バックナンバー タイトル

バックナンバー
連載
各号
Vol49 2005.03.20
Vol47 2004.06.30
Vol46 2004.03.30
Vol45 2003.12.28
Vol44 2003.06.21
Vol42 2002.10.30
Vol41 2002.07.25
Vol39 2002.02.10
Vol38 2001.11.08
Vol37 2001.08.30
Vol36 2001.04.30
Vol35 2000.12.28
ヤイユーカラパーク 西本願寺・連続差別落書き事件

VOL462004 03 30

前号での報告以来、教区・教団との間では、何ひとつ進展をみないまま今日に至っています。教区には2003年中の話し合い、2004年1〜2月の話し合い、3月の年度末までの話し合いを再三求めましたが、「基推委員会の日程が整わない」等の理由で実現しませんでした。

教団の運動本部からも、その後何の回答もありません。教区・教団ともに、「やりたくない」「やる気もない」のが明らかです。教区基推委宛に、次の要旨の文書を発信しました。

『11月5日付で教団基幹運動推進本部からの「回答」を受信しました。しかし『ヤイユーカラの森への回答』となっている同書は、一読して明らかに私たちの問いに対する「回答」にはなっておりません。

8月21日の話し合い席上で何度も本部の部長に指摘したように、『札幌別院「差別落書き」事件 対応報告書』(1997年10月30日)は、私たちが教区・教団に問うた事柄について何の回答も示されたものではありません。

また、事件発生後『ヤイユーカラの森』と約束した、「対応委員会」が回答するという点についても、論旨が不鮮明なまま強引に結論へと結びつけている内容であり、「回答」にはなり得ておりません。

したがって、私たちはその旨を教団に指摘し、再度誠実な回答を求める文書を発信いたしました。

貴教区基推委は過去、中央基推委員会に二度にわたり『「ヤイユーカラの森」からの問いかけに、誠実な対応を求める建議』を提出しております(2000年11月、2001年11月)。教区が、教団は『ヤイユーカラの森』に対し誠実に回答すべきと考えておられることに、私たちは敬意をはらって参りました。そこで、今回の教団からの「回答」を同封いたしますので、現時点において教区基推委がこれについてどのようにお考えかを、明らかにしていただきたいと思います。

基推委で検証・論議された上での結論を文書、あるいは次回の話し合いの席で、お示しください』

再三の催促に対して、次回話し合いの日程を「4月中に、新年度の委員会が話し合いを持つということで、日程の調整を行ないたい」という連絡と、上記文書に対する回答が届いたのは、3月末のことでした。

『昨年11月20日付にてご要望を頂いておりました、本山より貴職あてに届けられております「回答」(昨年11月5日付)につきましては、去る3月23日の当教区基幹運動推進委員会常任委員会において、「あくまでも本山として答えられている以上、教区基推委がこれについて議論をする立場にはない。」「現時点での本山の見解であり、これに対して教区が意見を述べることはできない。」などの確認がなされましたので、教区基推委としてはこの「回答」に対して意見を述べるにはいたらないこと、ご報告致します』


いやはや、教団は「教区の自主性を尊重」と言い、教区は「本山の見解」だからと言い、都合に合わせて己が立場を守ろうとする……。これが、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ宗教集団の実態です。しかも、上意下達のピラミッドは毫も揺らぐことがありません。

差別落書きにはじまり、昨年の自坊への落書きへと続く数多くの差別事件の被害者である大乗寺のご住職が、ご自分のホームページに掲載されている「住職の日記」に、ある日次のように記しています。ご了解を頂いて、転載します。

大乗寺HP『住職の日記』より

2004年3月2日

「基幹運動」って、なんだ?

この運動に深く関わってきて、後悔の念が最近わき上がってくるのをどうすることもできないでいる。

「宗門あげての運動」などと、表現されてはきたけれど、そういう実態はほとんどない。基幹運動どこ吹く風と生きている僧侶はごまんといる。門信徒にも浸透してはいない。中央で言われたコトを真に受けて真剣に取り組んだら、手痛い苦渋を味わうこともある。

どこの世界もそうなのだろうが、教団もまた「表と裏」の二重構造で動いている。タテマエの「基幹運動」をまともにやると、裏からの逆襲が待っている、そんな感じがしてならない。まるでアナコンダだ。

僧侶になってからの四半世紀、私は基幹運動に人生をかけてきた。失望を何度も味わった。苦渋もなめてきた。けれども、一縷の光を、基幹運動に見てきた。いや、見ようとしてきたという方が、正確かも知れない。

しかし、私は蜃気楼を見てきたのだろう。実態のない夢を見てきたのだろう。そう思えば、少しは気が楽になる。まあ、夢を見ることができたことを、良しとしなければならないのかも知れないが、その事に気がつくまでに随分回り道をしたものだ。

十年も前に当時の基幹運動本部事務局長に言われたことがあった。

「人権回復を期するなら、弁護士に相談したほうがいいですよ。それが、長い間運動に携わってきた者としてのアドバイスです」

基幹運動に携わってきた人のことばとも思えなかった。なぜ、運動にまかせなさいと言えないのかと不審に思った。けれども、十年たってようやくわかった。いたいほどわかった。「基幹運動」が人権を回復することなどできないのだ。その事を、多くのひとはわかっていない。私もわかっていなかった。鈍すぎた。


基幹運動が例えば差別被害者の人権回復をはかることができるようになるためには、運動の質が変わらなければ所詮無理なことであろう。そして、運動の主導者が変わらなければ、結局はタテマエの運動で終わるのだろう。

今日の基幹運動は、行政の運動である。総長が基幹運動本部長、教務所長が教区基幹運動推進委員会会長、組長が組基推委会長になることになっている。宗務員として禄をはんできたひとが、必ずしも基幹運動のエキスパートではない。組長が必ずしも、基幹運動に熱心なひとばかりではない。基幹運動のリーダーを選ぶという意識で組長が選ばれる組がどれほどあるだろうか。教務所長でいる間は、「宗門の指示」によって運動を進めていても、やめた途端にご自分が進めてきたはずの基幹運動を、ぼろくそに言う元・教務所長を何人か見てきた。如何に、本気で取り組んでいなかったかを傍証してあまりある。

組織の上から下への指揮系統の運動になっているが、下からすいあげていくシステムが、ほとんどない。差別の被害を受けてみて、その事がよくよくわかった。札幌別院「差別落書き」事件の対応報告書が、差別被害者の手元に届けられない。私のことが書かれているはずであるが、私は未だに読んではいない。報告書を求めたことがあるが、結局は送られてくることはなかった。こんなことは、世間でも通用しないだろうに、それが堂々と通用してしまう「基幹運動」なのだ。残念きわまりないが……。

昨日の対応委員会に出席して、いよいよ思いを強くした。同朋運動のなんたるかを、わかっていない。よほどの覚悟を持って方向転換しない限りこういうなかから、「人権回復の方途」が生まれてくることは、きわめてむつかしい、と。それどころか、「対応要綱」の完成すら、危うい。いま必要なのは、徹底した論議ではないか。視点の違いを放置して、どうして「対応要綱」を完成させることができるであろうか。

「対応要綱」完成の日を、私の命日にさせないために、最後の力を振り絞って、私は向き合う。生産的な場ではないが……。

VOL452003 12 28

前号で報告したように、2003年春、北海道教区に新たな差別事件が起きました。

4月12日 前年度教区会議長宛ハガキ

『グッハハハ/痛快じゃのう/教区会をおちてめでたい限りじゃ/のぼせ上がってるから哀れなことになるんじゃ/エッタとつるんで動き回ったおまえに未来はないのじゃ/エッタヤローもきさまも てってい的に追いつめてやるぜ/アバヨ』

4月14日 教務所長宛ハガキ

『お願いします/教区から共産主義者を一掃してください/エッタどものさべつ 差別の騒ぎにはうんざりです/大事な時期です/○○みたいなエタヤロウに出入りをさせてはなりません/所長の英断に期待します』 

5月21日 Uさんのお寺の地下駐車場壁面に赤いスプレーで落書き

『ココハケガレタ/エッタ寺』

新年度、教団の体制が大きく変わり、それに伴って教区僧侶の問題意識も後退してきたことをあらわしている出来事です。取り組み態勢を作り直さなければなりません

6月29日、「浄土真宗本願寺派北海道教区の差別事件についての学習会」で、’94年最初の落書き発見から今日までの経過について再確認しました。『森』13名、教区僧侶17名が集まり、地下駐車場の落書きも確認しました。初めて直接これらの差別事件に触れたメンバーもおり、“宗教者が何故!?”と、衝撃と怒りを強くもちました

教区・教団へ、問題解決へ向けての働きかけを強化していくことと、私たち自身の学習活動を継続することも確認されました。新たな出発にして行こうと……。

8月21日、教区との話し合いがひらかれました。新しい基推委との初顔合わせ(旧メンバーも若干名いますが)で、教団からも初めて出席がありました。教団同朋部長と中央相談員の2名です。『森』が事件に関わってから7年余、21回に及ぶ教区との話し合いで初めてのことです。当然、私たちの質問は教団の対応へ向けられました。

一つは、2000年6月の教区「回答書」は、教団による回答として受けとめていいのか? もう一つは、’95年の『森』からの質問状に対して教団は「対応委員会で協議の上回答する」と返信してきたが、今日まで何らの回答もないのは何故か?

同朋部長は、教区と教団は原則別組織であるとか、’97年10月の『札幌別院「差別落書き」事件対応報告書』が回答である、などと強弁していましたが、私たちがそれらの矛盾点をいちいち指摘すると、回答が出来なくなってしまいました。結局「持ち帰って部内で検討のうえ、回答する」ということで、その日は終わりました。

――後日、私たちの催促に応えて送られてきた上記に対する“回答”は、同朋部長の答えとまったく同内容で、「これでは回答になっていない。再度、見解を求める」旨を返信しました(11,20付)が、まだ何も言ってきてはいません。

10月18日、「学習会」をもった上で、10月22日、教区との話し合いに臨みました。2000年5月の教区「回答書」に基づいて、その後教区の中で行なわれた活動を点検したのですが、私たちの問いに応え得る内容はありませんでした。差別をなくし、被差別の人びとの人権を回復するための運動は、教区のなかから消えてしまったかのようです。

11月15日、学習会「一連の差別事件の背景にあるもの」を行いました。年内に教区との話し合いは実現できませんでしたが、年明け、働きかけを強化していきます。

VOL442003 06 21

2002年12月26日、教区基推と話し合いをもちました。懸案の「組長会」との会談が実現できぬまま、今後どうしていくのかを話し合いました。

3月で終わる年度内に、本山・基幹運動本部を交えての話し合いをもつことが確認されましたが、何度か日程調整の打合わせが行なわれただけで、結局実現せぬままに、新年度を迎えました。

その新年度、教団は機構を大きく変換しました。基幹運動が大幅に退行する危惧を感じさせる、反動的ともいえる“構造改革”と人事の採択です。その中で、『森』と前運動本部長との約束は、当然のように反古にされました。

教団の動きに伴って、北海道教区のなかにも変化が生まれてきました。教区基推のこれまでの努力を無にするような委員会構成や人事が行なわれ、教区会議長だったM氏に、差別ハガキが送られてきました。

『グッハハハ/痛快じゃのう/教区会をおちてめでたい限りじゃ/のぼせ上がってるから哀れなことになるんじゃ/エッタとつるんで動き回ったおまえに未来はないのじゃ/エッタヤローもきさまも てってい的に追いつめてやるぜ/アバヨ』』

さらにUさんのお寺の地下駐車場壁面に、赤いスプレーで以下の文言が大書されました。

『ココハケガレタ/エッタ寺』

‘94年、札幌別院に最初の差別落書きが行なわれた状況に戻ったのでしょうか? いやそれ以上です。Uさんと家族は、テロが直接自宅を襲ってきた恐怖感に襲われています。親鸞の教えを説くテロリスト……。黒衣の集団が抱える差別意識の根深さと根強さを、改めて実感しました。

しかし、教区僧侶のすべてが、旧態のままでよしとしているとは思いません。私たちが率先して戦線を再構築し、闘いを続けていかねばならないと、決意を新たにしてるところです。関心のある方は、ご参加ください。

VOL422002 10 30

8月22日、久し振りの話し合いを教区基推ともちました。昨年9月25日以来のことです。2年続けて各組で開催された「組巡回学習」の結果を聞き、今後の取り組みについて考えることと、落書きやハガキによって差別・攻撃された人(たち)に対する“人権回復のための取り組み”について確かめることが主要な点でした。

カナダから帰ったばかりの時差ボケと、『森』からの参加が智子さんと二人だけということも重なって、どうも焦点を絞りきることが出来ぬまま、次回――「組長会」も含めて議論していこうということで終わりました。組単位でどう変われるかが、やはり最大の課題です。

9月初め、京都・滋賀での調査旅行の途中、西本願寺に行ってきました。宗務総長に面会を申し込んでいたのですが、代わりに新任の基幹運動本部長と面談してきました。北海道教区の提出した「回答書」を、教団は自らの回答と位置づけるのかどうか。そうでないならば、教団としての「回答書」を早急に提出するべきであること。私の言うべきことはその点だけです。

本部長は、北海道教区基推と協議の上で教団としての見解をまとめ、報告するということを約束しました。これまでに掛った時間を考えると、そう長く待つことは出来ないということを確認はしましたが、一体何時返事が来るでしょうか?

第二の「靖国」と危惧される「国立墓苑」創設構想に宗務総長が参画したことから起きている西本願寺の騒動で、現在基推中央相談員が不在状態の運動本部。かなりせっつかなければ、腰は上がらないでしょう。

が、まずは北海道教区。足許を固めていかなければ……。

VOL412002 07 25

目前の事業や旅、雑事に追われている内に時が過ぎ、気がつくと夏を迎えてしまいました。教区基推による“組巡回学習”も終わったはずなので、その結果を確かめなければ……と、気にはなっていたのですが、身ひとつ頭ひとつでは如何ともし難かったと、苦しい言い訳です。

この春、本山にも教区にも大きな人事異動があったようです。基幹運動本部のT部長が本山を去り、北海道教区には新任の教務所長が着任したと聞きました。前者については、昨年12月に発売された“別冊宝石”『西本願寺「スキャンダル」の真相!』が影響して……という風評も聞こえてきますが、いかにも醜悪な暴露本の下ネタにされたT前本部長について、同情よりは「あの人なら、やってもおかしくない」という反応が多かったのは事実でしょう。同誌に書いたライターの意図が“西本願寺基幹運動つぶし”にあることが明白なだけに、まんまとそれに嵌ったことが残念ではあります。替わった新運動本部長が、基幹運動促進には積極的ではない人らしいと聞くと、余計その感を強くします。

本山の宗務総長宛に、「差別落書き事件と教区“回答書”についての見解を求める」旨の書簡を送りました。返信があるかどうか……多分、無視するでしょうが、それならば次の手を打たなければなりません。

教区宛には「組巡回学習を終えての総括を求める」など、3点について話し合う場を設定して欲しいという書簡を送りました。8月末までには、『森』と教区の対話が再開することになるでしょう。

5月に、空知南組の連続研修会(岩見沢)で「アイヌ史と北海道の仏教」というような内容で話す機会を頂きました。熱心に聴いてくださる門徒さんに向いながら、“宗門を変えていくのは、我々部外者ではなくて、門徒さんなんだ”ということを実感しました。寺・僧侶を変えていける信者、信者を導き得る寺・僧侶……とても難しい道のりです。部外者だからこそ出来る、やるべきことがあるようにも思われるのですが……。

考え―行動し―考え……この繰り返し。ピッチを上げたいと思っています。