三谷不動産鑑定所

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三谷不動産鑑定所長の紹介

鑑定歴25年 不動産鑑定士 三谷正登 の自己PR

鑑定眼で求められることは、当該不動産の業務利便性や居住快適性などを現在・将来にわたって十分識別できることでありますが、もっとも大切なことは地理、地政学上の考察から、その不動産が存する地域にどれだけ発展可能性があり、潜んでいる衰退リスクも計量化できるということではないかと考えております。

時代の追い風を受けない街は発展できません。

私は歴史と地理が織り成す歴史ドラマに大変興味をもっています。
運営するHPでは世界の各都市と史実織り交ぜながら不動産と関連させ、話を展開させています。不動産には歴史からの視点が欠かせません。

このことを世界古代史についてみれば、エジプトとシリア・メソポタミアの交流活発化がクレタ島を始めとするエーゲ海の海運諸都市の隆盛を促し、ナポリ,ヴェネツィアの地中海貿易都市の巨大経済圏形成がローマ帝国の繁栄をもたらしたこと、また日本については、古くは京都へのお米供給源として、北陸米の琵琶湖水運を介しての京都方面への輸送と近江商人の勃興や、江戸中期、日本海酒田港を起点に下関を介して大阪、江戸に至る西回り海運と瀬戸内海港湾諸都市の繁栄や、近くは鉄道、新幹線の停車と全国各都市、地域の盛衰に示現されています。最も重要な情報は、今も昔も「直接会って話すこと」が一番ですから。

昭和40年代以降の不動産ブームを彩ったさまざまなキャッチコピーを再確認しつつ、私は北海道から九州まで全国主要都市を不動産投資適格性や鑑定評価の視点から現地調査を繰り返してまいりました。

今思えば、まさに平成の幕開けと共に花開いたパソコン時代と通信革命とが相乗し、我国固有の世界であった不動産がグローバルスタンダードへと変貌する過程に我々を押し出しています。

世界交易の拡大と通信スピード加速化の視点から、ハブ空港、ハブコンテナ港、頭脳集積及び自動車交通ネットワークの優劣を最重要視するとき、東京、名古屋の地位が確固たるものであることを認めないわけにいきません。



三谷正登のプロフィール
少年・中学時代 JR○○赤坂駅に近い緑と空気の農村集落ゾーンに育つ
誠之館高校時代 日本開国の日米和親条約を決断した老中 安部正弘が創立した藩校に由来する高校に片道30分の自転車通学,それなりに一生懸命勉強したはずなんだが
関西学院大学時代 都会の豊さと阪急電車のスマートさにビックリ
漱石・鴎外・ニィーチェを読みと経済・社会科学を少しかじる
サラリーマン時代 組織で仕事するマンネリズムに耐えきれず
修行・自立時代 いろんな先輩に鍛えられ 10年目ごろから不動産のことが少しわかりかけたかな
全国各地不動産投資・鑑定行脚時代 鑑識眼に少し自信がつき,格安で発展力を秘めた土地を求めて東海地方,利根川以東の関東平野に大冒険
不動産争奪大ブームに参加できなかったトラウマからか,バブル後バーゲン不動産購入で初失敗
不動産長期不況下では,上場企業等からのご下命を好機と捉え、鑑定評価と不動産投資効率との視点から,札幌,仙台から熊本,鹿児島まで全国の主要各都市の経済基盤と中枢力集積の源泉諸要因をレンタカー等を駆使して現地調査・探究
つくばエクスプレス沿線不動産投資と海外諸不動産事情視察時代 世紀の新鉄道・沿線開発巨大プロジェクト誕生からの経済情勢の大変異と不動産の織りなす壮大なドラマに,端役にて参加中
日本の不動産価格の国際化現像から,遅ればせながら大急ぎで海外見聞旅行
上海,香港,バンコク,バリ各2回 ,ニューヨーク,パリ,イタリア,シンガポール,台北,エジプト(ルクソール・カイロ等)各1回
全米NO.1の実験・最先端都市ラスベガスに早く行きたい
当面の最大の興味事項(本格調査は引退後) エジプト帝国3000年の興亡とエルサレム,ぺトラ,ペルセウスなどの中東要衝都市との興亡の関連・関係の解明



三谷正登の趣味〜私の戦国散歩〜

私は40才を過ぎた頃から、戦国時代の古戦場を訪ねることを楽しみにしてきました。

今までに行ったところとしては、天下分け目の「関ヶ原」およびその前哨戦といえる美濃大垣城と城外赤坂砦での攻防戦地域一帯、織田信長が秀吉を殿(しんがり)に朝倉攻めから総退却した福井県敦賀市「金ケ崎城」および「木ノ芽峠」一帯、秀吉と柴田勝家が信長亡きあとの天下を競った琵琶湖北岸「賎ケ岳・余呉湖」一帯、信長・家康連合軍と武田勝頼の決戦場としてあまりにも有名な愛知県豊橋市を「豊川」沿いに登り、切り立った「豊川」と「宇連川」とが合流する天然の要塞「長篠城」および両軍約4万人が幅5mに満たない川を挟んで、長さ2kmに連なって死闘した設楽原(したたがはら)の帯状盆地、秀吉の大軍に知略を尽くして徳川家康が戦いを挑んだ名古屋市外長久手町の「小牧・長久手古戦場」、中国地方では約5万の兵力がにらみあい、水攻めで有名な岡山市北部「備中高松城跡」、島根県安来市南方広瀬町の飯梨川沿いの急丘陵に立てこもった尼子の大軍と、はるばる中国山脈を越えて押し寄せた毛利の大軍が、持久戦・神経戦を演じた「富田城攻防戦地域」などです。

古戦場を訪ねる前に城、砦、陣地の配置図、戦端が開かれて以降の各軍の戦術の流れ、勝敗を分けた要因などを一応学んでおき、現地に赴き実地検分をして、郷土史家や小説家の見過ごしや、誤解などを自分なりに正し、自分自身の戦場物語を創ることはひそかな楽しみです。

当時の総大将に思いをはせると、例えば15,000人の兵力を移動させることは3人横並び1m間隔の縦列で5kmの長さにもなり、大半の人は野営ですので、自国から100km〜200kmも離れた地域での戦いについて来てもらうことが、食料、戦費の調達はもちろんですが、いかに大きなリーダーシップを要することか想像することさえかないません。

一兵の立場になると、万が一、負け戦でケガをした場合とか、帰りの食糧、雨中の逃避行のこととか考えたであろうと思うと胸がしめつけられます。

戦場での陣所跡(小丘陵の裾部で現在はスギ林などが多い)や主戦場跡に一人で立っていると、戦いを前にした大勢の軍馬が放つ、うめくようなエネルギーが伝わってきて、ひき込まれそうになります。

訪ねた古戦場の中で最も印象に残っているのは、遥か甲斐の国から約200kmを南下し、東三河方面に出て東海道を介して京都を目指した武田信玄の遺志を継ぎ「天龍川」急渓谷沿いの小道を約15,000兵馬と南下した武田勝頼を、織田・徳川軍約25,000が完璧なまでに撃破した「長篠の戦い」です。

信長・家康軍が武田騎馬軍団の威力を最小にする小盆地で待ち構える地域へ、重臣たちの猛反対を押し切って乗り込んでいった武田勝頼の精神状態は、誰しも理解できないところですが、従前の本陣「医王寺」から戦場の本陣竹広地区小丘陵までの約3.5kmの道を歩きながら考えると、武田軍は勿論、天下広く尊敬と恐怖を集めた、あまりに偉大な父親に対する「焦り」が有能な一人の武将と多くの家来を破滅に導いたのではないかと思われます。

戦場での信長の本陣が、負け戦の場合はいつでも逃げられるよう遥か後方にあるのに対し、かつて浜松北方「三方ケ原」にて武田軍に大敗北を喫している徳川家康の本陣は戦線の最前線ともいえる小丘にあり、決死の覚悟がうかがえる。

戦場跡のあちこちには350年以上の時を経た首なしの地蔵仏が多数散在し、敗れた武田軍のおびただしい死骸を地元の百姓が埋めた「信玄塚」などは、観光客など一人も現れない歴史の現場の重みを伝えている。

戦国の戦は農地等の生産財を奪い合う情念を伴った経済行為の一種であろうが、大きな戦があるためには、その地域が地理的に戦略的要衝であることもさりながら両軍とも自軍が勝つと信じた時始めて決行されるものであることから、「地理」と「時」が人を動かす不思議さを考えずにはいられない。

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