瀬戸内海運株式会社 , 兵田二郎 , 兵田寿賀子 , 兵田壽賀子 , 兵田光二郎 , 兵田 , 兵田慎一郎 , 日曜画家協会 , 白髪一雄 , 画伯 , 大正銀行 , 堀江支店 , 日曜画家協会 , チャーチル会 , ユース美術会 , 大橋利一 , 会長 , 和歌山大学 , 経済学部 , 大阪府立港高等学校 , 大阪市立堀江中学校 , 大阪市立 , 日吉小学校 , 日吉幼稚園 , 卒業 , 柑芦会 , Setouchi Kaiun ,大阪ドーム ,Osaka ,setouchi ,瀬戸内海運 ,dome ,兵田,二郎,Jiro Hyoda




【兵田二郎(ひょうだじろう)のホームページ   Jiro Hyoda's Homepage】








自宅にて { In my home } (2007'6)



兵田二郎(ひょうだじろう) Jiro Hyoda

19**     Born in Osaka
(大阪市西区南堀江に生まれる)

私の祖先は江戸時代から何代にも渡ってこの同じ場所に住んでいます。
江戸時代は海産物問屋をしていたということです。





兵田二郎のプロフィール
(The profile of Jiro Hyoda)



現在

瀬戸内海運株式会社役員

政経文化画人展会員(会員・審査員)

国際芸術文化振興会会員

チャーチル会大阪会員(会員)

日曜画家協会(会員・副会長・講習会講師・アドバイザー

「桜」代表・指導






                     
{ 風景画へ  For Paysage } ---------------  { 人物画へ  For Person }  ---------------  { 花・静物画へ  For Flower・Still life } 







絵画サークル  「桜」  を主催します





私は、2009年7月から絵画サークル「桜」を主催します。

「桜」では、私が20数年間おつきあいを戴いた方々とともに楽しく絵を描きます。

愉快な仲間達、時間的にも金銭的にも余裕を持って絵を楽しみましょう。


代表  兵田二郎


このサークルは現在一般募集を行っていません。








ベニス。どこを眺めても絵のモチーフとしては最高です。

しかし、現地は狭くて絵を描けない。仕方がないので

自分の撮った写真から描きました。

描けることは最高に幸せなことです。

神に感謝。両親に感謝。日本に感謝。

すべてに感謝の毎日です。





産業新潮記事より(兵田二郎)


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一流の人との出会い。
(自分の愚かさを知る)


 私が会員となっているチャーチル会大阪や東京の政経文化画人展には社会的に恵まれた方が多くいらっしゃいます。

 その人達は、ゆとりある生活を送っておられるというだけではありません。

 良識を備えた、人からも好かれる素晴らしい紳士・淑女たちです。

 普段何気なく話している人が、有名企業の創業者だったり会長や社長や病院長だったりします。

特に、政経文化画人展では、何気なく話している人が、有名な作家だったり、

政治家だったり実業家だったり一流の歌手だったりもします。

 私は、知らずに話し込んで、後ほど他の人からその人の経歴を聞き、いつも驚きます。

 私は、チャーチル会大阪では、事務局長として、会員さん達に仕事を振り割ってきました。

  私は大変な人達に動いて貰っているのだなと感謝しています。

皆さんはひとかどの人物で現在もしくは過去には数百人・数千人の上に立ち、動かしていた人ばかりです。

皆さんは、自分の事はほとんど語られませんので分からないのです。

数年つき合っている内、自然と分かってくるものなのです。

  私は、自分や家族の自慢をすることが悪癖でしたが、これらの会に入ってからは、
あまり自慢をしなくなりました。  (・・・・時々してしまいますけれど・・・)

 そして、自分や家族の自慢話をしている人はとても可哀想だなと思うようになりました。

子供の自慢をする人は、その子供より劣っていると言うことを言っているのと同じ事ですし、
そのご自慢の子供でさえ、これらの会の人達の実績からは全く取るに足りないものだからです。

 私は、以前には、他人の自慢話を聞き、尊敬やら軽蔑やらしておりました。

 しかし、チャーチル会大阪や政経文化画人展で他の会員さん達と出会ってからは、
得意満面で自分や家族の自慢話しをしている人がとても惨めに思えて来ました。

先にも述べましたが一流の人は自分のことは全く言わないのです。

上には上があると言うことをよく知っておられるからです。


私は、これからもますます人間的に成長したいと思っております。






団塊の世代の誇り



団塊の世代とは、1947年4月1日から1950年3月31日までに生まれた人のことをいいます。


団塊の世代は生まれながらにして全てに「地獄」と言う文字がつきました。

「受験地獄」などはすぐに分かりますが、わかりにくいのが「結婚地獄」。


当時女性は、今と違って2−3才年上の男性を求めていました。

年上の男性の数は団塊の世代の女性の数に比べてはるかに少ないのです。

当時は、男1人にトラックいっぱいの女性と言われました。

だから、私の同期の女性に独身者がとても多いのです。


「受験地獄」「結婚地獄」「就職地獄」と親や教師からいつも言われていたので、


団塊の世代
人たちには子供の頃から、人に負けないように頑張る習慣が身に付いていました。

勉強やスポーツ、そして仕事に熱心に打ち込み、ずっと自らを鍛え上げてきました。


団塊の世代の人たちは、人間的な魅力、能力、根性などは、

他の世代の人たちとは比べものにならないくらいすごいと思っています。


社会で
団塊の世代の人々がその能力を恐れられ、着実に実績を伸ばしてきたのはそのせいなのです。


広き門を仲良く手をつないで楽々と通れた世代と、狭き門を友と戦いながらすり抜けなければ

ならなかった
団塊の世代とでは、実力の上では比較にはならないのです。


数年前の同窓会で、英語の先生(大阪市立堀江中学校の二村新六教諭)がみんなの前で、涙ながらにこう言われました。

「君たちは可哀想やった。ワシは君ら全員を行ける学校の2ランクも3ランクも落としてうけさせた。

ワシは、涙ながらに君らの志望校を決め判を押したんや。今思っても本当に可哀想やった。」


〈 大阪市立堀江中学 新村先生(英語担当) 〉


私は、団塊の世代の人々の多くはは
戦士だと思っています。

しかし、その戦士たちもそろそろ現役を退き、年金で生活をするようになりました。


戦士たちよ!・・・いつまでも負けるな。

厳しい世界を生き抜いた誇りを胸に頑張ろう。








2007年 政経文化画人展 「内閣総理大臣賞」 受賞


ありがとうございます。


この度「政経文化画人展」におきまして「内閣総理大臣賞」を頂きました。
梅田のスカイビル(ツインタワー)で開催された展覧会には
私の関係で150名以上の大切な方々・友人のご来場を頂き心よりお礼を申し上げます。

また、会社関係、絵画関係、テニス関係、親戚・家族その他の多くの皆様方から
心のこもったお祝いの品々を頂きましてありがとうございました。

私の受賞を心から喜んでくださる多くの人達がいてくださる事が
私の励みであり、なによりの幸せです。本当にありがとうございました。



テニスの友人達へ

2007年9月15日に私の所属するNGチーム、PMチーム、MBチームの
テニスの友人達が合同で祝賀会(天王寺北の家族にて)を催してくださいました。

祝賀会参加者26名(記念品参加者34名)でとても楽しいひとときを
過ごさせてくださいました。あまりの嬉しさに女房は涙目になっていました。

去年の芸術議員連盟会長賞の受賞の際には、各チーム個別に開いてくださいましたが、
重複している人もおられましたので今年は合同で開催してくださいました。

お祝いの品として、すてきなネクタイや、花束、帽子(内助の功の女房に)、花額等を頂きました。


感謝!
幹事のKS嬢、TM嬢へ。お忙しい中このようなすばらしい企画をし、
開催をしてくださって本当にありがとうございました。
とても大変だったでしょう。

幹事のお二人と参加してくださった皆さんにこの場をお借りして
お礼を申し上げます









講演会は終了しました。

2008' 7' 6 (13:30-15:00)

柑芦会大阪支部総会 兵田二郎講演会
(和歌山大学経済学部後援会大阪支部総会)



講演会ではプロジェクターを使用して講演をしました。

講演後多くの方からメールを送っていただきました。

ご聴講下さいました皆様どうもありがとうございました。

(講演参加者140名)

総会終了後同期9人で飲みに行きました。

同期の皆さん。片づけの手伝いありがとうございました。

笠井さんを始めこれからもどうぞよろしくお願いします。

(写真は公演中の私です。)



兵田二郎講演 関連記事(柑芦会ホームページ)


講演会 13時30分〜15時(大阪ベイタワーホテル)

題目  『あっと驚く絵の世界』…発想の転換と寸止め…・



上記の講演内容



 柑芦絵画を楽しむ会 

 講演 (あっと驚く絵の世界・発想の転換と寸止め)

   はじめの言葉

1 埋もれている才能

  @ 絵の才能を無くす原因

  A 固定観念が防波堤を作る

  B アメリカの教授の研究

  C 見えない防波堤の破壊

  D 絵に見える画家の個性

  E 本当の名画の良さ

  F 絵の寸止め

  G 見る人に絵を完成させる

  H 画家の暖かい個性を感じる絵

  I 心を病まれた女性

  J 憧れの友人からのメール

  K 絵をはじめてからの時間の長さに驚き


2 白髪一雄画伯との出会い

  @ 白髪一雄画伯とは 

  A 高等学校の美術教師との確執

     A 中学校時代 

     B 高校時代 

  B 再度志した絵の世界 

  C 白髪一雄画伯との出会い 

  D 私の指導方法 

  E 白髪一雄画伯の偲ぶ会の開催(4月19日)
   
  F 尼崎市による白髪一雄画伯偲ぶ会の

    発起人に指名される (7月26日)

  G 超現代三番叟の制作 

  H 面の制作の苦労・失敗・挫折 

  I ハット気づきました 

  J 出来上がった作品に満足 



3 素晴らしい人々との出会い

  @ 出来るときに出来るだけの事をしておきなさい

  A 日曜画家協会   チャーチル会   太平洋美術会    

    政経文化画人展 国際芸術文化振興会 など。

  B 柑芦会への入会の勧誘  

    足らない人は日曜画家協会への入会の  勧誘


4 ホームページの楽しみ方

  (2001年3月開催 現在26万以上のアクセス)

  @ 更新が遅れると安否の問い合わせも。

    A 外国の美大生の卒業論文

    B 各地方の催し物への参画 

    C 航空会社のカレンダー

    D 大阪商工会議所のチャンバーカレンダー

    E イギリスの美大の参考書 (技法の解説)

  A 自分の作品を世界に発する良い機会

  C チャーチル会全国大会 

 
5 長曽我部千翁丸様との出会い

    白髪一雄画伯が指摘    

    真如園霊能者に鑑定 仕事上での御利益

 
    ☆兵田二郎のホームページ閲覧


6 色々な会


  @ 日曜画家協会

  A チャーチル会

  B 太平洋美術会   政経文化画人展   

    国際芸術文化振興会  などの詳しい説明。


7 ウインストン・チャーチルの言葉の説明

8 最後の言葉(絵とは素晴らしいもの)




                講師 学部20期    兵田二郎






白髪一雄先生と私

Artist Kazuo Shiraga and me.


2005.5.15

超現代三番叟(Tyogendaisanbaso) 白髪一雄(Kazuo Shiraga)



制作場所  兵田二郎の自宅



白髪一雄先生と私
撮影 生田博氏
自宅にて制作



私の自慢




白髪一雄画伯の絵画は今年一枚5億数千万円で落札されました。

私の自慢は、このような先生のお手伝いが出来、白髪先生の監修の元

この作品の制作に携わったことです。

白髪先生は「この作品はワシが他の人と制作した世界でただ一つのものや。

原作白髪一雄、制作兵田二郎ということや。そのほうが

かえって値打ちがでるかもしれんな」と言ってくださいました。

あの作品は今どこに?





今は亡き白髪一雄先生に捧げます。






大正銀行堀江支店 ロビー個展



大正銀行堀江支店の店舗規模縮小につき

兵田二郎ロビー個展を2001年度より中止しました。



《  私の大正銀行堀江支店ロビー展の思い出。 》



1985年頃から約15年間にわたり、連綿として続けてきたロビー個展。

大正銀行堀江支店のロビーには、私の絵が常に5−6枚掛かっていた。

私も、3ヶ月に一度掛け替える絵を描くのに15年間必死だった。

最初の2年間ほどは、毎月5−6枚換えていたのでもっと大変だった。

体の調子の悪いときも無理をしても写生に行かねばならなかった。

3ヶ月に一度新作を5−6枚だそうと思えば、その数倍の絵を

毎回描かねばならなかった。しかし、

それらも今から見れば私の良き思い出です。よく頑張ったと思います。





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2009年1月発行

大正銀行 中間ディスクロージャー誌(表紙掲載)
大正銀行 創立50周年記念号
5000部発行




 








この絵は大正銀行会議室に掲載してある絵です(大正銀行所有)





この絵は現在大正銀行本店の社長室に飾ってある絵です(大正銀行所有)。
(2008年度 大阪商工会議所発行チェンバーカレンダーに掲載)









1988年9月17日 

大阪市立日吉幼稚園「創立100周年記念事業」

PTA会長としての思い出




私は、大阪市立日吉幼稚園PTA会長(昭和63年度)として

大阪市立日吉幼稚園創立100周年記念事業を担当しました

(スタッフ総勢160余名が、来賓約500名を迎えて記念式典、祝賀会を

大阪西区民ホールなどでおこないました。


前日には、日吉幼稚園児とその父兄との記念式典を園で行いました。

また、創立100周年を記念して、記念誌「ひよし」の発刊をいたしました。




私が42才の年でしたので、この大きな仕事は、私の厄払いに

一役かってくれたと思っております。



特に、岡本副会長、横石副会長をはじめ、実行委員の皆さんと活動した

思い出は私の大切なもので、一生忘れるものではありません。

本当にありがとうございました。





また、山本さんをはじめ、長谷川さん、西村さんなど多くの素晴らしい先輩方と

知り合えた事も私の一生の宝だと思っています。






100周年記念誌 ひよし





大阪市立日吉幼稚園と私
【今は亡き母に捧げます】



 私の兄は、復興初年度、私は、2年度の卒園生です。

兄と私が幼稚園に行く歳となったときに、歴史ある日吉幼稚園が戦災で

焼けたままになっていて我々の行く幼稚園がありませんでした。

私の父は、これはいけないと思って、町会の協力を仰いで、

焼け跡となっていた日吉幼稚園を復興すべく尽力しました。


私の母も日吉幼稚園の「母の会」(PTAの前身)会長として父と共に努力しました。

【父は、兄が12才になったとき、兄のいく中学校が無かった(当時花の井中学校の分校

1学年のみ)ので、大阪市立堀江中学校の設立にも尽力しました。】


当時 私の父は、土地区画整地委員を始め、あらゆる市の公職をこなしていました。

 大阪市をはじめ、色々な方面に顔が利いたのでしょう。


私は、父が他の有力者から寄付を集めたり、父の会社の従業員たちを引き連れて、

ブランコや遊具、砂場などを作って園に寄贈していたのをよく覚えています。


 そして、日吉幼稚園は、幼稚園として大阪市への移管に必要な施設を整え、

翌年晴れて大阪市に移管されました。


私の母は、大阪市、大阪市教育委員会の関係者など多くの来賓を招いて、

移管式を「母の会」の会長として執り行いました。



翌年、大阪市への移管に伴って「母の会」は「PTA」となりました。


私は、以前から、日吉幼稚園の会議室の壁に掛かる歴代PTA会長の写真は、

母の会長のときの副会長(東芝さん 翌年会長就任)からで、

母の写真がないのが妙だなと思っていました。


「母の会」は「PTA」の前身であって、「PTA」ではないからでしょう。


しかし、そうとは言っても、真の功労者の写真を掲げないのは

いかにも歴史を知らない表面的な気がしてなりません。


しかし、日吉幼稚園創立100周年に当たり、子供の私が、PTA会長として、

創立100年記念事業に、関わりあえたのも何か運命的なものを感じています。



私の母はとても喜び100周年事業に物心面で大いに協力をしてくれました。

母は少しでも喜んでくれたでしょうか。

今は亡き母に感謝を捧げます。





 女医時代の母 
赤塚眼科医院

昭和20年頃
「日吉幼稚園母の会」
会長時代の母


(昭和27年頃自宅にて)
お師匠さんに自宅へ
来ていただいて踊り
の練習中の母。
(昭和27年頃自宅にて)

右の二枚の写真は同じ時期です。







私の大切な家族です。

家族
油絵 F30
2001年 11月
kazoku   写真 






Publications of my works
私の絵画に関する出版物です。


Paint!     Seascapes & Waterways

by Betsy Hosegood

(technique book)


絵の技法書です。
(イギリス)




CFM 2001 International  Excellent calendar
CFM 2001年度カレンダー



Page of my picture.
私の絵のページ

CFM Co. (Jet engine maker in USA) とは世界有数の
アメリカのジェットエンジンのメーカで、その社のカレンダーは
7.000部制作され、世界の顧客企業にくばられ、常に
世界のカレンダーコンテストで上位にランクされています。







大阪市立日吉小学校時代の想い出


《醜い教師達・
有り難い?試練




私は、小学校、中学校と通じてとても腕白だった。クラスメートからとても怖がられていた。

私の兄も妹も学校で一、二の成績だったが、なぜか私だけが違っていた。

私が、今までの行為を悔い改め、がむしゃらに勉強を始めたのが中学二年だった。


このような私には、実は・・・とても深いわけがあった。


大阪市立日吉幼稚園を卒園し、大きな夢と希望を持って、ランランと人並みに小学一年生になった。

当時の私は、一生懸命勉強して、兄のように学校で1−2の成績を取ろうと思っていた。

又その実力もあった?。多分そうだろう?。


新しく一年生になって一週間くらいたったとき、担任の女性教師(約50歳独身)から

「明日のお弁当は兵田くんにおねがいするわね。」と言われた。

私の記憶では、母親が教師のお弁当を作ってくれなかったとなっているが、

最近 兄に詳しい訳を聞いて徐々(30年ぶりに)に当時の記憶がよみがえってきた。


〈 訳 〉


当時の我々の教室では、担任教師のお弁当を生徒達が席順で作って持ってくるのがきまりだった。

(担任教師が決めたのですが。)


当時のKくんの家がとても貧しく、玉子を誕生日などの特別な日に一つだけ買ってきて、家族で分けて食べていた。

(数年後給食になったが、K君は給食費が払えず、兄妹3人でいつも運動場の片隅で

空腹のままみんなの給食の終わるのを待っていた。)

K君の番になって、彼のお母さんが作ってくれた弁当には、梅干しと大切に買ってきた玉子一個しか入っていなかった。

担任の教員がみんなの前でその子に粗末な弁当を持ってきたと大声でしかった。

かわいそうにKくんは下を向いて泣いていた。



私はそれと見ていて怖くなり、自分の時には最高の弁当を持ってこなければならないと思った。

私は、家に帰って、母親にそのことを話し、最高のお弁当を作ってくれるように頼んだ。

母親は、合点がいかないまま仕方なく作ってくれていたが、父親に見つかり、一部始終を話した。


父親は激昂して、私にお弁当を持って行かさず、事の顛末を大阪市教育長に報告した。

(当時の父は市の委嘱で要職をこなしていたので、教育委員会ともつながりが深かった。)


教師はむろん、校長、教頭まで教育委員会によびだされ、大きな問題になった。


私の担任の教師は、それからは生徒達にお弁当の要求をやめたが、

自分で弁当を作らねばならなくなった。

それから、私は、担任の教師を始め、教頭先生や学校の教師全員からものすごく憎まれた。

当時はまだまだ日教組全盛の時代だった。

校長としても日教組の手前どうしようもなかったのだと思う。

教頭先生から、分けもなく私たち兄弟が呼び出され、分けもなく叱られたのを覚えている。

教頭達は、父親にはペコペコへつらう反面、我々兄弟には辛く当たるのである。

子供心に当時の教頭をはじめ、教師達の醜さを感じた。


私は、宿題をしてきても当てられて発表することなどなく、

勉強の時にも運動の時にも子供を順番に当ててきて、私だけ飛ばして後ろの子供をを、当てるのだった。


私は、宿題や勉強をしなくても教室で暴れても、担任の教師からは全く注意もされなくなった。

又教師は、私のいないときを見計らって大切なことを言うので、

遠足や運動会などの行事を理解できない事も多々あった。


私の兄も今からでは考えられないことだが、当時のK教員にたばこを買いに行かされ、

兄のいない間に、K教員がテストの範囲だとか大事なことを発表するので、兄もとても困った。

しかし、それでも兄はずっと勉強はトップで結局京都大学の理学部に現役で入った。



当時、そのようなひどい事になっているなど7歳の幼な子(私)には理解できるはずもなく、

夢と希望に溢れた幼い心はいたく傷つき、学校生活など本当に苦しい、つまらないものに思えた。


当時の私は、休憩時間になると日吉幼稚園の前に行き、園児達が楽しく遊んでいるのを眺め、

懐かしい優しい先生に声を掛けられることがただ一つの喜びだったことを覚えている。



小学4年生になってやっと校長を始め、先生達が(移動で)いなくなり、先生達のいじめから解放され、

学校が本当に楽しく感じられるようになった。

しかし、今までの宿題や勉強をしなくてもOKという習慣を受け継ぎ、

私は、小学校時代にはいたずら仲間を集め、腕白の限りを尽くしていた。



大人になって子供も出来、PTAの会長をしたときに100周年の式典を担当した。

式典で、私をいじめた当時の小学校の教頭先生などが参加され、私に声を掛けてくれた。

私も大人です。当時のことを忘れ、心から感謝をしてお礼を言った。


そして、・・・よくグレもせずに今日まで来れたなと思う。

このような苦しみを乗り越えることにより、このような まともな? 私がある。


ひとえに父や母や兄妹、そして友達や、周りにいた全ての人のお陰だと思います。感謝 感謝。

この場をお借りして私にいじめられいやな思いをした同級生達にお詫びを申し上げます。



そして、暖かく見守ってくださった皆さん、ありがとうございました。








私の絵に関するとても苦い思いで

私の18年間の遠回り


(高校美術教師との大きな確執)


私は絵に関して、高等学校の時にとても苦い思い出があります。

それは、入学して初めての美術の授業で、美術の教師と大喧嘩をしました。

授業時間に描いた初めての油絵の作品。
私は、例のごとく早く描いて、記念すべき作品を母親に
プレゼントしようと思っていました。

 そこへ、美術の教師が現れ、自分流に全面手直ししてしまったのです。
 私は、あっけに取られて美術教師にされるがままにしていました。

 その後、しかたがないので、私は、また全てを最初に戻しました。

すると、再び、美術教師が来て、「せっかく直してやっているのになんだ。」と
怒り出しました。 私は、せっかく描いた絵を壊されたと思ったのです。

ベルが鳴ったので片づけて教室に戻ると、美術教師が、
「ベルが鳴るまでに帰ってこんか。」とすごい剣幕で私に怒鳴りました。

私は、初めての授業なので、ベルが鳴るまでに片づけて帰らねば
ならないことなど聞いていませんでした。 

中学の時には、腕時計がないので当然ベルと同時に片づけて帰る
習慣が身に付いていました。

私は、「それならそれで最初から言っておいてください。」と言いました。

手直しのことがあったので美術教師も腹がたっていたのでしょう。
胸ぐらのつかみ合いになりました。

その後、生徒達の間で私が先生を殴ったとの噂が立ちましたが、それはありません。

その後の2年間、先生は私の顔と私の作品を一切見ようともせず、
私は美術教師にずっと憎まれました。
 
中学時代、私は、あちこちの展覧会で賞を戴いて、通知表は常に最高の評価でした。
でも、高校時代の通知票はずっと5段階評価の3でした。

中学校では、廊下の突き当たりに私の作品専用のコーナーがあり、
美術の先生が、学校で私だけ私の全作品を掲示してくれていた。

通知票が1にされなかったのは、美術教師のせめてもの良心だったのでしょう。

その後、私は、絵と絵に携わる人皆を嫌いになり、美大進学もやめ、経済学部に行きました。
そして、学生時代には体育会柔道部で頑張り、もっぱら35歳まで
町道場で一般と中高生を相手に柔道の練習に励みました。

 しかし、35歳のある日、膝を痛めたこともあり、無性に絵を描きたくなりました。
それまでの柔道をやめ、白髪一雄先生の門をたたきました。

白髪先生は、私の作品に手を入れることもなく、自由に描かせてくださいました。

もし、他の先生で、手直しの好きな人なら、完全に絵をやめていたかも知れません。
偶然ですが、白髪先生にお会いできて本当に良かったと今も思います。

私が、人の絵のアドバイスをするときには、できるだけ絵にさわらないようにし、
どうしても手を入れなければならないときには、自分の説明力のなさを詫び、
最小限で手を入れ、その後、私の入れた線を参考にし、一旦消して、
ご自分の線でやり直してくださいとお願いしています。


そうしなければトラウマで頭がガンガンと痛くなってくるのです。







人は話し合えば分かる


私の近くにある家族が住んでいる。

その家族とは以前とても仲が良く、作った料理などを交歓したりしていた。

しかし、ある理由から敵同士のようになってしまった。

お互い理由はあるのだろうが、このように嫌い合う家族も珍しい。

私には、母親の教えがあった。

「挨拶は早くしたほうは勝ち。遅れたら負け。」

その言葉を信じ、その家族に先に挨拶をしていた。

むろん私の挨拶を一別するだけで、ずっと無視されていた。

それでも私は「こんにちは。」と挨拶を続けていた。

無視されたときは心の中で「勝った。」と喜んでいた。

それを30年近く続けた。


先日、建築を巡って激しくぶつかった。

その中で、私は、先方の家族の本心も私たちの家族と仲良くしたかったのだと分かった。

私は、間髪を入れず、「近所で喧嘩をしていても何の値打ちもない。ここらで

仲良くしませんか。」と握手を求めた。

その場では握手は実現しなかったけれど、このところ挨拶勝負に負けることがある。

先方が後ろからでも挨拶をしてくるのだ。



負けても私は、本当に嬉しい。













                     
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My Adress


4-27-14 Minamihorie Nisiku Osaka Japan
Jiro Hyoda


2 チャーチル会大阪のご紹介 
現在 
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2 政経文化画人展のご紹介 会員・審査員
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会員
2 和歌山大学、経済学部、システム工学部、
教育学部卒業生の会のご紹介
 現在 
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2 私が20数年間師事した白髪一雄画伯のぺーじです。
白髪一雄画伯が2008’4’8に亡くなられました。

白髪会 掲示板
日曜画家教会会員 今年(2018年5月より) 副会長に就任いたしました。
2 兵田二郎の Jiro Hyoda
四方山話など
2 瀬戸内海運株式会社 
専務取締役
2 高知市五台山
長宗我部千翁丸様と私の奇妙な出会い
2 趣味のテニスのページです。
テニスに興味のある方はご覧ください
2009年7月より絵画サークル「桜」を開催しました。
兵田二郎の出展 兵田二郎出展の展覧会その他の情報






Picture Size(絵のサイズ)
Oil painting Acrylic painting
油絵 アクリル画
F8 :
45cm×38cm            
F10 53cm×45cm F10
56cm×42cm
F15 65cm×53cm P15
65cm×50cm
F20 72cm×60cm
F30 90cm×72cm