願王閣(がんのうかく)      新潟県燕市地蔵堂本町

至誠庵について

















■至誠庵と第一世可念庵主

   至誠庵にはかつて願王閣主(堂守)となられた歴代庵主様(あんじょさま)が住んでおられました。
   至誠庵は願王閣に向かって左隣りに位置します。

   <可念庵主の略歴ご紹介>

   記録には、第一世堂守(庵主様)は 『可念和尚』とあります。【御入滅 寛保2年(1742年)8月1日 109才】
  

   「歴代堂守の内、可念座主は中興の祖と云うべき人であろう」
  
   「可燃坊覚如 (至誠庵宝蔵門阿可念座主)
    駿河久能山麓の人。幼名久能清次郎、姓は伊藤氏(藤原氏末孫)16歳の時清水で禅の修行。その後松陰寺の単嶺寺に師事した後
    回国修行をし、地蔵堂に至る。ここで地蔵願王尊の自垂を受けて大吾、可念覚如と改名。御堂建設の為近郷を勧進にまわる。
    折からの大飢饉あり、その資金を以って救済す。その後木材を刻む途中、大洪水で作業小屋と共に流出。第三回勧進に依り
    元禄13年(1700年)より木材買い入れ 
    元禄14年(1701年)起工
    三年後に5間四方の堂宇建立
    
    数年後に二代智雲と協力して庫裡を建造す。この功を賞し東嶺禅師より感謝状と共に『至誠庵』の三文字を賜る。
    
    可念歿後(ぼつご)の寛保2年(1742年)10月27日臨済宗管長、その功を称して賜号を得る『宝蔵門可念座主』
    三代林随、仏具鐘磐よ涅槃像に至るまで完備せり」

    御入滅:第一世可念庵主 寛保2年 (1742)8月 1日
         第二世智雲庵主 宝暦12年(1762)3月15日
         第三世林随庵主 寛政3年 (1791)6月21日                                              



                                                            ※地蔵堂願王閣記録抄より
    

   第一世可念庵主
   第二世智雲庵主
   第三世林随庵主 合同墓碑

         可念庵主 智雲庵主 林随庵主記念碑






   歴代庵主様には可念和尚を第一世堂守としてお迎えして以来、
      昭和五十年代までの間、およそ280年に亘り御勤め頂き、大変お世話になりました。

■願王閣第一世堂守 可念 <生誕400年は 2033年> <没後300年は 2042年>

    第二世堂守 智雲                    <没後300年は 2062年>

      第三世堂守 林随                    <没後250年は 2041年>




■良寛様と遍澄庵主の係わり

    第4世庵主様遍澄和尚は島崎の出身であり、庵主様になられる以前の若い頃より良寛様との係わりがありました。
    また、至誠庵に塾を開き子弟の教育を行いました。
     
    「(文化13年1816年)5月  五合庵に良寛を訪ね、願ってその法弟となる。
     同年、良寛を奨めて乙子祠(ほこら)側の草庵に移住させ、身辺のこと薪水の労に当る。
     文政9年(1826年)、良寛を島崎の木村家に移す。」 
                                                             
    「遍澄和尚、天保10年頃(1839年頃)至誠庵に塾を開く」



     遍澄庵主御入滅:明治9年(1876)9月13日 75才


                                                             ※地蔵堂願王閣記録抄より





■薬師如来様と五香祭り

   至誠庵には薬師如来様をお奉りしてあります。







   薬師如来様の御祭りとして年2回(5月と10月の8日前後に)の「五香祭り」を行い、古来から伝わる
   
   「五香湯」という健康祈願の漢方湯を差し上げております。どなた様もお飲み頂けます。

   足腰が不自由な方はどうぞご家族様が水筒などお持ちくださり、お持ち帰りください。少々熱いのでご注意ください。

   

   また、秋の五香祭りでは 名物の「いも串」が人気です。 蒸かした里芋に甘味噌を付けて香ばしく焼きます
  







  

                        至誠庵外観