ホーム サイトマップ プロフィール 作品紹介 読書ノート 宮沢賢治
ご案内 blog(日記)  街 (山口) リンク 特設コーナー

こんな街に住んでいます

Welcome in Yamaguchi やまぐちガイド

※ イチョウは山口市の木に指定されています。


…お知らせ……

山口市は、平成17年(2005年)10月1日に、近隣の小郡町、秋穂町、阿知須町、徳地町と合併して、新しい「山口市」になりました。面積は飛躍的に大きくなり(2倍くらい?)、人口も少し増えました(1.3倍くらい?)。

このページに掲載してあることは、ホームページ開設当時の旧「山口市」の情報のままで、まだ訂正しておりません。私は現時点でほかの地域のことをよく知りませんので、当分の間は、旧「山口市」の情報のみを提供しておきたいと思います。


概要

山口市は、県のほぼ中央に位置する人口約14万人の県庁所在地です。
県庁所在地にしては、珍しいほどの田舎です。自家用車がないと、とても不自由な生活をすることになります。
運動神経やとっさの判断力にはまるっきり自信のない私も、今後数十年続くであろう残りの人生を考え、30代後半にしてついに運転免許を取りました(4か月かかりました…)。

市街地を流れる一の坂川は、春には川岸の桜並木がいっぱいに花をつけます。夏になると、蛍の名所としてにぎわいます。

中世に山口を治めていた守護大名の大内氏は、京の文化にあこがれ、京になぞらえて都市計画をしたと伝えられています。
山口の中心部には、今も「〜大路」「〜小路」といった京風の地名が残っています。

大内義隆が治めていた時代には、山口は世界規模の大都市でした。
1551年(天文20年)に宣教師が本国に出した報告書には1〜2万戸とあります。人口5〜10万人というところでしょう。

『アルジェンタ年代記外伝』を書いていたころ、歴史資料を調べて驚いたのですが、中世ヨーロッパの都市というのは、びっくりするほど人口が少ないのでした。
イタリアは例外的に多かったようですが、それでも一部の大都市をのぞくと、5千人というのがせいぜいです(アルジェンタの人口を約5千人と設定したのは、このような理由からです)。

大内時代の山口の数万という人口は、世界的に見ると、実に驚くべき数字なのでした。
京の都が戦乱で荒れ果てたため、亡命や疎開のお公家さんたちが山口にひしめき、この街は名実ともに「西の京」となっていました。宣教師のフランシスコ・サビエルも、京での布教を見限って、実力者の大内義隆を頼っています。

この時代に栄えた大内文化が、今でも山口市の観光や文化活動に華を添えています。
漆器の大内塗は今もこの土地の特産品です。伝統的な大内人形や塗り盆に限らず、キーホルダーやストラップなど、新しい製品も開発されて売られています。

現在、近隣の町との間で、合併の話が進んでいます。

山口の文学者

山口市の出身や縁のある文学者として、中原中也(詩人)、嘉村礒多(私小説の作家)、種田山頭火(自由律の俳人)、国木田独歩(作家)がいます。
この人たちにまつわる文学碑は、市内のあちこちに見られます。

国木田独歩(1871〜1908)は転校が多くていろんな小学校に通っていますが、私が卒業した小学校も、その一つです。だから、独歩は小学校の先輩にあたります。
独歩には短編「山の力」など、山口市を舞台にした作品もあります。(小学2年生の時に、知らずにこれを読んで、「同じような山の名が出てくるなあ」と思っていました。)とくに愛読したという意識はありませんでしたが、小学生時代から大学まで、たくさんの作品を読みました。

中原中也(1907〜1937)の生家跡(山口市湯田温泉)には、現在、中原中也記念館が建てられています。生家は入院設備まで備えた医院でしたから、記念館を建てられるくらいの広い敷地がありました(生家は昭和47年に火事で焼失しており、跡地は長らく駐車場になっていました。)。

この記念館は、平成6年の2月にオープンしています。このたび、開館10年の節目に合わせて、大がかりな展示替えが行われました。

嘉村礒多(1897〜1933)も山口市内の仁保の生まれです。しばらく学校に勤務したあと、上京して、私小説の分野で新境地を切り開きました。
残念ながら、嘉村礒多については、私は文庫本を1冊読んだくらいで、ほとんど知りません。(だから、これでおしまい。)

種田山頭火(1882〜1940)は隣の防府市の出身ですが、1938年(昭和13年)に山口市の湯田温泉に移り、「風来居」(ふうらいきょ)と名付けた庵に住みました。中原中也の弟たちは、山頭火と交流があったそうです。中原中也が帰郷を目前にして病没したのは、1937年(昭和12年)のことです。中也が若死にせずにそのまま山口に帰っていたら、山頭火と文学を語り合う機会があったかもしれません。

山口市ゆかりの文学者ではありませんが、同じ山口県には、ほかに長門市出身の童謡詩人金子みすゞ(1903〜1930)や岩国市出身の作家宇野千代(1897〜1996)、同じく岩国市出身の文芸評論家河上徹太郎(1902〜1980)らがいます。
〔現存する人は省略します〕。

鷺流狂言

現在では、狂言の流派は大蔵流と和泉流の二つだと言われていますが、江戸時代までは鷺流が栄えていました。山口県内でも萩の毛利藩に、鷺流と大蔵流の狂言師が召し抱えられていました。
明治になって、お抱え狂言師たちは職を失いましたが、その中の一人、春日庄作(しゅんにち・しょうさく)が山口市に移り住み、地元の人たちに鷺流狂言を伝えました。
正統な流れを汲む鷺流狂言は、全国でも佐渡と山口にしか残っていません。(佐賀には民間に伝承された地方芸能として、それに類するものがあります。)

現在も、山口市では春日庄作の遠い弟子にあたる「鷺流狂言保存会」という会が、活発に活動されています。技術保持者として認定されたベテランの2名の方から子どもをふくむごく若い人たちまで、熱心に修業を積み、しばしばその成果を発表されています。

また、地元の山口県立大学の先生が鷺流狂言を研究されて、新しい研究成果も生み出されています。山口市教育委員会からは『山口鷺流狂言資料集成』(全3巻)という本が出されています。

何年か前に、『山口の童話』(リブリオ出版)に収録された「鷺流の旅びと」という短編で、山口市に鷺流狂言が伝わったころの物語を書きました。主人公の春日庄作は実在の人物がモデルで、彦次郎、太市らは架空の人物なのですが、庄作の周辺にはこんな風な人たちもいただろうと想像されます。

その後、保存会は能楽界で非常に重みのある「催花賞」という賞を受賞され、ますますご活躍のようでうれしく思います。

鷺 流 狂 言についての紹介

山口市のホームページにある、鷺流狂言について述べたページです。いつまでここに掲載してあるかは保証の限りではありませんが、わかりやすくまとめてあるのでリンクを貼っておきました。たぶん、こういう種類の記事は、管理者である山口市としても、意味もなく削除したりしないと思いますが。

〔追記〕

肝心なことを申し遅れましたが、狂言というのはユーモアあふれる短い劇です。奥は深いけれども間口もまた広くて、大人も子どもも楽しく見ることができます。

姉妹都市・友好都市

姉妹都市  Pamplona スペイン  パンプローナ市

フランスとの国境沿いにある、ナバラ自治州の州都です。

山口ゆかりの宣教師フランシスコ・サビエルが生まれた城が近郊にあり、その縁で姉妹都市縁組みをしました。

日本では英語読みにならって「ザビエル」と表記するのが一般的ですが、山口では、公式にはスペインの発音に近い「サビエル」(語頭が濁らない)を使っています。一般の人がしゃべるときには併用されている感じです。

大内義隆はサビエルに公式にキリスト教の布教を許可しました。これは日本で初めてのことでした。
1552年(天文21年)、サビエルの後任者である宣教師トルレスが山口でクリスマス・ミサを行ったとき、日本の歴史上はじめて西洋音楽が演奏されました。このため、山口は日本における西洋音楽発祥の地とされています。
また、クリスマスを祝った公式記録としても、これは史上初めてのことです。このことから、山口市は日本のクリスマス発祥の地ともいわれています。 

姉妹都市の中では最も古く、昭和55年2月19日に締結されました。

パンプローナ市のホームページ

友好都市 済南 中国 済南市 

山東省の省都で、山口県(山口市ではなく)よりも大きな都市です。

中国では「姉妹都市」ということばを使わないそうです。だから、済南市は「友好都市」となります。双方が漢字を使用する国でなければ、言語が違うのはあたりまえなので、気にしていないかも知れません。

山口県が山東省と友好提携しているため、県庁所在地の山口市も省都の済南市と縁組みをしたという次第です。なにしろスケールの大きな国なので、山口県と済南市が縁組みした方が釣り合いが良かったのではないかと思われます。

それまでの姉妹都市がはるかヨーロッパの西のパンプローナ市だったので、盛んに交流が始まると、さすがに近い国だと感じました。

友好都市の縁組みは、昭和60年9月20日に締結されました。

済南市のホームページ

 

姉妹都市 Kong-ju 韓国 公州(コンジュ)市

忠清南道にあり、古代には、百済の都がおかれていました。
(百済は古代の朝鮮半島にあって、日本と最も親密だった国です。)

山口の大名、大内氏の伝承上の始祖である百済の聖明王(在位523〜554)の第三王子、琳聖(りんしょう)太子のふるさとと伝えられています。そのことから、山口市と縁組みが締結されました。

大内義弘は1399年(応永6年)、朝鮮王朝の宮廷に使者を送って、百済の王族の子孫であることを主張しています。朝鮮王朝の方でも、これを一笑に付すことなく、審議を重ねたようです(結果はうやむや)。
先方もある程度の信憑性を認めたということでしょうか。

公州市で百済文化祭が催されるときは、山口市からも大勢の市民が訪れ、祭に参加して友好を深めています。
隣国だけあって、スポーツや食文化などを通じて市民同士の交流も盛んです。

姉妹都市の縁組みは平成5年2月23日に締結されました。

公州市のホームページ

 というわけで、ついでに 我が街 にもリンクします。

 山口市のホームページ  山口市観光案内処

※ ここに掲載した記事は、山口市民として自然に知っていたことと、山口市役所のホームページや刊行物、一般の出版物などで読んだ事柄をもとに、自分の文章で書いたものです。資料としての精度は中くらい。地元発行の観光パンフレット程度のレベルです。重要な調べ物の資料として参考にしたり、根拠にしたりはしないでください。

上に戻る

Copyright (C) 2004-2005 waki hiroko