喜多方市
旧耶麻郡塩川町(〜H18) - 旧堂島村(〜S29) |
トップ>さくらとおしろ>福島県>喜多方市>沖館
沖館 |
沖館跡(熊野神社)。 |
【所在地】 |
喜多方市塩川町吉沖宮前
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
|
【築城者】 |
山口氏か |
【城主変遷】 |
山口氏… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
熊野神社、耕作地 |
|
「福島県の中世城館跡」に山口沙弥道光が住む、とある。
“まほろん”文化財データベースの地図を元に訪問するも、行った場所は耕作地に浮かぶ熊野神社…そういえば前にも来たことがある(笑)
高低差も無く、北側には柴城集落も同じレベルで望めます。
画像に見える解説板は“舘ノ内遺跡の方形周溝墓”のものであり、城館跡に就いては全く触れられておりません。地名から城館が置かれていた、また沼沢地であったことは想像出来ますが、現状では耕地整理などで遺構は見られず、館跡を偲ぶものはその地名ばかりです。 |
|
トップ>さくらとおしろ>福島県>喜多方市>貝沼館
貝沼館 |
貝沼館跡土塁。 |
【所在地】 |
喜多方市塩川町天沼貝沼
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
正平十七年(康安二・1362) |
【築城者】 |
三橋太郎義通 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[三橋氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
民家、寺社境内地 |
|
正平十七年(康安二・1362)、三橋館を本拠とした三橋太郎義通が、菅井館とともに築いた支館とされる。その後の館主は不明だが一族が住したものであろう。
天正十七年(1589)、三橋越中盛茂(盛友とも)は磐梯山麓摺上原合戦で敗れた蘆名義広に従い、義広の実家佐竹氏を頼って常陸国へと落ちた。その後慶長七年(1602)、佐竹氏の出羽国秋田移封に伴う蘆名氏の角館移住には従わず会津へと復帰した。以後三橋氏一族はこの貝沼館のほか各所に土着し、現在も連綿と代を重ねている。
東西二十六間、南北二十間の規模を持ち、現在も民家の周囲に土塁、堀が明瞭に残る。
会津復帰後の三橋氏の本家は貝沼三橋氏になるんでしょうかね?現在お住いの方ももちろん三橋さんですが、突然訪問してお話しを伺う訳にもいきませんからねぇ。
それより…会津地方北西部には貝沼姓も多く見られます。初めてお会いした貝沼さんは仕事で宮城県に出張していた時でしたが、名刺を頂いて思わず“会津のご出身ですか?”と訊いちゃいました(^-^;
その後もりんの剣道の試合などで貝沼姓を目にする機会が多かったのですが、貝沼を所領した三橋氏との関連が今更気になっております。 |
|
トップ>さくらとおしろ>福島県>喜多方市>柴城
柴城 |
柴城跡土塁。 |
【所在地】 |
喜多方市塩川町吉沖柴城
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
建徳二年(応安四・1371) |
【築城者】 |
柴城重行 |
【城主変遷】 |
柴城氏… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
宅地、耕作地、寺社境内地 |
|
建徳二年(応安四・1371)に柴城民部重行が築いたとされる。
以前より、そのまんまの地名である“字柴城”には興味があり、何度かぶらぶらと訪れてはおりました。資料を眺めていたら城跡の北東に神社があるのに気付き、その辺りに何か手掛かりがあるかな〜程度の気持ちで訪問。神社と集落の遠望を撮ってお茶を濁そうと思っておりました(笑)が、稲荷神社を訪れて写真を撮り、振り向くとそこに土塁がありました。
「福島県の中世城館跡」によると『新編会津風土記』『会津古塁記』『会津鑑』『蘆名家分限帳』に記載がある様ですが詳細は特に記載なし。また遺構の欄に土塁とは掲載されておらず、あれは後世の造成なのかなあ…? |
|
トップ>さくらとおしろ>福島県>喜多方市>下遠田館
下遠田館 |
下遠田館跡発掘調査現場。 |
【所在地】 |
喜多方市塩川町遠田荒屋敷
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
|
【築城者】 |
三橋氏 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[三橋氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
会津縦貫北道路敷地 |
|
築城年代、築城者とも不明であるが、三橋備前定重の次男、刑部重治が居住していたという。その年代、また重治の出自も不明であるが、三橋館、菅井館、貝沼館などに居住していた三橋氏の一族であろう。
三橋氏は文亀二年(1502)、同族である常世館主常世時持に同心し、勝(スグレ)、小荒井氏らと共に黒川城主蘆名盛高に叛したが、その結果時持は誅殺され同心した国人衆らは会津を追放された。翌年三橋氏は伊達尚宗の支援を受けて会津に攻め込むも、再び敗れ追われている。その後赦されたものと見え、天正年間(1573-91)には蘆名氏に忠節を尽くし、14代盛茂(盛友とも)は同十七年(1589)摺上原合戦に敗れた蘆名義広に従って常陸国へと落ちている。後に子孫は会津へ戻り貝沼館に居住、以後そこに住み続けたとされる。
東西約75m、南北約95mの規模を持つ平地館であり、南側の虎口を除いて周囲を人の背丈ほどもある土塁が巡っていたという。しかし遺構は昭和二十七年の耕地整理で消滅、さらに現在は会津縦貫北道路の建設により消滅している。
「福島県の中世城館跡」に下遠田集落の北、館跡の部分は水田とされずに畑地として残され、堀の一部が用水路として利用されているとの記述を頼りに訪問、その時会津縦貫道路の予定線上にあることを知りました。いぬのお散歩中のお母さんに話を伺ったら、ちょっと前に発掘調査をしていたのがここ、と当時に建設中の道路に挟まれた場所を指し示して下さいました。そのお母さんによると、近くのナントカさんに訊くと出土品や詳しい説明を聞ける、館跡南方には“カマバ”という地名が残り刑場だった、という様なことを教えて頂きました。
発掘調査をした場所というのが館跡のどの辺りなのかは判らないのですが、如何に便利になるとは言え下高額館と同様にここも破壊されてしまうのがちょっと悲しいです。縦貫道たまに使うから何とも言えませんが(^-^; |
|
|