シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

夭折 ( ようせつ ) 詩人  沙良 峰夫 ( さらみねお ) と絵画

 沙良峰夫は岩内出身の詩人で、大正5年から昭和3年まで中央詩壇で活躍し、多くの詩人、作家と親交をもちました。 川路 柳虹 (かわじりゅう こう ) に師事し、稲垣 足穂 ( たるほ ) 、 西条 八十 ( さいじょうやそ ) 、 今 東光 ( こんとうこう ) 、佐伯 孝夫、サトウ・ハチロー、吉行 エイスケ、吉行 あぐりなどと交遊がありました。
  父石川進は、明治9年陸前(現宮城県)岩沼に生まれました。明治23年、仙台第二高等中学校予備科に入学、明治26年に高等中学医学部に転学します。明治31年卒業後、東京帝国医学科大学専科に入学し専門を学んだあと、明治32年岩内公立病院の院長代理となりました。明治33年に岩内公立病院を退職し樂生病院を開業、縁あり初代岩内町長梅沢市太郎の長女イシと結婚しました。この年に東京から油絵の具一式を取り寄せ、日露戦争の画を描きます。その画は、昭和20年まで岩内東小学校に保存されていました。これが岩内での油絵の事始めといわれています。
  明治34年に長男孝一が出生します。のちの夭折詩人、沙良峰夫です。進は明治34年に倒れ興津で療養後、東京医科大学に勤務し、明治36年に岩内にもどり杏生病院を開業しますが、明治39年に帰らぬ人となりました。石川孝一は 5 歳で、この時母方の梅沢の姓を名のりました。明治45年に母イシも他界し、後見人、梅沢昇太郎にあずけられます。孝一は子供の頃より画が得意で、図画の作品は特優をうけ成績は甲でした。大正5年、庁立札幌第一中学校を中退し上京します。そこで正則英語学校、アテネフランセで語学を学びます。大正8年、太平洋画会研究所に通い画学生となります。その当時のことを今東光は交遊録の中で

  − その話しかけて来た奴は、「僕は短歌は解らないが詩は解るつもりだ」というので生意気な野郎とばかり、「どんな詩が解るんだい。マラルメか。ヴェルレーヌか。アルチュウル・ランボーか。それともボードレールって言うのかい」とからかい半分に言ってやると、「萩原恭次郎って詩人の作品だ」ぬけぬけと言ったもんだ。僕は不文にして萩原恭次郎なんて詩人の名を知らなかったし、どうせ無名のヘボ詩人だと思っていたので、「そんな奴知らん」と答えた。その日の帰途、彼はむりにも僕を誘うので団子坂界隈の汚い下宿に連れていかれた。この北海道生まれの梅沢という頬っぺの赤い画学生は、頭の毛を長くした背のひょろ高い青年に紹介した。それが萩原恭次郎だった。その夜、三人は本郷白山の南天堂というカフェーに行って飲んだが、そこの客という奴らは社会主義者や無政府主義者の集まりで、たちまち議論していたかと思うと立ち上がって殴り合いになりすさまじい光景に、こっちも血の気が多い方なので萩原と組んで、どいつが敵か味方か見当もつかないままに乱闘に飛び込み、いい加減くたびれたので三人で表に出ると、せいせいと息をつきながら、「おもしろかったなあ」と顔を見合わせて笑ったが、二人とも顔や手が血だらけでまったくあきれたことだった。しかしながらこんな喧嘩は性欲を持てあましている僕らにとってはまったく一服の清涼剤みたいなものですこぶる快適だった。それから三人はよく集まっては南天堂に出かけて行ったものだ。通い慣れると常連の顔も見覚え、大杉栄と伊藤野枝その他は後の「ダムダム弾」の同人等の若いケモノみたいなアナーキスト群だった。萩原はその仲間だったのだ。− 「週刊読売」 1979 年 2 月 26 日号

  この頃、今東光は小石川富坂下にある川端画塾で絵画を学んでいました。また本郷三丁目桜木天神前の「巴里」というカフェーには、東郷青児、関根 正二 ( しょうじ ) 、村山 槐多 (かい た ) 、 陽咸二 ( ようかんじ ) が客として出入りしていたといいます。
 沙良峰夫は、昭和3年28歳という若さで永遠の人となったのでした。沙良峰夫のペンネームは、フランスの女優サラ・ベルナールの名から愛用したものです。

引用作品 「岩内ペン」 No.9,10,11,12
       「週刊読売」「萩原恭次郎−わが交遊録」今東光

R.M