聖ベネディクトの霊性 神を求める

Sr.アリサ緒方美知子

 聖ベネディクトの霊性を考える時、いろいろの面から考えることが出来ます。
それらは全部、聖ベネディクトの戒律に含まれています。
「戒律」は、師がモンテ・カシノの修道院で共修修道者のために書かれたもので、それはベネディクトの霊性に生きるための生活の仕方、心構え、方向づけの具体的な規範です。
この戒律について、エスター・デュ・ワールはその著書『神を探し求める』で次のように述べています。
「私のように忙しく、しばしば混乱と疲労をもたらす日常生活の中で、神を探し求める人々に「戒律」は語っています。
戒律は日常生活の具体的な状況の中でキリスト教的生き方の案内として役立っています」と。
この戒律の中に一貫して流れている目標は何においても、ひたすら「神を探し求める」と言うことです。
「to seek God」というこの一つの言葉のもつ広さと深さは、計り知れないものがあります。
それはどんな時代においても、どんな身分であっても、どんな状況の中でも、だれにでも実行出来る心の方向づけ、霊性です。
戒律は手段であって、目的ではありません。
その目的は神を求める事なのです。

さて、現代社会で生活している私たちキリスト者(修道者も含めて)にとって、神を求める生き方とはどのような生き方なのでしょうか。
私たちの日常生活の中で出会う二つに絞って考えてみたいと思います。
第1に困難や苦しみの中で私たちはどのように神を求めたらよいのでしょうか。

ここで私の身近に現実に起こった一つの出来事の中でそれに関わった人々がどのように神を求めたのかを示してみたいと思います。

2012年1月初旬、冬の寒い日で東北地方は大吹雪で天候が荒れていました。
その中を22歳のT君は大学卒業までの間、友達と東北地方に車で出かけました。
二人の友達は前の座席に、T君は後部座席に座っていたところ、後から90キロ(速度規制は50キロ)のトラックに追突され、前の二人は軽傷でしたが、後の座席のT君は意識不明の重体で東北の病院で診察された結果、現代の医学では回復の見込みはなく、一生植物人間になるという宣告でした。
22歳で今から輝かしい人生が始まろうとしているT君へのこの宣告は、家族、友人、親戚、全てT君を知っている人にとって絶望的な苦しみでした。

この場合、神を求めるとは、周囲の人々(幸いにカトリック信者)にとって懇願の祈りでした。
しかし後から分かったことですが、神様に全てをお任せすると言う深い信頼の中で神を求めていました。
本当にお医者様の言葉を借りれば、奇跡的に1ヶ月以上経って意識が戻ったのです。
今はリハビリの険しい道程が残っていますが、この事故は本人をはじめ周囲の全ての人の信仰を深め、神を信頼し、神に委ねる心を強固にしました。
このような大事故の時に神を求めることが出来るようで、なかなか難しいものです。
でも神様は求める者には拒まないということは確かなことです。
困難の中でひたすら神を求め続けたT君の周りの人々の心を私もひしひしと感じました。
そしてそれらの人々のT君に対する無償の愛は、神様に届いたと思います。
本当に感謝です。

第2に以上のような大きなことではなく、日常の生活の中で起こるどんな小さな事であっても、常に神を求めることが出来るでしょう。
新約聖書のペトロの第1の手紙5章の7節に「あなた方の思いわずらいを一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです」とあります。
また聖ベネディクトの戒律の第4章、善い行いの道具について「神に自らの希望を託すこと」と記されています。
思えば私たちは何と多くの思い煩いにエネルギーと時間を費やしていることでしょう。いろいろ心配してこのようにしようと計画を立てて実行する事は私たちの日常生活において必要です。
しかし多くの場合、なるようにしかならないことです。
自分の思いの中でのみあれこれ思い悩みます。
このような時、常に主に尋ねることを先ずしてみたいものです。
そして自分の中での思いを祈りに変え「私は今このように小さな事が心配で心がそれで一杯です。
この心配を主よ、あなたに委ねますのでどうかあなたの思いのままにしてください。」と祈ったなら、結果がどうであっても、心の中には平安と静かな安らぎの喜びが保たれると思います。
私たちは大きな問題に直面すると「祈らなければ」と神に助けを求めますが、日常的な小さな問題は自分の中であれこれ思いめぐらし、自分で処理し、それで終わってしまいがちです。
しかしこれら全てを祈りにかえ、常に神のみ顔をたずね求めるならば、どんな時でも「神を求める」生活になり、どんな結果になっても心に平安が保たれるのではないでしょうか。
実に聖ベネディクトの霊性の中心にある「神を求める」生活は、心を神に向けることひとつで日常の生活で実践され、生活の意味も深まってきます。
そして全てにおいて神が栄光を得るのです