ホーム サイトマップ プロフィール 作品紹介 読書ノート 宮沢賢治
物語工房  Monogatari-Kobo 
山口から歴史と文学と読書の話題を発信します

弘鴻について

弘鴻に関して最もよく知られた逸話としては、四境戦争(1866年)の際の暦の献上があります。

幕府が二度にわたって長州征討を企てていたころ、長州藩は現代風に言えば経済封鎖を受けて、物資が領内に届かない状態が続いていました。
現代と違って自給自足、地産地消の傾向が強い時代ではありましたが、どうしても手に入れられない必需品もあります。

当時の暦は太陰太陽暦で、天文学の知識なしには作れないものでした。しかも、その流通は伊勢神宮の御師など定められた一握りに人たちに押さえられ、幕府に睨まれた長州藩では手に入れることのできないものになっていました。
一方で、農民にとっては暦は農作業をする上で欠かすことのできない品でした。

長州藩、都濃宰判の天下御物送り番所に勤務する軽輩であった弘鴻は、それまでに学んだ天文学の知識を駆使して独自に暦を編纂し、上司である代官を通じて藩に献上しました。
代官はこれを山口の政事堂に持ち込み、藩主や重役に差し出しました。
当時は暦を私的に作ることは重罪とされていたため、藩ではあえて略暦に作り直させ、農業用の「種蒔の栞」と称して農民に配布しました。

この一件により、弘鴻は世に知られることになり、暦学、測量、国学、教育の分野でのその後の活躍につながっていきます。
明治3年にはいち早く太陽暦の採用を政府に進言し、太陽暦の実施後も繰り返し、日本の農林水産業のためにふさわしい太陽暦への改良を進言し続けています。

ただし、弘鴻は生涯を周防の人として生きたので、全国的な活躍はしていません。数学史上に残るような発見もないようです。
ただ、教育者であったため、門下生から地元の名士やそれなりに著名な学者(一般の人たちは知らない)などを輩出しています。

詳しくは、2015年11月、『これは「種蒔の栞」 〜周防の和算家弘鴻の話』という冊子にまとめました。
山口県内の公共図書館の一部と、国立国会図書館で読むことができます。

将来的にはこの題材で幕末長州藩と明治の山口県を舞台にした、弘鴻が主人公の歴史物語を書きたいと思っています。


Copyright (C) 2004-2016 waki hiroko