共に育つ教育を進める千葉県連絡会
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障害児の教育を受ける権利

 憲法第26条には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする」とある。しかし、この「すべての国民」にあるはずの権利を長い間奪われてきたのが障害をもつ子どもたちだった。その理由は一言でいえば、「教育の対象外」とみなされたからだ。
 1962年の文部省初等中等教育局長通達には、「白痴、重症知愚、重症の脳性まひ、現在進行中の精神疾患、脳疾患その他、…盲学校、聾学校または養護学校における教育にたえることができないと認められるものについては、その障害の性質および程度に応じて、就学の猶予または免除を考慮すること」とある。
 たとえば、私が小学校に入学した年、1966年の就学免除者は9392名、猶予者は1万2638名とある(※1)。しかも「猶予・免除」は保護者が願い出て、教育委員会が認可する形になっていた。つまり、親が「私の子どもは障害が重くて教育を受けることができないので、私の〈保護する子女に普通教育を受けさせる義務〉を免除して下さい」と願い出て、教育委員会に「あなたの子は教育を受けるにたらないから義務を免除します」と認めていただかなければならなかった。ここには何重もの差別があり、屈辱がある。
 しかも「猶予・免除」されるのは保護者の義務であって、子どもの権利ではない。義務は国と保護者に課せられたもので、子どもには義務はない。あるのは教育を受ける権利である。では、親が義務を免除してくれといい、国が親の義務の免除を認めたとき、子どもの教育を受ける権利はどこにいったのか。そんなふうに考えることさえ忘れられ、権利を奪うことを法律に明記される存在として障害児は見られていた。
 
 そういう時代は、決して昔のことではない。小・中学校の義務化から30年余り遅れて、養護学校が義務化されたのは1979年。今からたった22年前のことだ。つまり私が受けた義務教育は、障害児の教育を受ける権利を奪い、後回しにする形で成り立っていたことになる。そうした学校で教育を受けた結果、私は障害児の権利を後回しにしてもいいという偏見を学び、その偏見を拭い去るのに今も苦しんでいる。
 「分離によって偏見が持続しているのは大人の問題であり、今、それによって子どもたちは苦しんでいる」という言葉の意味を、私も実感している。
 では、就学を猶予され、免除されることで奪われたものは何だったのか。「教育を受ける権利」と答えるのでは説明にならない。「教育を受ける権利を奪われること」で奪われたもの、失ったものは何か。それを想うことができなければ、権利を奪われることの意味がわかるとは言えない。そのためにも、私たちは権利を奪われた人の声に耳を傾けなければいけない。

 《昭和16年、6歳になった。12月に、村役場から尋常小学校への就学通知がきた。おふくろは、気の重い毎日を送っていた。おれは、学校へ行きたかった。たとえ不自由な身体とはいえ、他の子供同様に学校で勉強したかった。…翌年の2月、足柄おろしの吹く寒い日であった。おふくろはおれをネンネコにくるんで背負い、村役場に出かけた。…中の一人が「何の用で来たのか」と、問うた。
 「この子が学齢期に達しましたが、このような身体の状態でも入学させていただけるのでしょうか」
 おふくろがおずおずと、ぎこちなくたずねた。
 「貴様、こんな片輪もんを学校に入れられると思っとるのか。一生学校なんか入れないっ。たわけ者が!」役人はけんもほろろの態度で、罵倒の声をおふくろに浴びせるのであった。おふくろは泣く泣く、役人がつくってくれた就学免除通知書を胸に、家路についたが、おれもおふくろの背中で悔し泣きをしていた。》(※2)
 そしてまた「養護学校就学」という形で、数字の上では「教育を受ける権利」が保証されたかにみえる場合にも、次のようなやりとりがあった。

 《息子が就学年齢に近づくと、一家はまず学校の近くに移り住んだ。通学に便利だし、学校に家が近ければ、それだけ安心でもある。…学校への送り迎えは、車椅子を押して自分がやるだろう。長時間の授業に耐えられるよう、安定性のいい特別の椅子、机も注文して仕立ててもらった。二十年前(1959年)、当時の金で数千円もかかったという。
 関根さんはといえば、近所の子どもたちとすぐに仲良しになった。同じ年ごろの子どももいて、「いっしょに学校行くんだね」と話したりもしていた。
 しかし、入学通知はこなかった。…孤立無縁の中で、肢体不自由児の養護施設が東京・板橋にあることを母親は知った。そこは学校も併設されていて勉強もさせてくれるという。しかし、そこは寮制で、母子が別れ別れにならなければならない。ふつうの母子だって、それはつらい。…つらさをこらえ、母親は彼に学校のことを話した。
 「母さんと、会えなくなるんだよ、別々に暮らさなければならないんだよ」
 「ぼく、その学校に行くよ」
 地域の学校から最終的に入学を拒否されたその日、母子はこんな会話を交わした。関根さんは幼いながら母の背中で自分の決心を告げた。母親は、小さなわが子のけなげな言葉に動かされ、自分の決心を固めた。それは選択などではなかった。》(※3)
 
 教育の対象外とされ、免除願いを出させられた障害児の奪われたもの、失ったもの。そしてまた家族や友達や地域から引き離される形で養護学校に入学した障害児の奪われたもの、失ったもの。それらは、養護学校義務化で取り戻すことができたのだろうか。
 行政の立場、数字の立場からは、就学免除者が減り0になることで、すべての子どもの教育を受ける権利が保障されたことになるのだろう。未就学児に教育が保障されなければならないのはわかる。養護学校義務化の一年前に9868名だった猶予免除者は、1979年には3367名に減った。確かに6000人余りの未就学児が就学できたことになる。
 しかし、1979年に新たに養護学校に入学した人数は1万7364人。つまり1万人余りの子どもは普通学級または特殊学級から養護学校に入学している。その一人一人は、どのようなやりとりを経たのか。
 たとえば1979年3月まで能登川町の小・中学校に通学していた止揚学園の子どもたちは、養護学校義務化により、それまで通っていた小・中学校を追い出された。「養護学校に行くことは障害児にとって、最高の幸福だと思う。私はいつもこの子どもたちの立場に立って、最高の教育を受けさせてやりたいと思っている」と言っていた能登川南小学校の校長は、後に「止揚学園の子どもたちがいなくなってから、町の子どもたちの遅れていた学業が正常にもどり、今年の運動会は、障害児がいないために、とても楽しい一日であった」と発言している。(※4)
 養護学校義務化は未就学の子どものためというより、普通学級や特殊学級にいた「重度」とレッテルをはられた子どもたちを集めるために機能した。養護学校義務化に伴い、就学時健康診断等による障害種別による振り分けは一層厳しくなった。そして、親や子どもが地域の小学校を希望しても拒否され、養護学校等を強制的に勧められる「就学指導」は今も変わらず続いている。先に紹介した6才で家族と離れなければならないケースや、スクールバスで片道2時間もかけて通わなければならないケースは今もある。
 
 このように障害児の教育を受ける権利は、基本的人権をないがしろにする形で今もある。ここでいう基本的人権とは、森田ゆりさんのいう次の定義を指す。
 《私は「人権」を「人が人間らしく生きるために欠かせないもの」と定義している。つまり「それがなければ生きられないもの」のことだ。たとえば食べること、寝ることなどの衣、食、住は人が人間らしく生きるために欠かせない権利だ。
 そして衣、食、住の基本的人権とならんで、人間は尊厳をもって生きるためになくてはならない「安心して」「自信をもって」「自由に」生きるという大切な人権を持っているのである。》(※5)
 
 人間が尊厳をもって生きるために欠かせないもの。自分のありのままの姿でまず「いる」ことを認められること。そして、ふつうに家族や友だちと過ごすことを脅かされず、安心して、障害のあるありのままの姿で自信をもって、自分の行きたいところへ行き、生きたい関係の中で生きることを自由に探し選ぶことができるようにすること。
 それは、障害のある姿をそのままでは認められず、〈少しでも治さなければならない、発達しなければならない〉と迫られる環境の中では難しい。家族や地域から離れなければならない理由が、自分の障害であるとき、そのことに安心と自信を感じることはやはり難しいと思う。
 
 一昨年、30歳の若さで亡くなった私の友人は、始め養護学校に入学したが、小学2年生のときに、弟と同じ地域の小学校へ行きたいと転校を希望した。彼の願いがかなうまでに6年という闘いの時間が費やされた。小学生の時間のほとんどを奪われたことで彼が失ったもの。それは「権利」を取り戻したはずの中学校でも高校でも取り戻すことができなかったのではないか…。そう思うことがある。彼は11歳のとき次のように書いた。
 《‥ぼくはともだちをつくりたい。そしてきゅうしょくをたべたり、あそんだり、べんきょうしたい、なかよくなりたい。ぼくはにんげんだ。なきむしだけどつよくなってあるきたい。かないこうじ》
 彼が亡くなる2日前、彼の待ち望んでいたパソコンが、一人暮らしの部屋に届く。ホームページを開き、パソコンを通して彼がやりたかったこと。それも友だちをつくることだったに違いない。彼が開こうとしていたホームページは、弟たちが後を継いだ。
 《http://www.labyrinth.co.jp/~kohji/》
 彼を思い出すとき、その半年前に7歳で亡くなったもう一人の小さな友人を思い出す。養護学校への就学を強制しようとしていたH市教育委員会が、佳ちゃんの普通学級入学を認めたのは4月に入ってからだった。佳ちゃんが地域の仲間と学び過ごした学校生活はわずか一年だったが、佳ちゃんが亡くなって一年後に届いた手紙にはこんな言葉があった。
 「3年生になったらけいちゃんといっしょだった仲間とクラスが変わるのでみんなで会いにきましたよ。みんな、みんな、けいちゃんのことは、忘れないよ。ずっとずっと友だちだよ。大好きだよ。」
 
 養護学校で2年生になってから、「友だちをつくりたい」と願い、地域の小学校に通うことを望んだ康治は、最期の最期まで「友だちをつくりたい」と願い続けた。生まれ育った家から、弟たちと一緒に地域の学校へ通うというあたりまえの権利を奪われ、彼が失ったもの。それは「友だちをつくりたい」とあえて願わなくてすむ人生だったのではないか。彼のことを思い出し、ふとそう思うことがある。
 過去に、一人の障害者が、どのような人生を送ってきたか。一人一人の障害者がどのような生き方を望み、どのような社会を望んできたのか。そして、いま目の前にいる子どもが「障害」をもった姿でどのような人生を生きてきて、これから先「障害」をもった姿でどのような人生を望んでいるのか。それを問い、耳を傾け、知ろうとすることから「障害児の教育を受ける権利」を保障する道が本当に開かれるのだと思う。難しいことではない。けいちゃんの仲間のように、小学1年生がふつうにやったことを、私たちが学んでいけばいいのだ。日本の学校はまだそうした作業を始めていない。

(S)

 ※1『特殊教育百年史』文部省/東洋館出版社
 ※2『自伝かたつむりの訴状』広岡研語/単独舎
 ※3『駅と車椅子』近田洋一/晩聲社
 ※4『福祉労働・第6号』「普通学校から追い出された子どもたち」福井達雨/現代書館
 ※5『エンパワメントと人権』森田ゆり/解放出版社
 (2001年)