喜多方市
旧喜多方市 - 旧耶麻郡豊川村(〜S29)
トップさくらとおしろ福島県喜多方市下高額館
下高額館
下高額館跡土塁。
下高額館跡土塁。
【所在地】 喜多方市豊川町高堂太村東
【別称】 高額塁
【築城年】 元中年間(至徳年間・1384-87)
【築城者】 渡辺長勝、十二村助左衛門
【城主変遷】 渡辺氏…蘆名氏[十二村氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 元中年間(至徳年間1384-87)渡辺左京進長勝が耶麻郡内十二箇村を領し、館を築いて居住したのが始まりとされる。天正年間(1573-91)には黒川城主蘆名氏により十二村氏が配されて間道を守備したとされており、蘆名氏滅亡後の天正十七年(1589)には十二村助左衛門が伊達政宗より会津北方(現在の喜多方)十二村を安堵されている。
 なお真偽は未詳ながら、長勝が耶麻郡内十二村を領したことから子孫が十二村氏を称したとされている。下高額館の創建時期とされる至徳年間は蘆名氏の会津下向時期に重なっており、長勝は蘆名氏に従って会津へ下向したものであろうか。

 館跡は下高額集落の北、元中元年(至徳元年・1384)長勝により建立されたと伝えられる長勝寺西側と考えられており、高さ1.6m、幅4.5mのL字状の土塁が現存する。土塁上には稲荷社が祀られており、北接して僅かながら堀跡が確認できる。この土塁が館跡北東隅に当たり、規模は東西44間、南北13間であったという。
 またこの土塁から北西約200mの箇所には不整形ながら方形館の地割があり、この部分の小字名が北屋敷、またその北には館越という小字名が残ることから、以前より館跡であると推定されていた。そして平成十八年、会津縦貫北道路建設工事に伴う発掘調査で遺構が検出され、館跡であることが判明した。この調査によって15世紀後半の遺構、遺物が発見されており、これまで不明であった両者の時代背景が解明されつつある。
 なお集落内には現在も十二村姓が数軒あり、助左衛門の子孫であるという。

 上記発掘調査の“高堂太遺跡発掘調査現地説明会”が行われた当日、わたしは故あって参加を見合わせておりました…野球観戦だったんだけどね(^-^; なので前日に訪問致しました。
 まず発掘現場に行き、その後長勝寺を目印にすぐ土塁跡を発見、畑に入り込んで撮影していたら、農作業中のお母さんが“ごくろうさま〜、お茶でも飲んでがい〜”とお声を掛けて下さいました。お母さんは学生の頃(60年前とおっしゃってたな〜)に発掘調査などに参加されたいたらしく、土塁の北側のほか、以前は東側にも堀が巡ってたんだよ〜といった貴重なお話を伺うことが出来ました。そして何度もお茶をお勧め頂く(ナンパだったのか…?)のを固辞してまた現場へ赴くも、その頃から徐々に雨脚が強くなり、調査区の片付けがはじまりました。その様子をぼーっと眺めていたら、今度は調査員の方にお声を掛けて頂き、調査の概要、長勝寺西側の館との関係などをちょっと伺うことが出来ました。さらに特別にということで翌日配布する現説資料まで頂戴し、感謝の言葉もございませんでした<(_ _)>
 なおこの時に検出された遺構は、説明会の後空から測量し、その後埋め戻され工事が再開されるとのことでした。現在会津縦貫北道路は全線開通し、喜多方と会津若松を結ぶ動脈となっておりますが、古の遺構はその下に永く眠っております。また、以前仕事上で“十二村さん”とお近づきになる機会があったんですが…当時はその由来には薄々気付いていながらも、“変わった苗字だなー”程度で済ませてしまっていたのが非常に心残り(>_<;
トップさくらとおしろ福島県喜多方市菅井館
菅井館
南側より菅井集落を望む。
南側より菅井集落を望む。
【所在地】 喜多方市豊川町一井家北
【別称】  
【築城年】 正平十七年(康安二・1362)
【築城者】 三橋義通
【城主変遷】 蘆名氏[三橋氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地
 正平十七年(康安二・1362)、黒川城主蘆名氏家臣で三橋館を本拠とした三橋太郎義通が、貝沼館とともに築いた支館とされる。館主などは伝わっていないが、一族や家臣が住したものであろう。

 天正十七年(1589)、三橋越中盛茂(盛友とも?)は磐梯山麓摺上原合戦で敗れた蘆名義広に従い、義広の実家佐竹氏を頼って常陸国へと落ちた。その後慶長七年(1602)、佐竹氏の出羽国秋田移封に伴う蘆名氏の角館移住には従わず、会津へと復帰した。以後三橋氏一族は貝沼館跡に居住し、土着して明治時代を迎えたとされるが、この菅井館跡にもその一族が居住している。

東西26間、南北20間の規模を持つとされるが、現在は宅地となりその跡は明瞭ではない。

 特に資料もないので遺跡地図を参考に現地に行ってみましたが、住宅地となっておりやっぱり遺構は見つけられず…。西南隅に義通夫婦の塚とされる石塔がある、という文献の引用が「喜多方市史」に記載されていますが、現在も存在するものなのか見つけられませんでした。
 訪問時は娘も小さかったので、さすがに車に幼女を乗せて住宅地をうろうろも出来んので(山間部もマズイけど)早々に退散しましたよ。なお集落内には三橋姓のお宅がございましたが、ご子孫でしょうかねー?
トップさくらとおしろ福島県喜多方市太郎丸西館
太郎丸西館
太郎丸西館跡(画像左側の林が八幡神社)。
太郎丸西館跡(画像左側の林が八幡神社)。
【所在地】 喜多方市豊川町米室舘跡
【別称】  
【築城年】 応永十一年(1404)頃か
【築城者】 太郎丸(三浦)盛次
【城主変遷】 蘆名氏[太郎丸氏]…
【廃城年】  
【現状】 耕作地、宅地、八幡神社
 猪苗代氏一族の三浦河内守盛次が築いたと伝わり、自身の童名をもって村名を切勝村から太郎丸村に改称、以後これを称して居住したとされる。構築年代は不明ながら、盛次が入道後に正乗を称し、集落内の長泉寺を建立したのが応永十一年(1404)と伝わっており、同時期に築かれたものであろう。なお村名の由来については、八幡太郎源義家の宿陣があったため太郎丸とされたともいう。

 なお太郎丸集落には館跡が2箇所伝わっており、『新編会津風土記』『会津鑑』『会津古塁記』の何れも猪苗代氏一族太郎丸(三浦)氏の居館と伝えている。現在はそれぞれ西館、東館と呼び区別しているが、古文書の記載には両館に若干の混同もある様で、年代的な差異があるのかも知れない。また「福島県の中世城館跡」の太郎丸西館の項目には永禄十一年(1568)太郎丸河内守盛次が築いたとあるが、年代的に合ってはいない。

 太郎丸氏は黒川城主蘆名氏累代の家臣であり、天正十三年(1585)関柴館主関柴(松本)備中守輔弘が伊達政宗に通じて叛した際、政宗の勢力下にあった桧原への備えとして太郎丸掃部が小田付村へと派遣された。しかし掃部はそのまま政宗の下へと奔り、天正十七年(1589)摺上原合戦では伊達勢の一翼として鉄砲足軽を率いて参陣した。合戦では序盤に蘆名方先陣の富田将監隆実が伊達方先陣猪苗代盛国、二陣片倉景綱勢を切り崩して蘆名勢優勢となり、そこに伊達方の援軍として掃部率いる鉄砲隊200が富田勢の横へと撃ち掛かった。しかし隆実は蘆名家中でも勇将として知られており、掃部は敢えなく討ち取られている。

 太郎丸西館は江戸時代後期に描かれたと思われる絵図が残っており、東西27間、南北22間の規模を持ち、周囲に土塁、堀を巡らせた単郭の方形館であることが判る。現在は圃場整備により遺構は見られないが、明治時代の地籍図などによって方形の区画が確認出来、現在畑地として利用されている字館跡が主郭部であり北西端に八幡神社が鎮座している。字館跡の南には字屋敷下の地名が残り、圃場整備以前は1mほどの段差が見られたといい、その中央部東寄りに虎口が開いていた。また圃場整備前には、館跡を東西に二分する農道と、南辺を東西に通じる道路が垂直に交わる地点に手洗清水を呼ばれる湧水があったという。これは八幡神社参拝のための手洗として語られている。
トップさくらとおしろ福島県喜多方市太郎丸東館
太郎丸東館
太郎丸集落北端の堀跡っぽい水田地(及びころころ)。
太郎丸集落北端の堀跡っぽい水田地(及びころころ)。
【所在地】 喜多方市豊川町米室太郎丸
【別称】  
【築城年】 (応永十一年(1404)頃か)
【築城者】 太郎丸(三浦)盛次か
【城主変遷】 蘆名氏[太郎丸氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地
 猪苗代氏一族太郎丸(三浦)氏によって構築されたものであろうが、太郎丸西館と記録の混同がある様で、東館に関しては天正年間(1573-92)太郎丸掃部が居住し、摺上原合戦において富田将監隆実に討ち取られたという記録だけである。

 館跡は太郎丸(三浦)河内守盛次が、入道後に正乗を称して応永十一年(1404)に建立したとされる長泉寺北東、現在の太郎丸集落のもっとも標高の高い地点に所在したと比定されている。東西50間、南北20間の規模であったという。

 現在は館跡の遺構と確認出来るものは残っていないそうですが、集落北辺から東辺にかけて一段下がった水田が取り巻いており、堀跡の様な景観となっています。
 収穫後のその水田地で、画像のころころの上でねこが昼寝をしていたのが非常に可愛かったので撮影を試みるも逃げられました(^-^;

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「喜多方市史 第4巻 考古・古代・中世 資料編I」(喜多方市史編纂委員会1995)

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