牧師の書斎から
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7月29日 (156) 「地上の幕屋が滅びても」
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上のすみかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(コリント第二 5:2-4)
「まだ大事に使えば、当分大丈夫です。一本だけ虫歯の前兆があるので、明日その部位を削って、詰めてもらいましょう。」
と、何年かお世話になってきた歯科衛生士が、勧めてくださった。このまま放置しておくと、他の歯もいたんでしまいます。との御忠告に従い、久しぶりにあの歯を削る音を聞くことになった。福良教会にしばらくお用いいただいたおかげで、衰えてゆく脳の老化も少しだけ遅らせていただいた。声の発生はどうにもならないが、文章を作る作業で、大分助けられてきた。
この週報の短いエッセイも、156回を迎えて、最終となった。バックナンバーを見てみると、なんとこじつけや苦しまぎれの歯ぎしりのような文章が多いことか。冷や汗が出てくる。しかし、たまにヒットもあった。それを読んでいると、その週の説教もすこしだけ納得がゆくのは、不思議である。
わたしたちは、コマーシャルの化粧品のように、昔の自分を取り戻す必要はない。まして、霊の生活においては、地上で完全な人間となるために苦しみもだえる必要もありません。やがて上より与えられる住みかであるキリストを着ることを期待して地上の生活を完うさせていただきましょう。(五島)
7月22日 (155) 「神の御心と人の思い」
「すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられようか。そこには12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜がいるのだから。』」(ヨナ書 4:10-11)
今年は、西日本の各地で異常な降雨があり、多くの人が犠牲になった。続いて今週は猛暑である。自然の猛威に対して人は
「どうして」と、天を仰いで嘆くことしかできない。ヨナは、これを人間の罪に対する神の怒りとさばきと、受け止めた。しかし、神様は一本のとうごまの木の成長と枯れてゆく様を通して、ニネベの都に対する思いを彼に告げられた。ヨナには、それがわからなかった。
わたしは、とうごまという木を見たことがない。しかし、イエス様が「神の国」の成長のたとえとして用いられた「からし種」のように、人間の想像を超えた植物の一つなのであろう。
自分を酷暑から守ってくれたとうごまの木が東風の熱風によって一夜にして枯れてしまったことを嘆くヨナに、主はご自身の真実を告げられた。
自然の猛威に
「神様どうしてですか」と、悲しむことしかできない私たちの心の目を開かせてくださっているのではないだろうか。
被災された多くの方々の上に天の励ましを祈ると共に、ヨナやノアのように、自らも主を畏れて生きてゆきたい。(五島)
7月15日 (154) 「神の召しに応える」
「彼は言った『わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。」(士師記 6:15)
本日は例年のように、聖書の配布のためにご奉仕くださるギデオン協会明石支部より一人の兄弟がおいでくださる。そして、最近の活動報告と、ご自身の証をしてくださる。ギデオン協会の歴史についてはインターネットに詳しく述べられている。
ギデオンという人物については、旧約聖書士師記に詳しく記されている。ギデオンの奉仕に携わっておられる方々は、ギデオンという士師に惹かれておられるのではないかと思う。
ギデオンのような士師が活動していたのは、ヨシュアによるカナン移住の後、カナン全地が一人の指導者によって治められていない不安定な時代のことであった、イスラエルは各部族が独立して、与えられた地域を統括していた。ギデオンは、マナセ族の青年であった。マナセの民は、収穫物を、遊牧民ミデアン人に略奪されていた。神様は、『勇者よ』と、彼を戦いの指導者に任命された。
『私の一族はマナセの中でも最も貧弱な者です。それに私は家族の中で一番年下の者です。」(士師記 6:15)
これに対して主は言われます。
「『わたしがあなたと共にいるから、あなたはミデアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。』」(士師記 6:16)
我らも自己の貧しさを知る故にこそ、神様に絶対信頼する。(五島)
7月8日 (153) 「将来の希望」
「現在の苦しみは、将来私たちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマの信徒への手紙 8:18)
「道にゆきくれし 旅人よ、あおぎ、恵の御神のみ言葉を聞けや。憂いの雨は 夜の闇に晴れて、つきせぬ喜び 朝日と輝かん。」(讃美歌522, 1番)
わたしは、生来感情的で、理性的な人間ではない。学問や論理に頼る仕事にはむいていない。だから、パウロよりもペトロに心惹かれる。讃美歌の中でも522番は、愛唱歌の一つである。これを歌うと、自然に涙があふれてくる。
アリゾナの自宅からフェニックスの日系人教会に日曜日ごとに高速道路で1時間余り運転するとき、地域の放送局から
「懐かしのメロディー」ふうに讃美歌がながされる。英語の讃美歌を普段は使わない者にも、馴染み深いものばかりであった。妻と一緒に日本語で歌った懐かしい曲の一つである。
【疲れたる者よ、頭を挙げよ】の一節を歌うと、本当に希望が湧いてきた。恐らく自分の罪と泥にまみれた人生の終わりにも、この歌は、パウロのローマ書のみ言葉と共に、最後の励ましとなることであろう。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマ 8:21)
どうか、互いに最後まで復活の希望に生かされてゆきましょう。(五島)
7月1日 (152) 「弱いときにこそ」
「それは、思い上がらないように、わたしを痛みつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。」(コリント第二 12:7-8)
晩年のパウロの肉体はボロボロでした。
「わたしパウロが、自分の手で記します。これはどの手紙にも記す印です。」(テサロニケ第二 3:17)
と、あるのは、説教の本文を弟子に代筆させていたことを示しています。ほとんどの意思伝達を書簡によって行っていた伝道者にとって、それは致命的な障害ではなかったろうか。毎週説教の度に「声を与えて下さい」と祈る者には、感度のよいマイクが用意されている。不平を言うことは贅沢である。
それ以外にも、パウロは耐えがたい病苦をいくつも抱えていた。それは忍耐深い彼でも、神様に恥も誇りも捨てて、訴えざるを得ないほどのものであったようである。ところが、主のお答えは、厳しかった。
「すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで、自分の弱さを誇りましょう。−−なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(第二コリント 12:9-10)
これから人生に何が起こっても、こう言える者でありたい。(五島)
6月24日 (151) 「秘儀」
そこでイエスは言われた。「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」(マルコによる福音書 4:11-12)
「神の国」は、目に見えるものではなくて、隠された奥義だと、イエス様は直弟子たちに語られた。しかし、先に礼拝で学んだ山上の説教は、実にストレートで分かり易い。もちろん、だからと言って、その教えを行うことが易しいという意味ではない。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(マルコ 4:3)
「たとえ話」は、群衆に
「奥義」を理解させるために用いられた主の独特な伝達方法であった。しかし、それでも理解できるかどうかは、聞く側に、その用意があるかどうかであった。
だから主は、
『聞く耳のある者は聞きなさい。』と言われたのであった。
「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、私たちから神の言葉を聞いたとき、あなた方は、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」(テサロニケI 2:13)
福良教会が
「神の国の奥義」を、信仰の耳で聞いて、愛の業を実現してゆく群れとして、聖霊の働きをいっぱいいただくことができますように。(五島)
6月17日 (150) 「創立121周年」
「あなた方は、もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス自身であり」(エフェソ 2:19-20)
福良キリスト教会は、今年満121周年の記念日を迎えました。福良は、故川辺貞吉先生が、淡路伝道を開始され、全くゼロからスタートされた最初の伝道の拠点でした。伝道の拠点という点では、異邦人伝道の出発点となったシリアのアンティオキアのことを思い起こします。ここで、パウロはエルサレム教会から遣わされたパルナバと共に、キプロス伝道に派遣されました。河辺先生も、独自な淡路伝道を展開されてゆきますが、もともとは、米国のフリーメソジスト教会の宣教師として派遣されたのです。彼は、米国に商売のために渡ったのですが、福音に捕らえられ、福音伝道のために大阪に帰り、淡路を伝道の最前線に選んだのです。それは柿原正次牧師の要請によるものでした。その後、ホーリネス教会の指導者笹尾鉄三郎牧師が福良に来られ、その伝道を助けられました。彼はパルナバのように温厚で、高潔な人格者で、多くの人々から尊敬されたと言われています。パウロとパルナバのように、異なった賜物の二人の協力と熱心な信徒たちが一丸となって、頑強な異教の地に鍬を入れていったのです。
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって、神の住まいとなるのです。」(エフェソ 2:21-22)
伝道は、一人ではできません。牧師と信徒、他教会の支えがあって、共に成長し、形成される霊の家が教会です。福良教会を建ててくださるキリストに感謝します。(五島)
6月3日 (149) 「信仰の薄い者たち」
「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたには、なおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイによる福音書 7:30)
かつて、牧師は生活費を減らしても書籍を購入した。移動する際、書籍は、最も厄介な荷物となった。何より、重たいのである。それは、購入した神学書が、与えられた牧師としての使命を果たすためになくてはならないと、信じていたからである。生活の思い患いに苦しむ人々に主は、
「信仰の薄い者たちよ」と、おっしゃった。
あまり勉強をしない神学生が、聖書一冊があれば、他の書籍など必要ないと自分を
「一書の人」と称して不勉強の言い訳にしていた。
そういう彼を批判していた自分を、最近恥じるようになった。もし土曜日毎に註解書を開いて、御言葉の意味を探って悪戦苦闘する私を御覧になられたら、きっと主は、「何よりもまず、神の国と、神の義を求めなさい。そうすれば、お前の必要としている知識は、自然に与えられる。」と、おっしゃるであろう。「信仰の薄い者よ、そうしたら、土曜日の夜は、ゆっくりと、眠れるよ。」「聖書の御言葉は、聖霊ご自身がご心配下さるから、安心しなさい。」と、励ましてくださるであろう。けれども、もうしばらくがんばります。(五島)
5月27日 (148) 「約束の聖霊」
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ 15:26)
ペンテコステの日、神様が教会と、救いを求める一人一人に与えて下さった賜物が、聖霊でした。聖霊は、ヨハネによる福音書では、イエス様に代わって、弟子たちに
「すべてのことを教え、主の御言葉の意味を思い起こさせてくださる」のです。主は聖霊を「真理の霊」とよばれました。
確かに、わたしたちは、このことには
「どう意味があるのか」と思わざるを得ないことが多々あります。せっかく聖書が与えられていても、御言葉によって解決できないことが多いのです。予期できない肉体の病気、愛する者との別れ、経済的な困難、教会の将来への不安、等々。神様が、それを明らかにしてくだされば、どれだけ安心できるだろう、と思われることが毎日、起こってきます。しかし、テレビのコマーシャルのように問題を解決する特効薬はありません。
「この方は『真理の霊』である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなた方はこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。」「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネによる福音書 14:17-18)
この「聖霊」は求めるすべての人に与えられます。大事なのは、
「聖霊を与えてください」と、心より待ち望むことです。(五島)
5月20日 (147) 「最高の道」
「皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなた方は、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(コリントI 12:30-13:1)
コリントの教会には”霊”の賜物をめぐって激しい対立があったらしい。”霊”の賜物はキリストの体を形成するために、神様が各自にお与えになったもので、それぞれに異なるものであって、一つではない。決してそれを誇ったり、自分に与えられたものを卑下する必要はない。
「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに遠慮しあっています。一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」(Iコリント 12:24-26)
ペンテコステの日に聖霊が与えられたとき、異なった民族、異なった言語を語る人々は一つとされました。福良教会にも素晴らしい固有の伝統があります。しかし、今後は日本キリスト教団という様々な背景を持つ教会と一つにされて、神様の栄光を現してゆかねばなりません。わたしも教団に加入してから、異なった伝統の教会から助けられ、他教会のためにその重荷を共有させていただく喜びを経験しました。淡キ連の交わりと共に、教区の諸教会との連帯の喜びを更に深めていただきましょう。(五島)
5月13日 (146) 「キリストの愛」
「また、あなたがたすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ 3:18,19)
使途パウロは、神様の人知を超えた愛をこのように言い表した。しかし、その
「広さ、長さ、高さ、深さ」とは何なのか。どうも分かったようでわからない。ところが、ある説教者が、これは、外から理解できるものではなくて、神様の愛の中に飛び込んで包まれた人がその内側から知って、表現したものだ。と、語られた。なるほどそうなのか。
今日は、
「母の日」。わたしたちの母は決して完全ではない。その愛も実に利己的で、自己中心的である。しかし、わたしたちは、その愛の中に包まれて、育てられた。母の愛は、他の人と比べることも、客観的に理解することもできない。その愛をいただいて、初めて知ることができる。感謝である。
「希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ書 5:5)
どうか、聖霊によってキリストの愛を心に注いでいただきたい。(五島)
5月6日 (145) 「天使の声」
「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことをわすれてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙 13:1-2)
20年余り前であろう。河内長野の教会に、一人の中国からの留学生が、集会や礼拝に出席されるようになった。故郷を離れて、きっと淋しいのであろうと、自分の留学生活を思い起こしながら、お世話をしたつもりであった。努力をしてアルバイトをしながら、大学院を卒業、内モンゴルに帰ってゆかれた。日本の企業への就職も可能であったが、御両親も高齢で、彼女の帰国を待ち望んでおられた。その後、何回かお電話をいただき、未信者の男性と結婚されたことを伝え聞いた。多分中国でキリスト教を信じて生きてゆくことは、無理であろうな、と考えていた。ところが、先日突然大阪に来ているので是非会いたいとの電話をいただいた。もちろん、寝耳に水のような、できごとであった。日本語を全く解さないご長男を連れて、彼女は福良まで訪ねてくださった。余ほど嬉しかったのであろう。わすれかけた日本語を一生懸命使って、中国に帰ってからの厳しい生活や、御主人を導いて、今では、親子3人で、監視の厳しい北京の教会で、ご奉仕されていることを喜びをもってお話しくださった。わたしたち夫婦は、改めて、聖霊が働いて、彼女の人生を捕え、お導き下さっていることを教えられた。
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録 1:8)
伝道は、天使の声を教会が聞きとり、神様のみ言葉をどれだけ正しく伝えられるかにかかっている。まさにペンテコステの主の御霊の業である。(五島)
4月29日 (144) 「神の栄光のために」
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントI 6:19-20)
去る22日の教会総会では、今年の末までに教会が使用中の土地と建物を買収することが決定した。福良教会にとっては、手持ちの財産の大部分をこれに充てることになる非常に大きな決断である。しかし、教会は、どんなに困難であっても、自分たちに残された「福良教会」を名実共に、次の世代に残さねばならない。
少なくなった会員で、この計画を達成してゆくためには、収入を維持するだけでなくて、支出を減らさねばならない。今使用している大きな礼拝堂は、大きな集会の時のみ使い、普段は、階下の集会室を、小礼拝堂として活用してゆく。教会は、キリストの体である。すでに役員会は、この場所を礼拝のために整えている。もちろん、このような試みは、教会の経済の維持と、高齢者の安全の確保のためになされる。しかし、それは、わたしたちの利益のためだけではない。礼拝を通して、神様のご栄光が現わされることが、最も大事な目的なのである。礼拝を通して主の御栄光が現わされるとは、まず何よりも、御言葉が正しく語られ、福音によって一人でも多くの人が救いに与かることである。ペンテコステまであと20日、創立記念礼拝もひと月となる。聖霊の豊かなお導きをいただきたい。(五島)
4月22日 (143) 「我とわが家は主に仕えん」
「もし主に仕えたくないと言うならば、 仕えたいと思うものを、今日自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」(ヨシュア記 24:15)
偉大な先駆者のあとを継ぐことは、どのような分野でも容易なことではありません。神様は、モーセの死後、その従者ヨシュアを後継者として立てられました。出エジプトという任務も大変でしたが、約束の地に入ってカナンを平定することもそれ以上に困難でした。ヨシュアは、老いていよいよ地上での努めを完了すべき時が近いことを、自覚していました。そこで、彼は民に選択の自由を与えました。信仰は、たとえ夫婦でも親子でも強制できません。神様を主とするか、他の道を選ぶかは、いつの時代でも、自由です。『わたしたちも主に仕えます。』と、誓った民に、ヨシュアはこう言います。
『あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。』(ヨシュア記 24:22)
クリスチャンとして生き、教会員となることは、確かに厳しい選択です。しかし、恐れることはありません。何故なら、
『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。』(ヨハネによる福音書 15:16)
と、お約束くださるお方がわたしたちの主だからです。
今日は、教会総会です。互いに最後までキリストにお従いしましょう。(五島)
4月15日 (142) 「全ては極めて良かった」
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記 1:31)
復活祭が終わると、ペンテコステまで、福良はとても過ごし易い時候を迎える。歩道の桜も一気に芽吹いて、眩しいほど緑が美しい。神様が与えてくださる創造の賜物を漏れなく、弱い体にいただきたい。創世記は2章に入ると、「天地万物は完成された」とあり、更に、「神はご自分の仕事を完成された」とある。もちろん、ご自分の形に似せて造られた人間は、最高傑作であった。
その傑作を壊したのは、私たち人間である。しかし、神様はキリストによって、新しい人間を再創造して下さる。まさに「驚くべき恵み」である。「地の塩、世の光」として生かしていただきたい。(五島)
4月8日 (141) 「勘違いの恐ろしさ」
「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。(ローマ書 9:30-32)
福良教会の牧師館での最初の朝、異様な鳴き声で目を覚ました。後に、近所で飼われている孔雀の鳴き声だと知って驚いた。以来、福良の春は、この鳴き声と共にやって来る。神様が自然にお与えになったものは、とても不思議である。あの美しく広げたクジャクの羽根からは、この何ともいえないだみ声は、想像できない。その逆もまた然りである。人は救いについても、反対の道を選びやすい。信仰と行いを勘違いするからである。聖書の真理を見失うことがないようにしたい。(五島)
(4月1日はイースター礼拝のため「牧師の書斎から」はお休みでした。)
3月25日 (141) 「献げる恵み」
「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう、彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させて欲しいと、しきりに私たちに願い出たのでした。」(コリントの信徒への手紙二 8:1-4)
先週の予算総会で新年度の活動予定と予算案が決定した。残念ながら、教勢は停滞し、礼拝出席者もここ4年間で、最低であった。その結果、新年度の教会会計は、10パーセント以上の減収となる。過去の牧会で経験をしたことがないことであった。とても辛く、神様に申し訳ない。しかし、福良教会がマケドニアの教会のように、貧しさがあふれ出て、主にお仕えする恵みを経験する群れとなると確信する。(五島)
3月11日 (139) 「覚悟」
「他に、弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください。』と言った。イエスは言われた。『私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』」(マタイによる福音書 8:21)
日本の武士は、主君への忠誠の証しとして切腹した。自分の命を主君に献げていることを見事に表したのである。キリストの弟子たちの覚悟もそれに劣らず、命がけのものであったろう。
イエス様は、弱い人、貧しい人、罪人に対して限りなくやさしい。だから、このお言葉は、意外に冷たく聞こえる。けれども、
「イエスはその人に『鍬(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカによる福音書 9:62)
同じ主の言葉がルカでは、「神の国」のことがらとはっきり明記されている。単にキリストの弟子としての覚悟ではない。わたしたちは、イエス様と共に、神の国(神様との関係)において生きている。だから、地上のどんな重要事よりも、主に従う勇気と覚悟がいるのである。しかし、主に従うことは、人間の決意ではない。
ペトロは、
『主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています。』と自分の決意を表明した。しかし、
「イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」(ルカ 22:34) そしてその通りになった。キリストの僕として神様にお従いすることは、人間の決意や覚悟ではなくて、復活のキリストの恵みの招きに応える信仰の従順である。(五島)
3月4日 (138) 「青春の彷徨と指標」
「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どうりに道を保つことです。」(詩編 119:9)
昨夜から風の嵐が吹き荒れている。高校時代の多感な時期、角川文庫で、ヘルマン・ヘッセの
「郷愁」を愛読した。
その後、同じ作品を異なる翻訳で何度も読んできた。ヘッセは、牧師の子供として育ち、神学校に入学したが、何度も逃げ出して、退学してしまう。
春の激しい故郷の風景と共に、青年の心の中に吹き荒れる悩みと、苦悩がよく表されていて、自分の人生と重ね合わせて読み耽った。まだ聖書に出会っていいない頃のことである。
「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ人の手紙 4:15)
主の苦しみの頂点は、あのゲツセマネの祈りであろう。しかし、主は同じ重荷をおわねばならない弟子たちに、語られた。
「『だから言っておく。自分の命のことで、何を食べようかと何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。』」(マタイによる福音書 6:25)
「『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』」(マタイ 6:33)青年の歩む指標がここにある。福良教会にも、新しい青年が加わることがどうしても必要である。(五島)
2月25日 (137) 「勝利と敗北」
「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書 16:33)
冬季オリンピックのニュースで、毎日日本中が一喜一憂している。勝利した選手の喜びは、もちろん我々にも喜びである。しかし、敗れた選手の言葉や、ふるまいが、とても素晴らしい。いつも思うことであるが、外国の選手は、敗れても、意外に敗北にこだわらない。日本人は、金メダルと銀メダルでは、まるきり反応が違う。これは、国民性を超えたもっと深いところに、原因がありそうである。
イエス様がこの説教をされたのは、敵に捕らえられ、十字架にかけられる前夜だった。現実には、主はこの時、弟子たちからも捨てられ、一人きりにされる直前である。人の目から見れば、世の力に敗北されようとしていた。しかし、
「(わたしは)すでに世に勝っている」と、宣言された根拠は何なのか?
「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ」
信仰者の勝利の秘訣は、このキリストの勝利を信じて生きることができることである。もちろん、十字架と復活の信仰の故である。(五島)
2月18日 (136) 「あなたも家族も」
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録 16:31)
「Kさん、あなたは、教会にとってなくてはならないお方です。そろそろバプテスマをお受けになりませんか。」パートタイムの牧師ですが、K兄は心から信頼できる唯一の男性礼拝者でした。英語も堪能な兄弟には、是非会員として、教会を支えていただきたいと、考えていました。兄弟は、その都度「先生、わたしは、根っからの日本人で、聖書は信じますが、やはり、仏を信じています。死ぬ直前になったら、お願いするかもしれませんが、もう少しこのままでお願いします。」この真面目な兄弟が、アリゾナを離れ、南カリフォルニアの御子息と同居するようになる直前、私たちは福良にまいりました。
遠くに転居されたご夫妻のために教会は祈り続けてきてくださいました。教会の役員であるK姉妹から、数日前に、メールがとどきました。「先生、奥様のY姉妹のお祈りがついに聞かれて、とうとうご主人が、地元の教会の牧師から洗礼を授けられました。でも今大変弱っておられます。」何と嬉しいお便りでしょう。兄弟のお癒しのために祈りました。
しかし、2日後の昨日「先生、ロバート兄が昨日召されました。」と、同姉より、ご連絡がありました。神様の御計画と人の思いとは違います。福良教会にも同じように長い求道生活をしておられる兄姉がおられます。聖霊が最善の導きをして下さると信じてお祈りしています。(五島)
2月11日 (135) 「雪よりも白く」
「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」(詩編 51:9)
日本の各地で大雪のために多くの災害が人々に苦難をもたらしている。詩編51篇は、ダビデが自己の罪を悔いて、神様に赦しを祈り求めた彼の魂の叫びと言われている。
かつて、小さな神学校で学んだ時、聖歌の「罪の世人らに」を、神学生たちが大きな声で歌うのを聞いて、心を打たれたことが度々あった。特に、折り返し部分の
「雪よりも 雪よりも 白くなしたまえ 聖き血潮にて」と歌うと、涙があふれて止まらなかった。
同室の上級生がそれを見て、「五島君、信仰とはそんなセンチメンタルなものではないよ、まずしっかり勉強したまえ」と、忠告してくださった。しかし、老いてますます自分の醜さが増してきているように思われてならない。
信仰は理屈ではなくて、キリストの血潮によって清めていただかないと、神の国の民となれない。どうか、「雪よりも白くしてください」と、切に祈る日々である。今年ももうすぐ受難節が来る。主の血潮を明確に心の深いところで受け止めさせていただきたい。
先日私よりもはるかにご高齢の姉妹が、「先生、罪深くてお祈りができません」と仰るのを聞きながら、「本当にそうですね。アーメン」と、私も祈るしかなかった。そして、そんなに素直な姉妹が羨ましかった。(五島)
2月4日 (134) 「すべてに対処する秘訣」
「あなたが来るときには、私がトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持ってきてください。」(IIテモテ 4:13)
昨晩余りの寒さで、夜中に、目覚めた。電気毛布の接続がはずれていたようである。その時、パウロが弟子のテモテにマントをもって来て欲しいと便りをしていたことを思い起こした。
「しばしば寝られず、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(IIコリント 11:27)と、遭遇した試練の中にも寒さの厳しさをあげている。
温かなふとんと毛布にくるまれて、ベッドで寝込んでいる自分の贅沢をもったいないと考えていると、いつの間にか体が温まり、まどろんでいた。
もちろん、人はそれぞれ異なった状況で、異なった困難に立ち向かわねばならない。一人の人間にも、生きてゆく過程には、様々な状況があり、解決を迫られる問題がある。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足してしても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、すべてのことが可能です。」(フィリピ4:11-13)
パウロは生まれつき我々とは違う強靭な体と精神の持ち主なのだろうか。そうではなくて彼は
「習い覚えた」と言っている。彼も、様々な試練と戦いながら、どんな場合にも対処する
秘訣を、自分を
「強めてくださるお方のお陰で」、習得していったのである。弱いわたしたちも、キリストのお陰で、勝利の秘訣を自分のものとしていただきたい。(五島)
1月21日 (133) 「内なる人」
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、くらべものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(IIコリント4:16,17)
パウロは、終わりの日に、イエスを復活させた神が、イエス様と共に、自分たちをも復活させてくださると、信じている。と言います。だから、たわしたちの肉体は日々衰えていても、信仰によって、
「『内なる人』は、日々新たにされている」と、述べることができたのです。信仰は目に見えない現実を見させてくれます。
先日来、お元気であったご高齢の姉妹たちが、次々入院や、施設へ入所されて、心配していました。けれども姉妹たちは、意外なほどお元気で、却って訪問したわたしたちが励ましをいただいてきました。
「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(IIコリント 4:18)
信仰者の心の平和は、目に見えない神様との交わりから与えられるものです。
「内なる人」の永遠の命の証です。この平和は、人の努力で得られるものではなくて、神様から与えられる恵みの賜物。終わりの日の復活の希望があるからです。わたしたちは、死に向かっているのではなくて、永遠の命に向かって、日々生かされているのです。感謝です。(五島)
1月14日 (132) 「『地』とは何か−視点を変えて」
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』」(創世記12:1,2)
確かに、神様はアブラムに、祝福の源となるように、
『約束の地』を約束された。ところが、イスラエルは、この土地を自分の権力のしるしとして、確保しようとしてきた。だから、最近はエルサレムを自分たちの首都にしようと躍起になっている。そのために、本来神様が創造された
『地』を自己のものとしようとして隣人であるパレスチナ人を追い出そうとしているのである。(イエス様がご覧になったらお嘆きになるであろう。)
実際、19世紀までのヨーロッパの海外宣教は、みな植民地化と一体であった。(参、パール・バックの「大地」)立派に見える熱河省の宣教も然り。(荒井英子「熱河伝道は特別か」荒井氏は、特別ではないと言っている。)
しかし、主がおっしゃる『地』とは、この地上の土地や国家ではない。「神の国」の
ことである。「柔和な人々」が、キリストの愛を証しする世界の事である。私たちも「神の国」を受け継ぐ民となりたい。自分たちの理想や教会の拡大を求めるのではなくて、ひたすら、「隣人を自分のように愛する」(マタイ22:39)愛と、『柔和』を求めて、隣人に仕えてゆきたい。福良伝道は、教会のためでなくて、今日まで、本当に福良の「民」の救いのためになされてきた。
「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』」(使徒言行録18:10)
たとえ教会がどんなに小さくなっても、わたしたちは主に一切をお任せして歩んでまいりましょう。福良には、神様からお預かりした民が大勢います。「地を得る」から「地に仕える」ことに視点を変えましょう。教会には、これからチャンスがいっぱいあります。(五島)
1月7日 (131) 「祈りの宝庫−詩編」
「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。」 (詩編 42:9)
福良は、歳末からお正月にかけても温かである。しかし、屋外は意外に寒い。どうしても、温かな牧師館の書斎に閉じこもりがちになる。
そこで、楽しみなことは、受動的で問題ではあるが、テレビを見ることになる。
特に楽しみなのは、
「人体」というNHKの特番である。今朝は、予告編があった。かつて人間の体は、脳の指令によって動いていると考えられていたのに、最近の研究では、人間の体は、それぞれの臓器が互いにメッセージを出しあって、ネットワークで結ばれているのだという。言わばこれは、生理学のコペルニクス的な大発見、人類の歴史の中での一大事件なのだそうである。(ノーベル賞受賞者中山伸弥教授の解説)
このように公共放送で言われると、ただなるほどと、感心するしかない。
しかし、詩編は、わたしたちの命の創造者が神様であると、命の主を讃えている。今後、人類が何を発見し、どんな世界が出現しようが、この世界を支配し、統御しておられる神様を見失うことがないように、祈り続けてゆきたい。
時にどのように祈るべきかさえ分からない時もある。
「祈りの宝庫」である詩編を声を出して、読みたい。わたしの祈りがその中にある。最近、説教で声が出ないことが多くなってきた。夜中に大声で、
「主の歌」である詩編を読んで元気をいただいてゆきたい。(五島)
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