悠久のエジプト
07.12.10〜12.18


概 要

世界四大文明の発祥の地と言われるエジプトは面積が日本の2.7倍の広さ
しかし、その96%が砂漠である。気候は砂漠気候で平均降水量は30mm/年
で一日の寒暖差が激しい。 人口は7800万人と言われ増えつつある。殆どは南
から北に流れるナイル河畔に住みついて、アラブ系エジプト人が殆んどで、他に
ヌビア人、べドウィンやベルベル人等の砂漠に住む民もいる。 ナイルの下流の
カイロ市は2000万人の過密大都市である。国の経済は観光収入、スエズ運河
利用料が主に、石油、農業などで賄っている。国は大統領を中心とした共和制で
アラビヤ語を使用し、国民はイスラム教スンニ派が90%をしめ、他にキリスト教
コプト派、ギリシャ正教等もいる。




訪問先

            ルクソール(西岸:王家の谷:ツタンカーメンの墓、ラムセスT・U・V世の墓、)
                       (ハトシェプスト葬祭殿メムノンの巨像、東岸:カルナック大神殿
                     ルクソール神殿)                
             エドフ(ホルス神殿)                                      
             コム・オンボ(コム・オンボ神殿)                               
             アスワン・(イジェリカ島・イシス神殿)、(赤花崗岩石切り場、アスワンハイダム)  
             アブシンベル(アブシンベル神殿)                              
             ギザ(ピラミッド、スウィンクス)
             ダハシュール(赤のピラミッド、屈折ピラミッド)
             メンフィス(メンフィス博物館、)
             サッカラ(階段ピラミッド)
             カイロ(考古学博物館、モハメット・アリモスク、スルタン・ハッサンモスク)


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第1日 ルクソールへ


空港で軽いサンドイッチを取り、午後のエジプト航空に乗り込む。 艤装は今一、しかし、

機種はエアバスの思ったより新しいものだった。 

クルーは太り気味のメンバー達、その中で華奢な日本人のアテンダントが可憐さを放つ

15分ほど遅れ離陸し、安定飛行に入ると間もなくサービスが始まった。


ドリンクのワゴンが来るが酒類が見えない。 やはりイスラムを国教とする国らしく

ノンアルコールである。 続いて昼のランチサービス、エジプト人男性の大きな顔が

フィシュオーチキン?と迫ってくる。 フィシュのソースを聞くと、トマトと言う。

しかし、オニオンが効いていて好みではなかった。 長旅のこと腹ごしらえはした。


ルクーソールまでは14時間の行程、これからが大変だ。 我慢できるかな〜

次いでアテンダントが小さなポシェットを呉れる。 開いてみると歯ブラシ、ソックス、

イヤホーン、アイマスクが入っていた。 早速、座席のオーディオチャネルに繋ぐ。

チャンネルを探すが耳障りのよくないイスラム風の音楽ばかり、やっと、9チャンネル

に懐かしい「オーマイパパ」の曲が聞こえる。 そのままチャネルをぼんやりと聞く。

クラシクなど心地よい癒し系の音楽が続く。 そのまま暫く、うと〜うと〜


フライトは東から西へ太陽を追いかける。 一向に日は沈まない。7時前になって

やっと日が沈む。 今、何処を飛んでいるのか大きな液晶のパネルがあるが運行の

案内は一向に映されない。 映画の一つも映らない。どうやら形だけの様だ。

前のビジネスクラスは映っているのに、エコノミーは、態々電源スイッチを

切っている様である。 何んと、けち臭いことか?? もっと差別の仕方があろうに。

先方の事情も分からず手前勝手に思っている。


やがて何時の間にか眠りに入り気がつくと夜の食事がが始まっていた。

アテンダントに「今何処を飛んでるのか」と訊ねると、少し待って下さいと下がって

行って、戻ってくるや、「北イランです」と言う。 えらく早く来たと思いきや

やがて運行案内が入り嘘であることが分かった。 アテンダントは誰に確認に

行ったのか狐につままれたような話だった。 食事が終わり暫くすると眼下に

街の明かりが見えてきた。 どうやらルクソールに到着したようである。


空港はすいていた。 パスポートチェクもすいていてスム−スに出ることが出来た。

トイレに入ると空港の従業員らしくユニュホームを着た男が、ティシュを呉れる。

済まして出ようとすると、先ほどの男性が何かぶつぶつ言っている。

聞き直すと、「スモールテェンジ」と言っている。 成るほどチップの要求だ。

こちらは両替もしていないのに、「ノマネー」と答えると、「ワンダラー」と言う。

トイレのチップが1ドルもするのかよ〜 断って出てくる。


両替所で早速、エジプトポンドに両替をする。 5000円を出したがだめだと言う。

1万円以上だと言う。 こんな話しってあるのかよう〜 ちらりと添乗員の顔を

見たが顔をそらしてしまった。 本気でないようだ。 郷に入れば郷に従えか??

納得がいかず両替を済まし外に出る。


表では小柄な現地人のガイドさんが待っていた。 紹介によると彼は27歳でミモと言い

カイロ大学を飛び級で卒業し、日本大使館で日本語を習ってライセンスをとったそうだ。

英語ガイドは沢山いるので、ガイドの少ない日本が有利と選択したと言う。

発展途上国では優秀な人材が観光事業に参加しているケースによく出くわす。

ハンガリーでは大学教授、インドでは大学出の空軍パイロットだった。

それだけ勤める企業が少ないと言うことであろう。

彼らは知的レベルが高い為、殆どの質問に応じてくれるのが有り難い。

その夜はナイル川沿いに立つリゾートホテルで宿泊となる。


第2日 ルクソール



イシスホテル

翌朝、早くに朝の「コーラン」に目を覚まされ外を見ると大きなミナレット

(お祈りを知らせる尖塔)が建っていた。 顔を洗いホテルのガーデンに出る。

ナイル川は静かに流れ川越に「王家の谷」のあるテーベのエル・クルン山の朝焼けが輝く。

このホテルでもう少し、ゆっくりしたいと思う。 朝食を済ませ、早々と出発。


昨夜のルームサースのテェックを済まそうとフロントで決済を頼むとつり銭がないという。

 変な話である。 もめていると現地のガイドが飛んできて事情を聞く。

「金を払ったが、つり銭がないと言って埒が開かない」と言うと、彼が現地語で

キャシャーとやりとりをする。 するとキャシャーはポケットからつりを出し払ってくれた。

しかし、未だ足りない。 こちらもガイドの努力をさして矛を納める。 ガイドに、こんな

ケースはよくあるのと訊ねると、チップを期待している気持ちもあるかもと言っていたが

微妙なニュアンス、こちらにはよく分からない。 途上国では、よくある話ではあるが、

一流のホテルにしては珍しいことである。



ホテルより望むナイルの朝焼け


ルクソールは「支配的な」という意味だそうだが古くはテーベと呼ばれ栄えていた。新王国時代になり
地理的な面より首都に選ばれたそうだ.。 現在は人口17万人の市、カイロから南670KMの
位置にある(日本では京都) 元々エジプトの古王時代(前2500年程前)はメンフィス
(日本でいえばは奈良)を中心としてナイルを挟み東と西に別れ、西は古くから太陽の沈む
先として死後を意味し、歴代ファラオの墳墓や葬祭殿が造られた。東岸は現生活の場で
宮殿や神殿が建てられていた。 現在は人口も減っているが、エジプトでも
一番遺跡の多い地域で世界の遺跡の1/3がここにあると言われる。 
気候もよく、リゾートホテルを中心に大観光地として栄えている。


バスに乗り込むと、ガイドのミモ氏が私の名前は「アハマド」と言います。 エジプトでは

アハマドとムハマドの名前の人が90%だそうで、この名前で呼ぶと殆どの人が振り返ると言う。

 エジプトは徴兵制があり軍隊に行かなければならないが、私は長男の為、兵役が免除された。

長男は家庭の面倒を見なければならないからだそうだ。 エジプトはイラク、アフガンには派兵を

していないが、エジプトの生命線であるナイルの水を守る為、アフリカ・スーダンのダルフールを初め

各地に派遣しているそうである。 バスは東岸よりナイルを渡り西岸の「王家の谷」へと向かう。


 街路樹はアフリカ大陸を思わすナツメヤシやブーゲンビリヤの木が植えられてエキゾチズムをさそる。

やがて、丸い屋根の建物が見えガイドのミモ氏が吉村作治先生の元の基地だと教えてくれる。

*ダルフールはスーダンの西部地域で2003年にスーダン政府の支持するアラブ系民兵と地域の
非アラブ系住民との間に起きた民族紛争である。 日本も国連と共に関与している。


王家の谷

最初は王家の谷(BC1565〜BC667)の新王国時代の岩窟墓群を見ることにする。

 黄色い砂漠に入り岩のごろごろした山道をはいって沢山のバスのプール場で止まる。 

8時半と言うのにもう多くの人達が押しかけている。 先ずツタンカーメンの墓に入る。


 他のファラオの墓は全て盗掘されていたが、唯一最後に発見され盗掘を免れたのが

この墓である。 墓は1922年、イギリス考古学者のハワード・カーターにより

発見された王墓(BC1333〜1323)だそうだ。 

後ほど、カイロ博物館で、その棺や遺品の副葬品を見てそのすごさにあっと驚かされる。


混み合う王家の谷




ツタンカーメンの墓の案内

階段をおり壁画のあるスロープを降りると広い前室があり、その右手一段低いところ

に玄室があってキャシャな躯体の黒い姿が見えた。 顔が小さく、足の指が細く少女では

ないかと見間違うほどスマートに見えた。 彼は8歳で王に着き18歳の美少年で亡くなった。

こちらでは棺とツタンカーメンミイラ、それに鮮明に色を残す壁画群が残されている。



左は王、右ホルス神(隼の神)

うっかりカメラを持ち込み係員にお目玉。 よってこれより内部の写真はおしまい。

続いてラムセスT、V、\世の墓をみる。 T世はツタンカーメンの反対側にあり

1818年にイタリア人のベルツオーニが発見した。 ラムセスT世はツタンカーメン王

の後の19王朝の創始者で高齢の即位の為、2年間に過ぎなかった。 その為、墓は

建設途中で亡くなった為、規模はごく小さい。 しかし、ヒッタイト領ガディシュまで領地を

広げた人物である。 一直線に下がる階段の先に玄室はあり綺麗な色の壁画が残っている。


ラムセスT世の墓案内

次にラムセスV世の墓へ、彼は第20王朝で1世よりかなり遅れ(BC1194〜1163年)

この時代の終わり頃は内外で紛争が起き王位継承をめぐる争いの犠牲になり暗殺された。

 しかし、強大な権力を握った時期で、墓の規模は一番大きく立派である。


又、古代エジプトではめずらしく立琴を弾く人達の壁画が描かれている。 この墓はイタリア人

考古学者によって発掘され、赤色花崗岩で出来た王の棺は彼の手からフランス王に売却され

現在はルーブル博物館にあるそうだ。 次にラムセス\世は第20王朝末期(BC1131〜1112)

の王で内部紛争や飢餓の時代に即位した王で、工事途中で内部はかなり傷んでいた。


雑踏の中、王家の谷は歴代ファラオの悩みや苦しみを秘め悲しみの涙まで黄色い砂に覆っている。

死後の世界では果たして安寧の世をすごしているのだろうか・・・


ラムセス\世墓入口

帰りがけホールで日本の早稲田大学吉村プロジェクトが寄贈したガラスで出来た王家の谷

模型を見た。 日本の国旗が掲げられ、日本への協力の感謝の意が述べられていた。

日本人にとして嬉しいものである。 世界の国人々への平和アピールは大きいものがあろう。


日本の寄贈・王家の谷立体模型

この後、山を少し下り、ハトシェプスト葬祭殿へ行く。 谷間を走ると、バス、又バスのオンパレード

駐車場はバスで一杯、みやげ物の露天が続き盛んに声を掛けてくる。 其処からトロッコのような

車で神殿の傍まで運んでくれる。 壁のような岩山の前に以前ニュースで見た通りの風景であった。

それは1997年イスラム過激派テロにより日本人を含む多くの人達が殺された場所である。
 
亡くなった人達の冥福を祈る。  合掌! 


ハトシェプスト葬祭殿


ハトシェプスト葬祭殿

ハトシェプストは第18王朝時代、女でありながら男性と称し自らファラオの王位に

20年間ついた女王である。彼女は父トトメス1世と自らの為に、この葬祭殿をここに建てた。

建物は東を向き3段重ねの大きなテラスを持ち、真ん中の階段が祭壇へと誘う。

この祭殿の裏側が王家の谷となっていて、墓のカムフラージの為もあっただろう。




第一階段を登ると二段目のテラスが広がる。 更に階段を登ると三段目のテラス。

ハトシェプスト女王が髭をつけ男装の彫像で出迎える。 しかし、表情は何処となく

女性の顔である。 腕組みをしているのは本人が死んでから造られたことを示し

手にはキリスト教の十字の元となった命の鍵を持っている。


ハトシェプスト女王像の立つ入口

ハトシェプストはトトメス2世の妻であり、トトメス3世の義母、幼少のトトメス3世の後見役であった筈が

何時の間にか自分が王になってしまった。 その為、死後、トトメス3世が権力を握ると女王の壁画を

削り取ったそうだ。 継母と継子のよくあるケース、親としては失格の様だ。



顔のところが削られた神への献納のレリーフ


第三の中庭は行きずまりで混雑状態、この隣には元はトトメス3世の神殿が建っていたと言う。


第三中庭の観光客

この建築は古代でも傑作と言われ、山の荒々しい複雑さと建物の直線との

対比が素晴らしく、岸壁がアーチ型に建物を囲い込んでいる。

こちらでの来世への葬祭は雄大で辺りの空気を震撼させたであろう。



祭殿見学の後、直ぐ近所の帰り道にある「メムノンの巨像」へ行く。



メムノンの巨像


エル・クルン山をバックに立つメムノンの巨像

メムノンの巨像は通りの左側の広場に、ぽつんと立っていて何故この像だけが

残ったのか不思議な感じがする。 以前、アメンヘテプ3世葬祭殿がこちらに

建っていて、その入口に、この巨像があったそうだ。 後々の王がその石材を

他へ転用した為、今ではこの像だけが残ったと言う。 BC27年の地震により

壊れたとの説もあり、両手を膝に置き玉座に座るファラオを表し見るに忍びない。 


この像が以前は朝日が昇ると「キーン」と鳴いたことからギリシャ人が付けた

名前で、トロイ戦争で滅ぼされたエチオピア王の「メムノン」のことで、その母を

慕っての嘆きにちなんで「メムノン」と名がついたそうだ。 しかし、科学者は

昼と夜の寒暖の差が大きく石の膨張で軋みの音を発したのだと言う説だ。


メムノンの巨像

この背後には、まだまだ遺跡が隠れているが住民が住み着き、政府が

退去を求めるが生存権を主張して問題になっていると言う。 鳩が多い地域で

丁度、昼になり昼食はレストランで鳩料理(照り焼き)となる。 醤油味で

スズメや鶉の照り焼きと同じ様で香ばしく美味かった。 エジプトでは鳩を

よく食べるそうで、養殖の鳩もいるそうだ。 食事の後、ガイド氏との話で

 現在、農業が綿製品の価格下落と農業の機械化による労働者の過剰から

サトウキビ等も沢山作っている。 エジプト人は砂糖の消費が50kg/人年

だそうで糖尿病患者が多く政府の悩みだそうだ。 日本と同じ悩みの様だ。

午後からは東岸地帯の古代の生活の場とされる地域の見学となる。



カルナック・アメン大神殿

古代エジプトの神殿形式は長方形の敷地を壁で周囲を囲み入口から参道が入り正面に巨大な

オベリスクがある。 一枚岩から切り出したもので、王だけが建てることを許されている。 

前庭には列柱廊があり、奥まるほど暗く神聖な趣きをつくり、壁や柱に神話や歴史生活が

絵画やレリーフで表現されている。


初めにカルナック神殿へ、整然と並ぶ牡羊のスフィンクスの参道と風化した巨大な

塔門が出迎えてくれる。 塔門には上部に小さな窓が開き、現代の教会の明かり窓の

元になったのではと思われる。 並んだ羊頭の幾つかは破壊され其処には遠い時間が感じられる。 


カルナック神殿第一塔門

テーベは中王国時代アメン神を信仰の中心とすえ市神としていたが新王国時代になり

首都となってからは太陽神ラーと統合してアメン・ラー神となり国家の最高神として栄えた。

神殿は新王国時代のBC1500年代のトトメス1世の時代に造られ、

その後、歴代のファラオにより増築されて行った。 

*古代エジプトの人々は高地のエチオピアのモンスーンの季節にはナイルが氾濫し

自然への脅威から、畏怖の念に目覚め自然信仰と思想が発展した。

アメン神は大気の守護、豊饒神であり、ラー神は天空の女神である。



第1塔門

第1塔門は第22王朝時代のもので建築途中で王が亡くなった為、塔門裏側には日干しレンガを

積み上げたスロープがそのまま残されていて、当時の建築工法を知ることが出来る。

仕上げのレリーフ等は刻まれてなく未完成の状態である。 

当時、庶民は、ここ以降には入れなかったそうだ。



牡羊頭のスフィンクス


     つづく  HOME