八幡平市
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平館城
平館城跡遠望。
平館城跡遠望。
【所在地】 八幡平市(旧岩手郡西根町)平館
【別称】  
【築城年】 興国元年(暦応三・1340)か
【築城者】 南部(八戸)政長か
【城主変遷】 南部氏[八戸(根城南部)氏、平館(一戸、津軽石)氏]…
【廃城年】  
【現状】 平館八幡宮、山林
 当地は往古より、北は一戸、南は厨川、西は角館へと通じる交通の要衝であり、軍事上相当の重きをなしていた土地であった。鎌倉時代、西根諸郷を所領したのは厨川城主工藤氏であったが、南北朝時代に南朝方の根城南部(八戸)氏によって奪われ、興国元年(暦応三・1340)八戸政長が鎮守府将軍北畠顕信より西根に要害を構えたことを祝されている。この要害が平館城であるとも考えられており、雫石城主戸沢氏と共に、北朝方の工藤氏、斯波氏に対抗する重要な拠点の一つであった。

 戦国時代には三戸城主南部氏の勢力下となり、平館信濃守政包が1千石を以て居城した。政包は一戸城主一戸政連の弟で、平館氏の家名を継ぎその武威は近隣に大きく響いていたという。しかし天正九年(1581)頃、南部氏の家督相続問題で田子信直、九戸政実が対立すると、政実によって兄の居城一戸城へと誘い出され、政連、その子出羽と共に殺害されたといわれる。また地元の伝承では、政包は政実の叛意に同心し兄政連、出羽を一戸城で殺害、九戸の乱においては政実方として参戦し、田頭城をはじめとする南部方の諸城を攻撃したともいわれている(しかし田頭城解説板には、南部方に与した平館城主一戸政包(平館隠岐守か?)が九戸方の田頭城を攻撃、落城せしめたと真逆の解説がなされている)。「日本城郭大系」「岩手県中世城館跡分布調査報告書」では、一戸政連と共に殺害され、南部信直によって平館氏は知行召上となり、その後津軽石行重の子が平館彦六を称して再興したとあり、これが田頭城を攻撃した平館隠岐守であろうか。


 平館集落西側、400m×400mの丘陵一帯が城跡とされ、主に八幡神社裏手の山頂部、その南に続く館山とに分けられている。それぞれの郭は二重の空堀で区画され、前者は110m×80m、後者は90m×50m、両者とも周囲に2段の腰曲輪が巡らされている。またこの主郭部から尾根続きの南、東の丘陵頂部にも、小規模な平場が認められている。山裾には堀が巡らされており、はるばる上寄木より水路を造って通水していたという。
トップさくらとおしろ岩手県八幡平市田頭城
田頭城
田頭城主郭部跡。
田頭城主郭部跡。
【所在地】 八幡平市(旧岩手郡西根町)田頭
【別称】  
【築城年】 天正年間(1573-92)か
【築城者】 田頭直祐か
【城主変遷】 南部氏[葛巻氏(田頭氏)]…
【廃城年】  
【現状】 城山公園
 築城年代、築城者は明確でないが、厨川城主工藤氏の支流、田頭氏によって築城されたという。

 天正年間(1573-92)には南部氏家臣田頭左(右)衛門佐直祐が1千石を以て居城したが、城主として田頭将監直祐の名も伝わっており、両者が同一人物か親子であるかは不明である。天正年間以前の田頭氏についての詳細は明らかでないが、天文年間(1532-55)葛巻城主葛巻河内守信祐が雫石伯耆蒸詮員の女を妻に迎えて二児をもうけ、次子である直祐が田頭氏を興したという。

 問題は直祐が田頭氏を興した時期であるが、異説あり判然としない。一説は、直祐の兄、信祐の長子で葛巻城主となった掃部助政祐は九戸城主九戸左近将監政実の女を室に迎えていたが、天正十九年(1590)政実が宗家である三戸城主南部信直に謀叛した際に同心を拒否して南部方に与して戦い、乱終結後、信直より岩手郡田頭に1千石の加増を受け弟直祐が田頭城へ移ったとするものである。
 しかし解説板には、政実が信直に謀叛した際、同心しなかった一戸城苫米地城伝法寺城に夜襲を掛け近隣諸将を二分した戦いとなったが、田頭城主田頭直祐は九戸勢に荷担して参戦した。しかし南部方の平館城主平館(一戸)信濃守政包(平館隠岐守?)の活躍により九戸方の諸城は悉く攻略され、直祐以下2千余の軍勢も田頭城の要害を恃み籠城するも遂に落ち、辛くも搦手より脱出した直祐も執拗な追撃を受けて自刃して果てた、としている。


 標高約328m、比高約51mの独立丘陵上に築かれた山城で、全体の規模は東西約130m、南北約300mとなる。頂部の平場は東西に走る約100mの堀切で区画され、主郭と見られる南郭が東西70m、南北150m、二の郭となる北郭が東西50m、南北70m、さらにその周囲の斜面には数条の段が巡らされている。また山麓には、現在流路が変わっている松川より水が引き入れられ、四周に水堀が巡らされていたという。


 「奥々風土記」で岩手郡十四ヶ城の一に数えられる城、らしいです。が、それより良くワカランのがこの城の歴史…orz 平館城でも『どっちだよ?』って感じでしたが、さらに『どっちだよ??』って感じです。訪問したのがかなり以前で、案内板の写し間違いがあったのかも知れませんが…、まあ無精せずにまた訪問しろ!ってトコロでしょうか(^-^;

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く6 弘前城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく23 弘前城・盛岡城」(小学館2004)

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