隅に残る、戦国時代最古とされる石垣。昭和51年(1976)の発掘調査で見つ
かった。土塁の内法(うちのり)部分に埋もれていたその石垣は、ちょうど城壁の隅っこにあたり、長さ
東西10b、南北6bのL字型をしていた。むろん、これは原形の一部にすぎぬが、石組みは自然石
の「野面(のづら)積み」。天正2年(1574)ごろ、有岡城主の荒木村重(あらき・むらしげ/1535〜86)が
築いたものだという。
400年の眠りから覚めた石組みの中には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔の基壇、一石五輪
塔などが無造作に突っ込まれているのが特徴的であった。
この石垣遺構が発掘された昭和51年(1976)当時、筆者は40歳。大阪の広告代理店に
勤務する広告プランナーであった。
有岡城での石垣発見というビッグ・ニュースに触発され、このとき筆者は“40の手習い”で、
伊丹の郷土史研究にのめり込んだのだった。それから「30年」を経て、今度は“70の手習い”
で、こうしてパソコンを操っている。有岡城はその“原点”となった場所であるだけに、「30年目
の有岡城跡」にカメラを向ける心境は、まさしく感無量であった。
古い「石垣」が保存されている本丸跡には、“在りし日”の面影が……。左=昔のままと思え
る「土塁」が、長々と連なっている。右=発掘調査で見つかった「礎石建物跡」や「井戸」などが残さ
れている。なお、土塁の下部に見える石垣は、近年に築かれた新しい石垣である。
タクシー乗り場(JR伊丹駅前)の場所に、昔、有岡城の庭園があった。そこは、カリヨン(フラン
ドルの鐘)のそびえる辺りで、石垣発見現場の100bほど南だ。昭和52年(1977)の発掘調査で、
築山(つきやま)に池を配した庭園の遺構が見つかった。
城主の荒木村重は「利休七哲」の一人にリストアップされるぼどの茶の湯の達人で、名物茶道具の コレクターでもあったから、城内の庭園には、風流な茶室もあったのだろう。そのことを裏付けるかの
ように、発掘調査では高価な茶道具類(破片)も出土している。
方2町(約218b四方)といわれる本丸は、深い「内堀」で囲まれていた。写真は、その内堀
跡(復元)である。左の写真の高い土塁の内側で前記の石垣、右の写真の低い土塁の向こう側で
庭園跡が見つかった。
JR伊丹駅の東、駄六川の近くに祀(まつ)られている石造地蔵菩薩立像(伊丹市指定有形
文化財〈彫刻〉)。このお地蔵さんは昭和52年(1977)1月24日、“初地蔵”にあたる日に、地下
2bの土中で発見された。場所は、旧国鉄伊丹駅の構内(東)、有岡城の外堀跡付近だ。福知山線
の複線電化に伴う、高圧ケーブルの埋設工事中だった。それ以前、福知山線は単線で、ディーゼル
機関車が客車や貨車を牽引していた。
この地蔵菩薩立像について、当時の新聞は「城の“守り地蔵”か」としている。掘り出されたお地蔵
さんは、吹きっさらしのまま、しばらくプラットホームの東側に安置されていた。
▼下の写真は、『寛文9年(1669年)伊丹郷町絵図』。伊丹市指定の有形文化財(歴史
資料)だ。『新・伊丹史話』(伊丹市立博物館発行)より、許可を得て、転載させていただいた。
この古絵図(『寛文9年(1669年)伊丹郷町絵図』)は、有岡城が史上初の
“総構え“の城(町ぐるみの城塞)であったことを物語る、貴重な資料だ。
有岡城は天正7年(1579)、織田信長の軍勢に攻め滅ぼされ、灰燼(かいじん)に帰した。上の絵図は、
それから90年後のものである。時は江戸時代の「伊丹郷町」だが、その領域がイコール“総構
え”の「有岡城」(戦国時代)であった。
つまり、現在のランドマークでいうと、北は、「宮ノ前通り」の突き当たりにある猪名野神社(宮ノ前
3丁目)から、南は、杜若寺(とじゃくじ)の少し北にある鵯塚砦跡(ひよどりづかとりであと・伊丹7丁目)まで。
淡路島の形状に似た南北1.5`の高台が、そっくりそのまま“総構え”のエリアだったので
ある。
在りし日の有岡城は、そのエリアがすっぽりと城壁の中に包まれていたのだという。
『信長公記』は、有岡城が落城する場面を、「城と町との間に侍町あり。是(こ)れをば火を懸
け、生(はだ)か城(じろ)になされたり」と伝える。信長の軍勢が城壁を打ち破って中へ入ると、「城」
(本丸)と「町」(町人の住む城下町)との間に、「侍町」(上級家臣たちの住む武家屋敷)があったという
のだ。有岡城は、本丸とともに城下町など町全体が城壁で取り囲まれていたわけで、城下町が“城内”
にあるという、当時としては、世にも珍しい城だったのである。
さて、絵図を詳しく見てみよう。真ん中の右側(東)、断崖をなす伊丹段丘の東端(JR伊丹駅
前)に本丸があり、その場所に「本丸」の文字が見える。そこは水色に塗られた内堀で囲まれて
おり、東の崖下の水色の部分には、「古堀」と書き込まれている。その外堀が、町の外側をぐるりと
一巡しているのだ。
一方、町の左側(西)は、どうなっていたのだろうか。外堀があり、掘った土を城側にうず高く
積み上げたと思える、土塁らしきものが描かれている。伊丹小学校(船原1丁目)といたみホール
(文化会館=宮ノ前1丁目)との間の広い道路、伊丹シティホテルや墨染寺(中央6丁目)の西にある
段差の下の狭い道などが、西側の防禦ライン(外堀跡)であった。その内側(城側)の段差の上に、
高い土塁が連なっていたわけだ。
その土塁ぎわ、伊丹シティホテルの南側に位置する墨染寺の付近に、有岡城の西の守りを固める
砦(とりで=出城)があった。この上臈塚砦(じょうろうづかとりで)のことは、『信長公記』にも出てくる。つま
り、上臈塚砦の守将であった中西新八郎が、信長方の総大将・滝川一益の調略に乗せられて内通し
ひそかに敵軍の兵を招じ入れた――というのだ。
そこを突破口として、織田軍団は城内になだれ込む。そうして、「城と町との間に侍町あり。是れを
ば火を懸け……」と、前述した場面となり、有岡城は落城に至る。
こうして、城方に内応者が出たため、結果的に西の防禦ラインは破られた。しかし、もしそういう
ハプニングが起こらなかったら、強固な土塁は破られることもなく、もう少し持ちこたえたのではない
だろうか。
西側の城壁をなしたその土塁の現物が、今も残っている。場所は、この絵図のいちばん上
(最北端)、北の守りを固める出城があった、猪名野神社の境内である。そこには、430年前の
土塁が100b以上にわたって長々と連なっているのだ。現存するその土塁は、風化してなお高さ3〜
4b、幅(厚さ)4〜5b。地表に古木の根っこが大きく露出していることからみて、本来の土塁はもっと
高かったに違いない。
その土塁の外側(西)は現在、路線バスの通る幹線道路となっているが、そこが外堀の跡地で、
昭和の初めごろまで、水の少ない深い外堀がそのまま残っていたらしい。
ちなみに、その堀を越えた向こう側(西=清水2丁目)には、近年まで「堀越町」という地名が
あった。しかし、その由緒ある地名は、「住居表示法」が適用されて失われてしまった。有岡城
の外堀の存在を物語ってきた「堀越町」という古い地名が、ある日、忽然(こつぜん)と姿を消したのは、 惜しまれてならない。
猪名野神社の前からまっすぐ下(南)へつづく、人家の建ち並ぶ通りが、「宮ノ前通り」だ。その右
(東)、南北を貫く道は「本町通り」(産業道路=尼崎池田線)、そして「大坂道」である。その付近は
おおむね、町人の住む旧城下町であったらしい。筆者は先祖代々、昭和61年(1986)まで、旧城下
町の一画(中央2丁目)に住んでいたのだが、有岡城の在りし日、その城下町と本丸との間に、前述の
「侍町」があったというわけだ。
それと、絵図のいちばん下(最南端)に南の守りを固める出城が描かれており、その付近には、
足軽・雑兵クラス(下級武士)の住む一画があったと考えられる。そこには江戸時代、「無足町
(むそくちょう)」という奇妙な町名が存在していたからだ。“無足”とは、おアシがない、知行の料足が
ない意で、所領や禄(ろく)のない武士のことである。
以上、この『寛文9年(1669)伊丹郷町絵図』は、“総構え”だった「有岡城」(戦国時代)の在りし日
の面影をしのばせ、その後に日本一の“酒造産業都市”として発展した「伊丹郷町」(江戸時代)のにぎ
わいを彷彿(ほうふつ)とさせる、かけがえのない歴史資料といえよう。この古絵図は伊丹市の有形
文化財に指定されており、その現物が伊丹市立博物館(千僧1丁目)に展示されているのは、
誠にうれしい限りというほかない。
有岡城の本丸跡にある説明プレート(JR伊丹駅前)。阪急伊丹駅とJR伊丹駅との間に位置する
“総構え”(町ぐるみの城塞)の領域が地図で示され、城の歴史などが解説されている。
左=本丸跡に設置された説明標識。奥に、石垣の遺構が見える。右=有岡城“総曲輪”
(そうぐるわ)の領域。この地図は、筆者の著書『伊丹ウオッチング』(1995年刊行)より転載した
ものである。
▼以下に、有岡城のあらましを、詳述しておきたい。次の文章は、伊丹のグラフ情報誌『いたみ
ティ』(伊丹経済公友会発行)に、筆者が執筆したものだ。同誌63号(2005年4月号)の「伊丹の歴史
遺産E・有岡城跡」より、一部補筆して、ここに転載させていただく。
“総構え”(町ぐるみの城塞)だった戦国の城
JR伊丹駅(福知山線)の前に、起伏に富んだ丘が連なっている。駅舎は城郭を模したような白い
建物で、駅2階コンコースと駅前の丘陵は「古城橋(こじょうばし)」と名付けられ陸橋で結ばれているの
だが、その緑に彩られた小高い丘が有岡城跡だ。
そこは、昭和54年(1979)、国の史跡に指定された。ちょうど「30年前」のことである。
その場所には、430年前の戦国時代、有岡城の本丸があった。本丸の広さは、方2町(約218b
四方)だったらしい。それほど広いわけではないが、廃城になった忘れられた城・“謀叛(むほん)の城”
だったせいか、明治26年(1893)に鉄道が開通したとき、本丸の東半分は削り取られ、その跡地に
プラットホームが設けられた。以来、国鉄(現JR)伊丹駅は、城の本丸跡に存在するわけだ。
有岡城は天正7年(1579)、織田信長の軍勢に攻め滅ぼされて落城し、再興されぬまま、廃城とな った。
そのため、本丸跡に城の痕跡はほとんど残されていない。むろん往時の建物はなく、わずかに残る
土塁と、昭和51年(1976)の発掘調査で見つかった、戦国時代最古とされる石垣が、在りし日の面影
を伝えるだけである。
しかし、発掘調査や近年の研究で、有岡城は史上初の“総構え”だったことが判明。その先駆的
意義が評価され、城跡は「国指定史跡」の栄光に輝いたのだ。この城は、本丸とその西側に連なる
侍町や城下町をすっぽりと城壁の中に包み込んだ、当時としては世にも珍しい“町ぐるみの城塞”だっ
たのである。
その領域は、北は猪名野神社(宮ノ前3丁目)から、南は鵯塚砦跡(ひよどりづかとりであと・伊丹7丁
目)まで。淡路島の形状に似た南北1.5`、東西0.6`の高台が、そっくりそのまま“総構え”の城で あった。
ちなみに、『信長公記』は、有岡城が落城する場面を、「城と町との間に侍町あり。是(こ)れをば火を
懸け、生(はだ)か城(じろ)になされたり」と伝える。つまり、信長の軍勢が城壁を打ち破って“総構え”の
有岡城の中へ入ると、「城」(本丸)と町(町人の住む城下町)との中間地点に、「侍町」(家臣たちの
居住区域)があったというのだ。当時の“城内”の様子を伝える史料は『信長公記』だけであるが、この
「証言」は事実であろう。「侍町」の位置にあたる地域に、近年まで「殿町(とのまち)」「中殿町(なかどの
ちょう)」という地名があって、武家屋敷の跡地であることを暗示していたし、その場所の発掘調査でも、
「侍町」の存在をうかがわせるような遺構や遺物が出土しているからである。
ところで、有岡城のルーツは伊丹城であった。嘉元元年(1303)の史料に「攝津國伊丹村」とある
から、このとき、すでに伊丹城の城下集落が形成されていたのであろう。この地の豪族・伊丹氏が
本拠とした伊丹城は以来、250年以上もつづいた。
だが、天正2年(1574)、戦国の風雲に乗って頭角を現した荒木村重(あらき・むらしげ/1535〜
1586)が伊丹氏を倒し、伊丹城へ入城。織田信長配下の摂津守となった村重は、その城の名を「有
岡城」と改め、居城の大改造に乗り出した。
完成した新しい城は、本丸・侍町・城下町など、町全体を外堀と土塁で取り囲んだ“総構え”だ。当
時、ダリオ高山飛騨守(高山右近の父)に伴われて有岡城を訪れた、ポルトガルの宣教師、ルイス・
フロイスは、「甚(はなは)だ壮大にして見事なる城」と絶賛したという。彼は信長の庇護(ひご)のもと、畿
内の城々を知り尽くしていたから、初めて見る“総構え”に驚嘆したのであろう。
しかし、難攻不落と思えたその有岡城も、やがて灰燼(かいじん)に帰すときがやってくる。
城主の荒木村重がなぜか、自分を取り立ててくれた主君の信長に反逆したからだ。その理由として
は諸説あるのだが、真相はつまびらかではない。この村重の奇怪な行動は、戦国史の中でも最大の
ミステリーの一つといえよう。いずれにしても、有岡城は天正7年(1579)、信長の大軍に攻め滅ぼさ
れて炎上したのだった。
その後の江戸時代中期、伊丹生まれの俳人・上島鬼貫(うえしま・おにつら/1661〜1738)は、
廃墟(はいきょ)と化した有岡城跡にたたずみ、「古城(ふるじろ)や茨(いばら)くろなる蟋蟀(きりぎりす)」
と詠んだ。この句を彫り刻んだ鬼貫の句碑が、現在、本丸跡にある荒村寺(こうそんじ)の境内に建てら
れている。
左=古城山荒村寺(JR伊丹駅前)の境内にある鬼貫(おにつら)の句碑。右=荒村寺の山門。
句碑は慶応元年(1865)に建てられた古いもので、「古城(ふるじろ)や茨(いばら)くろなる蟋蟀
(きりぎりす)」と刻まれている。作者の上島鬼貫(1661〜1738)は、伊丹の造り酒屋の生まれ。この
句の詞書(ことばがき)に、戦国悲話を生んだ古戦場をしのび、「有岡のむかしをあハれにおほへて」と
書き記している。
ここでもう一度、前掲の古絵図(『寛文9年(1669年)伊丹郷町絵図』)をご覧いただきたい。落城
から90年後の絵図だが、旧城下町は人家の建ち並ぶ“町場”であるのに、本丸跡の周囲は“空白
地帯”のままだ。「侍町」のあった辺りは焼き払われたまま放置されているらしく、何も描かれてはいな
い。鬼貫が詠んだように、当時、本丸とその周辺は「野イバラが生い茂り、コオロギが群がっていた」と
いうのだから、荒れ果てた様子がしのばれよう。
なお、江戸時代、蟋蟀(キリギリス)とはコオロギのことだ。『古語辞典』(岩波書店)で「キリギリス」
を引くと、「蟋蟀」と出てくるが、パソコンで「コオロギ」と打てば、「蟋蟀」と印字される。
左=東方から有岡城の本丸跡を望む。手前をJR(福知山線)が走行、奥の左手に本泉寺の大屋根
が見える。右=JR伊丹駅の2階コンコースと有岡城本丸跡を結ぶ陸橋。「古城橋(こじょうばし)」と
名付けられている。ちなみに、本丸跡付近一帯は古くから「古城山(こじょうざん)」と呼ばれ、旧地名(小 字)は昭和51年(1976)まで、「古城(こじょう)」だった。
昭和51年といえば、本丸跡の西北隅で、古い石垣が見つかった年である。その大発見と引き換え
に、付近にあった「古城」「大手町」「殿町」「中殿町」「外城(とじょう)」「堀越町」など、有岡城にまつわる
由緒ある地名が失われたのは、惜しまれてならない。
有岡城本丸跡の東半分を占めるJR伊丹駅。南あるいは東上から撮影した写真である。駅の東側
には、昭和52年(1977)ごろまで、まだ「外堀」の痕跡が残されていた。
なお、明治中期に鉄道(摂津鉄道→阪鶴鉄道→国鉄福知山線)が開通したとき、本丸跡の東半分
は段丘の崖が大きく切り崩され、そこにまっすぐレールが通されたのだった。そのレールやプラット
ホームの東側に、昭和の後期まで崖の一部が残され、その下に「外堀」の名残と思える水路が存在し
た。現在、駅の少し南、伊丹5・7丁目付近の崖と有岡小学校との間を南流する水路がそれである。
イオンモール伊丹テラス(藤ノ木1丁目)から、伊丹の町並みを望む。東方にある猪名川べりの
ビルからの眺めで、上の写真の画面右側に見える小高い丘が、有岡城跡である。伊丹の町は
おおむね、「伊丹段丘」と呼ばれる段丘の上に位置するのだが、有岡城の付近の地形は、とりわけ
起伏に富んでいて興味ぶかい。
【 参 照 】――*「@有岡城跡」
*「G伊丹の発掘……有岡城跡」
*「伊丹今昔……JR伊丹駅・有岡城跡の周辺」
*「伊丹《再》発見A……土塁(猪名野神社境内)」
*「伊丹《再》発見C……中堀(「白雪」万歳1号蔵跡)」
▼発掘当時(33年前)の有岡城跡≪昭和51年(1976年)ごろに撮影≫
以下に列挙する写真は「30年以上」も前に撮影したもので、城跡の付近も、国鉄伊丹駅前通りも、
昔のままの雰囲気であった。当時、伊丹市の人口はすでに17万人を超えていたのだが、まだゆっくり
と、“時”が流れていたのであろう。(2009年4月現在、伊丹市の人口は19万5千人余りである)
発掘調査が行われた頃(昭和51年)の有岡城本丸跡。左=本丸跡から国鉄伊丹駅(現JR)方面を
望む。周囲にはまだ、高層ビルは建っていない。右=本丸跡の発掘現場。手前は、建物の礎石であろ
うか。奥に見える土塁の内側に、古い石垣は埋もれていた。
昭和51年(1976)の発掘調査で見つかった石垣遺構。400年の眠りから覚めた石垣を間近に
見たときは、土のにおいも生々しく、感動的であった。その前面に屋根瓦の破片が散乱していたこと
から、土塁の上には隅櫓(すみやぐら)があったらしいという。
発見当時の石垣は、写真のように、石と石との間に隙間(すきま)が目立った。いわゆる自然石の
「野面(のづら)積み」である。しかし、石垣は阪神大震災(1995年)で大きく崩れ、修復後(現在)は
隙間が詰まってしまった感じだ。
左=庭園跡の発掘風景。石垣発見の翌年(1977年)、築山(つきやま)に池を配した庭園遺構が
見つかった。場所は、石垣発掘現場の100bほど南、いまカリヨンがそびえている辺りだ。写真の
奥(崖下)に、木造平屋建ての国鉄伊丹駅が見える。右=庭園跡での現地説明会。多くの郷土史
ファンがつめかけ、大にぎわいだった。
左=国鉄伊丹駅(当時)の東側に残っていた「外堀」の痕跡。前掲の『寛文9年(1669年)伊丹
郷町絵図』に、「古堀」と書き込まれていた辺りだ。この「外堀」の痕跡が見られる風景は、昭和52年
(1977)まで存続した。写真の右側にある高さ3bほどの段差は、段丘崖の名残(すその部分)であ
る。この場所に明治の中ごろまで10bを超える崖があり、ここが有岡城本丸の東端であった。鉄道が
開通するとき、崖は切り崩され、そこに伊丹駅が設けられたのだが、この写真はその歴史を物語る、
“証拠写真”ともいえよう。
右=本丸跡の西側では、「内堀」の遺構も見つかった。場所は、JR伊丹駅前通りに面した一画
で、アリオ(駅前再開発ビル)の建設予定地だ。
左=発掘調査で見つかった出土品。「天目(てんもく)茶碗」などの茶道具も展示された。右=城の
“守り地蔵”とみられる(?)前述のお地蔵さん。昭和52年(1977)に発掘され、平成3年(1991)
伊丹市の有形文化財(彫刻)に指定された。
左=レトロな風情をただよわせた国鉄伊丹駅。この旧駅舎は、昭和54年(1979)まで存続した。
駅舎も跨線橋(こせんきょう)も木造で、線路は単線だった。右=南側から見た国鉄伊丹駅の遠景。
駅舎もプラットホームも有岡城の本丸跡(東半分)にある。写真の右端に見える細い道の付近までが、
往時の本丸だった。上記した「外堀の痕跡」があったのは、その辺りだ。
ローカル線特有の風情を残した国鉄伊丹駅前通り。2枚とも、西側から見た光景である。左の写真
の突き当たり(東下りのなだらかな坂の下)に、伊丹駅の旧駅舎が見える。当時はまだ、付近に高層
ビルは建っていない。
「30年前」の昭和54年(1979)、有岡城跡は「国の史跡」に指定された。上の写真は、その
ビッグ・ニュースを伝える当時の新聞だ。天正7年(1579)の落城から、満400年目の快挙である。
それにしても、完全に忘れられた存在だった有岡城跡が、市・県の指定を飛び越え、いきなり“3階級
特進”で「国指定史跡」の栄光に輝くのだから、その成り行きは誠にドラマチックであった。
その成り行きを、かたずを呑んで見守ってきた日々が、昨日のことのように思い出される。
それから、「30年」の歳月が流れた。
今年平成21年(2009)は、有岡城跡の「国史跡指定30周年」である。筆者自身も齢(よわ
い)を重ね、今年74歳になる。昨年6月には大腸がんの手術を受けたが、その後、幸い健康を回復
し、抗がん剤治療をつづけながらも、、今こうしてパソコンを操作しているのが夢のようだ。
それも、自分が伊丹の郷土史研究にのめり込む“原点”となった「有岡城」のことを書いて
いるのだから、なおさらのこと。筆舌に尽くしがたい、この幸運に感謝したい。
その感謝の意を込め、今年は、このホームページ(『伊丹の歴史グラビア』の本編および番外
編)に使用した「昭和時代の写真」を、すべて、伊丹市立博物館に寄贈するつもりである。それ
と、昭和40〜50年代(1965年〜)に筆者が撮影した8ミリ・フィルム(有岡城跡・伊丹郷町など)も、
博物館に寄贈したいと考えている。何かのお役に立てばうれしい。