福良キリスト教会

牧師の書斎から

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12月18日 (88) 「キリストに結ばれていれば」

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(コリントの信徒への第一の手紙 3:6)

 クリスマスになると、日本でもアメリカでもポインセチアを、教会でも、家庭でも飾る。しかし、クリスマスが済むと、大抵は、捨てられる。しかし、何年か、それを来年も使いたいと、庭に植えてみた。メキシコ南部原産であるこの木は、肥料をやれば、確かに育つ。ひょろひょろと、背丈も伸びる。しかし、あの深紅の鮮やかさを保つのは容易ではない。花屋でも手間暇かけて古いものを年を越させるよりも新しい芽を育てる方が楽のようである。だから、われわれも毎年店に並ぶ美しいものを入手する方が賢い。花屋に協力して、毎年買い替える方が不必要な手間をかけるよりも美しいものが入手できる。
 祭りのあとのように、きらびやかな装飾も、人々の集まりも消えて、クリスマスが終わると、礼拝は、日常化して、集う人も少なくなる。でも、元旦礼拝には、全く新たな思いをもって新年の歩みを始める。
 福良教会も、今冬枯れのポインセチアのようである。しかし、教会の頭であり、命の基であるキリストは、これからも小さな教会を育ててくださる。その根であるキリストにしっかりと結びついてさえいれば。「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ 15:5)
 今年のクリスマス礼拝は、12月25日(日)です。多くの友、家族、知人をお誘いの上、ご出席ください。お待ちしております。(五島)


12月11日 (87) 「組み合わされ、成長する」

 「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソの信徒への手紙 2:21-22)

 今年の聖歌隊は、どうなるのかしらと心配していた。しかし、さすがにあと2週間になって、徐々にまとまってきた。教会の聖歌隊には、特別な歌手のソロは必要ない。
 たとえ、一人一人は、そんなに美声の持ち主でなくても、声をあわせて共に一つの曲を作り上げる。丁度神の住まいとなる教会そのものである。
しかし、今年の選曲は、私のミスで、少々難しいものになった。ところが、最初は、どうにもならないと言っていた男性たちも、よく声が出るようになった。皆、それぞれが、自宅で懸命な練習を積んでいるのであろう。
 福良教会も、今難局にある。将来の礼拝の場所、保育園の統合など、人の目から見るならば、とても、将来に不安が募る。
 しかし、これも真のキリストの体が建設されるための、一つの過程、そして乗り越えるべき、試練なのであろう。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙 8:28)

 今年のクリスマス礼拝は、12月25日(日)です。多くの友、家族、知人をお誘いの上、ご出席ください。お待ちしております。(五島)


12月4日 (86) 「信仰の母マリア」

そこでマリアは言った。『わたしのたましいは主をあがめ、わたしの霊は、救い主である神を喜びたたえます。』」(ルカによる福音書 1:46,47)

 例年クリスマスとアドベントに歌われる讃美歌は、決まっている。マグニフィカートと呼ばれるマリアの讃歌(讃美歌95番)もその一つである。この詩の内容は、実は、イスラエルの歴史と神様のなされた御業を歌う壮大なる詩であるから、イスラエルにとっても、教会にとっても、重大な信仰告白の一つである。だから、いつ歌われてもよいものであろう。しかし、クリスマス、アドベント以外の礼拝で歌われることはまずない。作曲者キャロリン・マクナイは、宣教師の妻として1880年に日本に来て、明治版『讃美歌』の編集にあたり、この曲を作った。誰にも愛されるメロディである。詩は、聖書ルカ福音書からとられて、韻律化されたが、日本語の作者は不明とのことである。ローマ教会では朝の歌として、歌われ、ギリシャ教会では夕べの歌として歌われたそうである。讃美歌21には、「私の心は」(179番)として入れられている。また、同じマリアの讃歌が、讃美歌21には、インドネシア民謡からとられ、「あがめます主を」という美しい曲となっている。ちなみにその詩を下に引用する。
    あがめます主を、わが魂。
    讃えます主を、わが心は
    名も知れぬ娘 主はあえて選び、
    み子の母として 用いられた。
この美しい讃美歌もクリスマスの礼拝でいつか歌いたい。マリアの讃歌が愛されるのは、「主を崇める(大きくする)」ことは、自分の貧しさと、罪深さをマリアが告白するからであろう。それは、マリアがキリストの受胎を天使から告げられたとき、「お言葉どおり、この身になりますように」と、天の告知を素直に受け入れたからである。
 先日、淡キ連のクリスマスに、洲本カトリック教会を訪れた際、マリア崇拝とは何かと考えていた。それが、生涯を信仰の従順を貫徹した人への敬意であるとすると、マリアはカトリックの方たちだけでなくて、全キリスト者にとっても「信仰の母」である。(五島)


11月27日 (85) 「従順」

「キリストは神の分身でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、それも十字架の死に至るまで、従順でした。」(フィリピの信徒への手紙 2:6-8)

 クリスマスには、キリストの降誕を、謙遜と従順の姿として学ぶことが多い。
神の独り子であるお方が、人の子として、マリアに宿ったことは、神様が人類に与えられた秘儀である。
 ところが、この聖霊による受胎の告知を、マリアは、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と言って、キリストの母となった。(ルカ 1:38)
 キリストの謙遜と従順、マリアの謙遜と従順は聖霊の御業である。
 だから、私たちは、この信仰の従順を自分の努力や精進で真似することはできない。ただ終わりの日に天において、変えていただくことを信じて祈ってゆきたい。たとえ現在どんなに、不従順で傲慢であっても、「その日が来れば」(ミカ 4:6)神ご自身がイスラエルを解放されると、約束されたように私たちをも完全に罪から解放し、造り変えてくださる。その主の再臨の日を待ち望んで、アドベントの日々を歩んでまいりましょう。(五島)


11月20日 (84) 「信教の自由に感謝」

「イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(ルカ 20:25)

 今年の総会において、決議された福良教会の日本キリスト教団への加入手続きは、島田則恵先生のご尽力で、書類はすべて兵庫教区へ提出されたが、様々な手続きが要求されて、なかなか完了しない。時々、この世の決まり事は、なんと面倒かと思われる。しかし、この世にある限りは、そのルールと人間関係を無視することはできない。
 ただ、キリスト者は、決してこの世のルールに最終的に束縛されることはない。1620年に清教徒たちは、信教の自由を求めて、アメリカの東海岸に渡った。けれども最初の冬、飢えと厳しい寒さのために多くの人々が命を失った。彼らを助けたのは、原住民のインディアンの人々であった。彼らは、移住者にとうもろこしや、農作物の栽培を教えた。翌年秋、その最初の収穫物を感謝して、神様に礼拝をささげけたのが、最初の感謝祭だと言われている。
 福良教会は、今単立教会から、日本キリスト教団の教会として再出発しようと祈っている。何よりも、礼拝を感謝して、主にお献げする群れとして成長してゆきたい。(五島)


11月13日 (83) 「神の恵みは尽きない」

「やもめは行って、エリヤの言葉通りにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」(列王記上 17:15,16)

 次週は今年の収穫感謝祭の礼拝である。また、日本ではその数日後が勤労感謝の日である。以前はこの二つの感謝祭を自然に迎えられていた。
 しかし、近年は加齢を良い口実に、労働らしい労働もしていない。教会の御用も怠りがちである。
 それなのに、教会は、常に私たちの生活を支えてくださる。さらに、ご高齢の兄姉たちが、高い野菜を買わなくてもよいように、丹精して育てられた、野菜や果物を、牧師館にお運びくださる。こうして、新鮮な食材で、食卓はいつも豊かである。エリヤのように忠実でない僕たちを、神様はつねに豊に祝してくださる。真に、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油も絶えることはない。」神様の恵みは尽きない。感謝である。できることは主に感謝の礼拝をお献げすることしかない。
 どうぞ、感謝祭の礼拝と愛餐会にぜひご参加ください。お待ちしています。
(五島勝)


11月6日 (82) 「天に宝を積む」

「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マタイ 19:21-22)

「天に宝を積む」とは、もちろん地上の富と対比して、主が語られた言葉であろう。信仰者の中に、財産を豊かにすることを人生の目標にするものはいまい。
 しかしイエス様のたとえには、どうしてお金の話が多いのであろう。やはり、一般の群衆だけでなく、弟子たちの間でも、金銭の話題が日常的に多かったのではなかろうか。
 教会の役員会でも、当然のように、会計の問題が中心になることが多い。もちろん、困難な教会の経済は、将来にとっても深刻な課題の一つである。その中で謝儀をいただいている牧師にとっても、無関心ではおれない。常に、今月の教会財政が黒字であるように、祈り続けている。
 先日百歳に近い、ご高齢の姉妹から一年分の多額のご献金をいただいた。教会はこのような方々に支えられているのだと改めて知り、心が熱くなった。
 ご高齢の年金生活を送る信徒は、皆老後について、ご心配であろう。ただ、本質的には、
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは皆加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)
との主の御言葉にすべてをお委ねし、安心して、天の祝福を信じて歩みたい。
(五島)


10月30日 (81)「選びは神様の御業」

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(マタイによる福音書 13:30)

 秋の花のイラストを探していると、マーガレットが出てきた。何と可憐な花だろうかしかし、花壇をつくっていたときは、他の大事な花を凌駕して、多少苦労したことを思い起こす。とにかく勢いがある。もちろん、すべてを抜いてしまうのは惜しい。他の花とのバランスをとらねばならない。
 そこで、主の譬え話に出てくる「毒麦」のことを思い起こす。
 「毒麦を抜き集めておきましょうか」と、問われた主人は、「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。」と答え、収穫まで待つように命じた。
 もちろんマーガレットは、毒でも有害でもなく、花として美しい。しかし、他の弱い花にとっては強敵なのである。
 教会でも、時々勘違いをする。神様がお与えくださった兄弟姉妹を勝手に、あの人はコスモス、あの人はマーガレットなどと、呼ぶことを慎まねばならない。花も、人の好きずきである。しかも神様には神様の基準とご目的がある。創造においては、すべてのものが良かったのである。だから、天国では、主の憐れみだけが神様のご選別の基準となる。神様がお前を造ってよかったと、言ってくださるように、生きてゆきたい。(五島)

10月23日 (80)「賛美の喜び」

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(使徒言行録 16:25)

 牢獄でパウロとシラスが一晩中歌った賛美とは、どんなものであったのだろう。二人が特別に美声の持ち主であったとは、思われない。すると、賛美そのものに、囚人たちの心を打つものがあったのであろう。もちろん、彼らは信仰者ではない。

 最後の晩餐を終えて、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へでかけた。」(マルコ 14:26)。この時の賛美も詩編であったようだ。キリスト者たちも、最初はユダヤ教の礼拝に倣っていたようである。

 「知恵を尽くして互いに教え、諭しあい、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ 3:16-17)

 「賛歌と霊的な歌」とは、キリストの教会や集会で作られ、歌われた独自なものだったと思われる。形式にとらわれない霊的な賛美が囚人たちの心も捕えたのであろう。

我らが行う合唱も、音楽としては稚拙なものであろう。しかし、内容が重要である。感謝して、心から神様をほめたたえるものでありたい。(五島)

10月16日 (79)「どんなときにも」

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず,とほうに暮れても、失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」(コリントの信徒への第二の手紙 4:8-9)

 こども讃美歌120(さんびか21533)どんなときでも
1. どんなときでも、どんなときでも 苦しみに負けず、くじけてはならない。
  イエスさまの、イエスさまの愛を信じて。
2. どんなときでも、どんなときでも しあわせをのぞみ、くじけてはならない。
  イエスさまの、イエスさまの愛があるから。
  この賛美歌の歌詞を作ったのは、高橋順子さん。当時骨肉腫という病で病床にあり、わずか7歳で天に召されました。子供賛美歌2編が編集されていた時、委員会に教会学校の先生が送ってきたものだそうです。この歌は、彼女が片足を切断する4日前にベッドの上で作ったと、先生は解説しているそうです。
 イエス様の死をまとうならば、その命の衣もまとって生きてゆくとの希望に溢れた歌詞です。私たちも、どのような状況に置かれても、キリストが共にいてくだされば、希望を失うことはありません。感謝を一杯いただいて、今年も感謝祭を迎えましょう。(五島)

10月9日 (78)「万民のための救い」

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安 らかに去らせてくださいます。わたしは、この目であ なたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」(ルカ 2:28-32)

 今年も、淡路キリスト教連合会主催『第47回クリスマスの集い』の準備委員会が会場の洲本カトリック教会で開かれ、例年のように、会長の堂山先生を中心にプログラム当日の奉仕担当者が手際よく決定した。
 今年の説教者は、カトリック教会の名誉大司教の池長淳先生である。今年は、過去数年行われてきた独唱者ではなくて、数教会の有志によるバッハのコラールが賛美される。福良教会からも兄弟が一人合唱に加わる。福良教会は、過去2年行ってきた聖歌隊の賛美がクリスマス礼拝で行あわれる。もちろん、プロやセミプロの演奏やソロは、素人の聖歌隊よりも、上手で、聴衆にも、喜ばれる。
 しかし、シメオンがイエス様と出会って、「異邦人を照らす光」と讃えたと、ルカは、生き生きと記している。クリスマスの喜びは、わたしたち少数のクリスチャンだけのものではない。神様が「万民のために整えてくださった」素晴らしい救いのプレゼントなのです。
福良教会も聖霊のお助けと力を上よりいただいて、残された数か月を、喜んで備えてまいりましょう。(五島)

10月2日 (77)「幼子のように」

「よく聞きなさい。心を入れ変えて、幼子のようにならなければ、天国に入ることは出来ない。この幼子のように自分を低くするものが、天国ではいちばん偉いのである。」(マタイによる福音書 18:3−5節)

 今年も、園のグラウンドから、元気な運動会の練習の様子が聞こえてくる。私の最初の運動会の思い出は、小学校1年の秋の運動会であった。家族は、朝からグラウンドにござを敷き、お弁当をたくさん作って応援に来てくれた。私も大得意で、競技に臨んだ。午前中の借り物競争のときがきた。「必ず一等賞をとる」という意気込みであった。
 確かに、最初の地点でカードを取ろうとしたときまでは、一番であった。「勝った」と思った瞬間、だれかが私のとったカードを横から奪ったのである。怒りが込み上げた。2枚目のカードを取ることなど、頭になかった。おろおろしている間に最下位になってしまった。それから私はどうしたか。家族にもなにも告げずに、一目散で家に帰ってしまったのである。少年時代の最も大事な思い出は、何とも悲惨でほろ苦い思い出となってしまった。家族は皆本当に悲しかったであろう。だから、以来運動会の度に、憂鬱になる。
 保育園の練習の様子が聞こえてくる。私のように負けず嫌いで、短気な幼子もいるだろうか。最近では、子供たちに優劣の思いを与えないように、順番をつけない競技が多くなった。勝ち組と負け組ができないように最初から平等に運動会は設定されている。私たちが子供のころは、大人も子供も、皆勝つことに夢中であった。もし、最初の運動会が、争いではなくて、今のようにただ楽しい演技であったら、恐らく私もあんなに勝負にこだわることもなかったであろう。そしてその後の人生もきっと違っていたであろう。日本の諺にも、「負けるが勝ち」とある。
 イエス様の弟子たちも、「天国で誰が一番偉いのか」と言って、争い、先生を困らせていたようである。「幼子のように自分を低くする者」と主は言われたが、それには「心を入れ変え」ねばならない。価値観の転換が必要なのである。私は、信仰による生まれ変わりの経験をさせていただきながら、今もあの運動会ですねた根性が治っていない。せめて方向転換だけでもして、素直に神様のもとに帰りたい。(五島)

9月25日 (76)「しぼまない財産」

 「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロ第一 1:3-4)

 合同追悼礼拝を終えて、福良教会に託された信仰の遺産について改めて深く教えさせられている。ペトロは、教会には受け継ぎ引き渡す、永遠の財産があると言う。
  「受け継ぐ」とは、バトンタッチをすることであろう。リオ・オリンピックでは、日本のチームが見事に800メートルリレーで銀メダルを獲得した。スピードでは、とても勝つことができないのに、実に巧みなバトンタッチで、この快挙をとげ、敗れた強豪たちを驚かせた。
 信仰の遺産も、リレーのように、受け継ぎ、引き渡されねばならない。この遺産の中には、多くの方々が労苦して建てた教会の建物、教会の伝統も含まれるであろう。しかし、目に見えるものは、やがてくちてゆく。現に、南あわじ市の方針で、福良保育園は、公立保育所と近く統合される。目に見える形では保育園も教会もやがて失われてゆくかもしれない。
 けれども、福良保育園が大切にしてきたキリスト教保育の内容、イエス様の愛は、たとえ、建物や制度が変わっても、決して変わることはない。否。変わるどころかますます重要な宝として、受け継がれてゆく。もちろん、教会が最も重要なこととして伝えてきたイエス・キリストの福音は、更に光を放つことになるであろう。
 まず、私たちは、この財産を本当に持っているかどうかを、再確認しよう。持っていないものを引き渡すことはできない。
 イエス様を試そうとして『先生、律法の中で、どの掟が最も重要ですか。』とたずねた律法学者に、主は『心を尽くし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である』と言われ、『第二もこれと同じように、重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』と告げられた。
 神様への信仰と隣人への愛という大切な遺産を、たとえ時代が変わり、信徒が少数になっても、教会のかけがえのない財産として次の世代にバトンタッチしてゆきたい。(五島)

9月11日 (74)「天の故郷」

 「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人への手紙 11:16)

 今年も福良教会の合同追悼礼拝が、次聖日18日に持たれる。天上会員のご遺族にご案内のお便りをお送りしているが、住所変更で手紙の届かない方々が何名かおられる。
 小さな教会でも、行方の分からない遺族を何とか探そうと躍起になる。もし、私たちの信仰が失われ、迷子になったら、天上で、都をご用意くださる天の父は、どんなに心をお痛めになられるであろう。

 「あなた方の中に百匹の羊をもっている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないであろうか。」(ルカ福音書 15:4)

 この主のたとえは、放蕩息子のたとえと並んで、教会では、福音を知らない未信者のこととして、語られてきた。しかし、日本の教会ではむしろ、洗礼を受けていながら、神様から離れ、生きた信仰を失っている信徒が何と多いことか。追悼礼拝の名簿にある兄弟姉妹も、地上に残されているわたしたちも、救いに入れていただくために、どれだけ多くの方々の祈りと労苦をいただいたことであろう。もしそうならば、天の都をご用意くださる天上の父上は、救いの完成がまだ残されていながら、教会から離れ、迷える羊となっている方々をどれだけ心配し、探しもとめておられるであろうか。追悼礼拝は、教会にとっては、過去を振り返るだけではなくて、これからわたしたちが、迷子になっている兄弟姉妹を訪ねる心の準備をするべき時でもあろう。10月9日、教会役員は、日頃礼拝に集うことのできない兄姉をご自宅や施設に訪問する。訪問を希望される方々、是非この方をと祈りの中にある方があれば、ご連絡いただきたい。(五島)

9月4日 (73)「暦と祭り」

 「あなたはこの言葉を腕につけてしるしとし、額につけて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」(出エジプト 13:16)

 国際飢餓対策機構より、2017年の「国際協力カレンダー」を送っていただいた。A3の実に立派なものである。今年は、近江兄弟社のカレンダーも教会では、再び用いることとなった。まだ9月なのに、来年のカレンダーがつくと、何か心が騒ぐ。この二つには通例の祝祭日以外に、イースター、クリスマスなど教会の大切な行事が記されている。またこの暦には、教会独自の大切な行事を書き込むスペースが十分にある。福良教会にとっては、今年は、6月11日の創立記念日、9月18日にもたれる合同追悼記念礼拝を、大事な記念の日として、記入した。

 イスラエルは、民族解放の歴史を、聖書の言葉として残すと共に、大切な歴史を暦の中に組み込み、毎年暦に入れて、お祝いの祭りをもってきた。中でも、主の過ぎ越しを記念する「過ぎ越しの祭り」と、それに先立ってもたれる「除酵祭」は、すべての家庭で重んじられて、今日に至っている。イエス様も、「除酵祭の第一日、すなわち過ぎ越しの小羊を屠る日、弟子たちに過ぎ越しの食事の準備を整えさせられた。」(マルコ 14:12以下)そして、ご自分を過ぎ越しの祭りで屠られる「小羊」にたとえられたのである。
 主は、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、私は切にねがっていた。」と語られて、弟子たちにパンと葡萄酒を与えられた。(ルカ 22:14-21)
 福良教会は、この主の最後の晩餐の御言葉を中心に、毎月聖餐礼拝を行ってきている。聖餐式は、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りの食事に遥かに勝るキリストの命に預かる聖なる礼典である。この礼典において、我々は、主と出会い、新たな契約を結ぶのである。こうして我々はパンと葡萄酒を共にいただき、主と契約を結ぶ信仰の共同体とされるのである。(五島)

8月28日 (72)「天からの賞を得るために」

「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ書 3:14)

 リオ・オリンピックの熱戦に、心を躍らせた。アスリートたちは、金、銀、銅のメダルを得るために命をけずるように戦った。その姿には、本当に心を打たれた。
 使途パウロは、信仰者もキリストによって与えられる天の賞を得るために、「後ろのものを忘れ、前にむかってひたすら走るランナーである」と言う。彼が目標とする賞は、一体何なのであろう。彼は、「決して滅びることのないものはキリストの愛である」と、言った。(コリントI.13:13)
 キリスト者の戦いは、身にまといつく欲望との戦いである。それはわたしたちをキリストの愛から引き離そうとする内なる罪との戦いである。
 外国人にとっては、銀メダルを得て、「申し訳ない」と涙を流す日本選手は不思議なようである。確かに銀よりも金のメダルは、立派かも知れない。しかし、もし、多くの競技者がオリンピックに参加したくても参加できないことを考えたならば、選ばれて、銀メダルまで与えられてことは、大変な光栄であろう。
 わたしたちも、多くの民の中から選ばれて、信仰の戦いに参加させていただいていることを、深く覚えたい。しかも、選ばれたわたしたちの側には、選んでいただく資格も、理由もなかった。ただ、我らの思いを超えた主の憐れみによって、神様の子としていただいたのである。
 実は、わたしたちには、十字架の愛と復活の命という金メダルがすでに与えられているのである。だから、私たちに残された人生は、この金メダルであるキリストのご愛にお応えする競争なのである。それは信仰のバトンを確実に引き継ぎ、次の世代に引き渡す祈りのレースでもある。しかも自己の努力や律法の行いではない。天に帰るまで、感謝と喜びを、兄弟姉妹と共にする最高に幸せな人生である。神の恵みに生かされる素晴らしい生涯である。(五島)

8月21日 (71)「良い羊飼い」

「誰も私から命を奪いとることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもできる、それを再び受けることもできる。」(ヨハネ 10:18)

 去る14日の淡キ連の平和聖日の集会で、原先生の講演で、戦争中日本の教会が、自分たちの命を守るために、イエス様の尊い救いの恵みを奪われていった悲しい歴史を学んだ。
 「国民のため」「大東亜共栄圏」の建設のためという狼の言葉に騙されて、福音の真実を失っていった姿と、それに気づかなかった教会の愚かさを深く示された。
 今も自民党や、公明党は、憲法改正と、新しい律法の制定を急いでいる。それを阻止することは、非国民だという政府の言い分は、実は戦争中の政府の言葉と何と似ていることか。
 福音的教会の形成を第一としている現在の日本の教会にとって政治的な関心は極めて低い。確かに教会の第一の使命は、イエス様の救いを述べ伝えることである。しかし、油断をしていてはならない。旧約聖書の預言者たちも、敵が攻めて来ることを、夜も眠らずに、「見張る」役目を果たしていた。エレミヤ然り、イザヤ然りであるる。平和に馴れ、教会もぼけ始めている。そういう隙をねらって「愛国心」という美辞を掲げて、日本を戦争に駆り立てる「国家」の野望が甦ってくる。
 どうか。再び、忍び寄る悪魔の誘いに抗するために、神様の御言葉に固く立って、目を覚ましてゆきたい。
 メキシコの移民を防ぐために、巨大な壁を造るというドナルド・トランプ氏の発言を、米国を守るという誤った国粋主義ときづかずに、貧しいアメリカ人は、彼を大統領候補に祭り上げようとしている。恐ろしいことである。
 一体神様の御心はどこにあるのか、日本もアメリカの教会も深く問われているとても暑い夏である。(五島)

6/26 - 8/14 はありません。

5月29日 (69)「物の判断では大人に」

 「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(コリントの信徒への第一の手紙14:20)

 福良教会の朝は早い。 例のごとくクジャクのけたたましい鳴き声で目をさます。着任当時、これが何の鳴 き声なのかわからず勝手にアホウドリか、ウミネコだときめつけていた。なぜなら、鳴き声は猫そっくりだから である。また以前アホウドリを雑誌で見たことが脳裏にあったからである。
 我々の人生には、何と推測や、憶測でものごとや人を判断することが多いことであろう。私には美しく羽根を広げたクジャクがあんなにグロテスクな声を出すことがいまでも信じられない。
 午前9時を過ぎると、必ず、保育園のヒヨコ組に新しくはいった子供数人が母親と別れることを恐れて、けたたましい泣き声をあげる。まるで誰かに殺されるかのような悲鳴に近い。ところが、あと数か月すると、嘘のように、彼らは、部屋を走りまわり、迎えにきた両親や祖父母と帰ることに抵抗するのである。更に数年して保育園を巣立つときには、実に堂々として卒園証書を受け取る。
 クジャクはいつまで経ってもクジャクであるが、人間は、成長する。赤ちゃんは、いつまでもミルクを飲むのではない。相応しい硬い食事が必要になる。

 「乳を飲んでいる者は、だれでも幼子ですから、義の言葉を理解出来ません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」(ヘブライ人への手紙5:13)

 信仰においては、幼子のように素直でありたいが、教会員としては、成熟した者となってゆきたい。(五島)

5月22日(68) 「見えないものを望む」

「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8:24−25)

 新ヨルダン会の聖書の学びは、「出エジプト記」7章に入り、11章まで、ファラオの心を神様が頑なにされ、モーセとアロンの10の奇跡も、ファラオの心を変えることができず、かえってファラオの頑なさはエスカレートしてゆく。
 人間の歴史の中には、もし神様の御心が『万事を益とするご愛』に貫かれているならば、どうしてこんなにも不条理なことが起こるのかと、思われる悲惨な災害や、不幸な出来事が起こる。「熊本地震」でも罹災した多くの人々が経済的に恵まれない、善良な市民である。「神様が愛であるなら、どうしてか」という疑問が沸いてくる。聖書は、それに直接答えてはくれない。
 しかし、主は『何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ。』と言われた。モーセとアロンに導かれたイスラエルも神様の真実な御言葉を聞いていながら、目に見えるものではなく、見えない「神の国」を求める者とされるために訓練をされたのである。
 ファラオは、神様の御心を求めない。当然民の苦しみなど問題にしない。ただ自分の権威と、栄誉を求める。モーセは、何度 目に見える道が閉ざされても、神様の御言葉に希望を託して、ひたすら、御心とご計画の成ることを信じて、空しいと思われるような選択をする。我らも信仰によって目に見えない希望を信じて前進してゆきたい。(五島)

 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手にいれませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ人への手紙11:13)

5月15日 (67)「聖霊なる神様」

 「『私は、父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊をみようともしないので、受け入れることができない。しかし、あなた方はこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』」 (ヨハネ14:16−17)

 使徒信条には、創造者である神様、マリアから生まれ、十字架の上で死なれた歴史的な存在である子なる神様、すなわちイエス様、最後に聖霊なる神様を信じると、三位一体の神様を教会と共に信じることを、「我信ず」の信仰の内容として、告白している。
 「信徒の友」のペンテコステの特集を読むと、「聖霊」は存在としてよりも、「力」「働き」として、私たちに経験されると説明されている。けれども、ヨハネによる福音書では、「聖霊」は、イエス様の代理者として、「助け主」「弁護者」として遣わされると語られている。「力」「働き」は、あくまで聖霊が教会に降った結果として、与えられている。
 ペンテコステの日に何が起こったかも大切であるが、何よりも「聖霊」が降ったことが、重大である。福良キリスト教会は、創立119年の記念の礼拝を、6月12日に迎える。この間、教会を生かし、建ててくださったのは、聖霊なる神様なのである。
 福良キリスト教会は、これからもキリストの体として、キリストの霊によって導かれ、建てられてゆく。「聖霊」をいただき、聖霊の導きに従うかぎり、恐れることは何もありません。(五島)

5月8日 (66)「主は見抜いておられる」

 「人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。」(ローマ書 8:27)

 何事もずぼらで、永続できない私が、一つだけ決して忘れずに、毎日実行することがある。医師の処方してくれた薬を忠実に採り続けることである。自分でも信じられないくらい忠実に継続している。処方箋に従っている。
 これは、心臓の手術をし、脳梗塞を患って以来一日も変わらない日課である。特にワーフェリンという血をサラサラにして、血管がつまらないように、予防する薬は、摂取量か微妙で、毎回変化する。とにかく、手間がかかる。「先生、この薬は、死ぬまで飲み続けるのですか」と、尋ねると、「時がくるまであなたが抱えている爆弾ですから、死にたければ、いつでもおやめなさい。」と、名医と言われる先生のご意見は一致している。(アメリカでも日本でも)そう言われると、「はいそうですか」とはゆかない。口では「神様が『もうよろしい』と言われる時が来たら、感謝して、御もとにいつでも帰る」などと、人前では、偉そうに言っているが、まだ当分は死にたくないというのが、本音なのであろう。自分でもおかしくなる。

「”霊”は、神様の御心に従って、聖なる者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙 8:28)

 聖霊なる神様は、私たちがどういう人間であるか、最初から見通しておられる。だからいい格好をしても仕方がない。それをよくわきまえて、赦された者らしく、感謝して生きてゆきたい。福良教会の過去、現在、未来を主は一切ご存じである。
主にお委ねして前進しましょう。(五島)

5/1(65)は未記入です。

4/24(64)は未記入です。

4月17日 (63)「主にある家庭」

 福良の桜もあっという間に散りました。
 花冷えの日もありますが、すっかり春を感じさせます。教会も決算総会、ペンテコステ礼拝、創立記念礼拝を迎えると、夏になります。
 季節の変わり目には、健康を損なわれる高齢者が多いのでしょうか。国道を走ると、告別式の案内が、交差点に一度に三つも立てられていました。その氏名をごらんになって、古い信徒の方々は、複雑な思いをされているようです。幼い日のご自分の生活を重ねあわせておられるようです。病院も大流行です。待ち合わせの椅子には、よくご夫人に付き添われたおじいちゃん(私よりも年上)が、座ります。年寄りは、大抵わがままで忍耐がたりません。看護婦さんに何度も自分の番はまだかと、たずねます。奥さんはその都度、「黙りなさい。もうかわっているから」と、ペットを叱るように、たしなめます。その様子はほほえましく、下手なテレビの漫才やコントよりもユーモラスです。

 初代教会では、夫婦で主にお仕えした夫婦が多かったようです。

 「アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。」(コリントの信徒への第一の手紙16:19)
 「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。」(コロサイの信徒への手紙3:18-19)


 日本の教会でも同様です。先日召された明石の内貴牧師のご夫人から、何度もご丁重なご挨拶をいただいて、「ああ、内貴先生はこのご夫人に支えられて、温かな牧会者として、60年以上も主に仕え、多くの人々に愛されていたのだ」と、改めて主にある夫婦の美しさを知って、主を讃えました。どちらが先でも行き先は一つですが、散っていく桜のように、互いに余り急がないようにしましょう。(五島)

4月10日 (62)「復活の力」

 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなた方と一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。(コリント第二4:14)
 信仰があれば、心の病いや鬱病などになるはずがないと多くのキリスト者が考えている。ところがキリスト者で、心がやんでいる人が意外に多い。(テリー・ゴードン著「傷ついた癒して手」を参照)
 福良に来る前に牧師をしていたとき、とても熱心に教会の奉仕をされる日系三世の兄弟がいた。スポーツ万能。家族と友達を思い、愛を実践する兄弟だった。和歌山の山奥に住む奥様のご家族を数時をかけて訪問し、世話をする頼もしい兄弟でした。義父が亡くなる前には、和歌山から大阪の自宅近くの病院に移し、最後に病床で受洗に導かれました。心も体も健康なクリスチャンのお手本のような兄弟でした。
 7年前、熱心に祈祷会に通うひとりのアメリカ人の兄弟がいました。この兄弟には、自らの悩みを母国語で話せる人がいなかった。そのエド兄が、言葉の壁と経済的負担に押しつぶされて、行方不明になり,自死が判明した。そういう彼の苦しみを知って、何とか助けたいと祈っていたのが、先日イースターに福良教会を訪ねて来られた藤居ライアン兄弟です。彼は失踪した兄弟を捜し求めて、昼夜奔走されました。その真摯な姿には、ただただ頭が下がりました。藤居兄は自らプログラムの準備をし、残された日本とアメリカの家族のために心に残る葬儀をしました。更にそれから数年、毎年記念会を開き、残された長男のために、配慮と援助を惜しみませんでした。
 その彼が、ここ数年、エドと同じように経済と信仰の確信を失い孤独にさいなまれて、鬱状態になったのです。少し英語がわかる私には、思ったことを自由に相談できると考えたのでしょう。彼はゆきづまると、朝早くても夜中でも、スカイプをして、自分の苦しみを一方的に訴えます。そういう彼を、私は自分の忙しさや、疲労のために、心から、受け入れていませんでした。むしろ、困惑していました。その彼が、イースターに福良教会の礼拝に出て癒され、すっかり元気になって大阪に帰ったのです。もちろん、私の力でも説教によったのでもありません。ただ、主の復活の力のたまものです。
 ハレルヤ。(五島)

4月3日(61) 「牧師館」

 「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」(ローマの信徒への手紙12:13)

 福良キリスト教会には立派な牧師館がある。そのおかげで主にある友にお泊りいただくことができる。イースターにも二人の信友を迎えて、礼拝をしていただくことができた。もちろんおもてなしをしてくれるのは、妻である。貧しい食卓であっても、信仰の友と共に頂く糧は、それだけで大御馳走である。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)

 振り返ると、私たちも、どれだけ多くの方のお宅のベッドをお借りして、旅をしてきたことだろうか。もちろん自分の家のベッドに優るところはありません。しかし、信仰の友のお宅のベッドには、愛の温かさがあります。 これからも、牧師館で、真のもてなしをすることができるように祈ってゆきたいと思います。(五島)

3月20日 (60)「血圧」

 「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠をえるために節制するのです。」(コリント第一9:25)

 病気をして初めて、血圧と運動が深くかかわりがあることを知った。心臓や脳の血管の梗塞も血圧の上下と関係している。もともと肉体の節制に余り注意する方ではなくて、食事も美味しいものなら、何でも食べてきた。
 パウロは、朽ちない冠を得るために、節制すると言っている。
 
 「だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(コリント第一9:26−27)

 他方、彼は、救いもその完成も神様の一方的な恵みの賜物として、必要なものは、信仰のみと教えている。むしろ,律法の行いや努力によるものではないと主張している。

 肉体の健康、特に血管の健康のバロメーターは血圧だと今では子供でも知っている。霊の健康は何で測るのであろう。パウロは、愛と喜びであると繰り返して述べている。自由が、決め手のようである。伝道することが、救いの喜びのあふれるものとなっているだろうか。イースターを喜びの満ちた日として迎えたい。(五島)

3月13日 (59)「霊標」と復活の命

 「イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております。』と言った。イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。』(ヨハネ11:23−26)

 福良キリスト教会の合同記念会(追悼礼拝)は毎年9月に行われている。今年も教会の年度計画に、そう定められるであろう。しかし、イースターにそれを行う教会も多い。福良教会も、イースターには、墓前礼拝を行う。もちろん、主イエス様のご復活を覚えて、先に召された兄姉の永遠の生活と、私たちの復活の日を信じて、礼拝がなされるのである。福良教会の聖徒の墓には、既に召された兄姉の氏名と召天年月日を黒く刻印した霊標と、まだお元気な方の名が朱色で刻まれていて、やがてご召天された時その年月日が黒く刻みなおされる霊標の二種類がある。
 この教会に来るまで、このような霊標を見たことがなかった。仏教の墓標にもこのような変化があるのだろうか?
 イエス様が、弟ラザロの死を悲しむマルタに対して言われた御言葉は、この霊標の氏名の色の変化に現わされているのだろうか。教会は「生きていてすでに永遠の命に入れられている者」「天において、永遠の救いに入れられている者」とが、天と地で共に営む天国の生活を象徴しているかのように思われる。
 私たちは、聖徒の墓の召された兄姉の霊標の前で、やがて主と兄弟姉妹とに会い見える日に備える時を与えられたい。(五島)

3月6日 (58)「教会総会」

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補いあうことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら、愛によって造りあげられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

 新しく定期総会で定められる予定の「日本キリスト教団福良教会 教会規則」第5章には、教会総会について、次のように定められている。
 第25条 この教会は教会総会を最高の政治機関とする。
 第26条 この総会は、教会担任教師および現住陪餐会員である信徒をもって組織する。
 第27条 教会総会は毎年2回招集される。(ただし、主任担任教師もしくは教区総会議長が必要と認めたとき、または役員の3分の2以上の要求があった時には、臨時に開くことができる。
 第28条 教会総会の招集は2回続けて日曜の礼拝において、公告しなければならない。(すでに2回公告ずみです。)
 第29条 教会総会は現住陪餐会員の過半数が出席しなければ、会議を開き、議決することはできない。
 福良教会は、例年2回予算総会と決算総会を開いている。今年の予算総会は、3月20日(日)礼拝後に開催されることが、すでに2回の礼拝と週報で、公告されている。今諸報告と予算案の準備がなされている。どうぞ、お祈りください。(五島)

2月28日 (57)「教会と教団」

 福良キリスト教会は教会規則に従って,毎年2回、定期総会を行っている。今年も3月20日に予算総会が開かれ、次年度の行事計画、予算案を審議し、責任役員が選出される。しかし、今年は、特別な議案が審議され、決議される。それは、教会規則の改正である。現行の教会規則は、1978年、宗教法人日本自由メソジスト教団の教憲教規に基づいてつくられていたが、1984年福良教会は、洲本教会と共に、一旦教団を離脱(被包括関係廃止)して、単立福良キリスト教会として、再出発することが総会で決議された。その後、洲本教会は、日本キリスト教団に加入して、宗教法人日本キリスト教団洲本教会として、新しい歩みをはじめた。福良教会は、今日まで単立教会として歩んできたが、 先に方向性が定められた通り、来る3月20日の総会で、改めて宗教法人日本キリスト教団福良キリスト教会の教会規則を定め、日本キリスト教団との被包括関係を結び、宗教法人福良キリスト教会として、再出発する決議を行うことになった。どうか、この決定が神様の御心に適い、福良教会の宣教の使命が十分に達成されるように、お祈りください。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補いあうことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら、愛によって造りあげられてゆくのです。」(エフェソ4:16)
(五島)

2月7日 (56)「人生の水先案内人」

 「果てしも知れぬうき世の海の、あさせあらなみいわおの中を主よ、水先のしるべしたまえ」(讃美歌292、1節)

 カトリック洲本教会が改築されて献堂式が6日行われた。教会を代表してお祝いに参加した。しかし、初めての場所のため、道路を探すことも容易ではない。いつものように、運転する家内のために、G兄弟がインターネットで地図を開いて、道案内を1時間以上かけてしてくださった。それでも不安である。一方通行の道や、行き止まりの道が多いからである。

 今、自動車の運転には、ナビが必需品である。それでも、道に迷う事が度々ある。かつて地図のなかった時代、海の中での航行は、どんなに不安であったであろう。19世紀の讃美歌作者は、人生の航路の水先案内人(パイロット)をイエス様として、主の導きを祈って292番を作った。

 もちろん、人生の旅の終着までの案内を、主に託しているのである。 しかし、我々はしばしば、イエス様を見失ったり、分からなくなって、動揺する。暗いガリラヤの湖の上で、嵐が起こり、弟子たちは恐れて、近づいてこられたイエス様を幽霊と見間違えて恐れた。

「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを船に迎え入れようとした。すると間もなく、船は目指す地に着いた。」(ヨハネ6:20)

 教会もわたしたちもイエス様をいつも迎え入れて、安心して目的地を目指しましょう。主はすでに『道』となって天でお待ちくださっているからです。(五島)

1月31日 (55)「明石のキリストの僕」

 「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、藁(わら)で家を建てる場合、各々の仕事は明るみに出されます。」(第一コリント3:11−13)

 明石上の丸教会牧師内貴八郎右衛門先生の告別式に参列を許された。先生の幅広いご奉仕の跡を改めて知ることができた。告別式には、先生をお慕いする多くの人々が集まり、先生をお見送りした。

 内貴牧師は、高校生の時、柔道の練習中に怪我をされて、左手を失われた。神様は、この少年の人生の危機において、キリストと出会わせ、伝道者となる使命へと導かれた。

 常人であれば、失望して、道を誤ってしまったであろうが、先生は、キリストによって、試練に打ち勝ち、伝道者として、教誨師として、又様々な分野での指導者として、多くの方々から敬愛された。しかし、それらは、すべてキリストという土台の上になされた、キリストへの献身の業であった。経済的な困難に直面した同労者を援助し、教団の中では、反体制派のレッテルを張られた教会や教職者をいつも温かく応援された。もちろん先生の稀有な御人格もあるが、先生のすべての業は、聖霊の実であった。

「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤの信徒への手紙5:25)

 福良教会は、先生とは教団の異なる教会として近く再出発することになります。しかし、キリストに従い聖霊の導きを信じて、私たちも前進してゆきたい。(五島)

1月24日 (54)「淡路は広い」

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太にきづかないのか。自分の中の丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください。』とどうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカによる福音書6:41−42)

 淡キ連の新年最初の集会「一致祈祷会」が日本自由メソジスト岩屋教会で17日に開かれ、車ででかけた。普段は洲本の県立病院までしか行ったことのない我々には初めて北端までのドライブであった。同乗された兄弟がさかんに淡路島は広いのだと、淡路を知らない人の偏見について指摘されて、私もその一人であることを知った。

 この広い淡路島を、明治の先達は、わらじばきで伝道してくださった。福良の地ももちろん、くまなく伝道がされて、福良教会の土台が築かれたのである。以来120年近くの時が経っている。

 6月12日には、119年の教会創立記念礼拝がもたれる。今年は日本キリスト教団兵庫教区主恩教会の山崎英穂先生を講師としてお迎えする予定である。色々な先入観や、偏見をもたずに、教会の将来についても、先生よりご指導をいただきたい。教団の選択も、牧師の招聘も,誰かがしてくれるのではない。会員であるあなたが、責任を負わねばならない。重要な務めなのである。

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、藁(わら)で家を建てる場合、各々の仕事は明るみに出されます。」(第一コリント3:11−12)
 すべてを支配されるお方だけを畏れて、教会の建設をしてまいりましょう。(五島)

1月17日 (53)「その時」

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなた方自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ。』と言っているその矢先に。突然破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやってくるのと同じで、決してそれから逃れられません。」(テサロニケ第一5:1-3)

 本日は、阪神淡路大震災から21年目の日となります。あの朝私たちは、所沢に住んでいて、テレビでそれを知りました。神戸の須磨で、その数年前まで居住していて、倒壊した阪神高速神戸線で大阪に通っていました。後に、いつも子供たちが通学していた道路の先端の長田区が壊滅的な被害を受けたことも知り、とても衝撃を受けました。
 最近地震への防災のニュースをよく見ます。あれから間もなく東日本大震災と津波の被害がありました。恐らく東北の人々は皆関西の震災を知っていて、警戒していたことでしょう。天災は、人知を超えています。いつ、どのような事態が起こるのか私たちには予測できません。
 だからこそ、いつ何が起こっても、それに対処する心の準備が必要なのでしょう。
 パウロが言っている「その日」とは、「主の日」です。私たちすべての人間に神様の最後の決定が下される日です。しかし、我々はいたずらにそれを畏れる必要はありません。

 「あなたがたはすべて光の子。昼の子だからです。私たちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、慎んでいましょう。−しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」(テサロニケ第一5:5-8)

 いつ、何が起ころうとも、光の子らしく、慎んでいましょう。(五島)

1月10日 (52)「分かれ道」

 「主はこう言われる。『見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都に留まる者は、戦いと飢饉と、疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデヤ人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。私は、顔をこの都に向けて災いを下し、幸いを与えない。』と主は言われる。この都はバビロンの王の手に渡され、火で焼き払われる」(エレミヤ書21:8-10)

 一人一人のキリスト者にも、教会にも、あれか、これかを決断しなくてはならないことがあります。それを誤ったならば、一方は命の道を、他方は滅びの道を進むことになると、預言者エレミヤは告げています。この預言がなされたとき、エルサレムは、バビロンに包囲されていて、残された人々は、降伏して、敵に従うか、それとも奇跡を期待して、飽くまで抵抗するかを、決めなくてはなりませんでした。
 エレミヤは、神様は既にエルサレムを滅ぼすと決意されていると、実に冷たく、希望を失わせるような言葉でゼデキヤ王の問いに応えます。福良教会も人間的な希望を神様に求めるか、それとも、厳しくとも神様の御心に従うか。決断してゆかねばなりません。

 「神よ、変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。変えることができないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。そして、変えることのできるものと、変える事ができないものとを識別する知恵を与え給え。」(ラインホルド・ニーバー、大木英夫訳)

 イエス様が十字架を負って我に従えと弟子たちに命じられた道を歩むかどうかです。キリストの御名のために、自分たちの願いや希望ではなくて、主の道を選択する決断をしなくてはなりません。キリスト者の道は、責任を負う道です。神様にお委ねするとは、無責任な生活ではありません。冷静に信仰者として責任を果たし得る力を今年も主より与えていただきましょう。
(五島)

1月3日 (51)「お節料理」

「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブの手紙1:25−26)

 クリスマスで疲れて、今年は、御節料理はお休みにすることになったのに、アリゾナの子供たちは挑戦している。スカイプで、礼拝前の忙しい時に、カズノコの料理について質問がある。「塩気のある数の子をどうして塩水につけておくのか」「エビのから揚げの仕方はいかに」、母親が一緒にいる時には、ほとんどまかせっきりだったのに、頼る人がなくなって、とうとう自分たちでしなくてはならなくなった。
 でも、今までは母の料理を当然のように食べていたのに、自分でするようになって、ようやく、そのありがた味を自覚するようになったのだろう。忙しいはずなのに、娘も孫も結構たのしそうである。
 私なども、自分ではできないのに、すぐにひとを批判する悪い癖がある。とにかく、どんな小さなことでも、まず、自分でやってみることである。そうすると、人の労苦がよくわかる。感謝が具体的になってくる。
 福良教会にきて、一番驚くことは、兄弟姉妹が、不平を言われないことである。どんな奉仕に対しても、骨身惜しまず率先してやってくださる。今まで、多くの教会で牧会してきたが、この教会のように、主の業を喜んでしてくださる教会に出会ったことはない。驚きである。恐らく、これは、義務感ではなくて、信仰の先達の生き方を皆さんが、自然に学び、身につけられたのであろう。こんなに素晴らしい教会の伝統をぜひ、次の世代の信徒が受け継いでいただきたい。それには、まず礼拝を生活の第一に据えることであろう。若い人にとっては、それが一番大変なのかもしれない。この週報一つにしても、何人かの方々が修正し、少しでも間違いの少ない、読みやすい物としてくださっている。感謝をいたします。
(五島)


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