福良キリスト教会

牧師の書斎から

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12月31日 (130) 「幸いな人」

「心の清い人々は、幸いである。その人たちは、神を見る」 (マタイによる福音書 5:8)

 本日は本年最後の聖日である。わたしたちは52回の礼拝を、安息日として聖別し、何が出来なくても、礼拝を主に献げてきた。讃美歌54番の通り、この日はキリスト者にとって、「喜びの日、ひかりの日、なぐさめの日」である。数少なくなった兄弟姉妹と共に、礼拝堂に集うと、一週間どんなことがあっても、やがて来る「復活の希望」に胸が躍る。

 大晦日の夜を、仏教徒の家庭で育った者は、108回の除夜の鐘を聞いて新年を迎えるのが常であった。教会に遣わされてからは、教会で除夜祈祷会を行ってきた。高齢者の多い福良教会では一度も開かれていないが、今年は、歳晩礼拝が行われ、明日は、元旦礼拝である。仏教では、人間の108の煩悩を取り去ってもらって、新年を迎えると教えられた。キリスト者となって、人間は、108どころか、罪と悪の塊であることを聖書を通して、教えられてきた。

 鐘は、梵鐘であって、梵とは、「清い」の意味で鐘の音を聞いて卑しい心を清めていただき、新しい年を迎えるのだと、小学校の担任から聞いたことがある。その時は、なるほどと納得したが、自己の罪は、イエス様の血潮によってしか清められない 恐ろしい敵であることが、年を取るごとに自覚されるようになった。

 しかし、このようなどうしようもない者を「神様を見る幸いな者」に、キリストはご自分の命をかけて造り変えてくださったのである。新たな年も、共に礼拝をもって始めたい。(五島)


12月17日 (129) 「キリストこそ希望の光」

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。(ルカによる福音書2章28-33節)

 年老いたシメオンは、マリアとヨセフに連れられて神殿にきた幼子イエスを抱き上げて、彼こそ、イスラエルが待ち望んできた救いの実現、「異邦人を照らす希望の光」であると言った。キリストと出会ったから、いつ死んでもよいと感謝の叫びをあげた。クリスマスを来週迎えるわたしたちには、彼のような感動があるだろうか。

 初めてクリスマスのお祝いをした静岡の教会は、信徒の家の畳の二部屋を礼拝の場とした質素な場所であったが、主を迎える喜びに満ちた青年たちであふれていた。今でもその熱気が私の心に焼き付いて離れない。聖書の内容も、キリスト教の教義も全く知らない高校生であったが、イエス様が、彼らの希望の光であることだけは、よくわかった。

 今年の福良教会の礼拝者は、シメオンのような高齢者が多い。
しかし、「私はこの目で救いを見た」と言いうる、キリストとお会いする礼拝を共に主におささげしたい。(五島)


12月10日 (128) 「主の憐みの光」

「父ザカリアは、聖霊に満たされ、こう預言した。『幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く。』(ルカによる福音書1章76〜79節)

 今年も、保育園には、色とりどりのクリスマス・クランツが飾られ、礼拝堂には、美しいクリスマス・ツリーが飾られている。神戸港には30メートルもあるあすなろの樹が自生していた山から根がついたままで運ばれて、夜空に輝きを放っているそうである。

 バプテスマのヨハネの父ザカリアは高齢の妻エリサベトが懐妊したことをガブリエルから告げられたとき、それを信じられなかったために、口をきけなくされた。ヨセフもいいなずけのマリアから聖霊による受胎を告げられたとき、同様の恐れに襲われたのである。しかし、エリサベトは、『主はいまこそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。』と喜んだ。本日の礼拝では、「お言葉どおり、この身になりますように」と、天使の告知に応えたマリアの賛美の歌を学ぶ。

 主の御復活にたいしても、最初に信じたのは、マグダラのマリアと女性たちであった。男性の弟子たちは、恐れて信じられなかった。だから、わたしたち男性が信仰者として生きられるのは神様の憐みの故である。クリスマス・ツリーの光は、わたしたちのような不信仰な者たちが、明るい光の中を生きるようにと上から与えられた憐みのしるしである。(五島)


12月3日 (127) 「キリストの愛を思うクリスマス」

「イエスは、わたしたちのために命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命をすてるべきです。」(ヨハネの手紙一 3:16)

 クリスマスが近づくと、必ず思い起こす短編小説がある。O.ヘンリーの「最後の一葉」である。

 ニューヨークのワシントン・スクエアの西側にある、芸術家が集まる古びたアパートに暮らす画家のジョンジー(ジョアンナ)と同じく画家のスー。貧しいながら暖かい生活を送っていた中、ある日ジョンジーは重い肺炎を患ってしまう。スーは、医者から「ジョンジーは生きる気力を失っている。このままでは彼女が助かる可能性は十のうち一」と告げられる。心身ともに疲れ切り、人生に半ば投げやりになっていたジョンジーは、窓の外に見える煉瓦の壁を這う、枯れかけた蔦の葉を数え、「あの葉がすべて落ちたら、自分も死ぬ」とスーに言い出すようになる。彼女たちの階下に住む老画家のベアマンは、口ではいつか傑作を描いてみせると豪語しつつも久しく絵筆を握らず、酒を飲んでは他人を嘲笑う日々を過ごしていた。ジョンジーが「葉が落ちたら死ぬ」と思い込んでいることを伝え聞いたベアマンは「馬鹿げてる」と罵った。その夜、一晩中激しい風雨が吹き荒れ、朝には蔦の葉は最後の一枚になっていた。その次の夜にも激しい風雨が吹きつけるが、しかし翌朝になっても最後の一枚となった葉が壁にとどまっているのを見て、ジョンジーは自分の思いを改め、生きる気力を取り戻す。

 最後に残った葉は、ベアマンが嵐の中、煉瓦の壁に絵筆で精緻に描いたものだった。ジョンジーは奇跡的に全快を果たすが、冷たい風雨に打たれつつ夜を徹して壁に葉を描いたベアマンは、その2日後に肺炎で亡くなる。真相を悟ったスーは物語の締めくくりで、あの最後の一葉こそ、ベアマンの最高傑作と語る。クリスマスはイエス様の愛を思い、その愛によって生きる勇気をいただくときである。(五島)


11月26日 (126) 「宝の民」

「あなたの神、主は地の面てにいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが、他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた故に、主は力ある御手をもって、あなたたちを導き出し、エジプトの王ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記 7:6-8)
 谷間恵輝夫兄の告別式のプログラムを準備しながら兄弟が教会に残された愛称聖句ヨハネ15:16『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』を繰り返して読みながら、では一体なぜ主はこの十二人を選ばれたのかを、考えざるを得なかった。なぜなら、その中には、イエス様を裏切り、僅かな銀貨で敵に売り渡したイスカリオテのユダや、『自分の命を懸けてあなたをお守りする』と誓いながら、自分の身が危険になると、簡単に、『そんな人は知らない』と言ってキリストと自分との関係を否定したペトロ、いいえ、他の10人も、ユダヤ人の報復を恐れてイエス様を守るどころから、みな逃げ出して、身をひそめる体たらくであった。彼ら自身の内には、キリストに弟子とされる理由などなかったのである。

 申命記6章によれば、イスラエルの民が「神の民」、しかも「宝の民」として選ばれたのは、神様のイスラエルへの愛の故であった。私たちは、神様から御覧になれば、皆汚れた、貧弱なものであった。こういう者がキリストの弟子として、教会に招かれ、バプテスマをいただき、キリストの弟子とされたのである。

 しかも、キリストはわたしたちを、弟子として立てられた。そのご目的は、一つ。『あなたがたが、出かけて行って実を結び、その実が残るように』『互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。』(ヨハネ 15:16-17)私たちが結ぶ実とは、何であろう。兄弟、姉妹との愛の関係である。この愛がさらに深められるように、祈ってゆきたい。
(五島)



11月19日 (125) 「見えるようになるために」

「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(ヨハネの黙示録3:18)

◎視力の衰えを何とかカバーしようと、眼鏡を買い替えてみたり、色々な目薬を試してみるが、なかなか良くならない。恐らくは、眼を悪くしている根本原因が、わかっていないからであろう。

◎聖書は、悔い改めを信仰の不確かな者に勧めている。黙示録のラオデキアの教会は、「熱くもなく。冷たくもない」ので、「私はあなたを口から吐き出そうとしている」(ヨハネ黙示録3:16)と、天上のイエス様から警告されている。要するに、信仰の停滞を嘆く前に、それがどこからきているか正しく見なさいということである。信仰者、教会の悔い改めは、先ず自分の信仰の問題点を見極めることが始まる。そのためには、自分の信仰を検証するために基準となる物差し(カノン−聖典)が大切のようである。

◎そうでないと、何が良い目薬か、どんな生活態度が必要かと心を煩わせて、最も肝心なことを見落とすことになってしまう。われわれにとって、そのテストの基準となるものが、聖典である聖書と礼拝の説教、聖餐である。

『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』(黙示録3:20,21)

◎わたしたちが必死に努力しなくても、キリストがわたしたちの内に入ってきて、古いわたしたちを、造り変えてくださる。大事なことは、心の戸を開いて、主を受け入れることである。今年も、もうすぐアドベント、せっかく主が来てくださっても、主をお迎えしないクリスマスでは勿体ない。悔い改めがなされる時としていただきたい。(五島)


11月12日 (124) 「キリストにある一致」

「実にキリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造りあげて平和を実現し、…」(エフェソの信徒への手紙2:14-15)

◎力不足で、今回も使徒言行録の学びを、重要な部分を省いてしまいました。中でも、最も残念な個所は、15章のエルサレムの使徒会議についての記述です。全く異なる伝統と背景を持つエルサレム教会と、異邦人教会がどのようにして一致し、互いを受け入れたのか、とても興味があります。またの機会に詳しく学ぶことにします。
◎今、福良教会は、日本キリスト教団に加入申請をしています。その手続きがとても面倒で、時間がかかります。しかし、教区の指導者のお話では、一つの教会の加入は、単なる事務的な手続きよりも、迎えてくださる教区の諸教会との顔の見える交わりをまずして欲しいとのことです。今回の信徒交流会への参加もその一つです。
◎福良保育園も、現在来年からの公立保育所との一体化に向かって、労苦しておられます。そのために、島田則恵先生が日夜忍耐をして働いておられます。その問題が解決されないと、教会が、現在の土地と建物を将来活用させていただくこともできません。教会は、何もできませんが、主のお導きがあるように、祈ってゆかねばなりません。
◎教会は、宗教法人、保育園は社会福祉法人です。その両者が、協力して今日まできました。たとえ、保育園が移転しても、教会は保育園が何のために建設されたのかを深く覚えて、互いに祈りあってゆかねばなりません。

◎将来、福良キリスト教会が日本キリスト教団の一教会として、福良の地で主の御栄光を現わすために、現在は正念場です。心を一つにして、祈りましょう。(五島)


11月5日 (123) 「神の言葉はとこしえに立つ」

 「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は、草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書 40:7,8)

 牧師館から道路に出る小道は、排水溝に突き当たる。余り良い景色ではないし、臭いもかぎたくない。普段は鼻をつまむようにして通り過ぎる。しかし、台風で増水した排水溝の岸に一本の金木犀(きんもくせい)がある。そこから、今年も芳しい香りが臭ってくる。同じ香りを、遣わされた日本の各地で、嗅いできたように思う。けれども、木犀は数日で香りを失い、咲いていた花も地に散らばって、失われてしまう。
 人の心は、草の花のように移ろい易い。もし、わたしたちが人の言葉に動かされていれば、永遠の主の御心を見失ってしまうであろう。第二イザヤと呼ばれてきたこの預言者は、バビロンに捕囚となった神の民、イスラエルに、永遠に変わらない神の言葉により頼んで、風評にまどわされずに、しっかりと生きるように、告げた。
 教会も、次々と予定されている行事に追われていると、主からお預かりしている大切な一年を空費することになる。キリスト者も、人生をあっという間に使い果たしてしまう。

 「わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけなくて済むでしょう。」(テサロニケの信徒への手紙一 4:11-12)

 我々は、「落ち着いて」、神の言葉に立って、日々の生活と毎週の礼拝に集中して励んでゆきたい。(五島)


10月29日 (122) 「世に勝つ信仰」

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:3-5)

イエス様は、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というファリサイ派の一人の律法学者の問いに対して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。−申命記6:5『第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』−レビ記19:18』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」(マタイ22:35-40)と、お答えになりました。

 主は律法(掟)の中心を神への信仰と、隣人愛の二つに集約されたのです。信仰という縦の線と隣人への愛という横の線を結ぶものが、キリストの愛なのです。イエス様の父なる神様へのご信頼が、十字架の愛を生み出しました。主の隣人愛は、もともと御父である神様から子なるキリストに与えられた御愛に他なりません。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3:16-17)

私たちにも同じ愛が主から与えられたのですから、わたしたちもキリストの愛によって、罪の力に勝利することができるのです。(五島)


10月22日 (121) 「弱いときにこそ」

 「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二 12:9-10)

 「弱いときにこそ強い」などとパウロは本当に信じているのでしょうか。神様がパウロという強い使徒が思い上がらないように「サタンから送られた」肉体のとげが何であったのか、わかりませんが、パウロは神様に三度も癒しを祈りましたが、神様は『わたしの恵みはあなたに十分である。』と答えられて、癒しは与えられませんでした。
 わたしのような弱い人間は、病気が治らないというだけで、神様から見放されたのではないかと、失望してしまいます。けれども、大切なことは、弱い時虚勢を張るのではなくて、まず自分の弱さを素直に認めることです。神様がその弱さを通して、ご自身の栄光を現してくださる。と、信じさせていただくことです。いいか、教会も、わたしたちも、過去において、そういう素晴らしい恵みの体験をしてきたのです。私たちに残された老後の人生は、その素晴らしい主の御業を見る日々と言えるのです。だから、互いに与えられる一日一日を感謝しつつ歩んでまいりましょう。(五島)


10月15日 (120) 「キリストによる差別からの解放」

 「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(ヤコブの手紙 2:1)

 いつの時代でも差別は、具体的である。
 「あなた方の集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らわしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には『そこに立っているか、私の足元に座るかしていなさい』と言うなら、あなた方は、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」(ヤコブ 2:2-3)
 ヤコブが挙げている差別の例は、19世紀の終わり、フリーメソジスト教会がメソジスト教会から独立した会堂内の座席の売り買いに何とよく似ていることか。最近のアメリカ大統領のイスラム教徒や非アメリカ人蔑視の発言も同じである。ということは、人間が差別を具体的に行うのは、特別な人、特別な立場の人だからではなく、誰の心にも本来巣食っている病気のようなものだからであろう。誰でも差別は間違っていると知っている。
 しかし、差別は人の心の根にある罪の恐ろしい力による。黒人差別を厳しく批判する日本人が、同じアジア人を差別してきた過去の歴史を見れば、明らかである。人が差別の心から解放されるのは、キリストの愛によって、罪から自由にしていただくしかない。福音の力、十字架の力こそ人を差別から自由にする唯一の救いなのである。(五島)


10月8日 (119) 「上を目指して」

 「兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろの物を忘れ、前の物に全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙 3:13-14)
 この運動場で保育園の運動会が開かれる最後の年となりそうである。毎日元気に練習をしている園児たちには、そんな感傷など全くない。ただ全力で、行進の練習やダンスの練習に打ち込んでいる。今年は園児の数も少なく、余計にひた向きに見える。
 運動会と言えば、私には、とても苦い思い出がある。小学校一年の最初の運動会には、普段めったに学校にくることのない父も来てくれた。家族は朝早くから、ござをもって場所取りをし、美味しい弁当を用意してくれていた。私の出番は、買い物競争。かけっこには自信があるので、もちろん一等賞を狙っていた。用意ドンの音を聞くと、真っ先に目的地に到達。買い物の品に手をのばした。「よし、一番だ」と、思った瞬間、左からすっと手が伸びて、私の品は、略奪された。結局、わたしは、腹を立てて、そのまま家に帰ってしまったのである。もちろん、せっかくの弁当も、無駄になってしまった。
 もし、わたしが、後ろのものを忘れて、前に向かって走っていたら、少なく共三等にはなっていたはずである。
 パウロは、「賞を得る」ために全力を尽くして、前向きに、いえ、「上を見上げて走る」と、言っている。天国へのレースでは、横や後ろを向いていては、目標に達しえない。『目標』であるキリストに向かって、ひたすら走らないといけない。
 しかも、パウロのような大伝道者でも、「私は、すでにそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピ 3:12)と言っています。天国と言う目標まで、既にキリストが捕えて共に走ってくださるのです。(五島)


10月1日 (118) 「合同追悼礼拝」

 「主はわが牧者なり、我乏しきことあらじ。主はわれをみどりの野にふさせ、いこいの汀にともないたもう。主はわが魂を活かし、御名のゆえをもて、我を正しき道にみちびきたもう」(詩編 23:1-3)

 今年は福良教会創立120周年に当たる。今年の合同追悼礼拝では、82名の召天者のお名前が、読み上げられ、講壇の上にはすべての兄弟姉妹のありし日の懐かしい写真が掲げられた。その名簿の最初には、河邉貞吉牧師の名が記されている。どうして、教会では、信徒ではなくて、教役者の名が最初に記されるのであろう。教会の宣教は、召しを受けた伝道者によって出発したからであろう。しかし、申すまでもなく、キリストの教会の大牧師は、キリストである。主ご自身が、『私は、良い羊飼い』であると、告げられた。牧師は、信徒の上に立っているのでも、信徒とは異なる特別な賜物があるからでもなく、この主のお言葉に頼る一匹の弱い羊として、キリストの教会をお預かりし、キリストから託された使命を果たしているのである。
 今年は、ルター生誕500年を記念して、各地で宗教改革500年のお祝いや記念行事が盛んにおこなわれている。ルターは、聖職者と一般の信徒との間の壁を取り除き、キリストにあって、「万人が祭司」であり、教会はただ、神の言葉である「聖書」によってのみ、立つとして、当時のカトリック教会の誤った権威の主張を自らの命をかけて退けたのである。カトリック教会の誤りは、人間を神かキリストのように崇めさせる偶像礼拝を犯したことである。(*「教会のバビロン捕囚」)教会の真の主は神様、キリストである。「主は我が牧者なり」と詠った詩人の信仰こそが、福良教会の先達の信仰の拠り所であった。困難な淡路島伝道の出発の時代からあと10年で130年。その歴史の中で、天に召された兄姉の、信仰の跡には、『私は良い羊飼い』とおっしゃるイエス様と、『主は私の羊飼い』と、ひたすらキリストを愛する羊たちの愛の交わりが続いている。そこに我らも、ただ一つの希望を抱いて連なってゆきたい。(五島)

*ルターの有名な論文。


2017-08-20 から 2017-09-17 は五島牧師渡米のため「牧師の書斎から」はお休みです。

8月13日 (117) 「信仰は明確に」

 「あなたは冷たくも熱くもない。むしろ冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くもつめたくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示録 3:15-16)

 「なまぬるい信仰」とは、どういう信仰なのだろう。ヨハネ黙示録は、ローマ帝国の迫害の中にあった教会の指導者が書いたものだという。恐らく多くの信徒の中には、殉教を恐れて、自らの信仰を明確にすることをしなかった者もいたであろう。遠藤周作の「沈黙」の中の踏み絵のように、我々の信仰も常に試されているのであろう。

 先日、教区の二人の指導者を迎えて、告げられたことは、教会が教団加入を本当に願っていることが教区の方々に伝わらねばならない。たとえば、牧師招聘に際して、教区の謝儀基準を満たせるかどうかも一つのテストのようである。年々教会員は高齢化し、教会の財政も逼迫している。そういう中で、わたしたちは、責任を果たします、と言えるのであろうか。信仰の明確さ、なまぬるい信仰の脱皮は、口先だけのことではなくて、実際に言葉を行動に移すことである。

 『私は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて、戸を開ける者があれば、わたしは中に入って、その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に、食事をするのであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。』(黙示録 3:20-21)

 真の信仰の勝利者となりたい。(五島)


8月6日 (116) 「キリストの平和」

 「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。(フィリピ 4:7)

 今年も「平和聖日」を迎えます。わたしたちは、平和を守り、平和を創るのは、私たちであり、私たちの責任であると、考えています。もちろん、あの悲惨な戦争を起こし、日本だけでなく、アジアの諸国に多大な損害を与えた当事者として、深く反省し、二度と同じ過ちを犯さない決意が日本人には、求められています。

 しかし、パウロは、実は、神様の平和によって、人間はいつの時代にも守られている。神様の平和は人知を超えたものであると申します。

 すなわちこの平和は、人間のあらゆる敵意を十字架のご愛によって打ち砕き、対立と憎しみ、争いに打ち勝ったキリストのご復活の力によって人間を愛と平和を創造する者としてくださる驚くべき奇跡の力であると、告げているのです。北朝鮮のミサイルや、大国の核兵器よりも恐ろしいのは、それらを敵を倒すために使おうとする人間の中に潜む悪魔、罪の力こそ、おそるべき敵なのです。教会には、常にこの敵と戦う用意が必要です。共に神様の平和を祈り求めてまいりましょう。(五島)


7月30日 (115) 「真実と平和」

 「喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編 34:12-15)(ペトロ第一 3:10-12)

 今年も「平和聖日」を、来週迎える。日本の第二次世界大戦への参戦は、最初から虚偽で始まった。まず、日本が真珠湾攻撃をしたのは、ルーズベルト大統領の罠にはめられたからだと、日米の歴史家は語る。

 戦争の局面が敗戦濃厚になっても、国民には、勝利しか伝えられなかった。日本政府には、本当に平和を尋ね求める指導者がいなかった。ペトロは詩編の言葉を引用して、平和を望まない者は、偽りを語ると言っている。

 いつの時代も、戦争を起こしたい指導者は、自分の立場を守るために必死で真実を隠蔽しようとして、嘘をつく。彼らは、あたかも国を守り、戦争を阻止するためであるかのように、法律を作り、憲法を改正すると、主張する。

 イエス様を十字架につけた人々も真実を平然と破った。しかし、真理の御霊は、すべてを明らかにした。教会は、いつも御言葉に従い、真実と平和を追い求めてゆきたい。(五島)


7月23日 (114) 「2人1組での伝道」

「それから、イエスは付近の村を巡りあるいてお教えになった。そして12人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖1本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして、『下着は2枚着てはならない。』と命じられた。」
(マルコによる福音書6:6-9)

 イエス様は12人の弟子を2人を一組にして、伝道に派遣されました。これは、現代的に考えると、旅の安全のためかもしれません。

 しかし、それ以上に信仰的に、同じキリストを信じる兄弟と、互いの信仰を確認し、励ましあうためではなかったでしょうか。信仰を与えられ、主イエスの弟子とされてこの世に遣わされていく私たちは、一人で生きるのではなくて、教会の仲間と共に生きるのです。信仰者の歩み、伝道の働きにおいては、「孤軍奮闘」は勧められていません。主イエスの弟子は、一人で孤独に立つ者ではなくて、仲間と共に歩む者なのです。

 去る淡キ連の実行委員会で、宇山福音教会の中村牧師が同じホーリネス派の若い(神学校の新卒)土屋伝道師と結婚され、これからは二人三脚で牧会するのでよろしくとのご挨拶があって、出席者一同から祝福された。厳しい伝道も若い瑞々しいお二人できっと、楽しく元気に前進されるでしょう。

 パウロも、最初の伝道地キプロス島へは、先輩のバルナバと、その後も、シラスやテモテと困難な伝道を続けてゆきました。

 福良教会も牧師と兄弟姉妹の共働のご奉仕を感謝して続けてゆきましょう。(五島)


7月16日 (113) 「ギデオン」

 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます」。ギデオンは彼に言った。「私の主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が『主は、我々をエジプトから導き上げられたではないですか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主は私たちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」(士師記 6:12-13)

 イスラエルは、収穫時になると、ミディアン人の襲撃を受けて、略奪されました。士師ギデオンは民の声を代表して、神に助けを求めました。神の答えは単純明快でした。「主はあなたがたと共におられます。」それ以外の保証は何もありません。

 今年もギデオン協会の兄弟たちが、聖書の配布のご奉仕の報告と尊い証のために福良教会の礼拝にきてくださる。

 毎月お送りいただく月報には、協会が配布した聖書に出会い、人生を変えられた世界中の方々の個人的な証しがリアルに述べられている。いつも感心するのは、彼らが自ら聖書を探し求めたのではなくて、神様が一方的に聖書のみ言葉へと導かれたということである。

 ギデオンだけでなく、モーセも、エレミヤも、イザヤも聖書の働き人たちは、召しを受けた時、自分は召しに相応しくないと、召しを固辞しているのである。現在世界中で聖書配布のご奉仕をしてくださる方々も、ご自分の力ではなくて、ひたすら聖霊のお導きを信じて、ご奉仕を続けてくださっているのである。心より感謝を申し上げたい。(五島)


7月9日 (112) 「ひたすら主に仕えるために」

「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世のことに心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。このようにわたしが言うのは、あなたがたを思ってのことで、決してあなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(コリントの信徒への手紙I 7:32-35)

 カトリック教会の教職者の独身制は、若い時代に結婚した者には、生涯大きな挑戦であり、課題であった。正直に言って、牧師として今日まで歩みえたのは、妻の祈りと支えのおかげである。ルターは、カトリック教会から破門されて、間もなく、元修道女と結婚し、平和な家庭を築いた。カトリック教会からは、厳しく批判されたが、彼の豊かな著作は、家庭生活から生まれたものであった。

 パウロも聖書には記されていないが、かつては結婚していたと思われる。問題は、結婚によって、世のことへの思い患いから神様にお仕えする生活が妨げられることである。確かに、心の分裂が起こって、「心が二つに分かれた」つらい経験を何度もしてきた。逆に妻あればこそ、「品位ある生活」(ひたすら主に仕える生活)を楽しむこともできた。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ 7:33)

 心を神の国に集中させて、ひたすら主にお仕えしてゆきたい。(五島)


7月2日 (111) 「長寿は祝福か」

 「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておられるのか。彼らは、死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にも勝って死を探し求めているのに。墓を見出すことさえできれば、喜び躍り、歓喜するだろうに。」(ヨブ記 3:20-22)「ヨブはその後140年生き、子、孫、4代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」(ヨブ記 42:16)

 日本基督教団の新報を受け取ると最初に見るのは、逝去された牧師の年齢である。最近、80歳以下の方は、稀である。父も晩年は寝た切りであったが、83歳、義母も40代で脳梗塞になりながら87歳まで生を与えられた。医療の進歩のおかげである。ヨブは祝福された熟年期に子供も財産もすべて失って、死を願い求めるようになったが、神様は、彼の死を許されず、彼が真実に神様を畏れる者として生まれ変わった時、以前にもまして、祝福をお与えになった。新しい妻と家族が与えられ、長寿を完うさせられた。ただ長生きしただけでなく、その人生を以前よりもさらにゆたかに祝福されたのである。

 そうです。信仰者の祝福は単に長寿にあるのではない。それが、主の祝福と信じられるかどうかによって決まる。それはこの世の価値観ではなくて、信仰の価値観によるからである。(五島)


6月25日 (110) 「ハレルヤ」

 「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。
 主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
 イスラエルはその造り主によって喜び祝い
 シオンの子らはその王によって喜び踊れ。踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。」 (詩編 149:1-3)


 「メサイヤ」の意味も「ハレルヤ」の意味も知らないでヘンデルのハレルヤ・コーラスを音楽部の合唱曲として歌ったのは、高校1年の秋、まだ教会の礼拝に集う前であった。今でもメサイヤを歌う日本人の大半はその意味知らないであろう。ヨーロッパのキリスト教徒にとっては、信じがたいことだと思われるが。

 ペンテコステのペトロの説教を聞いて、聖霊によって生まれた教会は、

 「すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、各々必要に応じて、皆がそれを分かちあった。そして、毎日にひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを割き、喜びと真心をもって、一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである。」(使徒言行録 2:44-47)

 エルサレムの民衆は、キリストを信じて新しく生きる人々の愛と信仰の交わり、賛美の姿を見て、「好意を抱いた」のであった。
 淡路に来て感心するのは、教派を問わず、コーラスやソロの賛美を中心とした集会が多いことである。東京でも大阪でも特別集会といえば、中心は、常に説教であった。賛美が伝道に用いられることは、キリスト教を多くの人に知っていただき、地域社会で受け入れられるためには、とても良い方法であろう。しかし、伝道会であれ、礼拝であれ、中心はやはり、御言葉である。福良教会も説教を重んじる教会でありつづけたい。礼拝そのものが「ハレルヤ」なのだから。(五島)


6月18日 (109) 「情熱と知性」

「人々は皆驚き、とまどい、『一体、これはどういうことなのか』と、互いに言った。しかし、『あの人達は、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」(使徒言行録 2:12-13) 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、また、メシアとなさったのです。」(使徒 2:36)
 ペンテコステの奇跡は、ただ不思議な現象だけではありません。何の学問も聖書の知識もない使徒たちが聖霊によって神様の言葉を語ったことでした。エマオで復活の主と出会った弟子たちの心が燃えたように、聖霊に満たされた使徒たちの語った説教は、それを聞いた人々の心を酔わせ、強く打ちました。しかし、その内容は、実に聖書的で、旧約聖書の言葉の解釈が中心でした。論理的でした。それは、後の教会の説教のお手本となりました。(C.H.ドッド)

日本の有名な説教家たちの説教も、そうでした。内村先生、植村正久先生、高倉徳太郎先生の説教も情熱と知性が調和して、誰の心をも開き、揺り動かしました。それは、実に単純な事実から生まれました。全てが聖書の霊感に触れて語られていたからです。その結果、

「『人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」(使徒言行録 2:37-38)

今年度で引退を表明した女子ゴルフの宮里藍さんが、あれほどの実力と努力をしながら、ついにメジャー大会での優勝はなかったそうです。テニスの錦織選手にもまだメジャーの優勝はありません。でも彼らの夢は、誰にもわかります。彼らはその夢の実現のために、日夜自分を打ちたたいています。私たち説教者たちの夢も一度でも多く、主の御霊に満ちた御言葉を語ることです。お祈りください。(五島)


6月4日 (108) 「混沌と秩序」

 「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは『れんがを作り、それを良く焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」(創世記 11:1-4)

 人間の世界が分裂し、言葉がお互いに通じなくなったことを、創世記は、人間が傲慢のために、バベルの塔を建設したからだと、述べています。(人間は統一の象徴としてバベルを建てたのに、混乱しか生みませんでした。)

 実は、天地創造の世界は、最初は混沌とした闇であった、と創世記の冒頭に記されています。この混沌に秩序を与えたのは、「光あれ」という神の言でした。これをヨハネは、

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネによる福音書 1:1-4)

 実に壮大で美しい命と光の賛美です。ところが、人類は自分が有名になるために、天に達するまでの塔を建てたのです。その結果、同じ言葉を話すことができなくなりました。神様は不思議なお方です。この失われた混沌とした世界を、命の言葉(キリスト)によってもう一度造りなおしてくださったのです。それが、ペンテコステの奇跡です。分かれ、秩序を失った世界を造りなおすのは、聖霊による神の言葉です。教会の土台は、神の言です。(五島)


5月28日 (107) 「花の日」

「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。」(マタイ 6:30-31)

 明治以来、日本の教会では、6月第二聖日を、「花の日」と定めて、日曜学校では、近隣の駐在所、駅、消防署など日ごろお世話になっている公の機関を訪問して、子供たちが持ち寄った花を飾っていただいた。特に病院では、長い間ベッドにおられる方々を訪問して花束と、子供たちが作ったカードを添えて一人一人にお渡しする習わしがあった。(最近では病院の安全のために禁止されるようになったが。)
 しかし、欧米と違って、6月は日本では家庭で育つ花は少ない。そこで花束もアジサイが主に使われた。アジサイの花は美しいが枯れやすい。病人には余り好かれない。しかし、中には、その「はかなさがいい」と、喜ばれる方もいた。カードに記された聖句と教会の住所を心にとめて教会を訪れる方も何人かおられた。
 一人の兄弟は、故郷で十分な治療を受けるチャンスを失い、大阪に就職された。
 後に兄弟は同じ病のために召されたが、子供たちをこよなく愛された。洗礼を受けて、教会学校の教師となり、家族と共に、良く教会と教会学校のために奉仕をされた。花の日が近づくと、体を斜めにして、子供たちに話しかける兄弟の姿を思い起こす。(カリエスで左の肺を切除されたため)

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ 6:33-34)

 来週はペンテコステの礼拝である。聖霊による希望が教会に与えられるように。(五島)


5月21日 (106) 「神の武具を身につける」

「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯びとして腰に占め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」(エフェソの信徒への手紙 6:13-15)

 ここ3年ほど、出なかったギックリ腰に見舞われて、まっすぐに立つことも歩くこともできなくなった。別に特に重い物を持ち上げた覚えもないし、危険な動作をしたわけでもない。ちょっとした油断から、痛みに耐えられないような苦痛が与えられている。
 人の体は、ある個所がひどく痛むと、そこにすべての意識が集中してしまう。他の大事な身体機能が働かなくなるようである。だから、こうなる前に、立って、歩く姿勢や運動を怠らないことが大事なのであろう。

 パウロは、サタンの攻撃を受ける前に信仰者は、戦いの備えをしなければならないと警告している。

 どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ 6:18)

 攻撃こそ最大の防御である。キリスト者の攻撃の武器は御言葉と祈りである。何と平凡な戦いであろう。しかし、パウロのような偉大な伝道者も、

 『また、私が適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。』(19節)と、教会の祈りを求めている。

 ペンテコステ礼拝までに、霊も身体も強められるようにお祈りください。(五島)


5月14日 (105) 「母の日」

「神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう。」(星野富弘)


 「母の日」を迎えると、必ず思い出す言葉の一つである。人間に与えられた平等な願いが、この詩に込められている。私には母と呼べる人は、三人共、すでに地上にはいないが、その誰にも、肩をたたかせてもらったことはなかった。生母は、中学生の時召されたが、余りにも突然で、手を握る間もなかった。継母はやはり他人で、肩どころか、体に触れることもできなかった。妻の母は、全身が神経痛の痛みで、妻でさえも体にふれられずに、養老院で召された。

 中学校の教師になってクラブ活動の指導中頸椎を損傷、身体の機能を失った星野さんは、その後、手足を自分で動かすことができなくなった。結婚されるまで、彼の手足になって生活を支えてくださったのは、お母さんであった。年老いた母に彼は現実には何もしてあげられない。だから「神様がたった一度だけこの腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう」と言う言葉に結実したのであろう。

 もちろん、世の母の誰一人として、わが子に肩をたたいてもらいたいとは考えまい。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(コリント I 13:4-7)

 キリストの愛の真実を身をもって教えてくださった母を与えてくださった神様に心から感謝を献げる「母の日」でありたい。(五島)


5月7日 (104) 「変わらないもの」

 「イエス・キリストによりて啓示せられ聖書に於て証しせられたる父、子、聖霊なる三位一体の神は世の罪と其の救いの為人となり死にて甦り給える御子の贖いにより信じる者の罪を赦して之を義とし、之を潔め永遠の生命を与え給ふ。」(「教団成立の沿革」中の信仰告白前半−1941年)

 新憲法が発布されて70年。各地で記念の集会がもたれ、テレビや新聞で、議論されている。日本だけでなく、憲法は、国家の存在の根幹をなすもので、一人の政治家や、政党の基本方針ではない。米国の憲法には、絶対的な権威がある。あらゆる法律や国家の政治、地方の行政に至るまで、憲法に違反していないか否かが厳しく問われる。いかに自己中心的な大統領であってもそれを曲げることはできない。

 キリスト教会にも教会の憲法がある。福良教会は、日本キリスト教団への加入に先立って、新しい教会規則を作成し、先の総会で既に承認された。その根底にあるのは、日本キリスト教団の教憲教規である。これは、2013年5月に最終の改訂がされている。最初に創られたのは、教団が政府によって合同させられて誕生した1941年6月25日である。日本国憲法よりもさらに6年も古い。しかし、その基本精神は変わっていない。

 「教会はキリストの体にして恩寵によりて召されたる者礼拝を守り福音を宣伝え聖礼典を行い主の来たり給うを待ち望むものなり」(信仰告白の後半部分−教会について)

 教憲教規は改正されてきたが、この信仰告白の中身は、決して変わらない。どうか、先輩の聖徒たちが守ってきた信仰を、わたしたちも、固く守りぬいてゆきたい。今日本の憲法は、その根本精神が失われる危機にある。それは戦争への道である。キリストを主とする我らは、信仰告白を誠実に守ってゆきたいと思います。(五島)


4月30日 (103) 「キリストの良き花嫁」として

 「ティオフィロさまわたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。(使徒言行録 1:1-2)

 ルカは、使徒言行録の前書きとして上の前書きを記しています。すなわち、ルカによる福音書も使徒言行録も、ルカや教会が勝手に記したものではなくて、復活されたイエス様の霊に導かれて、集められた資料を編纂したと言っているのです。福音書は4つありますが、初代の教会の歴史は、使徒言行録だけです。もし、これがなければ、原始教会の歴史は、ほとんど私たちには、謎であったと思われます。

 福良キリスト教会は、創立120周年の記念誌を今回は作らないことになりました。今それだけの力が、わたしたちにはないからです。しかし、せめて、100年の記念のとき以来の年譜だけでも、正確に残すことができれば幸いです。また、できれば、来年の創立記念日には、一年かけて、小さなものでも良いので、教会員の証しを中心にして、教会をお守りくださった神様に対する感謝を表す文書を用意したいと、祈っています。それまでに、どうか、教会の日本キリスト教団加入と、礼拝堂の購入のめどをたてたいですね。どうか、お祈りください。何よりも教会の歴史が聖霊によって導かれていることを、固く信じて、今年の創立記念の日が迎えられますように。
 「あなたは再び、『捨てられた女』と呼ばれることなく、あなたの土地は、再び『荒廃』と呼ばれることはない。あなたは『望まれる者』と呼ばれ、あなたの土地は『夫を持つもの』と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。」(イザヤ書 62:4)

 福良教会がキリストの良い花嫁として「神様の喜び(イザヤ 62:5)」とされますように。(五島)


4月23日 (102) 「聖霊を待ち望む」

「『あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』」(使徒言行録 1:8)

 プリンターの進歩は著しい。ところが、油断は禁物、その便利な印刷機が、結構紙詰まりや、故障をする。急ぎの仕事の多いときほど、事故が起こる。一番よいことは、間際になって慌てないように、日ごろから用心して、備えておくことである。

  「あなた方は、その日、その時を知らないのだから」(マタイ 25:13)

「十人のおとめ」のたとえの最後に、の用意をしていなかった愚かなおとめたちに、主人が告げた言葉である。これは、天国のたとえである。しかし、この世においても、十分に適応できる。どんなに良い機械ができても、それを使える知識と能力、何よりも、必要な備品の用意がなければ、宝の持ち腐れである。教会のプリンターは、とても性能が良い。しかし、インクや用紙が無くなれば、使うことはできない。
 主の教会にとって、油とは何だろう。聖霊ではなかろうか。イースターを迎えた私たちは、「聖霊を待ちなさい」との主のお言葉を胸に刻んで、ペンテコステの礼拝に備えたい。福良教会は今年、創立120周年の記念すべき時を迎える。(五島)


4月9日 (101) 「処方箋」

 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」(テサロニケ第一 2:13)

 同じ病気であっても、医師によって処方される薬は異なる。売薬は、その点、どこの薬屋で買ってもかまわない。便利ではあるが、時には間違って用いてしまうことがある。先年のビオフェルミン事件もその一例であろう。アスピリンも誰でも、どこでも手に入るが、意外にも副作用も多く、注意が必要である。
 近年抗生物質の多用も危険とされている。青汁などのサプリメントもわたしのようにビタミンKを禁じられている病人には、禁物である。血をサラサラにしてくれる薬は、今の医学では死ぬまで服用しなくてはならない。
 礼拝における説教は、聖書の御言葉の説き明かしであるが、説教者が会衆一人一人に処方するわけではない。御言葉を神の言葉として聞ける人にのみ適切に働く。説教者は、説教の良し悪しよりも、聞いてくださる信徒の信頼が先ず、肝要である。勝手な言い分であるが、良い説教者を作るのは良い教会である。
 神学校に行って間もなく、著名な説教家、田崎健作牧師の「捨て身で生きる」を読んで感動した。倉敷教会の青年牧師時代、土曜日になってもどうしても説教が出来ず、ある有名牧師の説教を拝借した。ところが、月曜日に教会の長老が訪ねてきて、それとなく、先生の間違いを指摘して帰られた。名牧師となった田崎先生の懺悔であるが、私も何度、信徒の忠告や祈りによって救われてきたことであろう。イースター礼拝には、多くの思い出がある。いつも説教は明け方までできなかった。早朝礼拝になってやっと、完成した。(五島)


3月26日 (99) 「思慮分別の霊」

 「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、私たちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために私と共に苦しみを忍んでください。」(テモテ第二 1:7-8)

 幼い時から、人前で話すことがとても苦手であった。それが77歳になっても、変わらない。十分に準備をしていても、すぐにあがってしまう。臆病の霊にとりつかれてしまうのである。よほど自信がないからであろう。
 しかし、説教者は、本来自分の知恵や思想を語ることを使命とはしていない。与えられた神様の言葉を取り継げばよいはずである。その御言葉そのものに、力と愛が秘められている。それを理解し、伝えるのも自分の能力ではなく、神様から与えられた「思慮分別の霊」だと、パウロは弟子のテモテに語っている。
 いつも感心するのは、教会の最高齢の姉妹が全力を振り絞って、感謝の祈りを献げてくださることである。
 どうか、今年の復活祭の礼拝こそ、自分の弱さと向き合い、臆病の霊をコントロールできるように、切に祈っている。(五島)


3月5日 (96) 「良い羊飼い」

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが、父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしにはこの囲いの中に入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネによる福音書 10:14-16)
 今年度も教会総会が近づいている。総会の資料をまとめなくてはならない。どんなに小さな教会でも、同じである。まず、現住陪餐会員の整理から、作業は始まる。高齢化している社会では、黙っていても、会員の数は減少してゆく。恥ずかしいことだが、未だにすべての会員を訪問し、ゆっくりと、お話できていない。イエス様は、「私は自分の羊を知っている、そして羊も私を知っている。」とおっしゃる。その関係は、父なる神様と自分との関係と同様だと、説明されている。
 先日、昨年召された内貴八郎右衛門牧師(日本フリーメソジスト明石上の丸教会牧師)の追悼記念集を奥様からお送りいただいた。先生の真骨頂は、やはり「人を知る」ための努力を惜しまないことであったことを、寄せられたすべての方々が語っておられる。たった一度だけ礼拝のご奉仕に伺った私たちをも旧知の弟子のようにご歓迎くださり、ご自分の運転で、舞子ヴィラの景色の良い場所にご案内くださり、その後美味しいケーキとコーヒーをごちそうくださった。これは、先生のおもてなしの定番であることを、記念集で知った。すなわち先生のお人柄には、自分は先生に、誰よりも知っていただいており、誰よりも愛されている、と感じさせてしまう魅力があったようである。いわば、牧会の天才なのだろう。しかし、自分を顧みると、それは、自然にできることではない。恐らく大変な努力を要していたことであろう。いわば囲いの外の羊であった私をも、自分には、この人は真の羊飼いなのだと思わせることなど、普通の牧師には不可能である。『この羊をも導かねばならない。』との決意と努力を先生は続けてこられたはずである。イエス様は、羊のために命を捨てる覚悟と確固たる意志をもって、十字架への道を歩まれた。本日から受難節である。(五島)


2月26日 (95) 「平和の重み」

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)「神の国は、見える形では来ない。【ここにある】【あそこにある】と言えるものでもない。実に神の国はあなた方の間にあるのだ。」(ルカ 17:20)

 「平和」の実現どころか、自分の主義、主張と異なる立場の人々を排除する恐ろしい大統領が米国に出現して、民主主義の根幹を揺るがしている。自分の地位と命を守るためには、骨肉をも疑い、抹殺する悲惨な事件が毎日報道されている。現在の日本人に与えられている「平和」も、案外もろく崩れるのではないかと、とても不安になる。

 「エデン」の園を追放された人類は、まず兄弟の争いから殺人者となった。カインがアベルを殺した時、神様はカインに尋ねた。『お前の弟のアベルはどこにいるのか。』カインは答えた。

『知りません。私は、弟の番人でしょうか。』(創世記 4:9)

 「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。』」(同上 11節)


 イエス様は、人間が失った「平和」をこの世界に再び実現してくださるために、ご自分の血を十字架の上で流してくださった。「平和」を失うことは、実に簡単に起こる。しかし、「平和」は、棚からぼたもちのように、与えられるものではない。この平和の実現は、まず兄弟姉妹との間で、実現されなくてはならない。それは毎日毎日、真剣に積み上げてゆく忍耐を要する。兄弟に「あなたは今どこにいますか」と、確認しながら、神様の御前で共にイースターを祝うことができるように。(五島)


2月19日 (94) 「信教の自由」

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤの信徒への手紙 5:1)

『信教の自由』を守るための淡キ連の2・11集会が、淡路教会でひらかれた。若い村上牧師が、保守的なイスラム教の絶対支配にあるバングラデシュでの経験をもとに情熱的な講演をされた。まさにバングラデシュではキリスト者や女性にとっては、宗教は、「奴隷の軛」である。
 悲惨な事件が毎日のように、ダッカだけではなくて、地方でも起こっている。実は、イエス様も弟子たちもユダヤ教の迫害や抑圧を受けて苦しまれた。中国や朝鮮では、今もキリスト教徒に信教の自由はない。もちろん、法律上、表向きは、信教の自由は保障されている。
 一体どうして宗教は、他の宗教に寛容になれず、自己の宗教以外の宗教を排斥したり、滅ぼすのであろうか。それは真の神ヤーウエを信じる神の民イスラエルも同じである。バールの預言者450人とただ一人で戦った預言者エリヤは、確かにその戦いに勝利をした。しかし、彼は、その後、バールの預言者を一人残らず、キション川で殺害する。キリスト教も2000年の歴史で、多くのユダヤ教徒を迫害し、自分たちの正当性を主張してきた。それは、宗教が、絶対者で唯一の神を信じるからであろう。だから、宗教学者小口偉一氏は、宗教の信ぴょう性は、自己を絶対化する教義や信仰にあるのではなくて、他の宗教や自分とは異なる立場に立つ人をどれほど受け入れ、愛してゆけるかという倫理にあると、言っている。イエス様は、私たちを罪から解放してくださるために、人を縛り付ける罪そのものから、自由にしてくださったのである。キリストの福音のみに生きることは、他者を束縛したり、排斥することではなくて、自分と同様に、たとえ信じる神は異なっても、彼らを、神様から愛されている友としてキリストにあって、愛することである。(五島)


2月12日 (93) 「聖霊によるリラックス」

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスの者となった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤの信徒への手紙 5:22-24)

 情けないことながら、聖餐式の式文を用いながら、最後の「感謝の祈り」の部分を、つい忘れて、御忠告をいただく。そういうことがないように、毎回心に、「今日は忘れないぞ」と何度も言いつつ、一瞬の油断で失念する。
 いつもマッサージをしてくださる兄弟が、歩行をするとき、余り力を入れずに、リラックスして、一歩一歩歩むように助言してくださる。「先生は、体が硬くて、力が入り過ぎるから、かえって緊張してしまうのです。転んでもまた立てばいいのですよ。」その通りです。
 パウロの文書を読むと、信仰生活は、緊張の連続のように思われるが、本当はそうではないようである。信仰生活は、「愛と自由」が基本で、むしろ、しなやかで、リラックスした生活なのである。しかし、そうなるためには、熟練と練達が欠かせない。

「私たちは、霊の導きに従って生きるなら、霊の導きに従って、前進しましょう。」(ガラテヤ 5:25)

 よく自然体と言いますが、信仰者は、聖霊によって、リラックスして生きてゆくことができる。まだ、「固い。固い」(律法的)と言い聞かせて毎日歩く。そうすれば、散歩もきっと快適になる。信仰生活も楽しくなくっては。(五島)


1月29日 (91) 「体は、一つ、霊は一つ」

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソの信徒への手紙 4:4-6)
 本日私たちは、教団加入を祈っている日本キリスト教団兵庫教区の神戸地区の方々と初めてお会いし、懇親の時を与えられようとしている。教会は、牧師のものでも教会の役員のものでもなく、見えざるキリストの体である。
 日本キリスト教団は、第二次世界大戦中、政府の命によっていわば強制的に合同させられた教団である。戦後、多くの教会が旧教派に戻ったり、新しい教団を形成してきた。残った教会は、様々な歴史的な背景をもっている。福良教会も、日本自由メソジスト教団の教会として、歩んでいたが、洲本教会と共に、単立教会となって、30年余りを孤独な道を歩んできた。ただ、島田和人牧師は、淡路島の諸教会のキリスト教会連合(カトリックも聖公会も含む)の設立に尽力されて、他教派の教会との交わりを続けられ、則恵先生もお忙しい保育園の仕事に加えて淡キ連の活動に協力されてこられた。
 日本キリスト教団は多様性のある教団である。我々は、与えられた教会の歴史や伝統を尊びつつ、異なる教会の背景を持つ教会との愛の交わりが深められるように祈らねばならない。
 およそ40年程前、私は、単立教会であった小さな教会の牧師として、日キ教団大阪教区への加入の手続きをしていた。開拓伝道の労苦を共にしてきた少数の会員も、牧師である私も、まだ見ない将来を考えて、大変不安であった。しかし、今日、この教会は、教団の教会として、多くの友を得、祈り、祈られて、成長している。福良教会も日基教団の教会として、新しい道を希望をもって前進してゆきたい。(五島)


1月8日 (90) 「アルファでありオメガであるお方」

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(ヨハネの黙示録1:8)
 クリスマスから新年にかけて、久しぶりに孫たちと過ごした。孫と言っても、二十歳をとっくにすぎた大人である。しかし、この子が生まれたときから小学校の半ばまでを埼玉と、千葉の田舎で一緒に過ごした。親代わりであった。その子が結婚して、配偶者と一緒に牧師館に来てくれたのである。幼い日々を思うと、感慨無量である。
 福良教会の信徒の大半は、私よりも年上で、すでに配偶者をなくされた方々が多い。随分お一人でご不自由もあろうと思うが、皆さんご自分のことを忘れて、教会と兄弟姉妹のことを尊んで、仕え、元気に生活をされている。それは、「初めであり、終わりであるお方」を信じ、従っておられるからである。
 だから、礼拝出席者は20名そこそこであるが、福良教会の賛美は礼拝堂に満ちる。声の枯れた私のような者もいつも勇気づけられる。
 「『渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。』」(黙示録 22:17)との主の御声を聞いて、今年も歳晩礼拝まで喜んで主に従いたい。(五島)


1月1日(89) 「旅人をもてなしなさい」

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい。あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:13-15)

 新年おめでとうございます。クリスマス礼拝を、多くの方々と共に守ることができた。特に、遠近より懐かしい友や、主にある兄姉をお迎えして、喜びを分かちあうことができた。オリンピックが日本で開催されることになって、「おもてなし」という言葉がよくつかわれるようになった。
 使途パウロも、信仰の友を心から「もてなすように」と言っている。当時、伝道や、証のために、旅をする人々は貧しかった。「宿屋には、泊まるところがなく」て、家畜小屋で、出産をしなくてはならなかった聖家族こそ難民であった。だから使途は、聖なる人々を、たとえ自分は貧しくても、心をこめて迎え、もてなすように努めることは、教会のなすべき聖徒の交わりの基本だと、言うのである。
 わたしたちも、異国の地で、何度も尊い「おもてなし」をいただいてきた。
 教会は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ところである。いつも思うのだが、泣く人と共に泣くことは、できるが、喜ぶ人と共に喜ぶことは難しい。どうしても、妬みが私たちの心を狭くしてしまう。聖霊によって、主のご愛に満たされて、今年こそ、自由に、しなやかに生きていただきたい。
 「兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙 5:13)
 たがいに喜んで主の業に励む一年となるように祈ってまいりましょう。(五島)


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