喜多方市
旧耶麻郡塩川町(〜H18) - 旧駒形村(〜S29) - 旧金橋村分(〜M22)
トップさくらとおしろ福島県喜多方市金川東条館
金川東条館
金川東条館跡。
金川東条館跡。
【所在地】 喜多方市塩川町金橋金川
【別称】  
【築城年】 永保年間(1081-84)または永仁年間(1293-99)か
【築城者】 石川維仁か
【城主変遷】 石川氏…
【廃城年】 天正十七年(1589)か
【現状】 民家、耕作地
 「福島県の中世城館跡」に、永仁年間(1293-99)または永保年間(1081-84)石川修理維仁が築くという、とあるが詳細は不明。天正十七年(1589)摺上原合戦後の掃討戦において、三橋館とともに伊達政宗によって攻められている。

 周囲を土塁に囲まれた平地館であり、西側に虎口がある。

 現在は民家となっており、通勤ルート上に所在するので何度か訪問しております。7号県道からも東側の見事な土塁が確認できます。なお画像では土塁上に鬱蒼と木が並んでいますが、現在は伐採されており以前より明瞭になっております。
 西側には前述の虎口があり石垣が積まれていますが、これは当時のものではないでしょうね。
トップさくらとおしろ福島県喜多方市三橋館
三橋館
三橋館堀跡。
三橋館堀跡。
【所在地】 喜多方市塩川町金橋三橋
【別称】  
【築城年】 正平九年(文和三・1354)
【築城者】 三橋義通
【城主変遷】 蘆名氏[三橋氏](1354-1589)
【廃城年】 天正十七年(1589)
【現状】 耕作地、宅地、県道
 正平九年(文和三・1354)三橋太郎義通が構築したとされる。

 三橋氏は蘆名氏一族で加納荘を領した佐原(加納)五郎盛時を祖とし、義通は盛時次男の常世館主常世頼盛の次男、時明の長男であるという。嘉元元年(1303)に誕生した義通は、正平九年(文和三・1354)地頭に任ぜられて三橋に居館を構え、さらに同十七年(康安二・1362)には支館である貝沼館菅井館も築いている。また義通の曾孫と考えられている三橋備前定重の二男刑部重治が下遠田館に住しており、耶麻郡南部における三橋氏の勢力の大きさが想像出来る。

 しかし文亀二年(1502)、同族である常世時持が蘆名盛高に叛して誅殺されると、これに同心した三橋下野も会津を追放されて出羽国長井の伊達尚宗を頼った。翌年尚宗の支援を受けて会津へ攻め込むも、再び敗れて長井へと逐われている。三橋氏はその後赦されて会津への復帰が叶ったと見られるが、その経緯、時期は不明である。
 永禄四年(1561)蘆名盛氏の庶兄山城守氏方が塚原館主富田監物義実の後援を受けて挙兵した際、三橋左衛門や常世次郎左衛門らは氏方に与し、盛氏によって討伐を受けている。この左衛門は三橋氏の傍流と考えられており、謀叛鎮圧後次郎左衛門らと共に自刃、その人数は78名であったという。また同十二年(1569)三橋盛吉と常世某との間に境界争いが生じ、佐野氏の斡旋で和解している。

 天正十七年(1589)伊達政宗が蘆名領へと侵攻、両軍は磐梯山麓摺上原において激突し、敗れた蘆名義広は黒川へと敗走した。三橋越中盛茂(盛友とも?)は蘆名氏の敗報に接して黒川城へと退いたと見られ、重臣によって居城黒川城をも逐われた義広に従い常陸国へと下ったという。そして政宗は三橋館に5日ほど滞在、その後黒川城へと入城したとされる。なお盛茂の弟右衛門は伊達氏に降り、三橋の地が片倉小十郎景綱に与えられたことから知行替となり、河沼郡細工名に所領を与えられている。一方、義広に従い常陸国へ下った盛茂は同地で翌天正十八年(1590)死去し、妻女もさらに翌年死去したという。
 慶長七年(1602)佐竹氏が出羽国秋田へ移封となると、蘆名主従も出羽国
角館へと移住した。しかし盛茂の子孫はそれには従わず、会津へと戻り貝沼、豊川一ノ堰、高畑、中田付などに土着、現在も三橋姓は連綿と続いているが、本拠地であった三橋には何故か存在していない。

 金橋集落一帯が館跡であり、二の丸、馬場の南側を現在7号県道が東西に横切っている。本丸は曹源寺南西、県道と日橋川に挟まれた畑地であり、字舘ノ内の地名が残る。南辺が日橋川の浸食、また堤防の造成などで破壊されているが、東辺、そして二の丸と接続する北辺の堀跡が現在も確認出来る。本丸の北には南北に細長く二の丸が置かれ、その東側には馬場があった。本丸は東西43間、南北42間、二の丸は東西50間、南北110間、馬場は100間四方の規模であったという。

 日橋川の堤防上の道路を走っていたらすぐ北側に方形の区画があり、もしやと思って調べたところ三橋館の主郭部でした。ずっと県道より北だと思ってましたからねえ…、判らない訳だ。耕作地となっているため、土塁などは崩されてしまったものか見られませんが、本丸、二の丸周囲の堀跡ははっきりと確認出来ます。県道の北側は住宅地となっているため詳しく見てはいませんが、機会を作って諏訪神社周辺なども見てみたいものです。