九百九の昼   2005.8.31    三年寝太郎

 惣次郎はわたしが帰る前によく家に戻っているらしい。「ただいま」とドアを開け用足しをして果物やお米を持って 「行ってきます」 といってアパートに帰ってゆくらしい。惣の声が日に日にふっくらと落ち着き豊かになっているのを感じる。惣にとってはまだこの家が我が家なのかもしれないが、愛する者たちを護りともに生きてゆくところがほんとうの我が家になって、いつか「こんにちは」とドアを開ける日も来るだろう。

 独立したからといって、同じ会社にいるわけだから、姿を垣間見たり、遠くから見守ったりはできるし、帰りに寄ってルイを抱くこともできる。スープの冷めない距離にいるしあわせがある。

 夫婦というものは不思議だ。赤の他人が出あい戀に落ち苦楽をともにし子を育て、しかし周りを見回すと愛想尽かしをするのはどうも女からの方が多い。それも40前のあやうい年齢が多い。まだ残り香がある。けれど夫は仕事に没頭しかまってくれない。わたしはこのままで終るのだろうか、髪振り乱して家事に明け暮れ子育てをして、わたしを女としてみてくれないこの男と一生ともに過ごすのだろうか.....かくて妻の反乱、夫は慌てふためき為すすべを知らない。

 惣もリサも若いから添い遂げられるかまだまだわからないけれど、波がきても乗り越えられるように、見守って、手を添えてゆくことはできる。ルイは可愛いけれど、自分のなかにセーブするものがあって、愛しくてたまらぬほどのめりこむことができない。見苦しいことはするまい、祖母としての立場を踏み出すまいとする一方で、万が一 失うかもしれないことを恐れ、そのときの苦しみを回避するために、稚けないものうつくしいものを堰を切ったように思いのたけで愛することができないわたしがいる。

 一方、もうひとりの息子は三年どころかもう6.7年は寝続けている。フリーターをしつつニートをしつつ、気のおけない友人たちと遊びまくっているのだ。かずみさんとわたしも病や年を考えそろそろ焦りだした。そこで息子は親たちから最後通告を受け取ったというわけだ。

 今日は長男の板倉出社の日だった。親ばかとて朝からいっしょに行って見守りたかったが、さすがに今日は8/31のまさに決算とて事務所にいるしかない。このどん詰まりでようやく今期の損益予測が出た。8月の売り上げが好調のため思ったよりよい数字が出て、現金はないのに納税額が増えるから、喜んでばかりはいられない。それはそれでたいへんなのだ。それも今日になってではできることに限りがある。現場保険の年前払いとか......できる段取りはして、あとは去年落とした残りの不良債権を落としたりを考えようと、板倉に向った。

 工場に着くと外壁に看板はつき、機械ははなばなしくガタンガッタン騒音を立てながら稼動していた。メーカーからふたり説明に来て、会社からはかずみさん、Aさん、電気屋のNさん、息子は所在なげに立っている。どうか目を覚まして、仕事が続けられますように、もう寝ませんように。

 板倉から戻って6時、末娘と浦和に出かけた。


九百八の昼   2005.8.30    省みる

 今日も朝から決算準備、女三人、手を動かしつつ、口角泡を飛ばし激論しつつ......工事にも個人の相手先にも記憶がない、おかしな領収書があった。日付もないのでおおかた、どこかの会社から頼まれてつくったものだろうと推理はできたが、担当者にもまったく記憶がない。結局たぐってゆくと領収書をひとつの現場で二重に、しかもまったく違う金額で切っていたのだ。その営業さんは難しい人だったが、夜の連絡会でしきりに反省していた。

 顧みるは過去を振り返ることだけれども、省みればひとはいくつになっても成長してゆける。わたしはもう50年以上生きてきた。そのなかで後天的に身につけたたくさんの癖と生まれるまえから持っているサガがわたしの行動の奥にあってわたしを規定している。この固まった鋳型から自由になりたい。本来の自由できれいな魂を取り戻しながら生きてゆきたい。そうしたら語りも変わってゆくだろう。

 そして、わたしが生きる道すがら、より若いひとたちに ふとなにか感じていただけるような関わりを持ってゆけたら.....いい。なにか風のような.....と夢みる秋の気配の一日。

ペニー・レインにて



九百七の昼   2005.8.29    一輪の花、ひとつの灯

 ごがみさんは賢いひとだ。誠実なひとだ。先見の明と実行力のある、市長に相応しいひとだ。市長選に立つにあたって、多くのひとの久喜市はこのままではいけない、あなたしかいない、どうか立ってほしいという熱意にほだされて立ってくれた。わたしもそのひとりだった。ごがみさんは考えて考えたあげく、市議の椅子を捨て、立ち上がってくれたのだ。

 選挙は戦争だ。勝てば官軍、負けるとなにもない。 事務所には虚脱感がたちこめていた。みんなすこし虚ろなそして夢覚めやらぬ顔をしていた。

 現職市長の勝因は区長に案内させて個別訪問をする(公示前)など現職の強みを生かし、公明党、立正佼成会、商工会などの組織を固めたことにあるだろう。五時、投票率があらかた確定したころには、すでに勝つことを確信していたようすがうかがえる。それほど組織票は固いものなのだ。一方こちらの敗因はボランティアによる寄せ集めの選挙で、市長選は市議選と違うため、勝手がわからなかった。指揮系統が明確でなかった。勝つとすれば風を吹かすしかないのだが、今一歩及ばなかった。動くひとは5.60の年配のひとが中心で、ごがみさんが応援する、子育て現役世代の熱い共感を得るまで至らなかった。

 今後がどうなるかまだわからない。みな茫然自失で敗戦のショックから立ち直れていないのだ。市政を市民の手に取り戻すというあたりまえのこと、市のあちこちでひまわりのように咲いた黄色の旗、せっかく灯った改革の灯はたとえ一回敗けたところで消してはいけないと思う。けれども、選挙を続けることはお金がいる。ボランティアの労力だけでは賄いきれない。これ以上、ごがみさんに負担を強いることはできない。どうやって支えていけばいいだろう。

 決算準備にとりかかった。


九百六の昼   2005.8.28    一年前

 一年前 の今日 浦和のプラネットではじめてのリサイタルを開いたのだ。マチネはコーヒーとケーキ、ソワレはワインと料理、櫻井先生をゲストに迎えて ほんとうにいいお客さまの前で語らせていただいたしあわせな一日をわたしは忘れない。

 一月まで、こころもからだもわざも磨いて 冬物語をひらかせていただこうと思う。日ごろ、学校やデイケアで語らせていただくのとリサイタルはすこし違う。それはとても純化した一刻である。自分の語りの、人生の、エッセンス.......夏物語はみっつのライフストーリーだった。それは、わたしの思春期から現在(いま)までを織り成す夢と憧れと痛みだった。こんどはなにを語ろう。もっと遡って幼年を、そして文学のなかから脆い朽ちたレースと真珠に彩られたものがたり.......

 今日は久喜市長選の投票日、さきほど見た10:00現在の開票速報は互角だった。投票率は前々回より10ポイント高い55パーセントだから勝ち目がないことはない。フラワーショップで花束をふたつ用意した。赤いばらの花束、そして青い花々をアレンジした花束、どちらかを母に捧げようと思っている。実はわたしの母、79歳の母がごがみさんを支える、かえよう、変えます市民の会の会長である。わたしは母を誇りに思っている。

 駅前ひろばで敗戦の報告をしている母の声が聞こえる。結局 惜敗したのだ。あと7%、投票率が高かったら、組織票をもたず浮動票が頼りのごがみさんが勝てたと思う。これで久喜市の夜明けは4年遅れるがしかたがない。


九百五の昼   2005.8.27    レッスン

 会社と選挙事務所を廻ってから、娘と浦和のガロに行き、髪を短くした。担当の杉山さんに身のほども忘れて「可愛くしてね」と頼んだ。さすがに「美しくしてね」とは言えなかったが、このかなりくたびれた素材にも、杉山さんはあとうかぎりの技術を施してくれ、それなりにはなった。杉山さんの挽き出しはたくさんあって、ワイルドにといえばライオンのようにもしてくれる。

 気張って、今日はクールに決めてきたのだが、新しいパンプスが痛くて。伊勢丹でピンクのドライビングシューズを買って履き替えた。バランスがめちゃくちゃと娘に言われたが、歩けなくてはどうしようもない。夜 ダンスのレッスンに行ったら、からだの節々が痛く重く、思うようには動けない、わたしばかりではなくあちらからもこちらからもポキポキ音がする。ほぼ一ヶ月振りのレッスンで、からだがなまってしまったのだ。

 そのあと、カラオケに行ったが、こちらものどに錆でもでたように、なんだかすっきりしない。娘に「おかあさん、声楽のレッスン行っていないでしょう? 聞いていてすぐわかったよ、行ったほうがいいよ、先生 待っているよ」と言われてしまった。そういえば美容院どうよう、リサちゃんの切迫早産のあたりから、三ヶ月以上うかがっていない。からだは正直だ。つねに、つねに鍛錬を続けなくてはならない。こころもそうなのだろう、日々埃をはらっていかないと、ベストの力が発揮できない。なんとか自分を取り戻さなくては。

 すこし遅くなったが板倉工場の炭化機械設置組み立ての写真を載せておく。











九百五の昼   2005.8.27    棄てる


 8/27 8:00 自転車隊出発

 私のちいさな想いは捨てよう。相手候補は考えられないような手をつかい、してはならないことをしている。ひとつになって この町を変えよう! 久喜市の子どもたちのためにごがみ民子さんの力は必要である。 いままでになく期日前投票が多い。市役所の4Fは連日のようにひとびとが群れをなしてやってくる。バスに乗せられたお年よりもくる。字の書けないひともくる。朝、自転車隊を送り出したあと、息子と期日前投票に出かけた。


九百四の昼   2005.8.26   おままごと

 時間ができたので、PLALA(プロバイダー)でこのHPをアップするという作業を電話で聞きながらやってみた。PLALAの今日のアドバイザーは女性だったがとてもやさしくて親切で、昨年4月同じようにいくらやってもできなかったのが30分後には開通した。

 去年の4月24日以来、気になりながら手をつかねていたのは、そのころからかずみさんの足が急速に悪くなったからである。その後の入院、手術、ダイワハウスにまつわること、システムの入れ替え、社員さんの出入り、息子の入院、結婚、ルイのことなど息つくひまがなく、落ち着いて設定できる状況になかった。それでHPはヤフー、メールはプララという変則的な状態のままきてしまった。これで、ようやく念願の引越しができる。

 午後、やはり懸案だった息子の惣のこと、携帯の引き落とし口座の変更、ルイの乳幼児医療の申請などをした。必要なものをあずかりに10日振りにアパートを訪ねたらリサちゃんが眼に見えて痩せ、か細くみえて胸を打たれた。この娘は慣れない場所で、今までおかあさんにしてもらっていたなれないことをひとりでやっていたのだ。わたしは工場やかずみさんの病院やうぐいすで忙しく声をかけることもしなかった。

 家にも寄ったが、病院に必要な書類がなかなか見つからない、車の中もバッグのなかも仕事の書類や領収書、ウグイスや語りのレジュメが散乱してごちゃごちゃで、どうしたらいいかわからなくて恥ずかしいことにわたしは泣いてしまった。神さま わたしにはできないのです。わたしにはまわりにいる縁あるひとたちをしあわせにする力などないのです。どうしたらいいのでしょう....会社のAさんやTさん、電気屋のNさん、まだ迷っているこどもたち、やっとあるきはじめた惣とリサちゃん......なにかしてあげたいたくさんのひとたちがいるのに、愚かで力のないわたしは....。

 夜、ふたたびアパートを訪ねると、惣がルイをお風呂に入れていた。ルイのおしめをとりかえ、あやし、ミルクを飲ませる。すこしずつ心がやわらいでくる。きのうのことがまだわだかまっていたのだと思う。わざわざそのひとがそのために選挙カーに同乗してわたしが家のなかにいるひとびと、路上のひとびとに語りかけているのを確認にきたということ、そしてそれを事務所のなかに吹聴し、私自身にもつきつけてきたことにわたしは傷ついていた。そう、たしかに本質では語りだったのだから怒ることもないのだけれど。

 「おかあさん そんなこと気にする必要はないよ、一生懸命やったんでしょう、いつもなんでも一生懸命やっているでしょう」 惣の横顔を見る。短い時間のあいだに声も顔もおとなになった。テーブルに魚の煮付け、ワンタン、ジャガイモの煮たのが並んでいる。ごはんはお皿に盛られている。ジャガイモは箸が通らぬほど固かった。リサちゃん おままごとみたいだと思う? いいえおままごとじゃありません。そうだよねおままごとであるはずがない。リサちゃんはルイと惣と三人でしあわせに暮らすため一生懸命だ。通帳と印鑑、惣の年金手帖、たいせつなものを17歳のリサちゃんに託す。



九百三の昼   2005.8.25   課題

 早春の山間の静寂に響くうぐいすの声を聞くと、思わず第二聲、第三聲に耳をすませてしまう。ことにまだ風も冷たいころ、歌いはじめはおぼつかない聲で一生懸命歌っているので、がんばれがんばれと応援したくなる。選挙カーでマイクをにぎる女性をいつからウグイス嬢というようになったかは知らないが、大音量のスピーカーから流れる声は選挙の部外者からすれば、騒音以外のなにものでもない。

 そこで、部屋のなかで仕事をしたり、テレビを見たりしているひとに、どうやって聞いてもらうか、語り手としてのアナウンスをしてみようと思っていた。心に響くウグイスができればいいと思っていた。もう一度広報車ではなく、選挙カーに乗せてくださいと頼んだ。ところがうぐいす担当者から 森さんのウグイスは語りとしてはすばらしいけれど、ウグイスではないと言われた。選挙事務所のなかでも毀誉褒貶が喧しいらしい。政見や公約も伝えているしキャッチコピーも伝えている。車はあっという間に走り去ってしまうから、アップテンポで歯切れよくと心がけている。

 ではウグウスと語りはどこが違うか。どうやら すらすら とめどなく 同じ調子で たぶん客観的に政見を伝えるのがウグイスというわけなのだろう。固い政見や公約、マニフェストを聞き取りやすいことばや響くことばに、置き換えることもしてはいけないことなのかもしれない。心から心へという語り手としてのスタンスでしてはいけないというなら、わたしにウグイスはできない。やめることにした。

 ごがみ事務所のぎくしゃくした、ぬくもりのない対応や雰囲気に嫌気がさしていたのも事実で、これで公約の市民ひとりひとりを大切にする市政ができるのだろうかと不安もあるのだが、二台車があるとして、より故障のない、なんとか目的地についてくれそうな車を択ぶしかないのだ。そしてほんとうに運転するのは市民のわたしたちであることを忘れてはなるまい。目的地は健全な地方自治。国の未来そのものこどもたちをたいせつに体と知能だけでなく魂を育ていけるような公民一体の教育環境をつくること。透明で無駄のない財政運営。老いも若きも男も女も手をとりあい、ともに真に豊かに生きてゆける街づくり。

 午後のカタリカタリは参加型のおはなしのワークショップ。今年のワークショップはメンバーの希望を集めて、語り手たちの会の櫻井先生、藤野さん、末吉さんにお願いした。櫻井先生には来年の1月、藤野さんは体調がよくないということで9月はイエロウズの演出家山下さんのワークショップ。そして8月はテネシーのストリーテリングフェスティバルにゲスト招聘された末吉さんである。

 蜘蛛ばあちゃん、コカのカメなどの参加型のおはなしを楽しんだあと、4チームに別れて桃太郎を参加型のおはなしにするという課題に、参加した3人のこどもたちも活躍した。おまけはフェスティバルで語る英語のムジナ。どうも末吉さんはあらしを呼ぶ女であるらしく、台風がくるとて、お茶もそこそこに4時間半の実り多いワークショップは終った。

 末吉さん、ありがとう。テネシーの大舞台でたかだかと末吉さんの語りを世界中から集まったみなさんと楽しんでください。みんなで みんなで この道 を歩いてゆきましょう。



九百ニの昼   2005.8.24   ナンバーワン

 今日でやめようと覚悟を決めて選挙事務所にでかけた。今日はうぐいすのプロ、Aさんと3度目そして最後の同乗である。わたしはうぐいすのナンバーワン、日本一と豪語してはばからない。その自信のほどに辟易もするのだが、心を惹かれるものもあって、すこし楽しみでもあった。

 朝方、早く起きて、自分なりのコピーをA4 4枚につくっていった。この町を変えたいという想いでことばは熱くほとばしる。運転していた市議のSさんが 「いいね! いいね! さすが語り手だね」と言ってくれる。替わったAさんのしゃべりも変わった本気(マジ)になったと思った。プロとしてのプライドに火がついた?

 休憩でコンビニに立ち寄ったとき、「うぐいすってライブだと思っていたのだけれど、ライブというより実況放送なのね」と話しかけたら「そうよ、そうでないとつまらない」と言った。Aさんのうぐいすは競馬の中継に似ている...市長にはポスターの上段、ナンバーワンのごがみたみこ、黄色い民パワーはビタミン色、からだの活性化にはビタミン、市政の活性化にもビタミン、自転車のおとうさん、こちらを向いてください!すてきな笑顔をありがとう おじいさんおばあさん おまごさんまでごがみたみこ、」74000人のトップリーダーにはごがみたみこ、ごがみたみこ、ただいま....橋です。候補者は橋の上、市民と市政の橋わたしはごがみ、ごがみたみこ、ただいま交差点です、信号はまてば変わる、政治は待っても変わりません、あなたの一票を生きた一票に ごがみ、ごがみたみこ!!
と速射砲のようにたたみかける。

 今日は時間があっというまに過ぎて苦にならなかった。車を降りる前、Aさんと思わず手を取り合った。「あなたのこと、最初はいやだな、いっしょにやれるかと心配だったけど、今日は楽しかった。」「わたし、本気になったの今日がはじめてよ、これがわたしの力、火曜はやめたいと思ったもの、みんな気持ちは同じよ、最後までいっしょにがんばろう」...「それはいっしょに最後まで うぐいすをやろうという意味?」「 そうよ」
こころが動いた。

 わたしはうぐいすのプロではない。1日 12時間なんて乗ったことはないし、生まれてから今までで4時間×11回くらいである。マイクは交代で持つから実際には10時間にも満たないだろう。だが、うぐいすにはとても血が熱くなるところがある、市民のみなさんとの交流、気持ちが繋がったときのよろこび、そして時には 姿の見えない家のなかで聞いているひとたちにも確かに届いたという実感がある。

 たとえば大道芸、このあいだ櫻井先生と聞いたジョングルールにも実況放送に近い部分があったような気がする。ものがたりでも、もしかしたら、地の語りでそういうところがあるかもしれない。わたしはいわば自分の衣で磁場をつくり 雰囲気をまとい、聞き手をしんとしたものがたりの世界にいざなう語り手であろう。実況という行為にはまた別の客観的な透徹した目線が必要で、自分にはないところゆえ 惹かれるのかもしれない。ナンバーワンよりオンリーワンというスマップの歌があったけれど、めざすはやはりナンバーワン、たとえ、そうなれてもなれなくともそのために心を磨き、技を磨くのだ。自分をナンバーワンと言い切れるAさんがすこし眩しかった。

 会社にかずみさんがいた。かずみさんが病院から帰っていた。よかった。社員のみんなも社長の帰還で柔和な顔をしているように見える。二週ぶりの連絡会、かずみさんは先に帰ったけれど、てきぱきと議事は進行した。8月の売り上げ予測と修正、新年度の予算提出依頼、土木の道具類の整理についてなど。発注書と労務外注日報の変更。来期 会社はあたらしくなる、社員ひとりひとりの持っている力をひきだすことが会社を大きくする。社長ひとりではなにもできない。がんばりましょう、いっしょに。そう話した。

 きのうAさんがもらした「上に立つ人は、下のひとの力を引き出すような言動をしなくては...」ということばがよぎったし、選挙事務所や車のなかのひとことで気持ちが冷えたり、熱くなって頑張れたりしたのできょうはことにひとりひとりに声をかけた。河岸を変えること、外の世界に出ることはおもしろいし、眼が覚めるときがある。時間を捧げ、気持ちを重ねる、それは無駄で遠回りのようであって決してそうではない。



九百一の昼   2005.8.23   ひびくことば

  事務所でギリギリ必要な要件をすませる。庭の梅にアメリカシロヒトリが発生して葉が枯れはじめたことは気づいていたのだが、すこし油断したら、今日は茄子が二本全滅、被害は野火のように広がっていく。薬剤の散布を早川さんに頼んで、選挙事務所に行く。

 きょうは「かえよう、変えます 市民の会」の広報車だった。メンバーは3人、テキストとおりそのままでひとことも変えるな...と言われたが、わたしは語り手である。本を読みながらでは想いは伝わらない。繰り返すだけなら生きた人間ではなく、エンドレステープをまわせばいい。こんにちは、東4丁目のみなさま、連日連夜おさわがせして申し訳ありません....とかあいさつ、呼びかけのことばは入れたいと思う。

 たとえば新生とか脱却とか、耳で聞くことを考えてつくった文章ではないと思う。シンセイより まっさらにあたらしくうまれかわります...と言いたいし ダッキャクより ごがみさんは子育て環境県内最低レベルから、よいしょと上におしあげます......と言いたい。

 選挙のウグイスだって、ことばを伝えるのではなくイメージを伝えられると思う。上手い下手ではなく、たとえば候補者の奥さんが........は苦しい戦いをしております。いま一歩、いま一歩です、どうかどうかみなさま おねがいでございます.....とせつせつと訴えると是非はともかく 伝わるのだと思う。市民本位の市政、市政の改革、公共事業の見直しなど固いことばはイメージにしにくいし、誰もが使うから手垢にまみれている。どう伝えるか....ことばがこころにひびかなければ騒音にひとしい。

 途中、銀行のそばにおろしてもらって、入院費用をおろし病院に向かう電車、正面にすわったほっそりした青年に違和感を感じてよくみたら、いわゆるオッドアイ、金目銀目のひとだった。デビット・ボウイみたいに左目がグレイ、右目が薄茶、左目の瞳孔がぬらぬら真っ黒に盛り上がっている、魔眼とはこういう感じかな..たぶんカラーコンタクトと思うが。

 病室に内科の天見先生がみえていた。天見先生も眼科の森可奈先生もうら若い女性である。女性はますます進出して、これから日本も変わってゆくだろう。かずみさんはいそいそ帰宅の準備、あすは退院である。ふたりでなんとなく寛いで、窓のそとはいつしか夕闇へ、夕立で濡れた歩道、雨に濡れた樹木の匂いをふかぶかと身に染ませて家に帰った。



九百の昼   2005.8.22    ボランティア

 朝、板倉工場に向った。図面との違い、スミ出しの違いで、工程は遅れている。どうやら突貫で機械をつくったようで、工場で部材を組み上げ、それをバラして運ぶはずが、大きな部品しか組み上げていないのだ。
それでボルトの位置は合わないし、あちこち不具合が生じている。
 図面を持っているのはメーカー側なのだからチェックはそちらがすべきであるし、当然図面がなければスミ出しの位置などわからない。

 事務所に戻って、あたふた労務の支払いの準備をし、選挙事務所に向う。事務所は駅頭にもあって、うぐいすの集合場所は駅頭のほうだった。全体にどうも連絡がいまいちである。縦も横もラインが決まっていない。船頭は多い。ボランティア選挙は寄せ集めだから、司令塔がしっかりしていなくては、うまく機能しない。集まったひとたちの力を生かせない。プロのうぐいすさんもやりにくそうだった。

 連日の会議の結果をどう現場に伝達するか、会社とおなじだ。そのうえ、ボランティアの側には無償で時間をさいて頑張っていると言う想いがあるし、使う側にはしだいにあたりまえの意識がでてきて、感謝も薄くなる。ぴりぴりした感じが伝わってくる。

 4時間で10から15箇所のミニ演説会をする。候補者と運転手がここぞと思う場所を決め、すぐに案内のコールをして、旗を出し、リーフレットを配る。わたしだけで100枚以上配った。外に出てくれたひとには候補者があいさつする。灼熱の陽に照らされて日焼け止めもものかは、たちまち黒くなる。

 走り回るのでひざはがくがく、選挙事務所に戻り、かずみさんの病院に行くことはあきらめる。決算間近でやることは山ほどあるし、問題は山積、すこしいらいらしてくる。会社は賃金を払っているから、経営者としてはこれだけはやってほしいという気持ちがあるが、ねぎらいのことばも時には必要だとしみじみ思った。

 ボランティアは無償だがボランティアだからこそ、最善を尽くさねばならない。そこにみんなで一緒につくりあげてゆく歓びがあって、それには金銭には換えがたいものがある。1000円いただけば1000円分だけのものになってしまうような気がして語りも選挙も無償がいい。けれども時間こそもっとも貴重だ。充実感やみんなとひとつにまとまった喜びがないと続かない。ともかく疲れた。今日は二日目、あと五日がんばれるかしら。



八百九十九の昼   2005.8.21  出陣式

 朝、ごがみ民子さんの事務所に行く。いよいよ市長選挙の告示だ。市役所で届出をし、市議補選の立候補者を含めて籤引きをする。1番だった。ポスターは1番の位置に貼られる。それから警察に行く。ここではじめて選挙カーの看板にかけられた蔽いをはずすことができる。

 かえよう、変えます、新生久喜へ! 青空にひるがえる、黄色の旗は約束のしるし、民パワー、市民のみなさんの気持ちをひとつにまとめて民子はやります。必ずやります。民子は嘘はつきません。一期四年で一気にやります。しがらみ一掃、新生久喜へ! たみこ、たみこ、ごがみたみこでございます。

 うぐいすはただ原稿を読めばいいのではなく、走っている場所、速度、状況にあわせて遂次、内容を変えなくてはならない。沿道からの笑顔のご声援ありがとうございます。かわいいご声援ありがとう!たみこはこどもたちの味方です。こどもは久喜の日本の未来です。すくすくきらきら育つよう、子育てしやすい環境をつくります。たみこ、たみこ、市長候補ごがみ民子でございます。....まったくのライブなのだ、そのうえ候補者の思いをことばにして、選挙カーを騒音としか思っていないひとのこころの扉をたたくのだから、語り手にとってはこのうえない修練の場でもある。

 出陣式は駅東口で行われた。東京から近隣から女性首長、都議さんたちが大勢応援にかけつけ、取材陣もきた。広場は黄色ののぼり、Tシャツで埋まった。わたしは聞き手の側にまわり、司会や市民の会の代表やあいさつに頷いたり、合いの手を入れたりした。わたしの母も壇上に立った。なかなかいい演説だった。真情がこもっていて、簡潔でわかりやすく、上手すぎない、長すぎない......そういう演説はこころに届く。

 12時で広報車から降り、病院に向かう。明日検査の結果がよければ、火曜日退院とのこと、2.3週間と聞いていたので予想外に早い、よかった! 冷蔵庫に入れておく飲み物などの買いものに地下の売店まで行くが、村みたいにひろい病院なので、往復20分かかった。

 夜、テレビでトロイを観た。アキレウスとヘクトルの闘いの場面は圧巻だった。わたしは少女のころからトロイの王子であり守護者であったヘクトルが好きだったから、ヘクトルの死とトロイの陥落は見るにしのびなかった。男たちは戦う、名を残すために、愛のために.....というフレーズが幾度か繰り返されたが、今は女たちも戦うのだ。名を歴史に刻むためでなく、男女の愛のためでもなく、それも大義のために。


八百九十八の昼   2005.8.20  日没

 今日は久喜座の公演だったと思い出してTELをかける。出演してもしなくても公演の手伝いに行かないようでは座員の資格はない。明日は座・シェークスピアの中間発表で、これも行かれないと連絡する。合間に文化会館へ差し入れに行く。久喜座の面々は本番もすぐというのに、まだ楽屋でさらっていた。ゲネは夕べしたとのことだった。

 板倉に向う。大地も大気もむせるような暑さだ。クーラーで冷えないよう頸にスカーフを巻いて車のなかで発声練習をする。現地に着くと大きな部材はもう組みあがっていた。夕方には他の現場から応援部隊も駆けつけ、ボルトをしめたり、夕方思いのほかはかどった。

 帰り道 緋色の夕日があまり美しいので 渡良瀬遊水路で車を止め、土手をよじ登った。左手一面にひろがる水面、はるか上手に筑波山の三角の山容がちいさくみえる。下手にはみかも山、大平山、薄墨色のもやがかかり、一帯が驟雨に洗われているのだろう。上手のそらはみずいろで白いうす雲がたなびいている。雲はもう秋の気配がする。

 そして右手は雲の間からこぼれる黄金の日没、やがてそら全体をあかく染める。人生の終焉は日没のようでありたい....と思いに耽っていたら、通りすがりの散歩者から声をかけられた。このあたりは時折 狐が出るという。ひどく痩せていて尾の根元が太く、出会うとびっくりするという。

 狸はまだちょいちょい見かけるし、狢やいたちまむしも出るという。40年前、渡良瀬遊水路が多額の費用をかけ、東京都の水がめとしてつくられた時、工事をしたのは青森や山形などの東北のひとびとだった。おおかたマタギなどの山の民が駆り出されたのだろうとそのひとはいうが、さだかではない。

 そのうちのひとりから「一升瓶くらいの太さ、4メートルもある大蛇がいた」と聞いたそうだ。青大将の主みたいなものだろうが、鎌首をあげて向ってこられたら、さぞ怖かろう。土手をくだって共同墓地のほうに行くと風情があるという。上に行くと谷中村の記念館がある。

 そうだ、足尾銅山の公害は渡良瀬水域に広がったのだ。山々は銅精錬のために伐採しつくされ裸山となり、保水能力を失ったため、大洪水が幾度も起こり、鉱毒を下流に押し流し、漁業農業にいそしむひとたちに甚大な被害を与えた。これが田中正造の闘いや一揆につながるのである。

 この地にも、語られるのを待っているものがたりがたくさん眠っている。川のほとりに森のおくに山陰に。そして朽ちかけ、日に晒された白い墓石のそのしたに。


八百九十七の昼   2005.8.19   約束の地

 そうだ、わたしにはもうひとつできることがある、と考えに耽っていたら、曲がり角をとおり過ぎてしまった。

 125号線から46号線、柏戸遊水路を左に曲がって、渡良瀬有水路沿いをひたすら走る。この道はダンプ街道である。少し怖い。藤岡に入って藤岡館林線を行くとまっすぐな道の向こうに板倉工場が見えてくる。今日は本体部分の据付をする。電話の手配、事務机の手配をする。

 昼から、1時間の道を戻って銀行で用をすませ、浦和に行く。夜9時過ぎ、アパートでルイとご対面、リサとルイは昨日からこの町に来た。機械が着いた日だわ...ルイの誕生やそのあとのことは微妙に会社の動きと重なっている。長男の誕生と会社の誕生が期を一にしたように。

 きのう、西荻の駅のホームでお別れしたとき交わした目と目、あれから先生の一部がわたしの中にいらして、わたしは.......。



八百九十六の昼   2005.8.18   語ること、透き通ったまなざし

 朝から板倉に行く。F機械から5人来ている。打ち合わせもそこそこに掃除を始める。8年も放置されていた工場なので蜘蛛の巣はかかり、床もライトグリーンに塗られた壁の鉄骨も埃だらけだ。持ってきた掃除機、箒で埃をとったあと、デッキブラシでコンクリートの床を洗う。F機械のひとたちが立ち話をしていたので、「機械搬入までに掃除したいので手伝ってください」と声をかけた。

 部長さんがデッキブラシをつかってくれ、他のひとは雑巾を持ち、総勢8人がかりで、ちょうど最初の車が到着する寸前におわった。大会社のひとだから、ふだんそうじをすることなどないだろう。うちの下請けさんもこんなことうちじゃ絶対しない...と言いながら汗をぽたぽたたらしながら、二階の事務所の床を磨いてくれた。きれいになって工場が喜んでいるようだ。10t車1台、4t車延べ3台分の部品を組み立てるのに4日間かかる。そのチームの編成、工具の調達をして事務所に戻る。
 なんだか吹っ切れて男たちを顎で使えるようになってしまった。もちろん、自分がいちばん動くのであるが、さぁ どうなることか.....

 五時過ぎて、会社を飛び出す、行き先は栃木の病院ではなく、西荻、櫻井先生にお会いするのだ。駅構内の英国風の店で先生はグラスを手にやさしく微笑って迎えてくださった。いつもよりすこし華奢で明るく、透きとおって見えた。ちょうど同時に尾松さんも着いた。

 すこし互いの近況報告などがあって、ライブハウス「音や金時」に向かう。ジョングルールのコンサートはバグパイプやハーディー・ガーディー、パーカッションの三人が語り、歌をとりまぜて、古音楽の紹介をするという試みだった。語りはなんでもありなんだ....と思った。聖母マリアの奇跡、フェルナンド王の話がおもしろかった。
 中世のトゥルバトゥールは吟遊詩人、ジョングルールはそれより地位は少し低い吟遊楽人、どちらかというと役者、芸人。彼らは音楽ばかりでなく、恋物語や武勇物語の朗誦も動物使いもするらしい。つまりわたしの目標である、歌い、語り、楽器もつかう道傍の芸人なのだ。
 
 マトンのカレーとナン、シシカバブ、シュウマイ。パリパリのおせんべなどいずれも香辛料が利いて美味しかった。ネパールティーは熱くて甘くてシナモンが香って病みつきになりそうだ。先生は文字・活字文化振興法案が可決されたことを危惧なさっていた。この法案は7/22に実質的な審議もなく可決された。ことばはその国の文化のみなもとであり、精神でもあるのだが、読む。書く。を重点に置き、話す、語るをなおざりにするとはいかがなものかと思う。語り文化こそ父祖から伝えられたものを子孫の内奥に直接受け渡すもっとも根底のもっとも豊穣な文化であろうに。

 わたしは語りに出会わなければ、今のわたしではなかった。語ることばは魂から発する、ゆえに生きることと連動する。語りをすることでわたしははじめて自分を振り返り、どこからきてどこにゆくのか、ここでなにをしたらいいのかを尋ね尋ねてきたのだ。こたえは自分の奥底にあったのだが、語ること、ことにライフストーリーを語ることなくしては、その盲目的な憧れのような祈りのようなものに気づきはしなかっただろう。

 だから、こうして今の自分でいられるのも、すべてわたしを語りに誘ってくださった櫻井先生のおかげなのだ。ひとは己を知って、自分のさだめを知って初めて真に生きる。わたしには母がふたりいる、と思っている。ひとに自分の生きる目的を知らしめる。人生に立ち向かう勇気をあたえる......これほどの贈り物があろうかと思う。わたしがいただいたたくさんのことに感謝してもし尽くせるものではないが、すこしでもお返しできるとしたらそれは語ること、語りを広めること、わたしはこの地に種を蒔こう。

 湘南新宿ライン最終電車のひんやりした窓ガラスに額をつけて夜を見ていたら、お話することがあったのを思い出した。

 

八百九十五の昼   2005.8.17   覚醒...か

 休み明け、午後からTELも頻繁になる。F保険会社が労災の上乗せ保険の見積もりを持ってくる。年額57万円!?...A社は百数十万円、K社は97万円だった。同じ条件でほぼ同じ内容なのにこれはどういうことなのだろう。

 明日は板倉に炭化機械が納入される、といっても自社で宇都宮から運ぶ。その段取りが不十分で、10t車の手配やユニックや人の手配で手間取り、会社を出たのは5時をまわっていた。面会時間切れ5分前、6時55分についた。かずみさんは椅子に座ってテレビを見ていた。仰臥をつづけるのはよくないらしい。昼間、工事の直接の段取りや発注は現場代理人に任せた方がいい...と進言したことでふたりのあいだはまだギクシャクしていた。

 なんでも率先してやるのが悪いとはいわないが、ときにそれは混乱を招く。せっかちだから人に任せておけないのはわかるが、任せてそのうえで確認し管理する。そうしなければいつまでたってもひとは育たない。

 ふと、わたしが家族、かずみさんや長男次男にした失敗もそこなのだと思う。見かねて手を出しすぎた。  自治医大駅まで足を引き摺り歩いた。荷物が肩に食い込むほどに重い。わたしはなにをしているのだろう。男なんて賭けるほどのものではない。これは覚醒かしら、気の迷いかしら、疲れているのか.....もう うんざりだ  フラワーショップの半開きのドアから湿った冷たい花々の生気が夏の夜に溶け込んでくる。

 いつだって、ほんとうに力になってくれるのは、頼りになるのは女たちだ。男に助けられたことなど.....。自分の欲望、仕事や遊びや...収集品やそんなものに明け暮れて、ひとを充たすことで己を成就しようなんて爪の先ほどだって考えやしないのだ。それが男のサガ。

 わたしはボロボロの雑巾になりたかった。つかってつかってつかわれて終りたかった。それは...ただ男たちのためなんかじゃない。おだて、なだめ、男たちが間違えないようにそんな姑息なことじゃない。

 いささかなりとも世界のためになることをしたい。神さまの御心にかなうことをしたい、これからのこどもたちのためになることをしたい、仕事でもその他のことでも。そのために力を尽くしたいのだ.....と自分に言い聞かせて歩いた。
 電車に乗って、これから50分はわたしの時間....と思ったとたん、もう眠りに落ちていた。


八百九十四の昼   2005.8.16   手術

 朝、洗面所で山のような洗濯を手洗いしていたら、「まだ こないの」とTEL......選挙事務所に廻って母に報告してから電車に乗る。コトリと眠りに落ちて気がつけば自治医大駅。一年前、もう降りることもいだろうと登った階段を降り、もう乗ることはないだろうと思ったタクシーに乗る。

 かずみさんはぽつねんと椅子に座り、点滴につながれていた。ちかごろ、老いたなと寂しさと労わりの半ばする気持ちでいたけれど、髯をそって背筋を伸ばしたところは、まさに壮年......一緒に暮らしはじめた頃のニトロにも似た危険な匂いがまだ微かに漂い、長年人の上に立っていた貫禄とあいまって、わたしは少し感嘆して見ていた。

 そうか、あなたはこういう人だった.....わたしは今までなにを見ていたのだろう。使いなれたタオルのようなよく知った肌触りに騙されていたようで、それが必ずしも不快ではなく、ドキドキするような....これから一緒に仕事をすることが楽しみでもあるような気がした。

 かずみさんが車椅子で手術室へ行ってから、わたしは所在なく広い病院の内部を歩いた。地下でタイシルクのスカーフを売っていて、手にとった潔いほどきっぱりした黒と白のスカーフに惹かれたが、手術中であったので憚られ、薔薇色のグラディエーションにした。部屋に戻り、待つあいだ どこか間違っていたような気がして考えていた。

 .....わたしは良いところも弱点と思われるところもなにもかもひっくるめて丸ごと受けとめ認めること、それが愛だと思っていた。また、そうしなくては苦しくてならなかったのだと思う。そして、わたし自身もそのように受けとめてほしかった。これがわたし、愛でるところも目を背けたいところもあるでしょう。でも、このわたしだからいくつも峠を越えて遮二無二あなたの後をついてきた。困難と闘って闘って支えてきた。.....だからこのままのわたしを。

 でも、それでいいのか..........愛して....いるということは必ずしもそのまま受けとめることではない。ひとは生きている限り、変わらねばならないのだろう。自分を今のありようで認めたらそこで立ち止まるしかない。闘うべき相手はつねに自身なのだ。

 けれども、自分を凝視し欠点を見据え、鋼のように幾度も幾度も鍛えなおす....それはふつうの人間にできることではない。まず曇っているから見えはしないし、見えたとしてもわが身はやはらかく鍛えなおすのは痛い。だから他者の目が必要なのだ。真に愛する者の目が。

 こうして出会えたのだから、信じられない出あいであったのだから、ふたりして 残された時間 向き合い、磨きあうことができたなら それは成就である。情に曇らせられることなく透徹した目で見、伝えること。真摯に受け止め変わろうと努めること。寄り添うのも夫婦であろうし、足らざるところを補いあうも夫婦であろうが、わたしはもう少し賭けてみたい。

 無事にすんだ。母も駆けつけてくれた。先生が心配していた最悪の事態ではなかったようで、うつ伏せに寝る必要はないとのことだった。視力がどのくらい回復するかわからないが思ったより早く帰れるかもしれない。



八百九十三の昼   2005.8.15   顔

 入院の日、かずみさんもわたしもなんとなくぐずぐずしていた。惣のアパートに家具が届いたというリサちゃんのTELにアパートに向う。会社の畑の野菜を採りにゆく。早めの昼食をとる。12:00に出発する。末娘も連れてゆく。

 旧4号線をとろとろ走り、道中で入院用品を整える。病棟は8Fでナースステーションには顔なじみの方々もいる。去年入院していた反対側のB棟病室に入ったのは3時、今度はTELも使えるA個室を頼んでおいたので、ほとんどホテルのシングルルームだ。てきぱき荷物や道具をかたづけたところで担当の看護師さんがやってくる。生活習慣などを聞かれる。

 信仰をお持ちですかの問いにかずみさんが「いいえ」と答えた。その途端バシっと部屋の電気が切れた。怖かった。明日の手術のために髯を剃った。長年顔の半分を覆っていた髯がなくなり、鏡の向こうに見た顔は、とても懐かしい感じがした。この顔どこかで知っている.....当たり前と思われようが、以前のかずみさんの顔ということではないのだった。口もとにはすこし酷薄なそれでいて妙に物慣れた魅きつけるところがあった。そうか....かずみさんはこういうひとだったのだ。いつも感じる微かな違和感、25年のあいだ連れ添ってなお、なぜこのような選択をし、行動をとるのだろうと腑に落ちないところがストンと落ちた。

 この顔だったら納得できる、そしてこれがかずみさんなら、わたしの答も違ってくる。わたしはかずみさんの我侭にもっと強くノーと言えるだろう。
 わたしの周辺の男はみな我侭である、ときに平気で嘘をついたりする。そのときは嘘をつく気はないのだろうがその場を逃れようとして誓い、けれど行動は起こさないから結果として嘘になる。わたしはそれらを仕方ないと諦め受け入れ見過ごしてきたのだ。

 けれど、もうわたしの時間もないのだ。振り回されるのはいやだ。己にはより厳しく、他者にも厳しくしよう、これからは......妥協はするまい。
 引き止められ引き止められ、自治医大を出たのは七時、4号線を走りながら娘と話した。わたしたちがいるここでは、食べていかなければ生きてゆけないね、なにを食べるの? 動物や植物.....そうね、わたしたちは他のいのちを食らわなければ生きてゆけない。....ここは紛れもなく地獄なの......それだけではない、わたしたちが快適な暮らしをするために、発展途上国のひとたちはどんな暮らしをしている? チョコレートのカカオを採っているのはちいさなこどもたち.....そうね石油のための戦争もある....わたしたちは間接的にひとのいのちも食っている.......それでも生きてゆくのだ では...どうやって...........赤いテールライトを追って暗い道を走る。上り車線を明るいヘッドライトの列、どこまでも続く光の列......はるかそらのうえから見たらさぞ美しかろう。


 家に帰ったのは九時、まりの拵えた夕食は美味しかった。ほんとうに美味しかった。



八百九十ニの昼   2005.8.14   須原屋

 朝から浦和。かずみさんが車で行きたいというので文句をいいつつハンドルをとる。わたしは電車のほうがすき。
 道場に入った瞬間、左目が見えなくなったようだ。
 遅い昼食をグッディーズカフェでとる。須原屋でほんだなで対戦する「コーヒーアンドシガレット」をみつける。惣のアパートへ廻ったらルイがいた!!

 夜、茄子の苗が待っている気がして、さぞ重たかろうと車のライトで会社の畑のトマトと茄子を収穫し、水を撒く。かずみさんが入院したら、こういうことも置き場の犬たちの世話もわたしがするのだろう。

 ほんだなの原稿をintさんに送る。ほっとする。



八百九十一の昼   2005.8.13   鑑定
  
 かずみさんは仕事に行ったがわたしは一日寝ていた。途中で一回おきて、郵便局にチケットをとりに行き、モスでバーガーを買った。抹茶のラテはまり、わたしは抹茶のシェイク。公園のみどりを眺めつついただいた。

 道場は双方の都合でキャンセルとなった。ネットで見つけたこれはという先生から......依頼した社名の鑑定の結果がきたのだが、社名についてはふたつとも最悪とのこと、かずみさんとわたしの鑑定を読んだ。

 わたしの先天運は先祖の血統の良さから来る頭脳明晰、目には見えない位置の高いものを感じられる家系の出である、目には見えないものを良い方にとらえられる独特の性格、ものごとに一生懸命に生きようとするところがある、生まれつきひじょうに神経質な性格のため、そのことが不安定を醸し出す.....とのこと。悪いところはあまり書けないのだろう。かずみさんのは多岐にわたっていた。あのひとのやさしさ、なんともいえないユーモアには触れられてなかったが、仕事へのポリシーとか、金銭より名誉を重んじること、はたから見て目的がよくわからない行動があるとか、雰囲気を大切にしないとかには、ほんとうにそうなので唖然とした。

 生年月日(旧暦)音の響き五行、画数で性格や運勢が決まってしまうなら、日々のちいさな努力はいったいどこへ行くのだろう。

 不思議な判子屋さんのTELも聞いたことではあるし、いわゆる科学的なことでないこと.....に力を得ることまでしても、今度の仕事は成功させたいのである。

  櫻井先生とTELでお話した。懐かしいお声、18日に西荻でお会いすることになった。多紀子さんから暑中見舞いをいただいた。研究セミナーのみんな、元気でいますか? わたしの語りを聞きたいとかいてくださったあなた、わたしも会いたい。みんなに支えられてここにいます。



八百九十の昼   2005.8.12-2  一番長い日

 お店(たな)の女将のように、わたしが一番忙しいのは盆正月休みの前日前夜である。昔ながらの風習のまま、うちの会社では今でいう賞与をその日に渡すのだ。その根拠となる今期の損益はようやくお昼ころできた。Yちゃんのデータではとんとんといったところである。だが去年の12月からみんな頑張っていたので社長と相談して多くはないが社員さんにわたすことができた。みんな期待していなかったようだ。みんなを驚かしたいから暑い二畳のロッカー室で袋詰をした

 それから恒例のアミダ籤、(その日来たひとたちに籤でいただいたお中元などをわける)スペシャルは5000円のキャッシュ...で偶然息子とやはり若い男の子の手にわたった。みんなに「約束したようにみんなが頑張った分はみんなに分配するよ、暮の賞与もこれからの給与も会社にもらうのではなくて、自分たちで稼ぐんだよ.」.と伝えた、....どうやって....段取りを良くして、無駄を省いて、お客さまに笑顔で応対して、いい仕事をして、仲間のことを思いやって......自分たちのことばで、手で、お客さまを掴むのだ。そうして自分の仕事の質を高めることこそ、他人任せではなく、自分の暮らしを豊かにすることにつながってゆく。

 Tと話した。ひとに向けた憤怒は自らの身や心を実は蝕むのだと彼はわかっているだろうか。そのような負の想いは病より質がわるいのだ。許すことで自分が許される、深い闇の底にひとすじのかすかな光。それから休みのあいだの段取り、15日の給与の準備、で終ったのは真夜中だった。ずっとずっとつづく闘いの今日は幕開けといえないこともない。Tとまたも足の指を脱臼したWに気を送る。


八百八十九の昼   2005.8.12   同窓会

 20年以上のあいだに何人の事務員さんがわたしを支えてくれただろう。延べ9人くらいか、もっといたかしら....男性もふたりか三人いたような気がする。そのなかで10年以上手伝ってくれた3人ときのう夜会った。同窓会みたいだった。みんな会社が好きで、社長が好きだった。

 会社にいるとき、去るとき、わたしにも送られるひとにもそれぞれの事情、それぞれの思いがあった。ことばに尽くせぬ歳月があった。けれども、そうしたことを越えて、こうして会って屈託なくおしゃべりができる.それはとてもしあわせなことだ。ひとときでもともにできたのは縁(えにし)があったればこそ、通いあって、温めあって、ときには砥石になって磨きあう宿縁があるからであろう。

 どうか、おたがいに善き縁となるように。それぞれがそれぞれの女としてひととしての悩みをもちよって、すこしはかるくあかるくあたたかくなれるようなつながりを、これからも持てますように。


八百八十八の昼   2005.8.11     このみち

このみちのさきには、  
大きな森があろうよ。
ひとりぼっちの榎よ、
このみちをゆこうよ。

このみちのさきには、
大きな海があろうよ。
蓮池のかえろよ、
このみちをゆこうよ。

このみちのさきには、
大きな都があろうよ。
さびしそうなかかしよ、
このみちを行こうよ。

このみちのさきには、
なにかなにかあろうよ。
みんなでみんなで行こうよ、
このみちをゆこうよ。

 金子みすヾさんの「このみち」のさきにはなにか 待っていてくれたのだろうか。ひとりぼっちの榎は大きな森でなかまに迎えられたのか、ひとりぼっちのかえるは大きな海まで行けたのか、からっぽのかかしは大きな都でぬくもりと充実を得たのか.....たぶんなにもなかったのだ、たぶん榎もかえるもかかしもさびしいまま、ひとりぼっちのまま 風に吹かれ、空白を抱えてゆくのだ。

 そして、それでいいのだろう.....だれもみな真実は寄る辺なく、恃むところなく、明日の在り処もわからない。このみちをひとりでゆくこと、それがわたしたちに赦され、与えられ、恵まれたことなのだ。それぞれのみち、果つる処はおなじだけれど、それぞれがことなるみちをひとりで。ほのかな予兆を感じながら、かすかに 遠くゆく友の気配を感じながら。



八百八十六の昼   2005.8.10   支払日

 たくさん、払った。ゆびさきひとつで多額のお金が動くって不思議だ。豊橋の機械メーカーに送金した。デイケアにいけなかった。阿修羅のように仕事をした。語りたいなぁ.....語れるかしら。こんな夜、わたしはもう語ることなんかできはしないと思ったりする。すこし涙ぐんだりする。自分が可哀そうになるなんて堕ちたものだわ。11日、友人と会う。12日、Tと話す。13日、かずみさんと道場へ。あと、114日。


八百八十五の昼   2005.8.9    修羅

 onna...oni.....女が鬼になるといえば、黒塚、葵の上、紅葉。つつじの娘も月の夜晒しも...まぁ 鬼のようなものだ。女はどのような時、鬼になるか.........裏切られたとき、孤独に追いやられたとき.....もともと女のなかに鬼が潜んでいたのか、忽然と変貌するのか......わたしのなかにもいる......愛するものたちのために闘っていたのに、いつのまにか口は裂け、眼は火のように燃え、ことばは焼き尽くす炎のよう.....間違えば、すべてを台無しにしなにもかも燃やしつくしかねない. わたしの裡の修羅。守ろうとするからそうなるのか.....執着からちいさな濁りが、ガが生じるのか。

 ふくろうではない、花だったんだよ...ガーナーの「ふくろう模様の皿」を思い出す。そう 花だった、いつも花でいたかった。わたしを鬼にしないで。


八百八十四の昼   2005.8.8     やまだないとをさがして

 会社のエアコンの入れ替えと惣の家の電化製品の搬入が重なったので、1時頃わか菜に惣の家を頼んだ。ところがエアコンの設置が終ったのが6時過ぎ、わか菜はたったひとりで取り残されてすこし機嫌が悪かった。会社のエアコンは前の事務所からもってきたので、少なくとも10年になる。古いものをたいせつにと使ってきたが、新しいエアコンは省エネが進み電気代もあまりかからないので そろそろ頃合と思い、買い換えた。どのくらいの電気代になるだろう。

 8/17にほんだなの対戦がある。先手は島崎忍さんのやまだないと・コーヒーアンドシガレット、夏休み特集で漫画である。わたしは後手なのでそのやまだなんとかさんの本を読まないと自分の本が決められない。4店探したがみつからない。萩尾望都さんのアメリカンパイを買って帰った。漫画を馬鹿にしてはいけない。漫画(上等な)は日本の誇るサブカルチャーで、世界中にファンがいる。フランスにもアメリカにも熱狂的なMANGAファンがいて、漫画を読むために日本語を習うひとだってけっこういるのだ。

 ところであれっと思われた方はいるだろうか。そうネタバレになるけれど「弥陀ヶ原心中」の伽耶が愛した学生さんの名は「ほんだな」の島崎さんから借用した。実際の島崎さんにお会いしたことはないが、感性鋭い詩人で 凛々しいまなざしを持った.....方である。

 


八百八十三の昼   2005.8.7     国の名のもとに

 太平洋戦争を終らせるために原爆を已む無く投下した というのがアメリカの大義名分である。だが、それは壮大な人体実験であったという説もある。アメリカは人類がはじめて手にした、天も地も焼き尽くす火・原爆を実際につかってみたくてしかたがなかったのだ。戦後来日したアメリカの調査団は被爆者に治療を施すことはせず、ひたすら検査しデータをとりそのデータを本国に持ち帰った。

 ヒロシマ・ナガサキだけではない。マーシャル群島、ビキニ環礁での実験において、放射能の残留している島へあえて島民を帰した。残留放射能の影響を調査するためと言われている。アメリカ国内においても、ただ骨折したひとや末期癌患者にプルトニウムの注射をしてデータをとり、空中に放射能をわざと撒き散らし、ひとつの町では百人以上の赤ちゃんが奇形で生まれたり亡くなったりした。

 一対一の人間同士では許されないことが国の名のもとに公然と許される。ひとをひととも思わず実験材料にする、「マウスや動物の実験ではわからないから」......なんのために..!?.....兵器の開発のため.....?戦争のため......!?

 こうした実験を指揮した軍部の高官や医師たちは、こどものころ母や父や祖母から昔ばなしを聞いたことがあったのだろうか...。 彼らはここで裁かれなくても、いずれ、自分のしたことの購いはしなくてはならないだろう。そうでなくては、苦しんでなくなったひとたちは浮かばれない。国への忠誠とひととしてすべきこと、してはいけないことは必ずしも合致しない。信仰を持っているならなおのことだ。その宗教を信じないものは無残に苦しめ殺して善しとする神がほんとうの神であろうか。

 過ぎたことを変えることはできない。けれど来るべき明日にむかって、わたしたちはたとえちいさなことでも、善きこと、美しきことのために種を蒔いていかなければ.....言うべきときには断固 ノーと言わなければと思う。 国.....はうつくしいことばだ.....だが国家にはひとりひとりのひとのちいさなよろこび、ちいさなしあわせをいとも簡単に踏みにじる、威圧する響きがある。



八百八十ニの昼   2005.8.6     子守唄

 8月6日8時15分、黙祷を捧げた。昭和20年、あの暑い日からもう60年の歳月が流れた。  わたしは被爆したこどもたちの作文「わたしがちいさかったときに」のなかからひとつの作文をよく語る。その日なくなった9歳くらいの名も知らぬ少女のことばとこの作文を書いた同じ年頃の少女の澄んだまなざしが焼きついて離れないのだ。はじめて読んだのは13.4のことだったか.......そのこどもは死の間際にわたしはもう食べられないからこのお弁当をおばさんのこどもに食べさせてあげて...とその朝母親がこしらえてあげたお弁当を差し出すのだ。そのことが原爆の悲惨さにも増してわたしを打つ。ひととは崇高な存在になり得るのだ、たとえ子どもであってもひとつの魂なのだ、まだ棄てたものではないのだと希望が湧いてくる。

 それからヒロシマの風...のなかから詩を語る。つくられたものより、実際に生きたひとのことばは強い。松谷みよ子さんの現代民話考第六巻の名も知らぬひとのレビューが胸の奥で木霊する。

この本を読んだ私たちがなすべきことは
きっとこの体験を次の世代に語り伝えることなのだろう。

なぜなら、一番強く人の心を揺り動かすのは
優れた学説や立派な演説ではないからだ。

名もない市民一人一人の個人的な体験こそが
人の心と世界をうごかすのだと私は信じたい。

 まだ、語り伝えることがある。ショル兄弟がしたこと、どこかでひっそり語り伝えられている市井の名もないひとの体験。そう、わたしが伝えたいのは戦争の悲惨さ、愚かさだけではない。その場に居合わせたひとたちがどのように苦しみ、泣き、そして乗り越えていったか、生き、そして死んでいったかなのだ。彼らのかわりにわたしは語りたい、それはもしかしたらすこし先のわたしたちの闘いと重なるかもしれぬ。過去のひとたちの代わりに語ることはこれから生まれてくる子のためにでもあるのだ。

 昼すぎからルイの子守り、よく笑う子だ、どんな夢を見ているのか、眠りながらくっくとわらっている。ミルクを飲むとまた寝る。抱っこしてねんねこねんねこと子守唄をうたうとすぐ眠ってしまう。赤子を抱いていると自然とことばはゆったりして少し低くなる。

 ルイ、ルイ、よく生まれてきてくれたね....愛しているよ....大好きだよ.....きてくれてうれしいよ


八百八十一の昼   2005.8.5     アパートにて

 惣たちがくらすアパートの一室でエアコンの取り付け業者が来るのを待つ。がらんどうの部屋は音響がよいので、わたしのディアドラを語ってみた。そのうちうとうと眠りこんでしまった。窓ガラスの向こうに公園が見える。前の棟の住人か子どもを連れたおかあさんが会釈する。

 明日はりさちゃんがルイを連れて細かな必需品の買い物に来る。外から見通しなのでカーテンをかけなければと思った。天井を見るとライトもない。そこで電気屋その他へ走った。とりあえずこれはと思うものを買い整えて、夜九時ころからかけたりつけたりしているうちに仕事が終った惣もきたがカーテンの色とかが気に入らない.....そこで夫婦喧嘩ならぬ親子喧嘩。

 気持ちのすれ違いなのだが、疲れていて冷静に話が進められなかった。そうね、よかれと思ってするのだが、手をだしすぎないほうがよいのかもしれない。早く三人で生活できるよう....にしあわせになってほしいと願う気持ちがわたしを焦らせているのかもしれない。親の心子知らず、子の心親知らずというけれど、親から子には片思いのようなものだ。わたしもいまだに母の気持ちがほんとうにはわからず、なんでもしてもらってあたりまえのような顔をしているのだろう。

 うちの会社でつくる炭の引き合いが商社からきた。質がよいので年間1200T用意してくれという。機械の代理店もする予定だが、機械についても引き合いがきた。すこし ほっとした。

 現実に塗れて暮らしていると、そそけ立ち、煤けて しだいに汚れてくるような気がしてならない。薄明の永久(とわ)は遠い。


八百八十の昼   2005.8.4   あと120日

 健康診断を受けたのは20名、わたしはあとで商工会ので受けることにして10時前カタリカタリに急いだ。臨時のおはなし会に集まったのは6名、今後の打ち合わせをしたり簡単なエクササイズをしてからおはなしが始まった。前回とおなじおはなしをするひともいれば新しいお話を持ってきたひともいる。今日はHさんの赤ん坊お化けが秀逸、怖かった!!わたしはしばらく語っていなかった月の夜晒しを語った。

 午後、すぐ青葉のデイケア、みなさんが拍手で迎えてくださった。演劇のエクササイズをとりいれていっしょに遊んだ。みんな笑ったこと、笑ったこと。爆笑の渦のあと「先生、笑いすぎてさっきごはん食べたばっかりなのにおなかすいちゃったよ」....それからわたしが昔、むかしではじめてまるくなっておはなしのリレーをした。....廻るかなとちょっと心配だったが、おじいさんんがあの世にいったり帰ってきたり、桃太郎がでてきたり.、笑いころげながらおはなしは進み、なんとかまとまった。

 おばあさんたちのパワーはすごい!このデイケアは13.4人で規模は大きいほう、個性のつよいひともいるがよくまとまっている。孫のことでぐちをこぼすと、「先生、息子は嫁をもらったらもうおしまいだよ、お嫁さんにまかせてさ、あんまり考えないほうがいいよ」「先生はおおらかだから、なにも心配なんかないと思ってた」などとなぐさめてくれる。このごろはこどもたちのところへ行くとは違った意味でたくさん贈り物をいただいて帰る。拍手で迎えられ、拍手で送られる......語り手になって、しあわせだなってかみしめる午後。



八百七十九の昼   2005.8.3   朝な、夕な

 なぜかわからないが切迫した気分、配車のトラブルが二件あったが午後には解決、午後道場に向う。いつものように大宮駅のコンコースを脱兎のように(と自分では思っている)駆け抜け上野行きに乗る。これでギリギリ3時に入れる。45分発新宿行きでから45分発上野行きに乗り換えるから常識では無理だが、最近二回はセーフ、ちょっとした勝利感を味わう。

 Tのことが気がかりだ。17日間の休みのあと出社したTは憔悴しきっていた。面にすさんだ気配も漂っていて手も出されるのを拒んでいる感じもあって、どうしてやったらいいかわからない。自分で折り合いをつけて乗り越えてゆくしかないのだが、もっとも愛しそのために生きてきたものをすべて失ったのだから、時間はかかるだろう。

 どうにもならないことじゃあない、一生懸命考えて努力すれば、すこしずつは変われる、変えていけると信じてここまできた。けれど、どうしたらいいかわからないこともやっぱりあって深い淵の前に立ちすくむばかり....それでも朝な夕な祈ることはできる、ひとはそうして己がいのちとのぞみ、ひとのいのちとのぞみをつないできたのだ。

 明日は健康診断、カタリカタリ、デイケア、連絡会。
考えてみれば みな祈りのようなものだ。健やかであるように、ことばをつむぎ思いを温めあっていけるように。年老いても、楽しく元気に生きてゆけるように、会社の繁栄がひとりひとりの幸福につながってゆくように、あしたがあるように.....。


八百七十八の昼   2005.8.2   新4号線にて

 今日は6時に会社に行った。錦糸町の現場に行くひとたちに廃材の処理代をわたすためだ。ダンプ一台34000円、そういうお金は現金と相場が決まっているので、週によっては6、7台処理するをするからお金の受け渡しがたいへんである。

 書式をいくつかつくる。一昨日からはじめて慣れてきたのかワードの表が手早くできる。わたしはエクセルより、ワードでつくるほうがニュアンスがあって好きである。銀行に行く、ついでに郵便局でチケットの振込みをしたが、窓口の手際があまりよくない(ように見える)のでたいそう時間がかかっていらいらした。30分は貴重な時間である。

 かずみさんを自治医大付属病院に送ってゆく。途中新4号で気分がわるくなって、運転をつづけるのが怖かった。ふわっとからだも心も飛んでしまいそうになる。息が苦しくなる。手足が冷たくなる。冷や汗が滲む。なんとか着いて治療のあと手術の説明があった。

 帰り、運転を続けられなくなって、新4号を下り、すこし休んでから、下の4号線でゆっくり帰った。こんなことははじめてである。きのう惣の新しい住まいのためにエアコンや冷蔵庫、テレビなどを買った。そのとき、計った体脂肪が34.5%、実質年齢66歳というありさまだった。重すぎて心臓に負担がかかっているのかもしれないし、すこし無理をしたのかもしれない。若い頃のように無鉄砲はできないよというからだのSOSなのだろう。



八百七十七の昼   2005.8.1   飢餓

 わたしの胸の奥底に小さな餓えた獣がいる。なにかほしくて、なにかほしくて いつも探している。いたいけな赤子を抱いたとき、焦がれるような熱い焦燥は鎮まる。だれかにとてもたいせつにされていたと悟ったとき、火のような吐息は青い深い海に溶ける。ひとのために尽くせたとき、小さな獣は蹲って眠りにつく。語りや芝居で天から降り注ぐ細い金色の糸で聞き手と結ばれたとき、わたしは....わたしは.......

  生きている限り、この餓えと渇きはわたしの身の内にあって、わたしを苛むのだろう。これを抱え、悶えを鎮めてゆくことが証なのかも知れぬ。今宵は埋み火が、熱くて熱くて 青い透き通った氷の海を、空気も希薄な冷たい薄青の空の果てをわたしは夢見る。


八百七十六の昼   2005.7.31   お宮参り

 鷲宮神社は今日祭礼があるらしい。いつもは閑散とした参道も御手洗(みたらい)も賑わしい。 俯いた若い父の、神社の森に染まりうっすら緑色を帯びた翳が、抱いた赤子の額のうえに落ちている。ルイはひとまわり大きく重くなった。緋の袴のうら若い巫女が魂振りの鈴を手に舞う。浅黄の袴の祭主が横笛を吹く。榊を捧げてお宮参りは終った。

 そのあとの会食で、いつから一緒に住むか話しあったがはっきりしたことは決まらなかった。いつまでも手元におきたい気持ちはわたしも同じだが、それでふたりのためになるのだろうか?免許をとってからとなれば、2ヶ月以上はかかる。明日から準備をととのえようと思う。息子とは仕事のことをで話し合った。給料が安いか高いかではなく、ただ働くのではなくどうすればより無駄を省き利益を生み出せるか考えて仕事をする気持ち、意欲で自分がお金を稼ぎ出すのだと話した。

 長男のこと、次男のこと、娘たちのこと、正真正銘の独り立ちをさせるのはなんてたいへんなことだろう。

 エリザベートのチケットをネットで探す。仕事だけでは生きていけない。会計事務所の又さんのお見舞いに言ったとき「奥さんはスタッフではなく、キャストだから会社のなかで奥さんの力をより引き出せる仕事をしたほうがいい。」そう、言われた。わたしはスタッフとしてみなの力を引き出したいのだけれど、まだ自分を棄てきれない。仕事は仕事で縁の下に徹しきればいい。けれども語りたい、芝居がしたい。ステージに立ちたい。

 冬に小さな場所でいいからライブを企画しよう。それが仕事のうえでもわたしの背中を押してくれるだろう。







八百七十六の昼   2005.7.30  冬の花火

 朝、保険会社のNさんが手伝いにきてくれたので根性入れて事務所のそうじをはじめた。わたしは外にまわりフェンスの下の草むしりをしてチャッチャと竹箒で掃く。汗がしたたる。気持ちがいいほど暑い。自販機を置いたので空き缶や吸殻が散らばっている。最後まで抵抗したが、建築の仕事をとるためにかずみさんに押し切られてしまったのだ。自販機があって便利なこともあるが、決して環境にいいものではない。

 空き缶入れに煙草の吸殻や空き箱まで入っているのを見ると、ことばもない。♪いったい、なにを 教わってきたの?あたしだって、あたしだって、つかれるわ♪である。駐車場をそうじして、つぎにトイレ、トイレ用洗剤が切れたので手間なしブライトを使ったら汚れの落ちること、落ちること、いい汗をかいた。

 書式をいくつかつくり、炭化したチップと炭の試作品を豊橋に送り、近藤先生と関連の話をした。それから営業のYさんとひさびさにバトルをし、憤懣やるかたなく栗橋線を走行しながら怒鳴ったり叫んだりした。知らないひとが見たらこわいだろうなぁ。病院に会計事務所の又さんを見舞い、会社の状況についてお茶を飲みながらコーナーで話しあった。

 途中、入院患者の方の飛び入りがあった。三菱のエレベーターの開発に携わった方だった。残業を重ねパソコンの画面を覗き込んで40年、目が見えなくなって労災の認定を受けられそうだという。それでも仕事をしたい、仕事ができるということはしあわせなことだという。

 外に出ると、正面の夜空いっぱいに花火。もっとも美しい見ごたえのある花火は夏ではなく、花火職人が腕を競う冬の、それも雪まだ解けやらぬ酒田の花火だという さきほどの方のことばを思い出しながら、青の黄の赤や緑の一瞬に消え去る火の花を眺めていた。



八百七十五の昼   2005.7.29  行脚

 月末の支払いがトントンと済む。Fさんの協力のお蔭である。一昨日のお礼のメールを2.3送り、いくつか手配をする。三時に出発し、P病院に向かう。Aさんの息子さんが同じ喘息で入院しているのだ。 15にしては華奢なからだつき、あどけなさと生への懐疑が混在している白い顔、その顔に似ても似つかぬと思っていた父親のおもかげを見てわたしはたじろいだ。血縁は争えないものだ。

 起き上がった少年と四方山話をしたあとさっそく気を送る。眠るまいとしているR君に眠っていいんだよと声をかける。ほかほか温かくなって眠たくなるのだ。顔の色も薄紅いろを刷いたように美しい。またくるね..と言い置いて切迫流産のMさんの奥さんを見舞う。2歳のI ちゃんがうれしくてすりよってくる。すっかりおばあちゃんの気分になって可愛くてしかたがない。なにかして喜ばせようと思うのだが。こういう時には浮かんでこない。奥さんに心配ないよ、手伝えることがあったらなんでも言ってねと声をかけ、おなかの赤ちゃんにもゆっくりしておいで、急いではだめよ....と声をかける。

 プラントにまわり、その足で別の社員Tさんの家に向う。ぐるぐる二時間近くかかってようやく新興住宅地の一角に見つけたが、誰もいない。エントランスには陶製の犬がWELCOMEの札を首からさげて少しかなしげに座っている。庭には家族で敷き並べたのか二色のタイルが碁盤のように敷いてある。ひとの営みの匂いのない整然とした佇まいだ。20分ほど待って家に帰った。幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭の相はそれぞれ違う....というトルストイのことばを思い出す。そうだろうか....不幸な家庭も似通っているところがある。こころが通いあわなくなる、それが最大の不幸なのだ。家族が自分よりたいせつなものでなくなるのだ。

 しあわせになりたくてひとはあたふたと駆け回る。金を稼いでいい暮らしをしたい、ひとから大切にされたい、いっぱしの人間と思われたい、美しくなりたい、いい学校に行きたい、役者になりたい、ミュージシャンになりたい、楽して暮らしたい。しかし....とこの年になってわたしは思う。お金がないのも夢が朽ちてゆくのも諍いのもとになる満ちたりて暮らし続けることはむつかしい。生きることは苦であるから.......。それでもしあわせになるいちばんの近道はひとを満たそうとすることではないだろうか.....

 語りでその場を温めたり、職場でそのひとが楽しく甲斐を持って働けるよう気配りする、心配したり悩んだりしているひとの話を聞いてあげる、ひとが伸びてゆく手伝いをする、おたがいにそうできたら どんなにいいだろう、誤解なくこころを開いて話し合って助け合って暮らせたら、もうそこは天国に近いところだと思う。

 



八百七十四の昼   2005.7.28  胸のうち

 朝から板倉の工場に行く。Fさんがナビをしてくれたので、はじめて迷わずについた、一本道、一面の緑のなかに四角い工場が見えたとき、なぜか待っていてくれたような気がした。三回目の今日は手に響くものもやわらいで痛みもなくなっている。機械設置、、火入れ式まで掃除もかねて、あと二度は足を運びたい。

 Fさんが明け方会計事務所の担当Mさんの夢を二度見たというので見舞いに行こうと思っていたのに果たせなかった。仕事が急に動き出して引き合いが多く、TELの応答がHさんひとりでは無理だったからである。今月は土木を除いての売り上げが終盤になっても650というていたらくでこんなのは前代未聞である。急に忙しくなったのは盆前の工事が始まったので一時の忙しさだが、忙しいときはどこも同じで外注を頼もうにも、外注さんも忙しい。当分、配車に頭を抱える日がつづく。それでも仕事がないよりはいい。

 にもかかわらず来月10日の支払い予定を見て驚いた。1800万?嘘でしょう??チェックしてあるから間違いのない数字であろうが、参った。連絡会でなんのために働くか、聞いてみた。社会のため、自分のため、家族のため、おまんまを食うため........わたしも社会のため、これからつづく子どもたちのためという思い、社員のためという思いでやっているが、金が足りないとそんなことは言ってはいられないのだ。それぞれの部門が自分の役割をきっちり果たさないと会社は成り立たない。仕事がないからでは済まないのだ。

 その日の日報を入力し、利益が出たか出ないか、なぜそうなるのか確認しているかという問いに対して、ほとんどのひとは見ることは見ているが分析はしていない。月の途中で目標と照らし合わせているひとは皆無である。土木、建築はサイトが長いのにもかかわらず、確認をしているのはひとりだけ、これではせっかくのシステムも宝の持ち腐れである。一月後にもう一度確認することにした。

 今日 Hさんと書類の整理のことで気まずいシーンがあった。工事NOごとに注文書、請け書の整理をきちんとしてくれているのだが、受注報告が見つけずらいので別に綴じてほしいと頼んだら、いい顔をしなかった。それでは責任が果たせないという。なんのために仕事をしているのか?書類整理のため、美しいファイルのため、美しい書類のためではないのだ。語りだってそうでしょう?美しい発音を聞かせるため、自分がどれだけ話を知っているか見せるためではない。

 仕事をみながしやすいように、より利益がでるように、それによってみなが豊かにしあわせになるように、一切はそこにある、TELの応対、整理、書類の整理...安全対策...なにもかもがそこに帰結する。ときどきわたしは仕事の海のなかに溺れる、迷う。ひとの気持ちがわからなくなって.....


八百七十三の昼   2005.7.27  豊橋にて

 朝 かずみさんと新幹線で豊橋へ....雲ひとつない真っ青な空。11時には豊橋に着く。そうだ、すみれちゃんの住む安城市はすぐそばだったとひとりごつ。安城市の産業文化センターで「おさだ叔母ちゃん」を語らせていただいたときだった、はじめてネット友だちのスミレちゃんと夫君にお会いしたのは。あれからもう二年になる。

 タクシーで20坪ほどの町工場につく。シャッターに有機ゴミの完全肥料化と大書してある。昭和初期を思わせるような古いビルの狭い急な石の階段を上がってゆくと三階に事務所がある。N先生の紹介でこちらへ機械の製作を依頼し、話を煮詰めにきたのだが、こちらは、有機ゴミ、製紙工場から出る製紙カス、鶏糞、ありとあらゆる不要のゴミを有価物にかえる煉金術師の巣窟のようなものだ。しかし炭をつくって成功した会社は聞いたことがないそうで、知ってはいたが、いささか滅入った。

 かずみさんは湿った話もどこ吹く風で、この徹底した楽観主義がうらやましくもあるが、双方楽観主義者では失速して墜落してしまうのが落ちだから、損な役回りと思うが、最悪の場面も考え、できるかぎりの手を打つのがわたしの持ち場なのだ。

 社長と後から見えた乾燥機会社の方の話をつぶさに聞くにつけ、トヨタや日立造船やその他の名だたるトップ企業の下で日本経済を支え、技術立国の日本礎になったのは、こうした町工場なのだという思いを新たにした。人間の顔をしている....三人の社長の顔を見てそんなことを思った。

 会社には4時過ぎに戻った。労災の件で打ち合わせ、来客、社員さんたちとそれぞれ打ちあわせ、こうして明け方の3時ようやっと日記も追いついてほっとしておやすみ。



八百七十ニの昼   2005.7.26  居る場所

 ふたたび戦場へ。七時半に会社について、現場災害の電話連絡、溜まった伝票の処理、TELの応対、入金出金、津波のように押寄せる仕事をかたづけながら、ここがわたしの居る場所だと喜びと切なさが入り混じったような気持ちで思う。Aさんを道場に誘い、その足で銀行に向かい、そのまま駅から電車で医大付属病院に行く。

 この病院にはずいぶんと通ったものだ。そのときの痛みや思い出がこみ上げると思いきや、こころは静かで、すでに通り過ぎたのだと感傷もなく思った。東棟でCさんの病室を見つけた。わたしよりふたつ上のCさんから事故の状況や境遇などをうかがう。病状は左半身の打撲、肘の手術、尾てい骨にひびが入りボルトで固定してあるとのことだ。そばを走っている血管が切れていたらもうここにはいなかっただろうと医師の話に間一髪だったのだと胸を撫で下ろす。

 Cさんの生家は樺太で手広く商売をしていたという。おかあさんは樺太から宝塚歌劇を観に通ったというから相当の店構えであったのだろう。それがロシアに追われて、財産をなげうって命からがら函館に逃げたのだ。9人兄弟のうち姉さんたちは嫁して函館周辺に在住という。Cさんに気を送っていたところ、尾てい骨のあたりでゾクゾクっと寒気がし、心臓がパクパクして呼吸困難になった。Cさんを見るとCさんの顔もさっきの血色とは打って変わって真っ白になって驚愕が浮かんでいる、心中あわてた。あれはなんだったのだろう。Cさんに病院用のスリッパを買って今日はその場を辞した。

 駅ビルRでエジプトパンツと手織り木綿のブラウス、二度染めした深い赤のバティックのスカートを衝動買いする。ショックを整理してから帰らなくてはという理由のもとにゼリーインラテを手に呆然とジャズを聴いていた。ラテは甘く冷たくわたしを覚醒させる。



八百七十一の昼   2005.7.25  うすむらさき

 朝、霧が立ちこめている、台風が近いらしい。志賀高原をはずしてタングラム斑尾に向った。花の盛りのラベンダーを摘もうというのだが、そのまえにパターゴルフをしようと増田さんが言い出して、またもいやいやながら緑あざやかな芝生の上に立った。だが、3人ずつのチームで増田さん、惣、わたしの組になり、1番ホール、2番ホールと進むうちにバンカーに入れば入ったでおもしろくて 18ホール1ラウンドがアッという間に終ってしまった。記念に18ホールをともにしたカラーボールをキーホルダにしてもらった。
 昼食は須坂の墨坂神社そば、割烹 能登忠でいただいた。明治15年創業の老舗である。増田さんお勧めの店だけあって、料理の美しさ、美味しさを堪能したが、それより心を惹かれたのはうすむらさきの和服の女将のもてなしと佇まいだった。賢さ、たおやかさ、凛とした風情、気配り...同性ながら いやそれゆえに惚れ惚れするする実にいい女だった。あとでかんがえれば、そのおくにあるあやうさがあってその細いひとすじのゆらめきにこころを打たれたのかもしれない。

 こうして、二泊三日の旅は終ったのだが、この旅が森家にとってなにかの終わりだったのか、それともはじまりであったのかは、時が過ぎてみなければわかるまい。けれど少なくとも、それぞれにとって記憶に留まるシーンやことば、家族といういとしさとうとましさの混在した強く、離れがたい絆と自分のありようを確認する旅であったのではないか思う。


八百七十の昼   2005.7.24   戸隠・野尻湖にて

 ゆっくり食事をとり、増田さんの運転するハイエースで向ったのは戸隠神社、この旅行は増田さんがいなければ実現しなかっただろう。旅行の日程つくりと手配は忍耐と緻密さが必要なので、わたしがするときはたいてい前日のネット検索で出たとこ勝負、運任せになる。かずみさんが運転できないから旅行会社をしている増田さんが損得なしで引き受けてくれたのはほんとうに助かった。

 戸隠神社に参拝する。かずみさんは見上げるばかりの階段を上れないので下で待つ。わたしもまたわき道を辿る。戸隠はガールスカウトの国際キャンプ場があって、今から40年前いくつかの夏、忘れがたい思い出がある。ルビーのように呼吸する営火のあとの埋み火、懐かしい岸野リーダーの日焼けした笑顔、高原の澄み切った朝の大気、流れる雲、白樺の木立、露をむすんだ牛乳瓶、雨の夜の悲惨な側溝堀り......

 子どもたちは忍者屋敷であそび、熟年組は竹細工をためつすがめつしたり、軒先の緋毛氈に座ってくつろいだ。昼食の蕎麦は名店うづら屋が行列だったので、仁王門という店でいただいた。蕎麦ソフトクリームと聞いて。わさびソフトのような際物かと思ったが賞味したら蕎麦の実の香ばしさがナッツのようでこれはヒットだった。

 野尻湖でボートに乗るなんてわたしなら考えもしなかったが、子どもたちは大乗り気でスワンのボートに息子ふたり、娘ふたりで乗り込んだ。岸辺のベンチでかずみさんと風に吹かれて見物しようとしたら、増田さんが手漕ぎのボートに誘ってくれたので、ほんとうは気が進まなかったが断りきれずに乗ることになった。ボートの縁に掴まって、コチコチになっていたのは昔、バリのピーターパンで読んだ「水の中を通って、天国に行くことはできないというインディアンの言い伝え」が強く心に刻みこまれていたからかも知れない。

 湖の中央にある弁天島に近づく頃にようやくなれて子どもたちの漕ぐスワンボートの賑やかな声に思わずシャッターを切る。まりや惣があんなに楽しそうに我を忘れてはしゃいでいるのを見るのはひさしぶりのことだ。二艘のボートはぶつかったり離れたりしながら岸についた。それから円盤を相手のポケットに入れる卓球みたいなゲームをした。息子たちには到底かなわず、かずみさんと対戦したら目が不自由なかずみさんに勝ってしまって切なかった。

 帰り 曇り空に束の間陽が射し、黒姫山を仰いでクローバの野に寝転んだ。ねじり草が風に揺れている。
 青草、青空、吹く風、声の届くところに愛するひとたちが屈託なく笑っている、これがわたしの一等しあわせな時だ。

 夜、かずみさんの希望でカラオケも入れてもらった。ご馳走は前夜に増して美味しかった。揚げ物は脱皮したばかりの殻のやわらかい小蟹、焼き物は穴子、刺身は新鮮な烏賊、トロ、コリコリ歯ごたえのある天然ハマチ、ヒラメ。吸い物はタイのすり身のつみれ、漬け焼きした風味ある一口ステーキ、酢のもの、煮物、水菓子はメロン、歌って食べて夜は更けてゆく。

 かずみさんの背を流し、子どもたちとゲームに興じるしあわせな夜、知力、体力では息子たちに到底かなわないと悟った今日、この子たちは磨けばやるだけのことはすると信じられた夜。わたしたちは力のかぎり、残された時間のなかで子どもたちを見守ろう。わたしたちが今持っているのは経験に裏打ちされた人を見る目、状況判断、いざという時の胆力、しかし時とともに視力も聴力も判断力も衰えよう。まだ間に合う、育てて託して、人生の意味と歓びを伝えよう。




八百七十の昼   2005.7.23   赤倉へ

 朝 早く目覚めた。次男の巣立ちを前にして今日は家族6人で旅行に行くのである。子どもは思春期にさしかかると家族旅行に行くよりは友人と過ごすことを好むから、最後に一家総出で旅をしたのはもう思い出せないくらい昔のことだった。

 次男は出発時間に起きてきてシャワーを浴びるは、カギが見つからないので長男が窓から出るは、増田さんが迎えに来てから30分たって9時に出発した。出掛けに先週おはなし会に呼んでくれたIさんからお菓子が届いた。弥陀ヶ原心中のことで手紙や電話など反響が高かったのだという。うれしかったが、その途端ふたつしかない伽耶の台詞の最後の方を丸ごと抜かしていたことに気がついた。....感じるというのはものがたり全体から立ち昇るものからくるのかしら...重要な台詞や地の文をずいぶんと抜かしてしまったのに聞いてくださった方に通じるのは、そういうことなのだろうかと思った。

 ペットホテルが満杯だったので、ケヴィンは連れてきたものの、繋いだままのテリーのことは決まっていないし そのことで非難の応酬があったりして硬い雰囲気のまましばらくはみな口も利かなかった。わたしにしても会社の印鑑や小切手帳など置いてきてしまったことに気づき気もそぞろ、当座と普通預金 に万一なにかあったらアウトである。庄司さんと母に連絡がとれ、テリーのことを託し、母が家の鍵を持っていたのでようやく安心した。PAで朝食をとって満ちたりた車内は俄然賑やかになった。

 善光寺に着いたのは昼近く、門前のレトロな五明館で名物のオムレツをいただく。もとは二百年つづいた老舗旅館のことはありとても雰囲気のあるレストランだった。それから参道をぶらぶらしてギャルリー蓮でキララの万華鏡を見たり、桃を買ったり小粒の模倣真珠のお数珠を買ったりした。長男は般若心経の手ぬぐいを買って煩悩と闘うという。ちなみに彼は日ごろ白いタオルを被っていて、このあたりのゲーム愛好オタクからタオルと恐れられているのだ。かずみさんは門前でケヴィンとベンチに座って待っていた。門前を流れる流水に煙草の吸殻をポンというかずみさんの悪業のせいというわけでもないだろうが、わたしの携帯が鳴ったのは現場事故の知らせだった。

 遠く離れているので打ち手もなく 指示をし、労務事務所や保険代理店にTELをして 旅を続ける。夕刻赤倉温泉の旅館に着く。赤倉温泉は新潟県妙高高原にあって循環しない、加水しない、加熱しない、塩素消毒をしない今は少なくなった源泉100%のかけ流し温泉である。尾崎紅葉、岡倉天心などに愛され日本一の温泉と言わしめたが、今は盛ってはいないようだ。温泉に求めるものが設備だのなんだの多様になったためであろうか。男女別れてふたつの部屋に落ち着くがすぐに息子たちもやってきてウノだのトランプだのに興じる。おかあさん 昔はもっと切れたのにねという慰めのことばを頂戴するほど、階級闘争では息子たちには歯が立たなかった。後半盛り返したが、十回勝負して1.2回勝つのがやっとだろう。悔しさもなく、すこしばかりうれしくさえあった。

 夕食は別室で会席料理。もうなにをいただいたか忘れてしまった。とうがんとつくねを炊いた椀や日本海が近いのでお刺身も美味しかった。少しのビールで息子たちは酔ったようだ。すこしばかり強張った雰囲気もアルコールと増田さんのユーモアで解きほぐれ、幼い頃の思い出話に走馬灯のように過ぎし日々が甦る、あんなこともあった、こんなこともあった、幼かりし子どもたちが彷彿と浮かんでは消える。隣に座るかずみさんの目を瞑っているようすが、急に年老いて見え胸がつまる。

 あなたはいつだってあんなに精力的だった、触れれば火花が散るようだった、いつもは静かだが怒ると烈火のようになり、子どもにも手を出した。ときには子どものようだった。いいえ、いつだってあなたは夢を追う子どもだった。そんなあなたが少し背を丸め、目を細め、しわだらけの顔で笑っている。はじめて12平方mの事務所を構え、お客さまから工事依頼のTELを待ちかねた春、しだいに顧客も増えて子どもを背負って集金に歩いた冬、ひとに騙され借金取りから逃れてディズニーランドへ出かけた夏、マンションで息を殺していた日もあったし、借金をかえし終えたすがすがしい日もあった。

 25年のあいだに子どもと会社を育て、わたしたちは年をとった。けれどまだすることがある。子どもが巣立ってゆくのを見届け、新しい事業を立ち上げ、託す後継を育てなければならない。この旅はそのための大切な一歩になるのだと思った。




八百六十九の昼   2005.7.22  ワークショップ

 母子手帳が見つかった! 住民票のことで母子手帳に書いてあるTEL番号を見てリサちゃんのお家にTELしたときそのまま電話台の引きだしにしまったらしい。リサちゃんからTELがきて青くなって探しているわたしを見て、同じように血をひいて絶望的におっちょこちょいのわか菜がわたしの行動パターンから推理してくれたのだ。

 朝 一ヶ月検診にきたリサちゃんにアパートのカギと一緒に渡すことができてほっとした。もう二度とあづかるまいと思った。ルイは大きくなっていた。生まれたばかりの赤ちゃんにはこの世ならぬものがあるものだが
ほっぺもふっくらしてきたし人間のかおになってきた。抱っこしたり写真をとったりした。

 大臣登録のことなどでばたばたし、判子屋さん、銀行についたのは二時過ぎ.....弟が少し恥ずかしげに笑いながら手を振る。今、アルファなんとかという互助会の営業をしていると聞いたので「入ってあげる」と義妹に声をかけ銀行で待ち合わせたのだ。一年前、自分から会社を辞めたあと、気持ちのやり場がないのか わたしに敵対意識を持っているとしか思えない言動をしていたのがうそのようだった。

 吹っ切れたのか屈託なく笑う横顔を見ると、30過ぎにしか見えなかった若々しい風貌がすこし老けて相応の顔になったなと弟の長かったであろう一年を思った。ふと気がつくと明日は父の命日、おとうさん あの世からなにか魔法をかけでもなさったのですか?

 家に戻り、娘ふたりと買い物にでかける。明日からでかけるので、服や靴が必要になったのだ。長女は自分からこれがほしいという娘ではないので、わたしの方から声をかける。どうか花ひらいてしあわせになってほしいと祈るように思う。

 それから西荻へ.....
 朱雀門 若き公卿、長谷雄が絶世の美女 渚に心を奪われるシーンから....壌さんは槇村さんと若い役者さんをつかってそのシーンを再現する、すなわちテキストから入らないようにイメージを視覚化する.....かなり強引だが、たしかにイメージはカタチになる。このイメージを紡ぎだす能力こそは語り手、朗読者、役者にとってもっとも大切な力なのではあるまいか。とっかかりとしてはよいけれど、そのイメージは別の意味で狭い枠に閉じこめられたものになりはすまいか.....

 今回のワークショップではじめて声を出した。黙って聞いていた壌さんがわかった!と言った。腹式で倍音が使えていないのではということのようだった.....わたしが遅れてくる前にそのレッスンをしたらしい。もう一度聞いて使えてはいるんだね...と言ったあと、声のワークショップを受けるようにとのこと。ほかのひとのようなダメだしとか一言とかなくて、すこし気落ちした。わたしはベルカントと倍音を併用しているようだ。倍音は安定しすぎて揺れが少ない、不安定さも必要な時があるように思う。

 壌さんにお詫びといくつかお願いする。明日から出られなくなったのだ。わたしは壌さんが好きだ、されどこの微かな違和感はなんだろう、語りは朗読ではない、しかしひとり芝居でもない。演劇人はよく視覚化というけれど、視覚化とはある種 遠回りだと思う。視覚化でひとつひとつ固めていってれんがを積むように構築するのか、こちらからすーっとそのものがたり、その人間に一体化する、そこで生きてしまうのとどちらが早い!?わたしは細かいところに掴まるとそれに気をとられて、ものがたりに潜む呪術的な力が削がれてしまうような気がしてならない。

 流麗な美しい語りが聞きたい?わたしには時にそれはかっちり線引きされた計算された語りに聞こえるのだが...... 書割のなかの地平線、沈む陽、楼閣.......
それは魂に響くものになり得るのか?

 帰り 電車を乗り過ごしてしまった。


八百六十八の昼   2005.7.21  カタリカタリ

 今日は怖いおはなし会........子どもたちも来た!最初にゲームで見えないボールとことばのやりとりで子どももおかあさんも楽しく湧いた。それからSさんのミスターフォックス、Hさんの三枚のお札むじなバージョン、Uさんのしっとり聞かせたやまんばと娘、SSさんの恐怖の味噌汁は創作・どんでん返しに大笑い!!わたしのホントにあったこわ〜い話、 Oさんのほんとにあったお化け話、Jさんのまくらの話は創作...いつもながら天性の語り口と間、最初なにが起こるかドキドキして最後は大笑い。Gさんの鳥取の枕のはなし「あにさん、寒かろう」の哀切、Mさんのおばけの手袋人形、Kさんの実際にあった冥土に行きそびれた話。

 まさにモノ語りだった。見えないものを紡ぎだす語り、そのなかで、恐怖とか笑いを呼び起こすのが意外性だとみんなは理解しただろうか?自分で話の先をわかっていても、それを読まないで今を生きる、今だけを掴んで語る....聞き手と一緒に.....その意味がわかっただろうか?やっぱり実話や創作には勝てないねの声につくりもののおはなしに命を吹き込むのは語り手自身だよと話した。よし、次回が勝負! 今度はわたしも実話でないお話で挑戦しよう。

 それにしてもみんなすごいなぁ。朝顔みたいにぐんぐん伸びてさまざまな色の花を咲かせている。会も終って立ち去りがたく、だれともなく8/4に急遽、夏のおはなし会を開くことに決まった。少なくともわたしは十数名のひとをおはなし好きにしたのだ、そのかたたちの生きる楽しみをふやしたのだとうれしかった。

 午後、家で大事件勃発....収束して会社に向ったのが4時過ぎで、ワークショップはあきらめた。なにか違う感じ...ひとことでいうと美しいつくりものの感じがするのでさほど惜しくはなかった。夜電話で友と二時間語り、そのあと娘たちと語り合い、とにかくよく語った一日だった。





八百六十七の昼   2005.7.20   板倉へ・ワークショップ

 朝、モデリングの方と面談、IP電話についていろいろ聞いた。銀行に行ったあと、Fさんと板倉の工場に向う。地図を見てもよくわからないので途中プラントに寄って熊ちゃんに場所を聞いた。熊ちゃんはプラント長、60を過ぎているが、とにかくからだが軽くよく働くし営業までしてくる、ガールフレンドもひとりじゃないらしい。プラントで I 君とユンボでチップの片付けをしていた。木の香りが漂っている。

 125号から354号へ、北川辺から間違って古河のほうへ行ってしまった。利根川をまた渡って、川沿いの道を北上、藤岡市内にはいったが、ここで間違えてしまい、TELでかずみさんに場所を聞いた。ようやく着くと、ジュースの自動販売機屋さんが機械を設置していた。事務室の壁紙は真新しく張り替えられ、余分なつくりつけの棚は撤去され稼動に向け着々と準備は進んでいる。

 茅ヶ崎から看板屋さんがきたので、ついでに新会社のロゴのデザインもお願いした。外壁は二色、淡い水色とクリーム色を壁面ごとに塗り替えるか縞にする。F機械のHさんも来ていた。Fさんとわたしは工場の気を見にきたのだが、Fさんもやはり同じところ南西の隅がおかしいという。地下に汚水槽がありそうでその影響なのか.......

 会社に帰ってワークショップに急いだが、1時間遅刻してししまった。がざびぃの階段5段目まではきもので溢れている。たいへんな盛況だ。目があって壌さんがにこっと笑った。すこし痩せて精悍な感じだ。卒塔婆小町が終ったばかりだからだろうか。シェークスピアの仲間も4人きていた。テキストは朱雀門。山はむらさきに、水清く 平安の京は.... 流麗な文章であるが、つるりとしてむつかしい。

 参加者がひとりずつテキストを読む。7割が朗読....3割は役者が語るといった趣で、語りだと感じた方はあまりなかった。ことばのひとつひとつにこだわって語ることは決してわるいことではないのだが、聞いていて次第に疲れてきた。ことばがある。声がある。読むひとがいる。けれどもそれが沁みとおって、響いてこない。ものがたりがない。そこにひとがいない。

 目を瞑って壌さんの読むのを聞いていたら山はむらさきに...でむらさきにけぶるなだらかな山が一瞬見えた。やはりすごいなぁと思ったが、すべて立てなくてもいいとも思う。乱暴な言い方をすれば風景のひとつひとつがくっきり見えようと見えまいとものがたりが立ち上がればいい。そこに聞き手を誘えればいい。ひとはふだんそんなにはっきり見もしなければ聞きもしない。不要なものは無意識に排除してしまう。..語りだって一音、一音、一言、一言をはずすまいとすれば、ものがたりのなかに入り込めないし、聞き手だって疲れてしまうのだ。

 壌さんはひとりひとりの誉めるところは誉めつつ、ダメだしをする。いつもながらしの適切さ、比喩の巧みさにたまげる。しかし同じ文章を30回聞くのは苦行だ。自分のなかのイメージが擦り切れてしまいそうだ。

 


八百六十六の昼   2005.7.19  ひとびと

 ルイがくるというのでそわそわ....ところがわたすべき預かっていた母子手帳が見つからない。息子の預金通帳とともにどこかにしまってしまったらしい。木の実を隠しておいて 忘れてしまうリスみたいなものだ。そのおかげで新しい芽が出て森に新陳代謝をうながすのだけれど、母子手帳や通帳が赤ちゃんになったりお金になったりするわけではないから
リスの方が上である。リサちゃんの目が細くなった。このオカアサンは....と思っているのだろうと身の置き場がない。お嫁とは少々怖い存在である。ともあれ養育医療の切符を渡せた。これでルイの43万円の入院費は県で出してくださるのだ。ありがたいことだ。もっとも入院といってもほとんどその必要はなかったし、わたしは早くルイを取り戻すべく、先生にプレッシャーをかけ続けた。それで退院は3日早まったのだ。

 ルイとリサとおかあさまを見送って、デイケアに飛んで行った。太田小のデイケアのみなさんは温かく迎えてくれ。お茶のみしながら嫁話をしてそれからことばとからだをつかったゲームをして大騒ぎ。最後に人形を使って赤頭巾ちゃんのおはなしをして、みなさんにもさわりをしてもらった。人形がほしいと言い出すひとが多くて年末までに買出しに行くことになりそうだ。

 夕方、Aさんを伴って道場に行く。幹部の方にしていただいたが、「効果はどうですか?」と聞かれてAさんが「奥さんのほうが気がすごかった。今日はあまり感じません」と率直に言ったので幹部の手前すこし困った。Aさんに楽になってほしい、救いたいという思いが気になったのだろう。語りでもなんでも本質は想いであろう。あとで聞いたら酸素のなんとかが50パーセントから80パーセントへ奇跡的に向上したのだそうだ。もしかしたら......なんとかなるかもしれない。今のところ酸素ボンベははずしている。

 会社に帰って連絡会、今月の売り上げはあまりよくない。まだ1200万にしかならない。目標は4400万だったのに。後12日でどれだけ伸びるだろうか。


八百六十五の昼   2005.7.18 聴いて....

 おはなしポケットの夏のお話会は古民家の二階で開かれた。黒光りする急な階段(手すりがない)を上ると20畳ほどはあろうか、広々とした板の間にもうこどもたちや若いおかあさんたちが待っていた。昔はお蚕さまの部屋だったというが、天井はなく太い梁がむき出しになっていて、窓に嵌まっているのは昔の板ガラスで、風景がゆがんでみえる。外国製だそうだ。一度立て替えたが木材は400年前のもので、関東大震災にもびくともしなかったそうだ。こんな古雅な場所で語るのなら、もっと違うおはなしがよかったかなと一瞬思った。

 最初の手遊びは熊谷の方、それから前橋の方が五月の....というライフストーリー、そして千葉の方がのっぴきならない話というライフストーリー、休憩そして間に合った村山さんの狼と巡礼、それから「わたしがちいさかったときに」最後にお琴の演奏でみな歌を歌っておしまい。階下でご馳走が待っていた。おこわにサラダ、天然酵母のパン、手製の梅ジャム、梅のグラッセ、サラダなどなど。

 95歳の矍鑠たるオーナーとその教え子の若い後藤さんご夫婦にお礼を申し上げて、風雪に耐えてきた、これからもすっくりそこに立つ続けるであろう民家を辞した。河岸を換えて、ファミリーレストランで冷たいものをいただき楽しくおしゃべりしたあと、思いもかけず今井さんのグループの方が語りの場所を提供してくださるという。それは11月にポケットのおはなし会が開かれたケーキ屋さんだった。

 いくつかの手遊びのあと、弥陀ヶ原心中を語らせていただいた。細かいところは省いて骨組みだけの弥陀ヶ原心中だった。情感も押えに押えた。山下さんならもっと伽耶と忍に寄り添ってと言ったかもしれない。最後まで語ることができた。ひとぉつ ひばり ふたぁつ ふくろう....最後の歌が終ったあとしばらくしんと声がなかった。語らせていただいてありがとう。聴いていただいてありがとう。もうすこし、もうすこしで弥陀ヶ原心中はおはなしになる、聞き手の力をお借りして......



八百六十四の昼   2005.7.17 電話

 横になっては眠り込み、椅子に座ってはうとうと....一日のなかばは眠っていたような気がする。合間に洗濯をし、風呂に入り、食事をこしらえた。懐かしいひとからのTELがあった。山下さんからもTELがあった。そして今井さんから.....あすのおはなし会でこどもたちに「わたしがちいさかったときに」、大人向けに弥陀ヶ原心中を語らせていただけることになった。おさらいをしようと思ったらまた眠り込んでしまった。

 ひさしぶりに他のサイトを訪問したところ、朗読ろうどくというプログに行き当たった。

 作品を表現しようと心を砕き、あれこれ試行錯誤をしてると、不意に自分が消えたように感じる瞬間がある。自分が喋っているというより、作品に喋らされているように感じる時があるのである。その時、自分の頭には作品世界が広がっていて、と言うよりむしろ自分が作品世界に覆われて消滅してしまい、ただその作品を表現する手段としてそこに存在しているだけのような気がする。ほとんど自分の口が自動的に動いているような気がするのである。

 そんな時、自分が何か大きなものの一部であるかのように思え、口は相変わらずひっきりなしに言葉を喋り続けながらも、一方では醒めた透明な意識でほのぼのとした充実感を味わっている。

 
「朗読にランナーズ・ハイはあるか」というコメントが付記されていたので、思わず「ランナーズハイではない」というコメントを残してきた。、語りや芝居をしていて感じる、自分が無になってしまったにもかかわらず大きな存在のなかに許されているといったあの透明な意識は、長時間走ったときなど、苦痛を軽減するために脳内麻薬エンドルフィンの分泌が関与するランナーズハイとは次元の違ったものだと思う。

 シャンソン歌手の友人は...天使が降りてくる....といった。女優のjunさんがなんと言ったかよく覚えてはいないが、壌さんは依代・ヨリシロになるといった。依代とはモノのことだから依座・ヨリマシの方が近いのではとわたしは思うけれど、自分を、自分が...という意識が微塵でもあると到底たどりつけない......というよりつかってはいただけないのである。

 小声でいうと、わたしが語りや芝居をせずにはおれない大きな理由はそこにある。わたしという小我はなくなる。透明な意識そのものになってそれなのに孤独ではない。おおきなあたたかいもののなかにゆるされている。そしてうつくしいもの、ただしいもの、大昔から連綿とあってこれからもあるべきものの一部であっていささかでも役に立っている。至福である。

 うまい下手ではないのだが精進は必要だ。自分を磨きつづけなければならない。山下さんは「稽古は自由を獲得するためにするのです」といったが、大きくつかっていただくためには、無になることと同様にわざの修練も必要なのだろうか。そこのところはまだ確信はないのだけれど。


 

八百六十三の昼   2005.7.16 梅雨あけまぢか

 ゆびさきからほのかにドクダミの香が匂う。きょう、会社の築山の草むしりをしたのだ。事務員さんの「わたしはドクダミが好き...」という呟きを聞いて、なんだか草むしりの気がすすまず、放っておいたら、剣先のような菖蒲の新芽も埋もれてしまうほど、繁茂してしまった。ことばは口から出ると自ずから力を持つものなのだと思う。

 雷鳴が轟いている。黒い夜空のところどころが明るく光を帯びる。巨大な火の蛾が繭を食い破って飛び出そうとするかのようだ。もうすぐ梅雨も明ける。給与の支払いも終わったとみるまに、18日は羽生のおはなし会
、19日は太田のデイケア、21日はカタリカタリ、そして20日から壌さんのワークショップがはじまる。

 夢のようにこんなことをしてみたいとは思っても、どれも具体的なことはしていなくて........さぁ どうしようか。羽生は弥陀ヶ原心中と思っていたが、お庭でのお話し会、子どもたちもくるらしいので、遊女のはなしはできないかもしれない。夏だからわたしがちいさかったときに...でもいいかな。それでも、まだ未練がある。心残りなく弥陀ヶ原心中を語って、伽耶を真っ白な雪の下に静かに葬りたいのだ。

 デイケアは思い切り楽しくみんなと遊ぼう。カタリカタリは夏のおはなし会も兼ねていて、テーマは怖いおはなし。みんなの怪談が楽しみ....と言ってる場合じゃない。わたしの怖いお話をどうしよう。そして壌さんのワークショップは今回初めて語りなのだ。壌さんに(芝居ではなくて)本業の語りを聞いてくださいとお願いして四ヶ月、壌さんの語りの概念とわたしの思いはおそらく異なるけれど、それでも楽しみだ。


八百六十ニの昼   2005.7.15 喋るひと

 朝、宇都宮の自治医大病院にかずみさんを乗せて行った。栗橋線に上がったときから、電車にすればよかったと後悔した。毎日車には乗るのだが、二車線で重戦車や装甲車のようなダンプや冷蔵車がビュンビュン飛ばすなかを運転するのは苦手で、ハンドルを握る手や肩がガチガチになる。新4号を走って走って1持間20分ほどで病院に着いた。

 IDカードを入れて眼科へ、眼科から処置室、血液検査室、レントゲン、心電図、入院予約、会計と荷物とかずみさんを連れて走りまわる。8月盆のあと白内障の手術を受けることになったのだ。.....1年前、たいへんな思いをして、下肢の切断もせず、失明寸前の状態から脱したのに、病院から卒業した暮れあたりから、すこしずつ緊張感が薄れていった。

 社員旅行のあとから急速に悪化し、病院に行きだしてから症状は改善されたのだが、心のすみでかずみさんにどうして自分をコントロールしないのと責めていて、それはしっかり見ていなかった自分を許せなく思うことと重なって、ふたりのあいだにミルクの膜のようなわだかまりがうっすら白く膜が張っていた。帰り道、ふたたび新4号を走りながら、わたしたちは話しあった。

 病気がよくなったとき感じていた「健康で生きていることはあたりまえのようだがすごいことなのだ、生かされているのだ、自分ひとりのからだと見えても、周囲のひととつながっていて、日々の暮らしのなかでさまざまに影響しあってゆくのだから、大切にしなければ.....」という気持ち、感謝のこころが知らぬまに次第に薄れていったのだということ......

 わたしたちの夢を実現させるために、お互いをたいせつにしよう、こどもたちがおのおのひとり立ちできるよう手を組んでがんばろうねということ.....ひさびさに夫婦の絆の温みがよみがえる。会社に送りとどけ、道場に向う。帰り ごがみさんの選挙事務所でプロのうぐいすさんの講習があった。明るく、元気に、気持ちを伝える.....車の中での一体感など賛同することも多かったが、いかにもプロっぽいしゃべりにはすこし....と感じた。

 きのう、街宣車からの放送を聴いて、うまいけれど熱がない、肌触りがない放送だと感じたのがこの方のテープだとわかって、まずいと思った。ひとのこころに届くのはうまさではない。技術は必要だが、ギンギンのフルメイクでなく、化粧と見せないナチュラルでそのひとの本質のよいところを際立たせ、消したいところをカバーする.....それがほんとうのうまさではないかと、まさにフルメイクの講師に一礼しながら思ったことだった。

 



八百六十一の昼   2005.7.14 気

 娘ふたりが具合が悪そうだったので、朝、カギを開けた後、会社から戻った。ふたりが意気揚々と生きられるようになにか障害が乗り越えられるようなことがしてやりたかった。実は、わたしは語りをはじめる5年前まで、気を送るようなことをしていて、それこそ東に頭痛に苦しむひとあれば飛んでゆき、西に入院したひとあればかけつけ、南に打ちひしがれたひとがいれば手をとってともに泣き...という生活をしていた。ここ数年さまざまなことがあって月に2度 道場に行くほかは、そういった活動からは遠ざかっていた。

 もちろん かずみさんが入院したときとか、息子が事故に遭ったときなどはふたりの元に通いつめた。ふたつの病院で6人の医師から足の切断を宣告されたのに少なくとも切断はしないですんだのは、その力(わたしの力ではない)が働いていたとしか思えないし、脾臓を摘出した息子がわずか二週間で退院できたのもそのせいとしか思えないのだ。

 いいことばかりではなくて、気を送るとき、患者?の辛い場所が悪いほど頭の芯に痺れるようなひどい激痛が走る。それとか、へたに憶測されてもという惧れなどから遠ざかり、いつしか語りに夢中になって忘れかけていたのが、Aさんが崖っぷちの状態だったから病院には4回通った。Aさんは「からだの中からぽかぽか温かくなる」とか「背中からなにかがすーっと抜けて楽になった」とか言っていた。きのうは現場で怪我をしたBさんに15分ほど気を送った。足がつけない状態だったのに、びっこをひきながら帰って行った。

 他人さまには頭痛だけですむのだが、家で家族にするともうひとつ 自分が昏睡したように眠ってしまう。今日もふたりに気をおくったあと床に倒れるように眠りこんでしまい、気づいたら午後3時をまわっていた。会社のことはあきらめて洗濯とそうじに勤しんだ。ケヴィンに噛まれて右半分が腫れ上がっていた娘の顔も、夕方には腫れがひいていた。こうして一度は離れた道に再び戻ってゆくのが、語りが昂じたワークショップがきっかけというのも因縁のような気がする。


八百六十の昼   2005.7.13 Mに


 連絡会で騒動があった。朝晩の鍵の開け閉めを日直制にしようと前回の会議で話し合ったのだが、今日になってOさんがわたしはいやですから、できませんから!と騒いだのだ。Oさんとわたしのあいだには10年もの長きにわたって緊張感があった。わたしは彼女が好きではなかった。土足でずかずか入ってくるような物言い、規則を無視し書類を出そうとしない無神経さ、社内の改革でわがままは通らなくなってきたから緊張はいやがうえにも高まっていて、全員の前で大声で抗うのも今度がはじめてではなかった。見かねたNさんが「それはわがままだよ」といっても「それならカギをなんとかしてくださいよ、セコムがいやなんですから 」.......

 いつもなら腹が立って喧嘩にもなるのだが、今日は腹も立たなかった。「みんなの会社だからみんなで護りましょう。朝と夜とどちらかでもできるひとは.....」と募ったら、社員はOさんをのぞいてみなが当番をすることになった。今日は会計事務所のMさんや元いたYさんも来て、人間関係のアツレキでへとへとになるはずが、さほど疲れもなかった。もし、わたしがOさんやYさんの立場だったら、わたしの言い方や態度に殴りたいほど腹が立つこともあっただろうと思う。

 そうか、今まで同じテーブルの上で腹をたてたり、傷ついたりしていたのだ。今日 わたしはテーブルのすこし上から見ている。みなが動きやすいように考えただけで、いる場所が違うのだ。相手役が動きやすいように自分がことばを発したり、動作を起こしたりすること、こう動かしたいと思って手をうつこと、芝居の持つメッセージを観客に伝えようとすること
、これは演出の目線である。山下さんが「頼まれれば断りきれなくて引き受けてしまうけど、ぼくはもう役者はしたくない。演出がしたい」といった言葉の意味がすこしわかったような気がした。

 演出の目線、それは神の目線でもある。限定された小さな神ではあるが、高みから見下ろす視線、かといって高ぶるのではなく、進行を見つめ促し、かくあれと祈る視線である。大いなる神の御腕のうちにわたしたちは生かされているのであるが、ひとりひとりが小さな神の眼差しを持ったら、赦し、ときに指し示し、ひとの少しかなしいこの世での形振りを見守れたなら、世界はすこし美しさを取り戻せるのではないか.....と思ったりした。



八百五十九の昼   2005.7.12  障害

 P病院に社員のAさんが今後どの程度の仕事ができるか....尋ねに行った。約束の二時に担当の医師は営業と面談中とかであらわれなかった。しばらくして院長らしきひとと話した。「粉塵がAさんのからだにいけないので空気のきれいなところでの軽作業の仕事がおたくの会社で提供できるか、さもなければAさんのために病院では生活保護の申請をすすめます」という。労災のことも言われた。労災の件については社会保険労務士にも相談しているので「実際に解体に従事したのはここ3年位でそれもいつもあったことではないこと、同じ作業をしていても他のひとには影響がないこと、息子さんも同病で入院していること、このような個人差を労災は包括して認定してくれるのでしょうか?」と尋ねたら、「わたしはそのような判定を下す立場ではない」という。「海の浜辺や山の上の空気のきれいなところでの仕事が望ましい」というので「山の上や砂浜に酸素ボンベの車をカラコロ転がしていくのですか」といったら「あなたはわたしをばかにしているのですか」と眉間にしわ。

 正直、ばかにしてしまった。医者は患者を治すのが仕事、けれどたとえ病気がよくなった(よくなることはないのだが)として、仕事を失い、生きる糧をうしなったとしたら、生きがいをなくしたらそれでもいいのだろうか。Aさんが車の運転ができて、小さな仕事でも管理ができるなら、その場を提供することはできよう、しかし、現場の人間に突然事務所内での仕事をと言われても仕事がない、会社にそれを吸収できようはずがない。だれかをクビにするしかない。経理ができるとも思えないし事務職の給与は現場よりずっと低いのだ、子どもたち4人育てていけるだろうか。

 20年一緒に働いてきたのだ。障害者になったとしても放り出すことはできないが、それには一中小企業だけの努力だけでなく、行政の後押しも必要でその手立てを求めてやってきたのだが、後味はよくなかった。そのあとソシャルワーカーのYさんと相談した。事情を話すとYさんも「これはむつかしい選択ですね」と頭を抱えてしまった。とりあえずどのような手段があるか情報をさぐり、連絡してくれるという。社労士は障害年金を受けながら軽作業がいいのではという。経営者として冷静な判断をくだすよう進言してくれるひともいる。

 Aさんのところに行くと酸素の管ははずされていた。日常生活で酸素ボンベを使うかどうかギリギリのところらしい。本人は今までとさほど変わりなく生活も仕事もできるように考えているらしく、胸が痛んだ。ともかくできるだけのことをしよう。彼が仕事を続け、子どもたちとともに暮らせるようわたしの立場でできることはしよう。

 

八百五十八の昼   2005.7.11 支払日

 ネットからの支払い送金をはじめて4ヶ月目、はじめてなんの問題もなく短時間に送信できた。これはFさんのおかげだ。このごろすっと自然にわたしに添ってきてくれる、支えてくれる。以前の緊張感がうそみたい。ひとの心はなにによって動いてゆくのだろう。

 芝居は架空ではあるが人生の凝縮だ。絵空事に命を吹き込むのは演出や道具方や照明さんやみんなの力があつまってのことだけど、役者のパッションは不可欠である。それはおのれを際立たせようなどという狭量な情熱ではなく、自分の体(タイ)のすべてをつかって ある人間、ある思念、ある魂、ある時代を空間そして観客になげかける繊細かつ壮大な試みなのだ。自由気ままにやればいいというのではなく 作者や演出の意を汲み、出演者ひとりひとりが生き、絡み合ってひとつのメッセージを篝火のように燃え上がらせる。

 であるから、芝居を考えると生き方を考えざるを得ない。わたしはわたしのことばや動作などの働きかけで、相手役が動きやすく、よりセンシブルになり得るのだとセッションを通して気づき、ここにきてはじめて、実際の生においても自分のありよう、ことばや行為のひとつひとつが 縁あってめぐりめぐってきたひとびとの命にある動き、変化を実は働きかけてきていたのだと実感した。それはかならずしも 善なる美しい動きをうながしたわけではない。怒りや憤怒ややりきれなさ、ねたみなどの負の感情も引き起こしてきてしまったに違いない。

 相手役が動きやすくなるように芝居をする役者は観客からみて一枚も二枚もうまく見えるのだそうだ。自分というガを棄てるのは周囲を活かしそれによって、実は自分がほんとうに生きることなのだろう。この3日間でわたしの細胞になにか変化が起こった。50を過ぎて変われるとは、なんてしあわせなことだろう。



八百五十七の昼   2005.7.10 ワークショップ3

 
 夢のように3日目がきた。寝る時間がとぼしく、電車のなかで眠ろうとしたができなかった。信じられないことに無遅刻無欠席、山下さんから「森さん、だいじょうぶですか?」と訊かれる。

 からだを動かす、頭頂、肘、手の先などが空から吊上げられる、緊張そして脱力、からだの一部をつかって空中に字を書く。Y君とO君のコンビが書いた光という字は前衛のダンスのように美しく無駄がなかった。からだを鍛えたいと切望した。

 7つの身体レベル、脱力、リラックス、黒子、アクティブ、神経過敏、パッション、MAXパッションについて二つのグループに分かれて脱力から行う。片方のグループは観察する。朝食について、好きな食べ物について会話をする、途中合図とともに瞬時にリラックスからアクティブに、パッションにその逆に切り替える。

 午後は「楽屋」の脚本から女優Aと女優Bのからみをふたりで組になって演じる。

視覚化:帽子
     腐ったようなよどんだ空気など 
課題:相手になにをさせたいか、腐ったよどんだ空気をなにを使って祓いたいか。

 課題を達成するためにアクションを起こそうとするとその途端にことばが命を持つのがわかる。最後に相手を代えてセッション、山下さんのダメだし、再びセッション各メンバーへの講評がある。二名が相手のことばを聞いてリアルタイムで反応しそれから台詞をいうようにという講評、ひとりが自分からも仕掛けるようにというアドバイス、一緒に行ったTさんには整えようとしないで毀すようにという的確な指示。わたしにはダメ出しはなかった、声質が変った、どのように獲得したかということ。自然な感情移入ができる、視覚化をしたかどうかという質問。視覚化はすべてしているわけではない。エネルギーを必要とするし、すべての場面で必要なわけでもないと思う。たとえば、あれは、旅公演の途中だった、たしか瀬戸内海のどこかの町....などでは視覚化をする。わたしは舞台の上で生きるには自分を空っぽにしてその人物になってしまえばいいので、そうすれば当然視覚化は自然としてしまうと思うのだけれど。

 二時間延長し、それから山下さんや仲間と語らいながら食事をした。別れたのは八時半。凝縮した3日間だった。しばいを通してわたしはそのひとの生き方が透かし見えるように思う。今回のワークショップで自分が今後なにを目指したらいいか見えてきたように思う。ポーンとはじけることができるようになったが、ストレートすぎる、遊びがないという欠点。からだを自在に動かせるように鍛錬が必要だということ。山下さんが言うように相手役に捧げる芝居、相手役が動きやすいような芝居がしたいということ。

 感性と知力と体力を極限まで集中して溜めたり解放した三日間だった。なにごとにも換えがたい3日間。


八百五十六の昼   2005.7.9 ワークショップ2

 朝、なにかとあったがめげずにワークショップに行く。サンマルクで朝食をとり、サンドイッチを買う。からだを使ったゲームをして、それからことばのリレー、豊穣なイメージの受け渡し、ことば、イメージが撥ねる、飛び散る、山下さんは笑い転げている。
 
 「あの東の空、われわれの山の上の空がかすかに白みはじめている。 明けの明星はいつも夜明けの直前に、もっとも美しく輝く そう思いませんか 」この一節をふたりで行きつ戻りつしつつ何度も読む。それからセンターでひとりずつ視覚化して、自分の見ている景色を聞き手に伝えようとする。つぎに、その視覚化したものからなにを聞き手に伝えたいか決めて伝える。朝のさわやかさ、今日も元気に行こう、広大な自然など。わたしは日々新しくうまれゆく世界への共感と老いてゆく自分がこの世から消えるまでに輝きたい、この世界に美しいものをすこしでも残したいという想いを伝えようとした。

 輪になって明けの明星をもっとも美しいものと視覚化してとなりに伝える。視覚化しとなりのひとに元気になってもらいたいという想いをこめて伝える。

 「わが町」の脚本から、18歳の花婿ジョージの野球部の仲間たちが、ジョージをからかったり、激励したりするシーンを3人一組で、それから、結婚式の列席者を前に怖気づいたジョージを、母親が叱咤するシーンをふたり一組で演じる、ジョージは母親にどうしてほしいのか、母親はジョージにどうなってほしいのか、明確な課題を持つことで芝居は変わってゆく。

 @海辺で見た君の目の輝き.....A熱でうつらうつらしているときに聞いた君の声、B一度だけした口喧嘩、C君の手のぬくもりのうちのひとつを択んで 一回目は相手に自分の見ているものを想い起こさせる、二回目は相手になんらかの行動をさせようとして話す。わたしは熱でうつらうつらしているときにふれてくれた額の熱を感じてほしかった。思い出してほしかった。そして微笑んでほしかった、だが、相手の男の子は泣きそうになってしまったそうだ。

 芝居はおもしろい、絶対おもしろい、仲間がいるからホント楽しい。ここに集まった仲間たちの絆はすでに固い。だって心を開かなくては芝居はできないのだもの。帰りドトゥールでまた盛り上がった。芝居がしたいなぁ あぁ ホントに芝居がしたい。


八百五十五の昼   20057.8 ワークショップ

 午前中 上尾にAさんのことで相談に行った。夕刻から山下さんのワークショップに参加するため、赤坂へ....。若い男性3人、若い女性3人、気持ちは若い女性2人、そして山下さん。輪になる、声を出す、わたす、つなぐ、わくわくする。ことばの響きで伝える、イメージで伝える。今回はイメージで聞き取ることができた。わたし自身も極力、声の響きに頼らずに伝えようとしてみた。感覚を研ぎ澄まし全身で捉える、反応する。すると見えてくる。雨雲が入道雲が、飛行機雲が....。視覚化、課題、交流の3つを同時にする。語りにおける、イメージを伝える、メッセージを伝える、聞き手との交流に似ているが異なる点もある。語りにおいては語り手と聞き手との双方向だけだが、芝居においてはまず舞台上の役者間において交流がありお互いに相手に視覚化して伝えようとし、なおかつ相手に自分の意図する感情を持たせ、動かそうとする。そのダイナミズムがあってその向こうに観客がいる。役者は意識の隅で観客に対しても視覚化し交流しようとする。

 山下さんは、観客のこころのなかで起きている変化こそが大切だという。課題において、ただ相手にある感情を起こさせようとするのと、相手になんらかの行動の変化を起こさせようとするのではこまやかさに格段の差が生まれる。より具体的になるからであろう。カタリカタリの若いメンバーを誘ったのだが、とても生き生きして楽しそうだった。わたしも楽しかった。体中の細胞が息を吹き返した感じがする。

 帰り赤坂見附駅前のファーストキッチンで空腹を満たしていたら、山下さんが通りかかり、三人で演劇談義に花が咲いた。山下さんも去年と比べてずっと大きくなった。あしたもあさってもこの興奮がつづく、なんて幸せ。


八百五十四の昼   2005.7.7  七夕

 化粧もせず身じまいもせず食事もせず朝から会社。上尾の建設業協会の安全大会に安全標語をふたつ出したらひとつ佳作になり賞品をいただいた。3分で3000円の稼ぎは悪くはない。10日支払いの振込み完了、連絡会の回覧作製、M君の源泉作製、算定基礎のための賃金台帳、出勤簿 その他。 

 他社の営業さんと話していたら「、こんなことを言っては....なんですが、アナウンサーのようなことをやっていませんか?」とたずねられた。知り合いのアナウンサーさんと雰囲気が似ているのだそうだ。温かいオーラ....ほんとかしら?そうならうれしいのだけど.。夕刻、かずみさんとパーク病院を訪ねる。目は見えない、足は悪い、割れ鍋ととじ蓋のいいコンビだわ、そう悪くはない、きっといける.



八百五十三の昼   2005.7.6  ただ歩く

 自治医大に行くかずみさんについていった。カッターが暇なので常務に運転してもらった。先日、まっ黄色に塗装して屋根に回転灯をつけた安全パトロール車で病院の玄関に横付けしたら、守衛さんに叱られたというので、常務の車に乗せてもらった。一年ぶりの自治医大付属病院は受付方法からすっかり変わっていた。

 検査の結果を総合診療科のアマミ先生に聞いた。「一生、面倒を見る」と言ってくれた谷藤先生は山形に転任していなかった。アマミ先生はうら若い女医さんである。思ったほど悪くはなかったので安心した。かずみさんてば好き放題しているのだもの、悪くならないはずはない。ここのところ神妙である。なにしろ大好きな車の運転ができない。毎日のようにアッシーなのでわたしは大きな顔をしている、病院は時間がかかるところだ。眼科は午後になるというので、かずみさんを残してひとりで電車で帰った。

 浦和の道場で偶然妹と会った。とても落ち着いた、地に足がついて充実した感じだったのでほっとした。帰り伊勢丹のバーゲンをのぞく。レマロンでビジネス用のスーツ、天鵬堂?でコーディネーターの素敵なお姉さんに遊び心があるのを所望したらいくつか見つくろってくれ、赤いフレームのサングラスとめがねを頼む。1月につくったのは3日であえなくつぶれた。古いのも数日前、わたしの下敷きになってひしゃげてしまったのだ。なにが大事ってめがねがないとなにもできない。

 帰ってさっそくかずみさんに首尾を聞くと、ちかじか白内障の手術だとのこと。


八百五十ニの昼   2005.7.5  三歩

 朝、会社のそうじをする。拭き掃除は時間がかかるしけっこう容易じゃぁないので思わず歌が出る。朝から会社で演歌やオペラはまずいので、ガールスカウトの歌、賛美歌、唱歌などつぎつぎと歌いながら掃除をする。語り「芦刈の歌」にも芦刈たちがつらい労働をしながら歌う場面がえうけれど、綿摘みや木こりや稲刈りや船をこぐひとたちにもそれぞれに労働歌はあったのだろう。不思議と歌いながら歌うとはかどるし、苦ではないのだ。歌は祈りであるとともに共有と連帯のあかしでもあったろう。

 かずみさんが群馬の工場にお札(前の持ち主が貼ったもの)をはずしに行くというのでついていった。若いひとたちもふたり待っていて、いらない吊戸棚などをはずした。高い天井近くのお札をはがし、半紙につつんで 周囲をよく見ると、前回には気づかなかったある気配があった。それは床から立ち昇ってくる重い気配だ。不審に思って 県道の向こうで畦の草取りをしているお百姓さんにそれとなく聞いてみた。

 このあたりは葦のしげる沼地であったらしい。昔 釣りにきたとそのひとは言っていた。工場の以前の持ち主はブリキで型をつくるような仕事をしていたが12.3年しか会社はもたなかったそうだ、となりの窓の破れ廃屋と化した工場は20年くらい前から立っていたらしいが、持ち主は小山のひとで、そこも立ち行かなくなってやめたとのこと、これは心してかからねばと思った。重い気配は湿気からきたものだったのか、機械搬入まで一ヶ月あまり、重量は4Tあるからなんらかの処置をしないと陥没してしまうだろう。

 プラントにフジタ工業さんが視察に見えるという連絡が入ったので急ぎ戻った。木材のリサイクルは法整備が遅れていて、微妙な問題が生じることがある。環境事務所でも、現状問題はないと言われているが、法整備とそれにともなって市場の確立が待たれるところだ。。

 それから鷲宮神社でお札のお炊き上げをお願いし、事務所に戻ったがトムの会の例会には行けなかった。そのまま連絡会、会社はこれから変わる。各自が自分の仕事を目標とおり確実におこなう。夜型から朝型にシフトする。密度の濃い仕事をし、手の空いたときにはプラプラしないで仕事を探す。...というあたりまえすぎることの確認だった。連絡会は6:15に終った。画期的なことである。

 それからパーク病院にAさんのお見舞い、息子さんも同病気で入院していた。帰り、人気の少ない駐車場で車のなかで思わず祈っていたら、黒い大型の車が妙な動きをするのである。わたしの斜め左前方に停車したかと思うと、後方で停め、ぐるりと回って右前方に駐車する、この動きを三度も四度も繰り返す。わたしの車のまわりをぐるぐる廻っていうようで怖くなって退散した。


八百五十一の昼   2005.7.4  ニ歩

 今日はフランス革命の日ではなかったか......。朝本町小のおはなし会に行く。4年2組でわたしがちいさかったときに、慟哭、うめぼしを語る。夏、一回は原爆のこと、戦争のことを語るようにしている。語り継ぐことは生きているもののつとめであり鎮魂であるから.......。秩父事件も、北の都で遊女となって散った貧農の娘たちのことを語るのも、おさだおばちゃんの話も根は同じなのだ。

 生くることは苦である。慈悲の慈とは生きる苦しみに呻く声の謂いという。悲とはその苦しみを我がものとして共有することなのだそうだ。生きる苦しみを笑い飛ばす語りもあっていいが、今、わたしは斃れたひとびと、手折れたものたちのかわりに語りたい。その苦しみを聞き手と共有し、昇華できるような語りがしたい。おとうちゃまのこと..もフランス窓から...もその想いが根底にあり、それは日々の生活のなかでわたしが人や愛するものたちや法、自分のささやかな夢などとの相克でやはり呻いているから......そのはるか彼方のありうべきなつかしいアルカディアのかすかな記憶と、現実のすさまじき世の眩暈がするようなギャップに未だに戸惑っているから。なぜここにいるのか、なぜ生きることが苦しいのか、映画も文学も歌もみなその問いかけのような気がする。

 そう、だからわたしは語るのだし、語れないことがあろうか。日々、生きて受けとめたり失ったりしているのだから、きのうと同じように語れなくてあたりまえ、今日の語りがわたしの掴んだ今なのだ。

 昼下がり、土砂降りのなかルイの出生届を出しに行く。出生届とともにルイは自分のナンバーをもらった。わたしたちはひとりひとり名前でなくこのナンバーで管理されるのだ。児童手当、乳児医療の手続きは書類が不備でできなかった。産院で医師から出生の証明をもらって数々の手続きをするのだが、どこかに必要書類を書いておいてくれればいいのにと思った。それから養育医療の手続きのため保健所に向う。県の施設のせいか、対応は親切で早かった。春日部市立病院のケースワーカーさんが連絡をとってくれたせいもあるだろう。

 子を育てる上で行政の支援は欠くべからざるものだが、住んでいる市町村によって対応はかなり違いがある。考える若い夫婦は子育てをしやすい環境、医療、行政・民間の支援の厚い地域に居をさだめるから、それは地方自治体にとっても死活問題であり(若い世代が増えれば税収も増える)、出生率の低下を憂うなら手の打ちようはいくらもある。後上民子さんが市長に立てば、久喜市は間違いなく変わってゆくだろう。

 朝、本町小で子育て支援をしているNさんと1時間語り合った。子育てをしている若いおかあさんたちに彼女はいくつかの場を提供している。そしてそこにカタリカタリのひとたちが関わってもいるのだ。Nさんが子育て支援のニコニコを立ち上げた頃、わたしは行くと約束しながら手伝いに行けなかった。そのことがずうっと胸の奥にわだかまっていたのだけれど、今日 Nさんと話しているうちに、カタリカタリでちいさな子向けのおはなしや手袋人形などを伝えるほかにももっとなにか、ともにできることがあるような気がして、エールを交換して帰った。


八百五十の昼   2005.7.3  一歩

 頼んでおいた不動産屋と息子の住むアパートを探しに行く。三軒の物件を見ておおよそ決まる。アパートのドアの鍵を開け、かすかに湿った匂いがする部屋に入ると、かずみさんと暮らし始めた頃のことが思い出されて、懐かしさがこみ上げる。福生市北田園にまだあのアパートはあるのだろうか。所帯を持つのはたいていアパートの一室からはじまる。この部屋で惣と理紗と瑠依があたためあって暮らせますように。

 母からもらった秩父事件をあつかった映画「草の乱」のチケットのことを思い出し文化会館に走る。秩父事件は暴動ではない。世直し、革命をめざした一連の動きなのだ。父の生家の川向こうが副総理(シャドウキャビネットを考えていたのならすごい)、加藤織平の子孫の家で織平は叔母の祖父にあたる。そんなことからかねてから秩父事件を語りにすることはわたしの夢でもあった。映画ははじまっていて、まさに蜂起のところで間に合った。やはりわたしがそうしようと思ったように、映画も官憲の手を逃れ北海道へ渡り数奇な運命を辿った伝蔵が主役だった。

 映画は少しきれいに過ぎたかもしれない。ことばも秩父弁ではあったが、温みがない。「(むすびは)でっけくにぎってくんな」の台詞はよかった。語りにするとしたら、ひとりの人間に的を絞る。その心の動き、身に降りかかったことから 事件のことが浮かび上がるようにしたい。その役割を果たすのは女がいい。その女性と出会うことが出来たなら、秩父事件を語りにすることはできるという確信が生まれた。一歩進んだ。

 母に79歳の誕生日のプレゼントと黄色の薔薇の花束を贈った。

 


八百四十九の昼   2005.7.2  携帯狂騒曲

 朝早く、会社のそうじをした。11時、川越に向った。先日授業中に二女の携帯が鳴ったというので携帯禁止の学校から呼び出しがかかったのである。厳重説諭のあと携帯は親に返還するというきまりであるという連絡だった。わか菜に当のTELをしたのは母であるこのわたしで、責任上行かないわけにはいかないのだった。

 学校まで二時間弱かかった。よく毎日通っているなぁと思った。通されたのは霊安室みたいな小部屋で、娘はすでに椅子に座って本を読んでいた。しばらくして三人の先生が入場、生徒は直立不動で「よろしくお願いします!!」といわなければならない。それから規則がなぜ必要か、なぜ携帯を持ってきてはいけないかという問答が延々とあって、わたしは娘の応答や、学校側の建前・本音のギャップがおかしくて、笑い出しそうになるのをこらえているうち、次第にあたまは膝の上に沈んでいった。其れを見た学年主任が、「おかあさん、どうか顔を上げてください。わか菜さん、あなたが叱られているのを聞いておかあさんの顔がどんどん下がって行きました。おかあさんがどんなに居た堪れない思いをしているか わかりますか」と言われたので、こらえきれず、思い切り微笑んでしまった。声は出さずにすんだが、気づかれずに済んだかしら?

 成績はよいとのことでほっとした。帰り川越で食事、成城石井で売れ筋トップ5のお菓子やら、ソーセージ、フォカッチャなど買い込み、帰還。
パーク病院にアベさんの見舞いに行き、むすめたちを拾ってダンスで汗を流し、カラオケに繰り出して4時間歌いまくった。カラオケはふつうスキャナーを見てうたうのだが 思いついて、歌手と聞き手で向かいあってみたら、娘たちの歌がみるみる変わっていったのがおもしろかった。わか菜はバンドで歌うらしいが、ヴォイストレーナーにつけてやったら伸びるかもしれない。まりはたぶんはじめて全開で歌った。ただ歌うだけでなく自分を開き、聞き手に届かせようとするだけでことばは命を持つ。歌い手も光を放つ。


八百四十八の昼   2005.7.1  文月はじめ

 去年 かずみさんが退院した日、そしてダイワハウスの一件が落着した日、あれから一年 たくさんのことがあった。ここにこうしているのが不思議だ。いつまで続くのだろう。いつ終るのだろう。いづれやってくるその日に向って歩いている。砂に足をとられ、茨に傷つき、足を引き摺って歩いている。ながいながい夜、しろいしろい昼は果てしなくつづくように思われる。そんなにわるいことばかりではない、出あいがあり、あたたかいことばがあり、遠くには希望もある。けれども、ここにいて、わたしは語ることなどできるのだろうか。ひとを疑ったり、憎んだり、書類の山、伝票の山に埋もれて聞き手のこころの扉を叩くものがたりが語れるのだろうか。


八百四十七の昼   2005.6.30  スミレの葉にも傷つく娘

 朝、目覚めたら 首筋がいたくて廻らない。きのう怒ったせいだ。怒ると毒素が出ると聞いたことがあるけれど、わたしはたいてい頸がいたくなったり肩が凝ったりする。怒ると免疫が落ちるというから、それが溜まると癌になったりするのかしら。ひとは年中、笑っているのにこしたことはない。...が、今朝も憂鬱。

 雨が路上を叩いている。 仕事に行きたくない。ふと、菖蒲のおはなしかごさんからおはなし会のお知らせがきていたことを思い出した。行こう!と決めて会社に遅れることをTELして、望月みどりさんのおはなし会に出かけた。
 菖蒲図書館に着いた。瀟洒なホールだ。一番前の少し右側に座って始まりを待つ。望月さんは小沢俊夫さんの会に属しているらしい。福音館から出ている「日本の昔話」全五巻のうち5話を標準語に直す手伝いをされたとのことだった。日本のおはなしは苦手ですと笑いながらおっしゃった。深々とした声だった。わたしは語りをなさる方でこれほどの声の持ち主に会ったのは初めてである。飾らない、自然な、それでいて天性の品のある......魂の美しい方なのだろうと思った。

 大工と鬼六、ブタ飼い、なら梨とり、歌も自然だった。抑揚があるというのでもなく、強弱もメリハリも緩急も間も...さほどなく 淡々と語られ淡々と終る。けれども心地よかった。声の響きが三半規管にシフォンのスカーフのようにまだふわり纏いついている。おはなしを覚えるとおっしゃった。覚える!?ということばに違和感はあるのだが、スミレの葉にも傷つく娘...がよかった。雨の乙女がはじまるまえに、「眠い方はどうぞおやすみになってください、おはなしを聞いて眠くなるのはあたりまえのことですから」と言われたのに甘えて、ついうとうとしてしまった。申し訳ないことをした。語り手は一番前で眠られたりすると結構堪えるのだ。最後のたなばたもよかった。こういう語り手さんもいるんだと感慨深かった。すこし不思議だったのは視線が交差しないこと、聞き手に向って語られるのに視線は聞き手をすうっと通り抜けるような気が、それとおなじように物語も空中になげかけられるような気がわたしはしたのだ。

 図書館を出るころには朝の雨が嘘のように陽光が眩しかった。水溜りに空が映っている。会社に着いて、話すことばがやはらかく 緩やかになっていることに気づいた。おはなしって不思議だ、1時間半で生れ変ったような気分。午後、気持ちよく仕事をして夜、かずみさんが事務所に戻った。「決まりが守れないなら辞めるように言ったよ。でも、きっとやめないで一生懸命仕事をするだろう。」  もしや片腕を喪うことになるかもしれないのだから、痛手であろうにそう言ってくれたことに対して わたしも応えよう。なんとか自分を抑えてうまくやってゆこう。

 ひさしぶりに夜中まで仕事をした。



八百四十六の昼   2005.6.29  切っ先

 今日は以前勤めていたYちゃんが手伝いにきてくれた。和やかに三人で仕事をしていたのだが、底には糸が張り詰めているようで疲れた。ひとは誰でもみんなに好かれたい。自分が一番だと思いたい。男より女の方がそういう欲求が大きいのかもしれない。だれそれさんの話題になって、わたしはよけいな事を聞いてしまった。いわゆる耳汚しである。それが夜7時ころ、一触即発でとうの本人がいたところで爆発してしまった。それもとばっちりを受けたひとがいて、わたしの痛烈な一撃、語りや芝居で鍛えた切っ先鋭い一尖二閃(造語です)をもろに受けてしまったのだ。

 それで帰ってからかずみさんと喧嘩した。わたしがわるいと思う。よく確かめもせずにひとのことばを真に受けて切り捨ててしまったのだから。でも、かずみさん。あなたとわたしはふたりでひとつ、力を合わせてここまできた。わたしはあなた方ふたりのしたことをみな片付けてきた。それはたいへんなことでした。おねがいだから、自分で勝手に決めないで......道連れなのだから、わたしに相談もしてください。そしてわたしがしたことでわたしを決めつけないで。わたしがあなたのすべて、健やかなところも病んだところも光も闇もみな受け入れて愛しているように、わたしの強さ、優しさばかりでなく、わたしの至らなさ、強情さもいっしょにあなたの腕に抱きとめてください。



八百四十五の昼   2005.6.28   琉依

 子どもの名 はルイというのだった。うら若い母は息子の未来になにを見て名づけたのだろう。生まれたばかりのときもしっかりした顔立ちだったが、目も鼻も口もともすでに意志をもっているように輪郭も明確だった。ちいさいのに抱くとしっかり重かった。なみだが溢れた。よくきてくれたね...あなたは希望なのだよ 若い父と母と老いに向おうとしている祖父母の、そして会社の希望なのだよ わたしは道をつけよう 最初のうち あなたのちいさな足は心許ないだろうから.....でもすぐにあなたは わたしの病み疲れた足など追い越してすたすたいってしまうのだろう それでいい,...思う存分 走って 川を渡って 山を越えて 街路を駆け抜けて 口笛を吹きながら 虹を追って.....。

 退院に際して、昨日NICU、病棟の看護師に確認したことと会計のいうことが違うので、(きのうはお金は用意する必要がないといわれたのに窓口では43万円を請求された)養育医療について私立病院のケースワーカーに説明を請うた。どうも病院内のコミュニケーション、連携がたりないようだ。県の養育医療補助については入院時に父母または保護者に面談をしてもいいのではないか、みなさんは悩んだり心配したりしている患者や子どもを産み育てようとしている若いひとたちの大きな力になるりっぱな仕事をしているのだから、患者と病院、行政の橋渡しとして一歩も二歩も踏み込んだ仕事をしてください。と若いケースワーカーにお願いしたら、彼女は真っ直ぐな目でわたしを見て深々と頭を下げた。ありがとうございましたのことばとともに。...それからあちこちにTELしてとてもよい具合に計らってくれた。

 帰り、かずみさんがパーク病院に寄ろうよという。Aさんのことが気になってしょうがないのだ。彼はきのうより元気だった。酸素の濃度を落とせるかもしれない、もしかしたら酸素を背負わないで暮らせるかもしれないと医師に言われたそうだ。希望がわいてきた。 会社に帰って連絡会、6月の売り上げ、あと一歩で3000万円。


八百四十四の昼   2005.6.27   宣告

 朝から印鑑のこととかでコップの中の嵐、剥き出しの感情の雨風に為すすべもなかった。わたしはふだん 冷静に見えるかもしれないが、それは滾るものを必死で押し隠したりもしてのことなのだ。思わず鎧が綻び破れた。それはそれでよかったのかもしれない。

 午後、銀行と保険センターのデイケアに向う。ろくに用意もなかったが14名の高齢者とヘルパーさんと楽しく過ごした。ゲームをしたり、話したり遊んだり、笑い声が絶えなかった。 そのうち戦時中サイパンに行ってB29を見たと言い出すおばあちゃんがいて、東京大空襲....浅草で1000人もの千切れた遺体を見た話、東京から陸橋で荒川を渡り、久喜まで歩いて帰った話など 聞かせていただいた。語り継ぎ、子どもたちにも伝えたいと思う。

 会社に帰り、かずみさんと入院している社員さんを見舞うためパーク病院に向かう。そこで聞いたことは...そこで聞いたことは.....かずみさんは泣いていた。........何のためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのかそれがわかったら...それがわかったら.....



八百四十三の昼   2005.6.26   銀座みゆき館劇場にて

 貴重な日曜日、お風呂に入り、洗濯をし、拭き掃除をしたあと、銀座に向った。浜松町までいってしまい戻ったので1時の碧組の舞台には少し遅れ一番上の席で観た。「楽屋」清水邦夫作 登場人物は楽屋に棲みついたふたりの女優の幽霊(ふたりは永遠に来ない出番を一縷の望みをかけて、化粧しながら待ち続けている)、チェーホフ「かもめ」 のニーナ役の女優、枕を抱えたもとプロンプターの女の4名、随所にチェーホフの台詞、マクベス、「斬られの仙太」の台詞がちりばめられている。

 女優が女優を演じる、その女優がどのような心組みで役者をしているか浮き彫りに見える。地の役と女優として役を演じている温度の差、重い生を生きている、長い夜を生きている暗さとすっぽぬけた明るさ、、役者に求められているものは大きい。一瞬 板の上にいる彼女たちと重なったり、頷いたり、ほんの一瞬羨んだりした。

 そのうえに4人のコンビネーション、バランスがある。3時半から、紅組も見た。碧組は片目の女優役中村さんの声が深くて、ほかのひとにも求めてしまう。ニーナがもう少し踏み出してほしく 枕のキー子が作り過ぎの感じがあって、紅組のほうがバランスはよかった。紅組は一番前で見たせいもあるのだろうが緊張感が途切れなかった。わたしは三度泣いた。

 けれど、最後の三人姉妹のオリガの台詞「わたしたちの生活はまだ終わりじゃないわ。生きて行きましょうよ、音楽はあんなに楽しそうに鳴っている、あれを聞いていると、もうすこししたら何のためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのかわかるような気がするわ......それがわかったら......それがわかったらねぇ.....」は紅組のほうが身に沁みた。碧組はほんのすこしづつ間が短かったように思う。

 芝居はいい。芝居も語りとおなじように小さな場所こそ相応しい。みゆき館劇場で4人の女たちは命あるものもないものも生きて呼吸していた。その向こうに8人の女たちの息遣いが聞こえた。いい一日だった。そしてあしたからまた戦争だ。生きて行きましょう.....



八百四十ニの昼   2005.6.25   川越にて

 午前中、会社のそうじをした。トイレからはじまって掃除機をかけ、まっとうに雑巾がけをすると有に二時間はかかる。最後に花をかざる。汗が噴出す。いくつか用事を済ませ、川越に向った。娘の高校の夏の制服の準備もしていなかったし、5/8の誕生日のプレゼントもまだだった。

 わか菜は改札口で二時間近く待っていたのだろうか?目でわたしを捉えると顔がほころび花のような笑顔になった。きれいな娘になったと感慨深かった。4人目のこの子にはどうか急がないでゆっくりゆっくり大きくなって...と心のなかで話しかけ祈るように見守ってきた。育てるというよりはかってに育ってくれた。今も夢に向って歩いている。上の三人は手をかけすぎたのか、それとも足りなかったのか。...当分見守っていくのは当然としても、惣は父親になったし、りさちゃんがいるからだいじょうぶだろう。問題は敬とまりえでいまだに道を見つけられずにいる。仕事とか学業とかではなくそれ以前のなぜここにいるのか?なにを目当てになにをたよりに、石ころだらけ(に思える)このわびしい道を歩いてゆくのか.....を問おうとしていない。安住と思っているのか、父母の屋根の下でいまだにまどろんでいる。

 石ころだらけの孤独な道とわが目に見えても、目を洗えば、気持ちさえ変えれば、自分の足で歩こうとすれば、青々と草は繁り、花々は咲き乱れ、風は吹き、はるかに自分のめざすものが見え 向こうに誰かが歩いているのだけれど。

 黒のスニーカーを誕生日のプレゼントに買い求めた。それからまるひろで夏の制服やらスェーターを求め、繁華街を歩いた。娘は以前からほしかったブランドのTシャツを見つけうれしそうだ。それからカフェでバニラ・ラテをのみながら女同士の気のおけないおしゃべり.....娘は携帯を取り上げられたことを怒っていた。「おかあさん、小部屋に連れ込まれ、ふたりの先生から詰問されたの。そのときの先生の目キラキラしてすごくうれしそうだった。わたしショックだった」

 それから大宮のルミネに行き、ジャポンでとても可愛い緑のワンピースをみつけ、試着させたら 気に入ってくれてうれしかった。それからわか菜がまりの好きなMILK・FEDをみつけ、あれでもないこれでもないと定番の黒の猫のTシャツを買った。わか菜は足の悪いわたしを気遣い、荷物を4つも5つも抱え、切符も買いに走ってくれる。しあわせなひるさがりだった。


八百四十一の昼   2005.6.24   疾風怒涛

 朝 かずみさんとけんかして「ぶちぶち言うんじゃねぇ」「心配するんじゃねぇ」と怒鳴った。そのあとで自分にびっくり....怖ろしい女房だ、カタリカタリのエクササイズのせいかしら?会社のなかで噂が渦巻いているようだ。会社に行ってしかるべく手を打った。午前中 財務をまとめるため4人で打ち合わせ。一時過ぎ銀行、りさちゃんが退院するというので愛生会に入院費の支払いに行く。40万余りの請求に、子どもを産むのもたいへんだと驚く。18年前はたしか22万円だった...とするとそうは高くないのかしら? 春日部市立病院に早くベビィを退院させてくれるようTELする。

 junさんを珀鴎亭で待つ。ドアを開けてjunさんがするりと入ってくる。やはらかな髪、やはらかな表情 細身のすらりしなやかなjunさん。こうして会うのは初めてなのについ一週間前にも会ったような気がする。今秋出る舞台のチラシを見せてもらう。junさんと話しているとこちらの感覚も鋭くなる。話が佳境に入ってわたしは幾度か戦慄した。一瞬スパークして火花が散りなにかが見える感じだ。時が充ち時がきてわたしはjunさんを見送る。

 病院に戻るが、りさちゃんのママとわたしとのあいだにかなりの温度差があって気まずい雰囲気......ぐっと押える。先に春日部に行ってもらう。惣を連れてゆけたらと会社に戻ったらF機械が来ていた。今日にも発注書にサインがほしいとのこと。見積もりと仕様書を吟味していくつか直してもらった。初号機購入のためよりよい性能を目指し共同で開発しという文言を入れたかったが強い抵抗にあう。わたしもそれを入れなければ判を押す気はない。 時間が刻々と過ぎ赤ちゃんの面会時間が消えてゆく。4人で帰るまで待っているから行ってくれというので春日部に向う。8時を過ぎていたがガードマンさんが入れてくれ 遠く保育器のなかのベビィと会えた。久喜までの道 惣に伝えたかったことを伝えた。たいせつなものたちのため、自分のため 譲れない一線は断固譲るなということ、必要な時には身体を張ってでも止めろということ、どんなにおまえを愛していたか、おまえの息子が生まれて、その子のためだけでなく 世界中のこどもたちのために できることをしたいと思っているということ.....

 事務所に戻り 折衝の末 ついに契約。手を組んで子どもたちのためにこれからの世界のために仕事をしようと最後は和気あいあい......

 パーク病院に入院している社員さんから伝言、ふたりで病院まで来てくれとのこと。再起不能のようだ、酸素を手放せない一級障害者になりそうとて、今後の身の振り方についての相談であろうか。かずみさん、明日から取引先の旅行で留守のため月曜日になった。


八百四十の昼   2005.6.23   一日後

 14年前の今日 5人目の子どもを流産で失くしたのだった。「赤ちゃんはもう死んでいます」医師のことばがかなしかった。明るい美しい緑と輝きに充ちた日、あの日の風のそよぎ、木陰の涼しさをいまもはっきり覚えている。惣は幼稚園の年中、4歳だった。生まれかはりとは思うまい。命は廻り巡ってくるにしても。

 草も花々も水もあらゆる命が巡っている。水は天から落ちて地に沁み込み 湧きいで、川となって流れ 大地をうるおし 植物や動物の命を育み 汚れを洗い流して 海にそそぐ。

 春 萌え出た草の芽は太陽に向って伸びてゆき 緑は日に日に濃く やがて花は咲き 受粉し 実となり地に落ち 草は枯れる。赤子はうまれ いとおしまれ すくすく育ち やがて親もとから飛び立つ。そして恋をしてむすばれ 新しい命が誕生し 親は老いてゆき 向こう側の世にわたる。こうして世界はつねに新しくかつ古い。赤子を抱くことは世界を抱くことにも似ている。今この手に息づく命とともにかって在りしもの これから生まれるものも一緒に抱いているのだから。

 白岡のパーク病院に古参の社員さんを見舞った。だいぶ元気になっていてほっとした。それから愛生会病院にりさちゃんを見舞った。りさちゃんも元気だった。離れて暮らしているから惣が父親としての自覚が持てないのではないか、早く三人で暮らしたいという。17歳 この娘はしなやかにつよくなった。別人のようだ。お産は2時間ですむけれどこれから幾つもの山をこの子は登ってゆくのだ。男はときに役には立たない。子どもと夫の両方を背負ってゆかねばならぬこともある。でもこの子ならきっと、添い遂げ しあわせな家庭をつくるだろう。わたしも見護って為すべきことをしよう。


八百三十九の昼   2005.6.22  希望

 朝、TELがあった。しのつく雨に感謝しつつ会社に行くと、雨のために息子は仕事を休めそうである。病院には八時についた。りさちゃんはもう分娩室にはいっていた。2時頃、熱が出て 朝5時ごろ痛みが強くなったのだという。りさちゃんのおかあさんと惣と三人、固いベンチで待った。赤ちゃんの心音、時折、聞こえる苦しげな声や悲鳴に思わず身が強張る。子を産んだときのことが甦ってくる。敬の出産のときかずみさんもこういう想いでベンチに座っていたのかと思った。それだからあとの三人のときは来てくれなかったのだろうか。

 大切なひとができるということは苦しさや切なさがふえることなのだ。たいせつな人の安否をいつも気遣い、そのひとが苦しみにあうときは自分も苦しむのだから......年をとるにつれ、たいせつなひとは多くなってゆく。生きてゆくということは苦しみも歓びも深くなる、そういうことなのだ。

 惣が立会いのために呼ばれた。しばらく静かだったのがただならぬ気配になった。「そうだ!頑張って!!」掛け声が聞こえる。院長と副院長の声も聞こえる。りさちゃんのおかあさんもわたしも身を乗り出しいっしょに赤ちゃんを押し出しているように力がはいる。 そして、産声が.....「コヤッコヤッて赤っ子は生まれたとよ」....突然おさだ叔母ちゃんの声がよみがえってくる。産声は小さくすぐに途切れた。しかし、すこしして元気な声が聞こえてきてほっとした。りさちゃんのおかあさんと肩を抱き合う。「生まれましたね」「自分が産むほうが楽ですね」 おかあさんの眼にも涙があった。わたしは、ふとこの赤子の行く末を見ることができないのだと思った。ふしぎな感じがした。でも、この子の行く末のために、わたしにはまだできることがある。

 世界をすこしでもよくするために、わるい方向に行くのを食い止めるためにできることがある。仕事をとおしてリサイクルを進めよう。心あるひとが政治の場に立てるよう、応援しよう。そして語ろう。学校で、幼稚園で、他の場所で。
 ベビーと対面した。きれいな顔立ちだった。見えてでもいるようにわたしたちを見つめる黒い瞳。よく動くベビーだ。赤ちゃんは希望そのものだ。

 長い時間がたって医者から説明があった。赤ちゃんのくびに、へその緒が二重に巻き付いていたこと、羊水ににごりがあったこと、炎症反応があるため、ベビーを設備の整った病院に転送すること。ふたたび救急車に乗ることになった。救急車はなぜこんなに揺れるのだろう、ベビーの入っている保育器が揺れないように救命救急士さんとしっかり押えていた。ベビーが泣くと「よしよし いい子ね だいじょうぶ」と声をかける。不思議とベビーは泣き止むのだ。櫻井先生のことばを思い出す。こどもはゆったりした温かい声に安心するのですよ。

 病院で二時間後、説明があった。ふつうのあかちゃんよりほんの少し数値が高いこと...なんの数値? 安全のために抗生剤を投与すること...わたしは医師に抗生剤の投与はできるかぎり少なくしてくれるよう、一日でも早く母親のもとに戻してくれるよう頼んだ。長い一日だった。




八百三十八の昼   2005.6.21  会議

 事故があった。後方確認をしないで作業車の右ドアを開けたので、走行の中自転車にぶつかったのだ。旅行の疲れ?気の緩み? 
 二ヶ月振りに全体会議を開こうかどう逡巡していたので、事故が後押ししてくれた。わたしはほんとうは会社の会議が好きではない。みなが本音は嫌なのを知っているから、それで怯んでしまう。

 会議は問題点や成果を共有し、先に進むために必要なことなのに。もっと実のある会議、心躍る会議をするにはどうしたらいい?安全運転誓約書の提出をめぐって、再びOさんともめた。なぜ出さなくてはいけないの?いつ決まったの?云われなくちゃわからない!というのだ。では伝えたことをするのかといえば、しない。いくら云ってもしない。反逆しているとしか思えない。

 F機械が総勢7人でやってきた。前回の問題点の答えを持って、すぐにも発注書にサイン...という勢いだったが、問題が解決されていないので断った。1 炭の玉20mmまでが限界である。 2 納期に時間がかかりすぎる。今週中にもう一度打ちあわせをすることになった。いよいよ大詰めである。


八百三十七の昼   2005.6.20  まだまだ

 朝食も美味しかった。バスのなかでつらつら考えたのは社員教育。お客さんそっちのけで楽しむ社員はそれでいいのだが、ほんのちょっとした気配りがほしい。楽しませることに歓びがあると今回の幹事、入社五ヶ月のHさんは云い、大いに意気投合したのだが、まだまだほとんどの社員がそこまでいかない。仕事ができる、給料がもらえて生活できるというのが彼らにとってはあたりまえのことなのだ。それをただ労働の対価として捉えるだけの社員がすべてなら中小企業は成り立ちはしない。

 仕事をくれるお客さまがあって、協力してくれる業者さんがあってはじめて仕事ができる。営業、現場、経理が三位一体となってはじめて受注、完工、代金受領そして支払いまでの一連のサイクルが滞りなく運ぶ。わたしが動いていてはダメだ、社員を動かす、そして自発的に動く、一歩ふみだしひとの苦労を引き受けたり、行き届かないところに眼を向ける社員が増えれば......

 昼食は三味亭で麩の会席。そして、目玉のさくらんぼ食べ放題、真っ赤に熟れたさくらんぼは甘かった。ともかく疲れた。が、参加してくださった方々が喜んでくださった、たくさんの交流があった、お互いがお互いを知るいいきっかけとなったのでよしとしよう。



八百三十六の昼   2005.6.19   山形へ

 会社と協力会社の集まり、三の会の旅行で山形に向けて出発する。会社にとっては大きなイベントだが、幹事は入院するは会長副会長はよんどころない事情で欠席、社員も病気、家族の入院等で5人欠席という事情となった。そのうえ管理部からはわたしだけなので、総会の段取りやすべての采配をするはめになったのだ。

 当日の朝、急遽幹事を立て、古参の業者さんのなかから副会長をもうひとり立てることにした。7時出発、総勢35名、バスは染まるような新緑のなかを東北へ.......。昼食は瑞巌寺から車で15分ほどの「海音・うみね」で会席料理.。海辺の眺望の美しい落ち着いた店だった。料理も美味しかった。11室ほど部屋もあるらしい。知る人ぞ知る...といった趣である。

 塩釜まで遊覧船に乗る。デッキからかっぱえびせんを投げると、ウミネコが高く低く飛んであとをついてくる。写真を撮った後、しばらく風に吹かれていた。蔵王に向った。霧のなかから残雪がほの白く浮かび上がる。山頂につくと瞬く間に霧が晴れ、薄日が射し、お釜を見ることができた。こまくさが咲いていた。水の色は老竹といったらいいか、抹茶ラテみたいな色だった。ガイドさんの話によれば昨年、仕事でこの地を訪れたとき、眼の覚めるような真っ青、淵がオレンジ色の日があったそうな。空は一面黄色でただならぬようすであったのが、その日中越地震があったのだという。

 夕方 秋保温泉に着いた。宿はニュー水戸屋。ニューの着く旅館は信用できないと思っていたが、ガイドさんのいうとおり、格式もあり近代的ないいホテルだった。ホテルのシュークリームが美味しいと聞いていたので、総会が開かれる会議室に用意してもらった。前日慌ててつくった収支報告書をくばり、副会長の選出も含め無事終了。いよいよ宴会。コンパニオンさんも七人きて、座は次第にくだけてきた。それから、カラオケ、芸達者ばかりで、わたしはカメラを頸に、テープとクラッカーを手におお立ちまわり、やっぱりかずみさんの歌が最高だった。二次会でも大いに盛り上がり、温泉にはいってやすんだのは3時頃。



八百三十五の昼   2005.6.18   朗読会

 与野の朗読会に行った。彩の国芸術劇場小ホール、ここの大ホールでは、19日まで壌さんが卒塔婆小町に出演している。

 美しい日本語の響きだった。すみずみまで神経の行き届いた読みだった。19日夜明け前に書いた日記がミスですべて消えてしまったので、これを書いているのは実は21日である。しかし3日たったら朗読された作品がどのような物語かすっぽり忘れてしまったのだ。

 わたしも朗読をしないわけではない。朗読は朗読でよいし、語りは語りでよい。それぞれが已むに已まれぬ想いがあって歩いている。しかし朗読と語りには根本的な違いがあって、それがまたわたしが語りを続けている理由のひとつでもあるのだった。

 聞き手との交流、語り手がなげかけ、聞き手がうけとめ語り手にかえす。波の満ち干のような交流が朗読には希薄である。朗読者の拠って立つ所によっても大きな差が生じるのだが、以前友人が言っていた「作品に忠実に忠実に読めば語りといつか交わる」という意見にわたしは頸をかしげる。とても近いようだがどこか全く違う。

 芝居でいうパフォーマンス、音楽でいうインプロヴィゼーションに語りはとても近いのだ。理性ではなく霊感が司る世界だと思う。語られた物語の一節一節、ことばのひとつひとつは覚えていなくても、ものがたりが忘れ去られることはない。もちろん、朗読同様、語り手の拠って立つ場所によっても違うけれど。


八百三十四の昼  2005.6.17   夏

 今日は弟の誕生日だったとふと思いだして、浦和駅前の公衆電話からTELした。「声が深いね」弟が云った。昨年 仲違いして以来のことだ。落ち着いた弟の声に懐かしさがこみあげた。浦和で会おうか...義妹のあけみちゃんとも話した。心配かけてごめんね。

 なつが真夜中近く突然やってきた。友人の忘れ形見で娘のようなものである。いつものように恋の悩みだった。わたしは疲れ切っていたので たまに頸ががくっと落ち込んでしまうのだが、なつの答えはすでになつのなかにあって、わたしはただそれを示してあげればよいのだった。娘はいいものだ。




八百三十三の昼  2005.6.16 カタリカタリ(魂鎮め、魂振り)

 例会の日はどきどきする。なにが起きるだろう。どんなおはなしが聞けるだろうという期待と、どのようなエクササイズをさせていただけるかという高鳴りと不安で。

 今日の出席者は14名。まず、近江楽堂での桜井先生とニックのコンサートの感想、それから頭に柿の木をリレーで語る。まったく違う結末になってしまって大笑い。

 今日の発声は「馬鹿にしないでよ!!」転じて「馬鹿にすんじゃねぇ!!」相手と場面を想定して、ひとりずつ声を出してもらった。ほとんど連れ合いさんに向けた馬鹿にしないでよ!!だった。つぎに 「明けない夜はない、やまない夜はない」このままのことばで、つぎに暗い夜と雨としだいに明るくなるさまをイメージして、最後に落胆している自分のこどもに自分のことばで….最後のシチュエーションが実によかった。「ねぇ どんなに暗い長い夜でも かならず朝がくるんだよ どんなに雨が土砂降りに降っていても いつか雨はやんで 日がさすんだよ」聞いていて泣きそうになった。

 今日の課題は、モノを使って語るだった。

Sさん 新聞紙をつかったおはなしに大いに沸いた。

Hさん 自作の絵をつかって家族のライフストーリー しんみりしたり 大笑いしたり

Kさん ざるをつかって ちゃっくりがきぃふ さきちになりきった門田さんにみんな大笑い

Iさん 家族写真をつかってのエピソードに頷いたり笑ったり

Jさん 旧約聖書のダビデとゴリアテの話をミケランジェロのダビデ像をつかって語った。思わず 引き込まれた。旧約聖書のことは虹の階段やロトの妻の話などもっと語られていいと思う。

Uさん 沙羅 沙羅の写真をつかって夏椿にまつわる創作物語、白い沙羅の花びらに青い空が透けるのが目に見えるようだった、美しいお話だった。

Oさん ティッシュをつかった自作のおはなしと手品?に一同腹を抱えてただ笑うばかり

Oさん マジックボールをせがんだ幼い息子に心を鬼にして買ってやらなかった母としての自分、そしてフィードバックする蛍光ペンにまつわる思い出、親子三代のものがたりが手にした蛍光ペンから語られる。とてもいいライフストーリーだった。

 それぞれのメンバーの語りは わたしが期待したものをはるかに超えていた。モノや道具をつかってこれほど豊かな語りにつながるとは思ってもいなかった。そしてすべてが自分のことばで語られ、そのうちの多くが期せずしてライフストーリーだったことに驚かされた。仲間たちの進化は早い。わたしは抜かされてしまうかもとそれすらうれしかった。

 「宿題はつらいけど、みんなの語りが聞きたくてきてしまう」「みんなが自分のことばで語っているので心に沁みる」という感想に思い出すのは、語りは魂鎮め、魂振りであるということばである。琵琶語りの中村鶴城さんは神道では鎮魂とは本来魂振り、人間が本来持っている生命を輝かせ躍動させることであると述べている。

 それほど むつかしくかんがえなくても、語りの会のあと なんともいえない満ちたりた気持ちになるのは、語りがひとのこころを本来の明るさや優しさにみちびくはたらきがあるからではないだろうか。カタリカタリでは4月ころからエクササイズのあと 自然におはなし会になった。それはとてもゆたかな時間で、大切な時間である。




八百三十二の昼   2005.6.15 生き返った

帰って泥のように眠った。それで実際に書いたのは16日なのだが….

 給与計算終わった!!営業と2.3の部門で調整してなんとか納得できる数字が出せた。

とりあえず 月の難関 10日の支払いと給与振込みが終わってほっとした。社員と協力業者さんの会との旅行を4日後に控えて人数の確認をした。今回 病気やなにかで社員の欠席が多いのが残念だが、こころをつなぎ暖め、羽を伸ばす楽しい旅行にしたい。

夕方、雨がそぼ降るなか 昨日入院した社員さんのお見舞いに行く。持病の喘息で年に一度は入院するのだが 6月と10.11月がよくないようだ。病室にはいって声をかけたとたん、胸にこみあげるものがあった。この一年 彼がどんな思いを抱いて仕事をしていたか、わたしはよく知っている。先週子どもさんの入院もあって心身ともに疲れたのだろう。刀折れ矢尽きた兵士のように思え、なにも心配しないでゆっくり休んでというしかない。わたしは倒れない。前に ひたすら前に。


八百三十一の昼   2005.6.14  云えない

 立ちあぐむということば、あったかしら。どうにも前にすすめない。生まれるのにも赤ちゃんの意思があるのかしら。赤ちゃんは生まれたくないのかしら。もう15日、15日よりあとにって最初に約束したね。早くおいで 。年若い父にも母にも、年のいったわたしにもあなたは必要なの。今日は15日だ、給料日、朝方まで考えたけれど悩みは尽きない。給与システムそのものが制度疲労なのだ。つくりかえるには時間がかかるし、矛盾がいっぱいで、それは賞与とかなにかのかたちで..補填はできるだが、自分のなかで納得できない。

 完全な平等、100%正しい努力と結果に応じた査定などありはしない。それはわかっているのだけど、自分の手がかかわる以上は......給与単独でも.納得できるものにしたい。

 わたしは経営者側であって、ひとに会うのがいやで会社に行けないって変だけど 行きたくない。ストレス、トラウマ なんでもあれだ。逃げたいわたしは 子宮のなかでまどろんでいるベビーに出ておいでなんて云えはしない。

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八百三十の昼   2005.6.13   今日は

 本町小のおはなし会、手遊びいわしのひらきを初めてしてみた。こどもたちはいっしょにつきあってくれたけど、変なおばさんが変なことしてるなぁって思われたんじゃないかと思う。まだこなれてないから、ぎくしゃくして融通無碍というわけにはいかない。これは久美ちゃんに教わったのだが、だれかもう一度教えてくれないかなぁ....それからまどみちおさんの水はうたいます、川を流れながらをして、それから手白の猿を語った。

 かたっているうちに、この手の白い猿は人間の子のことだな、子のない夫婦が子を拾ってかわいがって育てたものの、実子が生まれてしまった。実の子はそれはかわいかろうし気持ちの行き違いがあったりして、別れることになったのか.....ほんとうにあった話がものがたりに変貌していったのだろうと感した。語りの世界に以前掲載されたらしいので、調べてみようか。子どもたちはなんて真っ直ぐな目で見詰めてくるのだろう。きのう、子どもたちの歌声を聞いて心臓が掴まれたような気がしたのだけれど、子どもたちがまっすぐなまま伸びてくれるように、できることをさせていただけたらとこころから思う。

 とりあえずはここで語って、心ある語り手をふやして、そして子どもたちに語ることを伝えたい。それから子どもたちのことを考えてくれる政治家の応援をする。わたしのできることは、聞く人の心にメッセージを届けること......選挙のうぐいす......ひとの心に!?と思われるだろうが、うぐいすもただ繰り返すだけ、いい声でさえずるだけではない。語りでできるのである。状況に応じたまったくのライブであるし、聞きたくないひとの心に届かせようというのだから、通じたときは語り手冥利に尽きるのだ。選挙は夏....

 りさちゃんのおかあさんからTEL、いよいよだ。住民税の打ちかえをしつつ、プラントの写真を撮りつつ、病院に三回顔を出した。りさちゃんは陣痛にも落ち着いている。とても自然なのだ。17歳、目が澄んでとてもきれいだ。わたしは内心心配もしていたが、りさちゃんなら大丈夫、ふたりで手をつないで乗り越えてゆけるだろうと思った。いとおしくて、帰り際抱擁した。明日には.......



八百三十の夜   2005.6.12  あしたから

 わたしは聞いてくださる方の奥底の霊性に向って語りかければいい。真・善・美 うつくしいものいとおしいものたいせつなものを語ればいい。ときに斃れたひとのかわりに、志なかばで逝ったひとのかわりに、戦争でなくなったこどものかわりに 若い命をちらした遊女のかわりに、御霊を鎮めるべく語ればいい。あしたからわたしはすこし変わる。水にかはって、空気にかはって、森にかはって語ろう。うつくしいもののためにうつくしいものたちにかはって語ろう。



八百三十の昼   2005.6.12   さぁ

 梅雨入りとか....大気が重く からだにまとわりつくようだ。水分と熱を含んだ濃い空気が肺腑をいっぱいにして、息苦しい。これから始まる長い夏を思うと気持ちが萎えてくるのだけれど、さぁ 行かなくては。

 ただ、楽しい時をもてれば、聞き手とひとつになれればいいじゃないかというのも正解で、わたしも あんまり考えすぎると疲れるなぁと思うのだけど、不思議でならないのだ。

 聞き手の前に立ったときのしんとした感じ、深い森のなかにいるような、天と地をつなぐ一本の高い木になったような感じ、聞き手と交わす眼差しの一瞬に流れる見えない糸のような細い光のようなもの.....また、場を司っている感じ、それぞれの聞き手の細い旋律を束ねて発光している、目に見えないものがたりの世界。

 わたしのなかの最上のものを差し出すのだが、なにかの力が加わってそこに現れいずるはわたしの手に及ばない世界なのだ。...だからわたしはきのうよりは今日、今日よりは明日、わたしの差し出せるものをより深く、より澄んだ、より大きなものにしてゆきたい。考えて行き着けるところではないとわかっていながら、すこしでも近づきたくて今日も書いている。


八百二十九の昼   2005.6.11 近江楽堂つづき (霊性)

 いや、すこし違う。付け加えるなら聞き手や観客が想起するものがたり、うちなるものがたりがたいせつだとしても、わたしが語り手としてめざすのは聞き手を引き込む圧倒的な力、磁場の強さを持つものがたりを語ることだ。悲惨な物語であっても、そのものがたりに美をこめる。視覚化されても、されなくてもいい。優しさ、真実、愛、切なさ、見えるもの、見えないもの、ことに隠されているもの忘れ去られたものから そして空や海、星、月、美しきものを伝えようと努める。その美の質によって、聞き手の意識下から想起されるもの、惹起されるものの質が変わってきはしないか。美しいものを感知するときひとは自分が霊的な存在であることを思い出す。自分がかっていたところを懐かしむ......そう、わたしがなぜ語るかといえば、わたしの霊性の名残が語ることによって光を帯びるのを感じるからだ.、なぜそう想うかといえばいと高きを尊び畏れる気持ち、幼きをいとおしみ、先達を敬い、虐げられしに手をのべたいと望み、美しいものをこよなくあくがれる気持ちに自然になれるから.......もう少し、もう少しだ、語りとはなにか、なぜ語りたいのか考え考えあるいてきた。見たり、聞いたりすると刺激を受けて先に進める。語ることや聞くことから直感的に捉えてきたことを、千の昼で、明確にしてゆく、これは自分との格闘であり、わたしのささやかな軌跡であるのだが、明確にしたあと、ふたたび語り、思考を重ねて、もしかしたら千でピリオドが打てるかもしれない。個人的な格闘でありながら読んでくださる方、受けとめてくださる方がいてこの場が存在するパラドックス。申し訳ありません、もう少しお付き合いください。

 何かしなければならない時に、他の事をせずにいられない人間を怠け者という。これはまさしくわたしのことだ。今日はひざが痛いのをいいことに食事もとらず水も飲まずPCして寝そべってあたまに柿の木を語って、弥陀ヶ原も語って、もう夕方。...明日はもっと大切な日だ、もう行かなければ。


八百二十八の昼   2005.6.10  近江楽堂・ステラマリス

 新宿の駅で20分迷い、カタリカタリのメンバーの危惧のとおり 京王新線で逆方向に乗ってしまい、櫻井先生とニックのコンサートが開かれる近江楽堂に着いたとき、第一部は終わっていた。

 二部がはじまり、スコテッシュ・ハープの第一音が響いた時、わたしのなかでなにかが起こった。繰り帰しのリフレイン......いつか、どこかで聞いたことがある..............キース・ジャレットの即興のソロピアノの旋律にも似ているのだが、...たぶん記憶以前.に遡るもっと深いもっと古い.....涙がとめどなく流れて.......どうしよう困ったと思った。櫻井先生の声が重なる。サー・オルフェオが黄泉の国に攫われた后をさがすものがたり.....ハープの音色 先生の声....仕事のうえで人を信じられず、そういう自分も信じられない修羅、不安のなかにいて....わたしはこの声、この響きを求めていた、ほしかったのだと思った。

 .....泉のように湧きいづる響きに身をゆだねているとき、わたしは、もしかしたら方策があるかもしれない....ひとを裁かないで...手をさしのべる方法があるかもしれないと夢のように想っていた。王と王妃の帰還のものがたりにかずみさんとわたしをかさねていた。

 そうだ、これは芝居でも歌でも語りでも、よいパフォーマンスの持つ力である。聞き手や観客はうたやものがたりから自分のなかにひきおこされたイメージを知らぬ間に追っている。それは恋人や友人や家族との思い出であったり、ときには記憶の底にに封じ込めた痛みや切なさであったりする。そして無意識の奥の次元を超えた遠い遠い記憶であったりする。眼前で繰り広げられる芝居や音楽や語りと共鳴しあう自分のものがたり、もしかしたら、もしかしたら、それは、今聞いているものがたりより大切なものなのではないかとわかったような気がした。

 よいものがたりや歌は喚起する。しるべとなる。聞き手は観客はもう一度自分の痛みや記憶を呼び戻し、向き合い、抱きしめることができるのだ。ニックの英語のおはなしはよくわからないが、響きや身振りで察知はできた。けれど、やはり即座に体と心に呼応する、沁みてくるのは歌とハープだった。わたしも歌いたい、歌いながら語り、弾きながら語りたい。6月6日からはじめようとしていたこと、本気で始めようと思った。ニックと先生の掛け合い、頭に柿の木はただ、ただおもしろく、腹を抱えて笑うばかり、今度 こどもたちのまえでやってみる。カタリカタリから9人、トムの会から米田さんが見えた。なにか変わってくるような気がする。

 末吉さんや尾松さん、三田さん、砂知子さんと会えてうれしかった。尾松さんと約束ができてうれしかった。セミナーの仲間と一言三言ことばをかわせた。セミナーの仲間とはゼスチャーとでだって会話ができる。みんな元気でいてね。まゆみさんや大間知さんとも話せた。わたしはじたばた生きているから、端然と生きているひとの前に立つと恥ずかしさで饒舌になってしまう。時間がないのを言い訳に不義理ばかりである。それでも、いつか なにかで返せたらいいのだけれど。


 そのまま川口リリアにステラマリスを観にゆく。ダリさんに誘われて一女のマンドリンクラブの定期演奏会を聞きにいったとき、ついチケットを買ったのだ。けれども、おもしろかった、エリザベートよりずっとよかった。格式と歴史を誇るホテルステラマリスの再生のものがたり、今の時代にあうテーマだが、当然ストーリーはおさまるところにおさまるハッピーエンドである。レビューのテーマもそうなのだが、それでいいのだと納得した。和応ようか、花総まりの声が透きとおるようだった。観客もひとつになって手をうつ。拍手する。参加している。終演後の観客の顔はしあわせそうだった。「....みんな3時間も歌ったり踊ったりしている、わたしも仕事のことでめげないでがんばらなくちゃと思った、元気もらっちゃった」若い女の子の声が聞こえる。みんな同じ気持ちだと思う。

 声には力がある。歌には力がある。みなそれぞれの自分のものがtりを追いながらひとつになる。なりたいのだ。いっしょに手を叩き感動したいのだ。生きることは苦であるから、そういう場が求められているのだ。今は朗読より、語りが、より歌が双方向性の強さから力があるように思う。わたしもがんばろう。そういう場をつくる力を与えていただくために、もっと精進しよう。



八百二十七の昼   2005.6.9  改革の火

 朝、太田小 六年生のおはなし会、手白の猿をふたたび語る。子どもたちの視線が痛いようだ。惣が昔お世話になったT先生にお会いした、惣の結婚を喜んでくださった。

 火災保険、障害保険の切り替え、電話などでばたばた過ごした。午後明日の支払いに向けて SさんとPC相手に四苦八苦。1200万ほどの振込みと手形。やれ一安心で社内の受注発注のルールつくり、これから会社は変わる、変えねばならぬ。営業や現場担当者が実行も出さずに自分の裁量で発注金額を決めるようなゆるいやり方を変えなければならない。夕方はセガワールドの打ち合わせ、実行予算を見ながら外注費を決める。13%の利益を出すように求める。A社来社、勝手に印鑑を出して請け書を出してしまった担当者を叱る。印鑑は隠してしまった。

 友人からおとなのための語りを頼まれる。即座に「弥陀ヶ原心中」と答える。去年夏物語では、まだいささかのてらいや逡巡があった。ものがたりとわたしはひとつになってはいなかった。血の流れるような........命が燃えあがり、絶ちきられ、安寧に収斂してゆく 心中というよりは愛の成就の物語にできたら....7月18日。



八百二十六の昼   2005.6.8  全てを賭けて

 中央幼稚園のおはなし会の日、朝になっても なにをするか決まってはいなかった。手白の猿と魔法のオレンジの木、水のおはなし、参加型のおはなしが候補になってはいたのだが、三クラスあることではあるし 子どもたちの前に立ってから このうちのふたつに決めることにした。

 幼稚園では一部屋、おはなし会のために用意してくださった。最初にひばり組さん、「あっ 森さんだ!」年少さんのとき、一回会っただけだが、子どもたちはみな わたしのことを覚えてくれていたようだった。この四月に年長になったばかりの子どもたちは思っていたよりずっと幼くて、即座に出しものが決まった。ろうそく ぽっ ♪もひとつ ぽっ ♪おはなし会がはじまった。

 手袋人形 「たんぽぽ ポンと咲きました」わたしはおはなしひとすじできたので 手袋人形ははじめてだった。子どもたちは目をまるくしていた。それから 手遊びいちべいさんをして じゃんけんポンで盛り上がって、ジャックとどろぼうにつなぐ。子どもたちは、もううれしくてしかたがない。つぎにパネルシアターでまどみちおさんの積み木、パネルもはじめてだった。最後に「手白の猿」、方言で語ることに躊躇いがあったのか、自然に標準語になっていた。2.3人 そわそわしていたが ほかの子どもたちの目線はまっすぐこちらにむかってくる。最後にろうそくの火を消した。

 2クラス目のつばめさんでは構成を変えた。たんぽぽのつぎに手白の猿、最初から方言で語った。群馬弁は秩父弁に近い。おさだおばちゃんから聞いていた耳に馴染んだ秩父弁で語っていた。途中 こどもたちが下を向いてしまったのですこし気になったが、椅子からたちあがっていつのまにか全身全霊で語っていた、おわったあと。てじがかわいそうだった。泣いちゃった。の声。クラスの半分の子どもたちが泣いていたのだった。「爺さまはちっとんべいの畑のせっちょうして.....」子どもたちは方言ごとすっぽり おはなしを受けとめてくれたのだ。届いた.....胸がしめつけられるようだった。今まで民話を語ることに気持ちのうえで踏み切れず、語ってはみてもどこか上すべりの気持ちがぬぐえなかったのだが、手白の猿ではじめて、民話とわたしの根が結びついたように思う。それからは子どもたちとおはなしとひとつになって、ジャックと泥棒もバージョンアップ、子どもたちは小屋のまわりに音を立てないように真剣なまなざしで集まってくる、分け前の金貨に目をきらきらさせて手をのばしてくる、最後のうぐいす組ではもう跳んだり撥ねたり、おまけのお馬はみんなぱっぱか走るで先生たちも子どもにかえり、わたしも膝の痛みなんかすっかり忘れぴょんぴょん撥ねた。おはなし会が終るとどのクラスも子どもたちが回りに集まってくる。森さん ありがとう 森さんまたきてね なかにはお疲れ様でしたなどというおしゃまな子もいる。三クラス終って、ステージをふたつしたような燃え尽きた感じがした。ふわふわと廊下を歩いた。

 事務室でお茶をいただきながら、年配の先生が.....全人格をかけて子どもたちに接して.......と云ってくださって、そういう風に見えるのかと思った。そしてそのようにわたしを開かせてくれた子どもたちにありがたい気持ちでいっぱいになった。会社にかえりおむすびをかじりながらわたしは泣いていた。むかし子どものころ 全力を尽くして走りたいと願っていた。いつも、いつも自分を出し切れないもどかしさがあった。わたしはなににおいてもまだまだだけど、子どもたちの力を借りて、お年寄りの力を借りて師や仲間の力を借りて、自分の持てる乏しいものを惜しみなく差し出せるようにしてもらったのだ、いつの間にか。みんなと繋がっていられる、語っているあいだは。


 午後H機械、営業と技術の三人の担当者が説明に来た。環境展で出した条件ができなかったという。炭は真円に近くもならないしピンポン玉の大きさにもならず、歩留まりときたら話にならない。可能性がないわけではないが丸める機械はこれまでで、炭化機械を買ってほしいという話にわたしは、うちは社運を賭けているのだということ、この会社で働いているひとのことを考えれば、かもしれないでは一歩も前に踏み出せないのだということを話した。仕事をとおして、こどもたちのために リサイクル社会をつくってゆく一翼を荷いたいのだということ、一本でも多く木を残したいのだということ、そのためにH機械とパートナーを組みたいし、このことはH機械の販路を広げることにつながってゆくのだから、あきらめずに可能性をさぐってほしいと頼んだ。全身全霊を賭けて語ったと思う。営業はともかく技術の若い田中さんにはなにかが伝わったと思う。
信じて待とう。


八百二十五の昼   2005.6.7  契約

 大安の今日契約した。一歩を踏み出した。かずみさんはうれしそうだった。社員さんの子どもが入院した。グッチのサンダルの件、」解決した。トムの会例会に行った。県立図書館で読み聞かせ、ストーリーテリング指導者養成の講座の申し込みをした。20人が選考されるそうだ。講師はおふたりとも東京子ども図書館の方だった。語り手たちの会からも指導者がくればいいのにと思った。

 県立で橋本さんとこころゆくまで話した。わたしは橋本さんが今の指導者のもとで得ることがあるとは思わないが、橋本さんの気持ちは理解できる。橋本さんはやさしいやさしいひとだから、どこにいても橋本さんらしさを失うことはないだろう。今日は庄司さんともはなしができた。それぞれの語り手たちがそれぞれの地平に向って薄明の大地を歩いている。だれのかわりになることもできないが、声を掛け合うことはできる。

 連絡会で八部門の今期9ヶ月の予算対比の売り上げを示し、部門ごとに今後どうしたらいいか意見を聞く。運搬、リサイクル、標識は予算を超えた。カッターはとんとん、土木、建築、ラインは大幅に落ちている。各部門の分析は後日。

 橋本康子さんがかごにいっぱいの桑の実を届けてくれた。ありがとう!甘酸っぱい桑の実を口に含むとなにか思い出しそうになるのだが、思い出せない。叔母が伊豆の干物をおくってくれた。


八百二十四の昼   2005.6.6  山の上

 今日は小さな山の上からこれから歩いてゆく道を見晴るかしている気分、きのうはかずみさんと喧嘩して、もう、たくさん と思ったのに ひとはささいなことで立ち直れるものだ。

 午前中会社のそうじをしてデッキブラシで玄関 勝手口を水洗いした。床も拭いたのでざらざら感がなくなった。あちこちにTELし、今期の損益を概算でまとめてもらったので少しほっとした。予算実算の比較をする。残り三ヶ月の予算を組む。営業のローラー作戦を開始する。できれば6月中に正しい損益を出したい。そしてそれを賞与に反映させたい。

 予算管理、そのための営業管理、現場管理、結果としての利益を社員さんに配分する給与システム、そして営業社員、現場社員の教育システムの確立、ここではじめて円環が確立する。目標の設定、目標達成のためのプランの作製、実施、評価、新たな目標の設定......

 新しいことを始めるにあたって、足並みを揃え、立っている場所ならびに目標を確認する作業が必要となる。そのための準備の端緒についたところで焼け付くような焦燥感がすこし薄らいだ。営業の評価のための帳票も出してみたところ使えそうであるし、とりあえずセガワールドの実行予算をシステムに落とすこともできそうだ。細かい実際の作業はそれぞれのひとに任せることにして、わたしはデータを統括し、必要な部署に配布し説明する。

 わたしの仕事はそれぞれのひとに今立っているところ、現実の状態を気づかせ、よりよい状況にするよう目標を立てさせ プランを実行させ、それらのことが自発的にできるよう教えることである。そして評価し、努力と結果に応じた利益を配分することだ。

 それができてはじめて 時代の要望に応えられる会社へ脱皮できると信じる。TELの応対、来客の応対、社員さんと打ち合わせ、保険会社、会計事務所、労務管理事務所と打ち合わせ、長らく休んでいた雇員を叱咤激励し、葬式の花輪の手配をし、アイスコーヒーをいれ、伝票を整理し、出勤簿をつけ、忙しく一日が終る。



八百二十三の昼   2005.6.5  立っている場所

 聞き手や観客となっていいことは、ひとの立っているところより自分の拠って立つ場所、旗色が鮮明になることだ。昨日の感想を読み返して見たら、かもしれない が三箇所もあって思わず自分に笑ってしまった。聞き手として他の語り手や朗読者の批評はすまいと決めたのに思わず書いてしまった。それでも極力セーブしようという心の動きが かもしれない にあらわれてしまったのだろう。

 細かくいえば、注文がないわけではないが 一聞き手としてわたしは その物語の世界に運んでもらえさえすればいい。...すると上手い下手など問題ではなくなる。実際上手さとはなんだろう。上手さが聞き手のこころに物語が沁みこむじゃまをすることもある、さらさら流れてしまうからだ。物語が聞き手の心に届く邪魔をしているものはなにか。子どもたちの歌や朗読はそのままで聞く者の心を打つ。昔聞いたおさだおばちゃんの昔話が今もわたしの耳に残っている。...とすれば阻害しているものは稚拙さではなく、むしろ語り手自身や朗読者の発する余分なものではないかと思う。文字に頼れば文字が聞き手に見えてしまう不思議、上手く聞かせようと思えばそれも聞こえてしまう不思議、語る自分、朗読する自分が目的であればそれも聞き手には伝わってしまうのだ。

 語りと朗読の比較をしようとは思わない。聞き手や観客の魂をせめて心臓を、どれだけ揺り動かすことができるかの一点で語りも朗読も芝居も歌も決まる。語り手として、歌い手として、役者としてわたしは及ばないまでもそのことのみを自分に課したいと夢見、自分の裡なる余剰や不浄を削ぎ落とそうとつとめる。よい語りや朗読はよい代弁でもあって作者や幾世代もの語り手や逝ったひとびとの思いをも重ねている、ゆえに聞き手の人生、来し方、果ては前世の記憶まで揺り動かし甦らせたりもする、幾重もの波が押し寄せ余韻を残し、やがて消える。しかし消えたとしてもよい。膨大な記憶の海の底に沈んだそれは、いつかそのひとが必要な時にきっと甦ってくると信じるからだ。だから、文字ではない、ことばではない。魂をのせた聲を聞きたい、発したい。



八百二十ニの昼     2005.6.4  大崎にて

 会社でトイレそうじをしたり、現場用の合羽をクレンザーで洗ったりしたあと、午後から大崎の朗読会に向った。湘南新宿ラインの快速に乗りグリーン車を奢って手白の猿をわたしの心とからだに入れるはずだったが途中でうとうと、テキストを手直ししないと入ってこない。月曜の本町小のおはなし会に語れるだろうか。1時間もかからず大崎には着いた。

 会の代表は飄々とした方だった。友人の信奉の深さや、以前掲示板荒らしの件や語りと朗読との論争でメールなどのやりとりをしたことから、もっと教祖的な方だと思っていたので、油が抜けたというか仙人みたいな雰囲気にうれしい驚きだった。

 走れメロスは小川のところから、急によくなった。川の流れる音が聞こえ、落日に照らされる木々の葉のふちが燃えるように輝くのが見えたように思った。前半文字に囚われすぎ、ことばに力が入りすぎて、メロスの心情が浮いてしまい届かなかったのが惜しまれる。
 坊ちゃんは軽妙なやりとり、なかでも下宿のおばさんに味がある。しかし坊ちゃんの地の語りと台詞は若い女性にはむつかしかったかも知れない。もうひとつ、緩急に難がある。リズムが一定だと眠くなってしまう。

 五重の塔、一徹な職人とその妻の会話、出だし、テキストを見ずに語られたところからものがたりにすっと入って行けた。透明感のある気持ちのいい読みだった。途中心情の変化の表現が唐突だったような気もする。心情の襞を地の語りだけでなく台詞でも表現してほしかったが、これは望みすぎかもしれない。もうひとつ望むなら声の表情、緩急、大小、間が今ひとつ、とんとんと流れてしまったように思う。

 雪の夜の物語?急遽ピンチヒッターとしての登場だったが掘り出し物で、ぐんぐんものがたりに引き込んでくれた。荒削りで大雑把なところもあるのだが、その若さや躍動、生き生きしたところが笑わせ、考えさせもしてくれた。主人公が若い女性であったところも朗読者のすなおな地と会い待ったのかもしれない。これからの課題は全体の構成であろうか。序破急、あるいは起承転結、ことばのひとつひとつも重要だが、全体のなかでどこにスポットライトを当てるか。作者はいったい何を伝えたい?網膜に映像が残る、その映像自体がもっと鮮明に伝わってもいい。これにはイメージする力が必要だ。

 そして友人の人でなしの戀、若妻京子の告白にはじまる、懐疑、不安、嫉妬が否応なく、旧家の土蔵へわたしたちを誘う。よかった。どうしても聞いてほしいという友人のことばが頷ける朗読だった。大崎まで来てよかった。終ったあとで京子の情念を表現したかったという友人のことばに軽い違和感があった。それは十二分に表現されているのだが、京子を通して門野と雛(ひいな)との恋、ひとと異形のものの恋、在り得べからざる、隠微な、しかし美しいモノかたりが語られなくてはならないのではと感じたからだ。京子の目線を通して物語は語られる。したがって京子の心情はないがしろにできないがバランス的には京子に少し偏りすぎていたきらいはある。見えざるものを語るには見えざるものを見る目を持たなくてはならない。見えざるものの奥は深く深い。文字を追っているだけではたどり着けない。京子に今ひとつの揺れがほしかった。京子にいささかの悔いはなかったか、人形に負けたという敗北感はなかったか。終盤のたらり以降には少し抵抗があった。私的にはもう少し美しい余韻をもって終らせてほしかった。しかし今日の朗読者のなかで唯一、間が生きていた。素晴らしい読みだった。

 メフィストはおもしろかった。かろみや飄々とした味わいは出そうとして出せるものではない。しかし、なにが、なにを伝えたいのか、リズムの心地よさは眠気をさそう。うとうとしていたひとが幾人かいたのは事実である。

 正直のところ朗読会に行ったのは生まれて初めてである。全体に感じたのは朗読では時間の関係上小説の一部分を読むことが多いので、聞き手は佳境で置いてきぼりを食ってしまうことがままあるのだということだ。作品の切り取り方にもよるのだが次から次へ物語が切れ切れに終ってしまうのはもやもやしたものが残って自分のなかではよろしくない。それもあって、雪の夜の物語と人でなしの恋はより心に残ったのだろう。

 夏物語で友人に投げたボールが大崎で戻ってきた。さぁ どうする!?わたしは日々の仕事にまみれ、勉強らしい勉強はしていないしなぁ。でも、ボールは返さなくては......

 壌さんの卒塔婆小町のチケット、楽日が手に入りそうなのだが、その日はもしかしたら会社の旅行!?



八百二十一の昼     2005.6.3  記念日

 今日は26回目の結婚記念日だったのだ。けれど惨憺たる記念日。現場で二件小さな事故、ひとつは解体現場で万年塀にヒビが入って弁償。もう一件はセガワの現場で規制(カラコン-赤白の三角錐で入らないようになっている)を乗り越えてカップルが侵入し、サンダルに生コンがついたので弁償してくれというもの。グッチの限定品だそうだ。なんで無理やり入ってくるのかわからない。なかには金品目当てでわざわざ転んだり、着物や車を汚したりする輩もいる。

 役所やゼネコンは事なかれ主義だ。なぜかといえばお金を出して弁償させられるのは下請けの業者だから自分の懐はいたまない。現金を払ってくれると約束すれば、本社にはこのことを連絡しないとか元請の監督に脅迫としか思えないことを云われたので心底腹が立った。「わたしがその第三者と交渉したのなら責任をとりますが、監督さんが交渉なさっているのだし、いくらかかるかわからない原状では明言できません」と云っておいた。保険会社はサンダルを預かりたいという。その被害者はサンダルは返してほしい、お金もほしいのだそうだ。謎である。

 それからセナラの現場で金額が決まったにも関わらず50万も負けさせられたことを知った。約束はひとつも守られなかった。現場の管理もできないで大赤字、それをみな下請けにおっかぶせる。最低の会社だ。どれだけ努力してあの現場を仕上げたというのだ。それを承諾したかずみさんの弱腰にも腹を立て、「支払いもしてください、わたしは知りません」と家を飛び出た先は会社で、結局夜中まで仕事、なんてばかなの。
 
 今日はSさんがなにくれと手伝ってくれた。しかし「奥さんには雑用をしてほしくないのです」という彼女のことばはわたしに大所高所でものを見り余裕を持ってほしいという意味だけではなかった。「七転八倒して苦労しているのはわかるけれど、奥さんが雑用(振込みとか)をしたあとは修正がたいへん」という隠れた本音もあったわけで、痛烈な一撃にわたしはほんとうにがっくりしたのである。


八百二十の昼     2005.6.2  供物

  手紙が二通きた。幸子叔母さんの手紙にはいとこ会が楽しかったこと、まだその余韻が残っていること、そしてわたしへのねぎらいのことばがしたためてあった。うれしかった....はやく住所録やあの日の思い出をまとめなければ。幸子おばさんは従弟の直弘の悲劇的な死のあと別人のようにやつれていたが、気さくであたたかいもとの、いや以前よりもっとやさしい叔母さんになった。直弘の姉、章子ちゃんに孫昌哉くんが生まれてから格段に回復しように思う。

 昌哉の眼差しはっとするほど直弘に似ているときがある。直弘たちは幼い頃面倒をみたり縁は深かったのだが殊に亡くなる前後、彼とわたしのあいだには強い交流があった。人智では考えられないことが起こり、わたしは彼のメッセージを受け取り、心のなかで約したことがある。まだ果たされていない約束が墓参りのときなど甦ってきて、わたしを狼狽させるのだけれど、いとこ会のことなども約束のひとつにしてくれないかななどと甘い考えになる。わたしがこの世の勤めを終えるとき、きっと彼も迎えにきてくれるだろう。その前に果たせるだろうか。

 もう一通は語り手たちの会の会報と会誌だった。片岡先生の書かれたものと手白の猿のはなしが印象に残った。8日、中央幼稚園で30分ずつ3クラスのおはなし会がある。ひとつは手白の猿を語ろう、子どもたちは手白の猿に自分を重ねるだろう。幸い、上州弁と秩父ことばは似ているので、方言で語れると思う。さて、あとは手遊びともうひとつのおはなしをどうするか。今月はおはなし会がたくさんある。おはなしをすることはわたしにとってこよない歓びであるとともに苦しみでもある。終ってみれば楽しかったといえるのだが、それまでよい語りをしたい、自分の心とわざとをもっと高めなくてはというプレッシャーがあるからだ。

 本番まえは少し緊張している。いつも、いつも.。....慣れるようになったら、自分では終わりだと思う。しんと心がしずまり底にぴんと緊張の糸が張り詰めているそのときが好きだ。語ることはわたしの感謝と贖いのひとつ、天と地へのささやかな供物である。

 かずみさんが千葉から帰って急に具合が悪くなったので、血圧を測ったり、熱を測ったりしたが原因がわからない。昼食にあたったのかもしれない。


八百十九の昼     2005.6.1  空の色

 午後、浦和に向う。時間がないとて電車に飛び乗り、かたすみで化粧。あんなに軽蔑していたことを自分でやっている。藍染の空の色のコート、空の色のドレスで一番会いたい方に会いに行く。

 帰り、伊勢丹の京都展に立ち寄ると古裂を商っていた。大正、昭和の着物の柄は目を欺くように美しい。当時の女たちが纏った赤い襦袢の麻の葉模様が切なく目に沁みる。帯はどれも短かった。着物の丈も身幅も足りなかった。けれどわたしは薄青の朝顔の絽や緋色の絞り、墨色に千草を染め上げた振袖から目が離せなかった。

 たぶん、1000の昼が成就するころにはすべて決まる。

 生まれてくるベビーに「急がないで、5日の日曜日まで待ってね」と30日に話しかけたのだが、(わたしの手を蹴って返事をしたみたい)いつ生まれてもおかしくない、もっているのが不思議なくらいだそうだ。4日 大崎の予約を入れないほうがよかっただろうか。



 


八百十八の昼     2005.5.31 賽は投げられた

 昼食を二度食べた。11時に自分でつくったお弁当、12時にSさんのお宅でうどんをご馳走になった。わかめとちくわの磯辺揚げが美味しそうだ。小学校の給食でうれしかったのは鯨の竜田揚げと磯辺揚げだった。試験捕鯨に反対しているオーストラリアの人に怒られそうだが、牛は食べていいが鯨は食べてはいけないというのがよくわからない。

 菜食にしたほうがもちろんいいのだが、菜食のスターってインパクトが薄いように思う。たとえばキャメロン・ディアス、リチャード・ギア、ナタリー・ポートマン、オーランド・ブルーム.....もしジョニー・デップが菜食主義だったら、明日から菜食にしてしまうかもしれない。

 .....で、Sさんはいうのだ。「奥さん、やるしかありません」午後きてくれた会計事務所の又さん、いつもは新しい事業を始めるとき、懐疑的なのだが今日に限って「賽は投げられたのです」と確信を持って3回も云うのだった。


八百十七の昼     2005.5.30 牛に曳かれるように

 死んだ父はわたしにいくつかのあだ名をつけた。わたしばかりでなく、家族の誰彼、親族にもあだ名をつけて、悦にいっていた。

 すこしばかり失礼なあだ名が多かった。たとえば母を”なっちゃん”と呼んだ。母は本名はトシ子というあたりさわりのない名だが、それではおもしろくないと思ったのか、夏生まれだから夏ちゃん.....ときには”ナチス党の党首”とかわけのわからない愛称?で呼んで、ふざけてハイル、ヒットラーなどと敬礼していた。わたしの子ども時代、母は家族の上に君臨していたから、精一杯の皮肉だったのかもしれない。

 わたしは”春の海ひねもすのたりのたりかな..”.などと呼ばれた。生来おっとり..といおうかのんびりした性格だったのだ。それが”くらうしさん”とか呼ばれるともういやでしょうがなかった。その心は暗闇から牛を引き出すようだというのである。かように昔から、よほどのことがないと動き出せないのである。しかし一度火がつくと、、油紙に火がついたようにしゃべり、目的に向って周囲もかえりみず突進する。やっぱり牛の性かしら、干支は寅、それも五黄の寅であるが。

 ほんとうは新しいことなどしたくはない。けれどきのう銀行がきた。借り入れの書類に判を押した。不動産屋は工場の本契約を迫る。F社は3センチまで炭を丸められるといってくる。さぁ動かなくてはならないか.....

 切迫早産で入院していたりさちゃんが一旦退院することになった。骨盤のレントゲンを撮るという医者に「(レントゲンなどとって、母体と胎児に)だいじょうぶなのですか?」と尋ねたらキッと睨まれた。「それじゃぁ やめますか?そのかわりなにがあっても知りませんよ」女医さんであるがこういう医者はちょっと恐い。

 長男が生まれるのと期を一にして、会社を登記しふたりで会社をはじめたのが24年前の三月の終わりだった。孫息子の誕生とともに新しいスタート、これもなにかあるのだろう。夜、疲れてかずみさんのかたわらシングルベッドに横たわっていたら、そのまま眠ってしまった。夜明け近くまどろみのなかでかずみさんから抱きしめられているのにきずいた。久しくないことである、このまま時が止まってしまえばよいのに。


八百十六の昼     2005.5.29 女王ファナ

 一日中、怒鳴っていたが、子どもたちはひとりも!!そうじに乗ってこない。ひとりで大掃除したけれど、思ったほど進まない。カリカリして夕食をつくらないストライキ...あしたは家出すると宣言。子どもじみた言動に我ながらあきれる。

 そうじのあいまにいろいろなものが出てくる。次男の七五三のときのピンタックのついたシャツブラウス、クリーニングの袋にはいったまま何年たっただろう。ブランドものなのでしっかりしているから、彼の息子が着られるだろう。買ってそのままにしておいた本「女王ファナ」生涯の大半を幽閉されて過ごした、カスティーリア女王イサベルの娘にして新生ローマ帝国フェルディナンド一世の母、才と美貌を謳われた狂女王の一生の物語である。ほんとうは狂ってはいなかったという説がある。

 ちかごろ、本をよむたび思うのは語りになるだろうかということで、これは本を読む純粋な歓びを奪っている。ほかに北村薫の秋の花を読み返した。が、犯人がだれかすっかり忘れ、秋海棠が別名断腸花ということも忘れていた。悲しみのあまり流した涙が地に落ちて咲いた花だという。
 それからティンガの青い石という自作の童話を読んでみたが、たいそうおもしろく途中で終っているその先が読みたくてならない。しかし作者はもうすっかり忘れているのだ。そのときの霊感に動かされて書かないと煙のように物語は消えてしまうのだった。

 かくて、日曜は終わり、明日からまた一週間、どきどきして忙しくてつらい一週間がはじまる。



八百十五の昼     2005.5.28  冷静に

 昨年の6/4、「足を切断しなくてよい」と自治医大の医師からかずみさんが告げられた日だった。一番はじめにメールの活字が大きくなったのは。それから都合6通のメール、Sさんからきたメール、わたしが出したメールの一部の活字が大きくなっている。もちろん、ふたり以外の交信では起きない。

 ならべて 読み返してみる。そこにはあるメッセージがこめられているようだ。@わたしは会社に行かなくてはならないということ。(このメッセージのせいばかりではないが、1年前とはうってかわり、今は毎日朝から晩まで会社にいる。)Aわたしは人間としてもっと変わっていかなければならないということ。B会社の新しいシステムをたちあげること、それは単に骨格の問題でなく、理念がこめられていなければならないということ。CSさん自身のこと。

 わたしが仕事から逃げたくなるのは決定しなくてはならないことが多すぎるからだ。そしてそれが会社の進む方向や社員さんたちの生活、わたしの家族の暮らしに直結するからだ。今しも、工場買取、機械購入、借り入れの契約の直前である。わたしはそんな器ではないし、どうしたらいいか思い惑うこと、立ち尽くすことがままあった。

 起こり得ないこんなことを書いたら心霊サイトと思われるだろう。あたまがおかしい、とてもついていけないと思う方もいるだろう。けれど、きのう わたしは今までの悩みや逡巡を忘れ、仕事に打ち込むことができた。もしなにかの意志が働いているのなら、善かれと思うことのために進んでゆける、手を取り合える仲間とともに。信じられないことをわたしは幾度も見てきたし、感じてもきた。それは時に現実の感覚よりもっと真に迫り、生々しいものだった。目に見えない世界はたしかにある。語り手はそれを感知しているはずだ。ものがたり、神話伝説のたぐいはありえないことに満ち満ちているのだし、語り手がそれを信じて語っていなければ、聞き手に届くはずもない。

 さぁ こころおきなく進もう。6月には語りの場もたくさんある。そうだった!!あしたは本町小のおはなし会、思いだしてよかった。。


八百十四の昼     2005.5.27  どうすれば

 今日はいろいろなことがあった。次男の原付の無免許の件で呼び出しがあり簡裁に行った。迷子になってドアを叩いたら従兄の淳一さんと思わぬ場所での再会があった。淳一さんは執行官をしているらしい。帰り、しばらく心の通わなかった次男とひさしぶりに通いあうものがあった。この子はやさしい子だった。かずみさんとの葛藤やトラウマのことはじめて聞いて震えるようだった。そんな風に思っていたなんて。たしかにこどもたちが幼いころ、かずみさんは親になりきれていなかった。彼のなかには永遠にこどものところがある。だから夢をめざしてゆけるのだ。たぶんわたしが彼を愛している半分も彼はわたしを愛してはいない。必要とされているだけなのだ。

 それから会社に戻った。Sさんとのメールのやりとりで一部のフォントがまた大きく 変わっていた。恐い。背筋が寒くなった。なにを求められているのだろう。わたしはなにをすればいいのだろう。こんなこと起こるはずがないのに。逃げたいけれど逃げられない。どうすればいい。
F社は


八百十三の昼     2005.5.26  環境展で
 
 かずみさんに誘われて東京お台場近くビッグサイトで開催されている環境展に行った、晴れ上がった空、そよぐ風、ダークスーツが行きかうなかわたしたちは少し場違いに見えたかもしれない。これからリサイクルの世紀である。地球のために子孫のために、環境を守り資源を有効に使わなければならない。それがいよいよビジネスになる。出店した数百社のブースからは熱気が伝わってくる。

 最初に炭化装置を見た。熱を加えるものがほとんどで埼玉県では許可が出ない。また、ゴミの減量化を目的とするものがほとんどでこれだけでは意味を成さない。

 F社のブースに行く。流れているビデオに映っているのはうちのプラントだ、機械を動かしているのは熊木さんだ。課長が景品の時計をかずみさんにくれた。F社の別会社の技術者と営業が来ていたここではじめてかずみさんの意図がわかった。早く契約をということなのだ。それで「 ピンポンだまの大きさに炭を丸めること、そのときの成分比をだせるか、センサーで選別は可能か試験するよう」に求めた。多額の投資をするのに商品化の目途がつかねば発進できない、ビジョンだけでは。

 本社の部長、課長に「時計はたくさんあるのでもういりません。もっと別のものがほしい。これまでと同様に御社の販売には協力するが、パートナーとしての付き合いをしてください」と話した。景品の時計、感謝状では子どもだましである。何十億もの売り上げに貢献してきたのだから。

 八時も半ばをまわって久喜座の練習、秋黄昏て 少し疲れる。
 イエロウズの芝居のチケットを予約、山下さんのワークショップを予約、座も予約。


八百十ニの昼     2005.5.25    早く

 小出さん、宏子さん、早く帰ってきて、わたしを支えて!


銀行から5000万融資OKのTEL、二日で決まった。さぁ どうする。


八百十一の昼      2005.5.24   ふたり語り

 お昼過ぎ、会計事務所の又さんから「たいへん残念なニュースですが...」という前置きのTEL。「税調が取りやめになりました」まあ なんて残念なこと、ふたりで笑い出してしまった。準備万端整えて待ち構えているつもりだったのだがこないなら仕方が無い。すこし残念な気もしたが夕方暗くなると背中に羽でもはえたかのよう。税調はこない、さぁ やるだけやろう!仕事も語りも!!

 5月の売り上げは惨憺たるものだが、明日を信じて歩き出そう。連絡会のあとりさちゃんの病院にお見舞い。夜、朗読の山口さんからTEL、6/4に朗読の発表会とのこと、18日はネモさんの朗読会なので忙しいスケジュール。語りたい、山口さんは雰囲気が変わった、語りと朗読と立場は違っても以前よりずっと近いところに立っているのを感じる。こういう感覚ははじめてのことだ。山口さんとふたり語りの会を開きたい。それができたら.....


八百十の昼      2005.5.23   仕事 21本のろうそく

 疲れて動けない。その場、その場では若い頃と遜色なく動けても、終ってしまうと疲れがどおっと出る。これが年をとるということね...と妙に納得した。それでも気を取り直して仕事に行ったが、難しい解体工事を若い監督にやらせるのに実行予算も出さず、おっつけたままなのに心底腹が立った。「育てる気がないのか..」.とつい怒ってしまった。実行は出たがさっぱりわからない、自分だけわかっているだけなら意味がない。土木と建築とリサイクルは責任を持って管理する人間がいない。それだからあっちに気をつかいこっちに気をとられ自分の仕事がはかどらないのだ。

 管理とはなにか、よい芽を伸ばし、危険な芽をつむこと、見守って、育てる、気づかせる。あるべき状態であるように気を配ること。やらなければならない時には手を打つがそれは最後の手段である。わたしは自己管理能力のカケラもない人間だが、自分の立場と経験から、会社を伸ばすことはひとりひとりの自己管理能力を伸ばすことだと気づき、計画を立てている。しかしそれだけでは足りない。想像力が必要なのだ。まわりに寄り添うこと、まわりと少し先の未来を見わたすこと、そして一歩踏み出すこと。

 そう思いたくはないが教育水準と能力というものはひとつの限界にはなる。いくら云っても伸びないひとは想像力が欠けているし、自己に囚われている人が多い。少し疲れた。

 今日はまりの誕生日、21本の蝋燭をケーキに立てた。まりに渡したいものがある。仕事ばかりでカタリと遠く離れたところにいる。この修羅場にいることが語りに役立ったり、カタリを豊かにするなどということがあるのだろうか? ほんとうに!?

八百九の昼      2005.5.22   熱い血、冷たい血、抱擁

 母方の家は部落で一番膏薬を買うことで有名だった。朝から晩まで働く勤勉な一族で、叔父叔母も公務員が多い。固いのである。同じ秩父の出でも父方にはそれとは違った熱いもの、侠気 のようななにかに焦がれるような狂気に近いアブナイ血が流れている。わたしが語りをしているのもそのアブナイ血の故である。

 母方の叔父叔母はいいひとたちだがはっきりいってあまりおもしろくない。堅実で自分の生活はきっちり守るひとたちである。そのなかで子どもの頃から哲男叔父に惹かれたのは哲男叔父(レクイエムのなかに叔父について書いたものがあるが)のなかにどうしたはずみかアブナイものが流れていてそれがわたしのなかのアブナイものと呼応したような気がする。

 かといって祖父の槌蔵はただ吝嗇で働き者の人間ではなかった。秩父の高校の事務長の職を全うするかたわら畑を耕し、8人の子どもを育てた。ケチといってもよいほど物や金を大切にしたが困っている親戚に援助の手をさしのべたり、遣うべき時には金を惜しまなかった。きのう帰り際に「八人の叔父さん、叔母さんのうちでお祖父さんを越えたひとはいない、定年後のこれから頑張って、ひとや社会に尽くすという本来の小泉家の伝統を消さないでください」と姪の分際で意見をしてしまった。いとこ会は大成功だったが、叔父たちはこころなししょんぼりして帰っていった。

 いとこたちやその次の世代がバラけることなく、ゆるやかな結束を保ち語り合い、ほんとうにいざというとき、助け合えるような土壌が育まれたらどんなにいいだろう。今回蒔いた種がどうか芽を出しますように。

 みなに楽しかったと喜ばれてそれはそれでうれしかったが、ふたつ忘れ難いことがあった。ホテルの前でダニエレ一家を見送ったとき、ダニエレが突然わたしを抱きしめ、イタリア語で囁き、両の頬にキスをしてくれたのである。固い熱い抱擁だった。なにがダニエレにわたしひとりだけにそうさせたかわからない、下手なイタリア語の歌のせいなのか...それとも...ダニエレになにかが伝わったのだろうか。

 そしてもうひとつ出あいがあった。すべて終って夜中の大浴場にひとりになったとき、わたしは思わず歌っていた。歌いたくてたまらなくなり声が想いをのせて響く、奔る。誰もいないと思っていたら、脱衣所に残っているひとがいて、声をかけてくれた。きれいな声ですね......翌朝、広いレストランでばったり会い、フロントで会い、「あなたの歌が魂に響いたのです」わたしたちは再会を約して抱擁した。周囲からは奇異に見えたかも知れないがそれは自然なことだったのだ。そして久喜駅でに帰りちょうどそのことを思いながら歌っていると彼女がいた。偶然はない、たぶん。

 病院にりさちゃんを訪ねると、りさちゃんはスッピンで化粧気のない顔が幼くいとおしかった。家に帰ると手紙が二通待っていた。





八百八の昼      2005.5.21   鬼怒川温泉

 事務所で用事をすませ、ビンゴの機械を買って、梨紗ちゃんの見舞いに行けないまま、母と妹の待つ駅に向う。荷物はバッグにつっこみ、普段着ですっピンというありさま。特急に乗って落ち着いてから化粧をして戻ったら妹が目を丸くして「まるで別人だね、それだけ違うと(お化粧の)やりがいがあるでしょう」という。髪の色にあわせたあたらしい口紅と、十数年ぶりに目にブルーのシャドゥをさして気合を入れて化粧したのだが、そう云われると複雑な気分である。

 ホテルについたのは二時、修叔父と通叔母を待っていとこ会の打ち合わせ、続々と親族が集まり、6時から宴会のはずが、従妹の早苗ちゃんとつれあいのダニエレ、雄山と茉莉(あかり)の姿が見えない。叔父が気をもんでいたので20分待ってはじめることにした。乾杯、家族と近況の紹介、それから いよいよゲーム大会、おじいちゃんおばあちゃんチーム、おとうさんチーム、おかあさんチーム、子どもチームに別れ、血で血を洗う骨肉の争い、世代間闘争の幕明けである。

 一回戦は輪投げ、各チーム五名が二回ずつ輪投げをしてはいった階数で雌雄を決する。2回戦は各チーム五人の代表がじゃんけんで雌雄を決する。先鋒、次峰.....大将まで負けたら敗退。そして最後は風船を落としたら負けの全員参加の総力戦、老いも壮年も幼きもおなじように我を忘れ楽しんだ。優勝したのはおかあさんチームだった。それからビンゴ、二次会はわたしの部屋に集まってもらって夜中まで語り合った。ダニエレ、早苗ちゃん夫妻のことからスイス、イタリアの教育まで話ははずんだ。



八百七の昼      2005.5.20   ともかく前に

 20日 労務支払いの日、 銀行の融資の書類終わり、その他頭痛の種が4つ とりあえず消えた。行動しないとなにも生まれない、なにもかたづいていかない。めげずに一歩踏み出すこと、ぶつかってゆくこと。今日 いとこ会。ただし 梨紗ちゃんが入院した。早く生まれそうだ。そんなに急がなくていいと赤ちゃんに伝えなくては。

八百六の昼      2005.5.19   伸びる 伸びる

 8;50 例によってギリギリでカタリカタリのために紙芝居をつくる。「ピーター・マクニールの世界.」これは研究セミナーの課題400字の物語。6枚の絵を描いた。時間がないので枚数もたらず、雑な絵になってしまった。

 
 発声 サ行の滑舌・三種の異なる文をただの滑舌でなく趣向を変えたバージョンでしていただく、そのひとそのひとのの個性がおもしろく なごやかに笑いつつ爆笑しつつ。

 前回 おやすみの三人にがらがらどん、てぶくろを語ってもらう。Eさん、端整な語り、踏み込まない 客観的に伝えようとする意思を感じる。それはそれでいい。Kさん やさしいやさしい語り ふだん2.3歳の幼子に語っているせいか目線がやさしい、ただしときどき泳いでいるのは字を追っているのか。Sさん 導入に絵をつかったどんでん返しがおもしろく湧いた。大人向けのおはなしとしてもいいように思う。がらがらどんはおもしろいのだがなにか足りない、それとも多すぎる。

 前回がらがらどんを語ったOさん 格段によくなった、完成しているといってもよい。確実に階段を上がった。Hさん 前回練習しすぎてなぞっているとキツイダメだしをしてしまい、今日見えるだろうかと心配していたが、このひとは確実に山を越えた。すばらしいてぶくろだった。

 SYさん 前回と格段の差、トロールがことに見事だった。Jさん、電車の話、日常のなかの見過ごしてしまいそうなひとコマを絵とともに語る。このひとは実に奇想天外である。その切り口、語り方、わたしは彼女のような語り手を見たことが無い。そして、ものごとを見るその澄んだ視線。情に流されることなく、淡々と語りながら 真っ芯を捉えている。Kさん 今日はてぶくろ人形の新作、丁寧な作品、生きているリズム、そしてSYさんも画用紙を使ったのみのピコみたいなおはなし。

 すごいなぁ みんな空に向っている。回を重ねるたびに青草がぐんぐん伸びるように目に見えて伸びてゆくのがわかるのだ。いっしょに学んでこんなうれしいことがあるだろうか。わたし自身 語りがこんなにやはらかで、表現にしろ、題材にしろ無限の可能性のあるものだと知らされた思いだ。進んで行きたい。前に、前に。今日は自分で描いた絵でピーター・マクニールの世界を語るまではいかなかったが、話した。それからキクチマミさんの水のゆくえを朗読で...この物語もいつか絵とともに語りたい。今日のわたしのささやかなチャレンジ。

 みなが語っているあいだ、おふたりからイタイような緊張が伝わってきた。わたしも余裕がでてきたのだろうか。結局おふたりとも語らなかったが、そこにいてくださるだけでいい。次回でも次々回でも語りたくなるまで待とう。

 午後、ひとと会った。わたしはてらいなく恥じることなく隠すことなく、話した。お互いにいい時間を持った。ひとは理解しあえる。遅すぎるということもあるだろうが、気がついたとき、率直に非を認めるときは認め、賞賛すべきところは賞賛すること。

 いとこ会の通知を送る 夜更けまでかかった、凝りすぎるのだ。A4で4枚、あと一息。今日は頭痛の種が3つ終った。髪の色のせいだろうか?




八百五の昼      2005.5.18  赤

 朝から午前中にかけて仕事はかどる。夕方 会社を5時で終えて髪を染めにいった。北浦和の駅前、昔北浦和劇場のあった一角に美容室ガロがある。この四月から転任になった野田さんは見違えるように自身に充ちて明るかった。手ずからメッシュにしてくれたのだが、タンポポ色をめざしていたのに紅く染まった。

 あかは戦闘色だからいいことにしよう。帰りマルイに寄ったらしまっていて、ダイエーで画用紙とクレヨンを買った。


八百四の昼      2005.5.17  すこし待って

 どうして、自分がこんなにとりとめもなく感じるのだろう、いつからこうなったのだろうと考えてみたら、美容室に行ってからなのだ。今はどんなジンクス、まじないの力の借りたいのでちかじか髪型を変えてこようと思う。こんなうじうじしたわたしはいやだ。

 ヤマ電に行きプリンターを買った。地模様と見えなくもないが一年前からピンクの線が無数に走るようになっていた。無理して使っていたのだが会社のチラシを作成するためには新しいプリンタが必要だった。三代目のCANONのip9110をとりつけるのはなかなかたいへんで、三年前にくらべて体力が相当落ちているのを痛感した。こうして老いてゆくのかな....寂しくもないけれど。とりつけてから懸案だった自作のおはなしなどをプリントアウトしてみた。とんでもないスピードでA4 400枚以上あっという間に印刷してしまった。

  それまで手紙以外書いたことのないわたしが4年のあいだに よくこれだけ書いてきたものだと思う。語ったおはなし、語られないおはなし、幾度も幾度も推敲したあとがある。語るたびにものがたりは変わってゆくのだ。まだ書くことさえしていない物語が微かな風にふるえるようにわたしの掌のなかにある。すこし待って...かならずいつか出してあげるね、聞いてくれるひとにわたしてあげるね。


八百三の昼      2005.5.16  なにはともあれ

 給料日なので寝てもいられず会社に行く。辛抱の美徳は棄て、熱に任せて云いたいことをいってしまった。部長と支店長に「おふたりが会社のルールを守り、やるべきことをやってくれさえすれば、物事は気持ちよく進み、わたしも余計な仕事をしないですみます」しかしいったにもかかわらず、売り上げは入力されていない。タイムカードは穴だらけだ。土木は売り上げがWっているようで500万くらい多い。このふたりが変われば会社はもっとよくなると思うから波風が立ってもつい云ってしまう。つんけんしていると聞こえよがしにいわれたが傷つきはしない。傷つきなんかしない。何度も何度も変わってくれるまで云い続けようと思う。今になって歴代の事務員さんのグチと聞いていたことが骨身に沁みるのだ。自分の仕事が進まない。家に帰れないのだもの。

 アルバイトの給与をつけていて、タイムカードで計算するほうが日報入力でするより時間数がはるかに少ないというありえない事実に気がついた。一日30分は違う。なんのための入力か考えずに入力しているからだと思う。3月はチェックしないで支払ってしまったから総額で5万以上多く支払ったことになる。なぜこんなことがわからないのだろうとよく思うのだが、きっと本人はわからないのだろう。伝票を切る、入力する、自分の仕事の段取りをする、そこまで手取り足取り大のおとなにしなければならないのかと感じたりもするのだけれど、管理とはそういうものなのだろう。チェックして問題点を伝えること。

 いとこ会のほうもひとりの方にメールが届かず叱られたので、なにもかもお任せでなくTEL一本かける努力をしていただいてもいいのではないですか?と反撃した。「手を広げすぎるのでは...(連絡が行き届かないのは)」と云われたので「そういう性格だから今回の幹事もお引き受けしたのですよ」とカウンター、手負いの猪みたいだ。二時間かかってホテルと交渉したり連絡をとったりして目途がついた。娘に「おかあさん、それはハブカレタと感じて怒っているのよ、おかあさんの状況がわかっていないのよ 怒ってはだめよ」と諭されたがいとこ会の幹事はもう当分しない。

 なにはともあれふたつの案件はかたづきつつある。あした会社のチラシ作成はできる?部長の名刺は?新入社員の給与体系は?いとこ会の文書は?連絡会は?カタリカタリの絵本は?
あぁ 不可能だ。

大きな仕事が二本決まった。ふたつで5000万くらい。


八百ニの昼      2005.5.15  よいこと

 まだ形の上だけだが次男が所帯を持った。若いふたりはふたりで婚姻届を出したのだ。お寿司を8人前とり、かずみさんがホールのケーキを用意してくれて、新しい家族が増えたお祝いをした。

 疲れがたまっていたのと仕事が思うに任せぬこと、たくさんのことが山積していることが重荷になっている。かずみさんにセナラの現場が赤字だと告げたが、それははじめからわかっていたのだという。新しいそこの元請N社がうちの会社の機動力を買ってくれたので、ほかの現場でおつりがくるほど取り返せるという。「かぁちゃんに怒鳴られるとおれは心臓がバクバクして血圧が上がってしまうんだよ」とかずみさんは笑った。炭化機械のことはまだ契約できないとわたしは云った。10日の質問事項の返事がきていないからだ。

 かずみさんはわたしが事務員さんたちに遠慮し過ぎていると云う。わたしもこのままではわたしの身が保たない。大手にいたひとたちは完璧な書類を求めすぎる。自分たちは歯車のひとつでそのことだけをしていればいいのだがうちは小さな会社だからもっと踏み込んで寄り添ってほしい。結果美しい整理された書類や伝票は残るのだが、つながらないとこと余ったところ雑用のほとんど掃除までがわたしの仕事になってしまう。肝心なことが進まない。話し合うことが必要だ。

 小泉家の従姉弟会のこと、文書連絡は叔父さんにお願いした。荷物を減らしてすこしずつ軽くして、わたしにはやることがある。楽しみながらできたらどんなにいいだろう。

 眠れぬままに読んだのは広島県女二年西組、ファンタジーの系譜、ホイットマン、エリュアール、ブレイクの詩集。忘れていた世界、想念の奥の原初の光と闇、わたしたちの魂の奥底にはひたひたと川が流れている。耳をすまし心を清ませば必ず聞こえる。源流を遡り、見ること、感じることさえできる。目に見える現象、卑小なさまざまのことに翻弄されても忘れるまい。



八百一の昼      2005.5.14  熱

 きのう 無理して夜中まで仕事をしたら、朝ひどい熱だった。顔も腫れているようで、なんども口の内側を噛んでしまった。今日は絶望に近いところにいる。なにもかも捨て去って飛び立てるものなら......この深い淵も、からだの具合がよくなれば這い登ってゆけるだろうか。


八百の昼      2005.5.13    不可思議

 なんか変だ。心が遠くに飛んでいる。明け方 夢を見た。古いホテルにわたしは泊まっている。格式のあるホテルなのだが凋落は隠せない。わたしはかずみさんともうひとりの誰かと一緒にいて、エクストラベッドを頼もうかそれとももう一部屋とろうか考えている。そのひとりは息子なのだがなぜかとてもオドオドしている。なにかに怯えてでもいうようだ。いつしか息子はわたしの友人に変わっている。トランクルームが他所にリンクしていてわたしは荷物を片付けている。黒の長いタイトスカートが死体のように横たえられていて、そのポケットから夥しいものが出てくる。雑誌の付録、子どもの玩具、ガラスのネックレス、手紙......水の入った緑がかったガラス壜を数本置いて、あとは処分してわたしたちは車に乗る。後部座席にもうひとり誰かが乗っている。誰だかわからない、どの行くのかわからない。

 風邪をひいたようだ。寒気がする。

 
七百九十九の昼         2005.5.12  生と死 つづき

 エリザベートを観にゆく。仕事を終えてあたふた駅について気がついたら、握り締めたチケットは6月のステラマリスだった。取りに戻って、結局幕開きを見逃した。

 さすがに宝塚の方たちは姿が美しい。すらりとした身のこなし、信じられないほど長い脚、銀色の長髪や腰まで長い波打つ髪、マントや優美な純白のドレスが日本人でこれだけ似合う集団はないだろう。ゆえに決めのポーズのひとつひとつがはまるのだが、歌舞伎の見得を切るにつながるそのアクションが観客がものがたりに入っているのをふと我に帰らせてしまったりもする。

 宝塚を観るひとたちは芝居を観にゆくというより生徒(役者)を観にゆくというひとが多いから仕方がないかもしれない。歴代の二枚目スターにしてもたとえば那智わたるはなにを演じても那智わたるだった。真帆志ぶきは役者でその都度の人物が息づいていたが...ほとんどは舞台にいるのはスターそのひとなのである。

 宝塚のエリザベートの主役は本来のエリザベートでなく黄泉の帝王トートである。これは男役が主役である所以だが、これが芝居のバランスを微妙に崩しているようにも感じた。奔放な野生の鳥のような自由な心を持ったエリザベートがハプスブルグ王家の宮廷で次第に追い詰められ死の誘惑にかられながら、愛すること、愛されることをたよりに気丈に生きようとする。一方黄泉の帝王トートは若かりし少女のころの生気に満ちた少女シシィの美しさに魅せられいつか我がものにしようとする。これを経糸に夫である皇帝と息子ルドルフ皇太子、姑ゾフィー皇太后との確執を横糸にものがたりは進むのだが、黄泉の帝王トートが見えなかった。美しいカタチ妖艶な魅力はあるのだが外見だけで、本来あるはずの狂おしい孤独やエリザベートを焦がれる想いが伝わってこなかった。

 一方、皇太子ルドルフはさほど出番があるわけではないのだが、孤独や絶望が胸を打った。エリザベートの苦しみは現代に通じないものではなく、皇帝や皇太子のそれも同様である。古典であろうと幻想のシチュエーションであろうとそこに裸の魂があれば、ひとの心には届く。芝居は外見も重要な要素のひとつであるが、語りにはそれはいらない。なぜなら媒介者であってつかのまものがたりのなかの歴史に埋もれたひとたちを呼び出し甦らせば足りるのだから。その心情に魂に自分を重ねればよい。ただし無いものには重ねられない。

 わたしはといえば、すこし泣いていた。副題に愛と死のロンドとあるようにこの芝居は、生その象徴である「愛」と「死」...エロス(生の本能)とタナトス(死の本能)の相克がテーマである。生きたい、生きたいという願いは実は死にたいという願いとうらはらなのだ。一生懸命、死に物狂いで生きたいと望むとき、実は死にたいという心の奥底の願望と共鳴しているように思う。ここのところ、ときおり ふと 彼岸に誘われるような気持ちが風のようにとおり過ぎるようなこともあったから......。

 ことばを換えれば、真剣に心残りのないよう日々を送れば、実は死ぬことはそう怖ろしいことではない。...やっぱりこわいかな...
 ともあれ生きることは死ぬことである。わたしたちは毎日、自分・今の我の終焉に向って歩いているという意味でもそうだが、よりよく生きることはよりよく死するという意味でもそうなのだ。


 朝、営業会議、4種類のリストをわたし、ディスカッションをした。前年より売り上げの上がった得意先、下がった得意先、売り上げがゼロになった得意先、新しい得意先。はっきり見えるのは営業日報に記入されている、つまり営業をかけている得意先は伸びているということ、顔出ししていない得意先は仕事がこなくなるというあたりまえのことである。それぞれが自分の営業のスタイル、方法を見詰めて自分に問い直し、よりよい方法に切り替えてほしいと願う。


七百九十八の昼         2005.5.11  涯てまで

 夜がきて、朝がきて、また夜がくる。流されそうになるのを堪えて、掴むのは岸辺の青草、それとも浮きつ沈みつ流れ行く、生命あるもの、無きもの 捨て去られたもの、夢の残骸...かすかにたゆとう希望のような薄明のなか


七百九十七の昼         2005.5.10  連れ添う

 10日の支払日、昨日夜中までかかって振り込みの設定をした。今月は支払いの総額が4000万近くなる。まだファイルで送信できないので一件一件手打ちで、それはそれで神経をつかうのだった。今のところは新しいソフトやネットバンキングのメリットがあるとはいえない。かえって余計な手間がかかる 

 かずみさんと群馬まで機械を見に行った。炭焼き機械と炭を丸くこねる機械である。昭和の初期を思いおこさせるような、関東でもっとも古いといわれる天井の高い暗い木造の工場のなかに青いペンキを塗られた7年前の機械があった。ふと見上げるとなにかとても懐かしい気持ちになった。高さ3M、幅12Mもある大きな機械がわたしに話しかけてくるように感じた。使ってあげる、いっしょに仕事をしようね。それから炭化する機会の試作品を見た木材チップ、林檎、なんでも炭にする。かずみさんの見果てぬ夢.....真のリサイクル。

 午後不動産屋で契約、フジサワの工場の手付けを打つ。始まった。もう後へはひけない。かずみさんに寄り添って夢を形にする。夜、会議。

 

七百九十六の昼         2005.5.9  ディオリシモ

 まりが母の日にディオリシモを贈ってくれた。懐かしいすずらんの香り。30年前から愛用していたが、ここ数年は香水を香らせる気持ちのよゆうなどなかった。亡くなったダイアナ妃もディオリシモがお好きだったそうだと娘が云った。

 匂いは不思議だ。洗い上がりのシーツの匂い、ほのかなコロン、ストーブの火が燃える匂いなど十数年の時を越えて瞬時にそのときその日の想いをよみがえらせる...ほとんど傍若無人にもう帰ることのない時の彼方、忘れ去っていたはずの岸辺にわたしを打ち寄せる。

 音楽やことばに香りなどあるはずがないのに、ふと焼きたてのパンの匂いや薔薇の香りを感じることがあるのはなぜだろう。記憶のなかのどんな美味しいパンより香ばしく、どんな美しい薔薇より馥郁とした........そんな語りができたら....慟哭や、ふるえるような生きる喜びや、甘やかなときめき、湿った夜の匂い、青草のむせかえる匂い、海辺の匂いを呼覚ますような語りができたら......イメージの力で?

 昔、櫻の古木の濃い緑が重い教室で、古文の教師が云われたことを思い出す。ひとは若い頃、視覚で官能を感じる、年をとるにつれ、視覚より聴覚にうつり、人生のおわりちかく 嗅覚こそ、もっとも官能を滾らせる感覚になる。


七百九十六の昼         2005.5.8  真夜中のピカソ

 今日はわか菜の誕生日、母の日、そして一年前、とても美しい五月の晴れた日、かずみさんの足が腐ったのだった。あれからたくさんのことがあった。目もくらむ色彩の悪夢の日々....標も救いもあったけれど。

 わたしは、これから なにを見、なにをしてゆくのだろう。ただ待つだけでなく、遮二無二進むだけでもなく、そろそろ賢くなってもいいではないか......see,plan,do,see.......語り手としての理想、夢見る姿は胸の底にある。まず今の自分を直視すること。そしてなにをすべきか計画を立てる、そして行動する。ふたたび見直す。この繰り帰し。

 魂を磨くことは神さまにお願いするしかない。発声と肉体の訓練、そして語り手と聴き手をつなぎ、過去と現在、未来をもつなぎ、個人の体験を多数へとつなぎ、意識と無意識をつなぐものがたり あったもの、あるべきもの 美しいもの、伝えなくてはならないものをのせたものがたりを自分の裡と外でさ探求すること、つなぐ場所語る場所を確保すること。自分の理想に妥協するまい。ひとの語りの批評もするまい。

1 発声を磨く
  刈谷先生のレッスンだけでなく意識的に日々声を出してみる

2  肉体の練磨
  週に二度はエクササイズを課す。

3 ものがたりを自分のからだのなかで息づくものにする
   創作   わたしがちいさかったころ 
   神話・伝説・民話・史実からの再話・創作  紅葉伝説 大津皇子 秩父事件から..... 加賀の千賀女 白ばら通信
   小説 死霊の戀 遍照の海 (テキスト完)
   エッセイから おかあさんのこと 妹への遺書

4 新しい視野でプログラムを企画する
   幼稚園児のおはなし会用のプログラム
   高齢者へ エクササイズを兼ねたプログラム

5 語り+α
   歌 絵(ピーター・マクニールの世界 環境問題から森のはなし キクチマミさんのテキストから)人形
6
 語る場所の確保
   小学校、デイケア、幼稚園のほかに実験的に語れる場所、おとな    に向けたおはなし会の場所を確保する。
    トムの会、カタリカタリの勉強会は実験としての語りができる。
    喫茶店などで他の語り手とジョイントできないか
    語りの会以外で、さしみのツマでいいから語らせてもらう

  なにがむつかしいかといえば 語る場所の確保かもしれない。語り手は聞き手がいなければ語り手にはなれない。聞き手がいなければものがたりは力を持てない。ものがたりは聞き手の力を借りて命を持つのだから......

ともかく やってみよう。真夜中 ピカソ(ドンキ)に行った。ゆらゆら 不可思議なひとたちがいた。

   

七百九十五の昼         2005.5.7  三年

 日記を読み返していると2002年から2003年にかけて、もう気持ちは固まっているのだった。なぜ語るか、語るためになにをすべきか はわたしのうちでもう明らかになっていたのだ。媒介者、代弁者としての語り手の役割を果たすこと。器としての自分を鍛え練磨すること。......さて 明日から なにを書いていけばいい。


 西洋の声楽で出す音はいい意味で濁りがない音、ストレートな音だ。わたしが出したいのは細い音が幾本も縒り合わさったような豊かな深い音。大地の響き、風の音、水のせせらぎに通じる音。

 カタチの残らないその場限りの踊り、歌、芝居、一瞬のインスピレーションによるそれらは創造というより祈りに近い場所にあるようにも思われる。それは弛まざる肉体の鍛錬なくしてはできない。けれどあとは創るというよりは任せればよいのではあるまいか。すでにあるもの、あったもの、けれど新たな一度限りのものが甦る、語り手はその媒介になればよいのではないか。みずからを解き放ち開け放すことによって......声と肉体を練磨することによって、感覚を研ぎ澄ますことによって......。


 テキストに縛られない、生々とした 闊達な 空気と風と光と湿度とその場にいるひとの息吹が溶け合った ものがたり 紡ぎだされるものがたりのわたしは依り座 その場かぎり たちのぼる蜃気楼のような、音楽のようなものがたり..... 霊感が扉をひらく、ことばは魂に泌みいり、魂から波動がかえり、ことばとなってうねる。寄せて返して寄せて返す、忘れられた情念、埋もれた記憶を呼び起こす。わたしはそういう語り手になりたかった。
声を響かせ、躰を絃にして、想いを解き放つ、虚空へと、想像の翼をひろげ篝火のように羽搏き、燃え立たせる。そういう語り手になりたかった。ことばが本来もつ魔力を復活せしめる真の意味の創造、大いなる意思、見えざるものの表現者、そういう語り手になりたかった

 物語の特性のひとつは「つなぐ」ことである。物語による情動体験が話者と聴き手をつなぎ、過去と現在、未来をもつなぎ、個人の体験を多数へとつなぎ、意識と無意識をつなぎ、さまざまな「つなぎ」をしてくれる......と河合隼雄は書いている。
 話者を語り手に置き換えると、わたしたち語り手がいかに大きな可能性をこの手に持っているか見えてきて、たじろぐ想いさえする。死と生をつなぎ、神とひとをもつなぐとさえいえるかもしれない。

 わたしにとって表現は己がすることではないようだ。あったもの、あるべきもの 美しいもの、伝えなくてはならないものを 己を媒体として伝えることなのだ.。ミケランジェロのように叡智に導かれて?いいえ 導かれるというと主体はミケランジェロにある。なにしろ彼は天才だもの。わたしはほんの少し自分のなにかをつけたしてあとは自分のからだをお貸ししているだけに近い。つまり、わたし自身はそこにいなくなればなるほどよい。だが使われるということは物理的にはわたしの力の範囲ということになる。心向き、声量、技量、など今のわたしのMAXが表現の限界なのだ。つまりそれらを高めることがなにものかがわたしをつかいやすくなるということになり、ひいては表現を豊かにしてゆくことにつながるのだと思う。

 声は息という。息は気に通じる。気持ちの気、メを火に変えるとより鮮明になるのだが、魂にも通じる。声について間合い、強弱、緩急など学ぶことはできよう。けれども、畢竟語りの本質は、人生で磨くのである。声の出る源は魂であって魂を磨く学校はどこにもない。だからこそ、わたしは語りから離れられないのだ。ものがたりを伝えるのではない、ものがたりを通して生きることの真実、わたしたちが置かれている世の秘儀、すなわち生と死、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、あまねく光とその影たる闇、この美しい朝と夜、花々と木々の揺らぎと風と波とを、生きとし生けるものの営みをわかちあうのが語りだと思っている。道は遥けく彼方である。




 
七百九十四の昼         2005.5.6  輪廻

 厚い雲に覆われた空のように、鬱々としているのは、十二指腸潰瘍のせいだ。膿んだ歯を抜くようにしたくはないがしなければならないことがあるのだけれど、からだが快調ならたいていのことは乗り越えてゆけるものだ。

 三年前からの日記を読んでみると、14年の5/6は夜も眠れず。15年の5/6もたしかやはり潰瘍で、昨年の5/6も背中と胃の痛みで眠れないとある。どうしてだろう。なぜ毎年同じこの時期に七転八倒の苦痛に身を苛まれることになるのか......むろん、季節の変わり目。子どもたちの生活の変化も起きる時期だし、2月.3月の繁忙期の疲れもでて当たり前ではあるのだが.......

 日記を書くようになる以前も若いころも誕生日の前後にはさまざまなできごとがあったのだ。それは楽しいことではなく身を削るようなことが多かった。若いころは責任のある仕事についていたわけではないから仕事や家族のことで苦しむことはなかった。生きるとは..といった若さゆえの悩み、出あい、別れにまつわるもろもろのこと、自分ゆえの自分のための今思えば贅沢な心の揺れや嵐に翻弄され、翻弄されることが甘美でさえあったかもしれない。

 今のやりきれなさは甘美さのかけらもない。義務を果たすことのなかに喜びがないとはいえないが、生命の燃える、煌めく、躍動する、震えるような歓びがないのだ。もう時間がない。どこかで囁く声がする。「とてもつかれてしまったね、もうおわりにしたいね、やすみたいね、そうしたらどんなにらくだろう」

 生まれることはほんとうに祝福に値することなのか.......赤子の誕生を待ち望みながら、その子を迎える時代、その子どもの生きてゆく道を思うと、今日は暗澹とした気持ちになる。事故とかでなく、まっとうした一生を終るのであれば、その日こそが祝福に相応しい日なのだ、哀しむことはないのだと思う。

 息子が真面目な顔で「おかあさん、蓮田の曰くのある踏み切りを通ってから右肩が痛くて仕方がない」という。恐いもの知らずであちこちに出没していたが年相応の分別がついてきたのか、このごろ少し恐いという。友人から聞いた話をしてくれた。蓮田高校では13年のあいだ、夏、男子生徒がひとり亡くなるというジンクスが続いていたのだという。
 息子の友人が学校でこっくりさんをしたところ、バイク事故で亡くなった生徒の霊がでてきて、あとでその親御さんに確認したところ示された文字、そこにいる誰もが知り得ないことがらがことごとく真実だったという。
そのうえ なぜ事故を起こしたかとか、死んだあとのことが、前にわたしが聞かせたことと同じだったというのだ。

 霊は事故現場で以前事故で亡くなったひとたちに引き込まれたと伝えたそうだ、ブレーキがまったく利かなかったそうだ。事実、当時事故の際ブレーキ痕がないことが不可思議なことと云われたそうだ。神さまはいますか?います。神様に会いましたか?今、おあいするために勉強しています。.........

 生とは一回かぎりではない。ひとは生きて死んでさまざまなものにすがたを変える、けれども今いるこのわたしは一回限りのチャンスなのだ。楽じゃぁないけれど、痛む足を引き摺って、痛むお腹をさすりながらたちあがる。まだおわりじゃぁない。見えない力は働いているが、すこしずつすこしずつ変わっている。わたしが変われば周囲もかわる。宿命は代えられないが運命は変わる。



七百九十三の昼         2005.55  あらら

 5が3つも重なっている。いい日になりそうだ。きのう半年振りに美容室に行ってきた。60年代風ヘア...わか菜はセレブっぽいねという。刈谷先生は先だっての金髪ボウボウヘアを見て、芸術家っぽいねといった。わたしはセレブでも芸術家でもないってわけだ。新しい髪形はどうも居心地がわるい。もう少ししたら、イチゴ色かタンポポ色にしてしまおう。

 グルンパにでてくる子沢山のおかあさんみたいに朝から洗濯、そうじ、Tシャツは17枚、、靴下ときたら38足、息子と亭主をちゃんと育てないとこういうことになる。まりのこしらえたお昼のトルティーヤは美味しかった、夕べのアボガドのディップは絶品、わか菜は国語が367人中4位だというし(数学はうしろから数えたほうが早い)娘たちは花のように育ったのだけど....まぁ 息子たちはお嫁さんにお任せするとしよう。「お義母さんの育て方がわるいのよ」と云われそう....いや息子たちはお嫁さんのためならせっせと洗濯くらいするかもしれない。

 きのうから死霊の戀にはいっている、時間があればわたしの心ははるかに闇に閉ざされた聖堂に絢爛のベネツィアに飛んでゆくのに......



七百九十ニの昼         2005.5.4  あしたのために

 重くて動かなくなった古いPC”風”のなかを掃除、ファイルも棄てるだけ棄て容量を軽くし、カタリカタリの昔のファイルを探したがどうしても見つからない。千の昼は2003年1月1日からはじめたらしいのだが2/2までの分が逸失してしまったようだ。それから復元できるものは復元し固有名詞はできるかぎり消してUPして読んでみた。赫い昼、そう進歩もしていない..。はじめのほうが生き生きしていておもしろかった。門外不出のウラ日記・青い夜もまずいところは削除してUPしてしまった。少なくともわたしが聖人とはほど遠いところにいることはわかるというものだ。

 部屋の掃除もはじめたが、はかどらない。語りの資料、勉強会の資料、セミナー・講座のレジュメ、楽譜、台本、DTP作品、語りの講座の資料、衣服、本、CDなどで足の踏み場もない。驚いたのは書き留めたたくさんの春と初夏の詩。ひとは春 詩人になるようだ。資料には甲賀の三郎、これはうちとも縁が深い諏訪明神の話.....それから大津皇子、西行と待賢門院、祇王など。テキストも語られたものもあり、まだ陽の目を見ないのもある。以茶の話、クラリモンドの悲戀、加賀の...女の話など...いつ語れるのだろう。.

 あしたのために、整理して いつでも動き出せるようにしておこう。いつか この地に再び 講座を開く日のために。木のぬくもりのある喫茶店のちいさなおはなしの午後のために、夏物語のために。舞台の上で生きる一瞬のために。

 そして きのうは憲法の日。9条があの美しい前文が書き換えられないように なにかをしよう。日本の子どもたちのために。

どうも調子がよくない。今日は朝から眩暈。

 

七百九十一の昼         2005.5.3  いとこたち

 いとこ会の連絡をしたら、続々といとこたちからメールが届いた。わたしの母は八人兄弟の長女なので、従弟妹はみな年下、そのうちのひとり直は花の盛りに業病でこの世を去った。わたしは美女と謳われた祖母には似なかったが、いとこたちは美形揃いである。どんな中年になったことやら....会える日が楽しみになってきた。

 きのうは腰はイタイし潰瘍は疼くはで 仕事にいかないでなんということもなく過ごしてしまった。今日は大掃除をしましょう。手伝ってくれるひともいないが......

 新しい部屋の壁紙もタイトルもどうも落ち着かない。もっと ぼんやりした個性のないのがいいかなぁ。.......で  つくりなおしました。今度は曖昧すぎるかも。きのう 確認したのだが 1から185の昼が無くなっていた。上書きしてしまったらしい。ちょっとショックである。居眠りしながら更新するとこういう破目になる。それにしても戀物語を語りとうございます。甘く、苦く、切ない戀........


七百九十の昼         2005.5.2  賜物

 ひさしぶりのHPのリメイクで昔の日記を見ていたら、まぁ よくも こんなに息詰まるような日々を送ってきたものだと思う。なかには静かな日もあるが、長い暑い道を途方にくれて、水を求めて求めて歩いてきたみたいだ。さがしものはみつかったのだろうか。

 むかし 何気に「努力のタマモノだね」....などとつかっていたのが実は賜物だったのだとタイトルを書きながら思いついた。賜物とは天とか神様から授かるとても大切なもののように思っていたが、それは祈りのように日々を積み重ね、拙い努力を続けることで掌に降ってくるのかもしれない。

 朝、本町小のおはなし会、3年1組は元気なクラスだったが。水のおはなしで、最後に 「みんなのからだの70%は水でしたね。さぁ その水が汚い言葉を聴いたら、どうなってしまうでしょう」と問いかけたら、子どもたちの目のなかになにかが光った。帰ろうとしたら、誰というでもなく
......ありがとううございましたの声が波のように押寄せてきて、わたしはしあわせだった。


七百八十九の昼         2005.5.1   贈り物

  日曜の朝、刈谷先生のレッスンに行く。のどに力を入れない発声の感覚がからだでわかってきた。先生は背中で出せというが。これは倍音で腰のうしろから出すのに似ている。高声は背筋と腹の力で出す。今まで半ばわかっていながら逃げていたのだが、今日ようやくなにをすべきかわかった。発声には肉体的鍛錬が必須なのだ。それと同様に生き方が問われる...と言葉を変えればなにを大切にし、どのように生きているかで声は違ってくる。次回は5/6、レッスンが楽しみになってきた。


 このごろ とみに記憶をとどめておく力が失せて、今日が小泉家旅行会の打ち合わせであることを忘れていた。1時半、浦和駅で待ち合わせ、叔母は改札の外の柱に凭れるように待っていた。なにか屈託があるのか疲れたようすだった。叔父は5分ほど遅れて着いたが、謝るでもなく「こんなこともあるんだ、おようさんが時間とおりに来るなんて」とのたまうので、苦笑せざるを得なかった。

 コルソでビンゴの景品を用意することになったが、「30分のあいだに三人で三つずつ、みつけましょう」と提案した。なにを買ったかは秘密、わたしはそのあいだにゲームの商品も買っておいた。子どもたちもたぶん昔の子どもたちも喜ぶことだろう。ゲームは三世代対抗でするつもりなので 親たちも本気になるに違いない。それからタリーズカフェで打ちあわせをして4時半に別れた。

 そのあと伊勢丹でお買い物、実はかずみさんに夕べ「かぁちゃん お礼をもらったから かぁちゃんにやるよ」と10万という大金をもらったのだ。さっそくベビー服売り場で、麻の葉のやデザイナーものやら、あかちゃんのちいさなからだをつつむドレスなどを手にとって択んだ。水色と白の4.、5枚、ちいさなガラガラ....むかし子どもたちを育てたときとおなじものをみつけて手に取ると。子どもたちが赤ちゃんのころのことそのときの心情がよみがえってくる。くるむとくまちゃんみたいになるアフガンも買った。それから理沙ちゃんに似合いそうなみず色のネグリジェ......贈り物はいい、お金を遣っても 全然罪悪感を感じない


2004.11.1から2005.4.30 (赫い昼616から788)


2003.4.1から2003.7.21  (赫い昼64から172)

番外 赫い昼、青い夜(2003.2.3から5.17)