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1961年 山口県生まれ 「堅気」の仕事の傍ら創作を続ける、二足の草鞋生活者。

自己紹介

和木浩子は、おもに高学年向きの長編を書いています。趣味で書いた作品は過去にたくさんありますが、商業的に出版されたものはごくわずかです。今はアマチュアとも言えず、プロの作家とも言い難い中途半端な立場の書き手です。
作者が何者であろうと、出版された作品は、一流の作家の作品と同じ資格で独り歩きをします。読者に対して、作者がアマチュア(もしくはセミプロ)だから甘い作品です、というわけにはいきません。
できることなら、アマチュアのようにたっぷり楽しみながら、プロの水準と厳しさを備えた仕事をしたいものだと欲張ってます。

創作の勉強を本格的に始めたころ、ファンタジーと社会派リアリズムは相反するもののように考えられていて、「あなたの作品は、社会派? それともファンタジー?」という質問をしばしば受けました。
二者択一だと思って「ファンタジーです」と答えていましたが、どうもしっくりこなくて、「私がほんとうに書きたいのは社会派のファンタジーなんだ」というのを意識しました。

子ども時代の読書や創作については、デビュー作『アルジェンタ年代記外伝』下巻(『永遠の剣』)の「あとがき」に、くわしく書いています。
好きな本については、本棚に住む友人たちをごらんください。

履歴書ふうの自己紹介は、こちらにまとめてあります。

歩み

本州の西の端に生まれる。

小さいころ、自分の空想や作った話を家族に話して聞かせていた。

小学校の1年生のとき、学校の帰り道に、1話完結の創作した「お話」を、家が近所の友達(←今もつきあっている)に毎日聞かせていた。

1〜2年生の頃、いつからか作った「お話」を書き留めるようになる。
世の中に作家という職業があるのを知り、自分は大人になったら作家になるのだと思う。

3年生の2月15日、現存する最古の作品「のはらの家」(原稿用紙6枚)を書く。

4年生の6月から7月にかけて、初めて2日以上(このときは1か月)にまたがって、長い作品「虹色の道」(現存せず)を書く。

この年、非常に多数の作品を書く。このころ書き始めた創作神話が、自分でも思いがけない展開になり、「作中人物が自らの意思で動き出す」という状態を知る。

6年生の4月、現存する2番目に古い作品「ブルングルックの女王さま」(原稿用紙20枚)を書く。政略結婚した若い王と王妃の誤解と和解。新しい国家の建設など、いかにも後年の和木浩子らしい素材がこのころから……。

6年生の秋ころ、ストーリーを書きとめるだけでなく、場面や心理を描写することがおもしろくなる。このころから、友達にどんどん読んでもらうようになる。

中学1年の冬、夢のシーンをもとに長編に取り組む。社会性の強い作品なので、参考資料を読み、取材して書くことを覚える。創作ノートとして日記をつける。

この冬、「今村咲子」(いまむら・さきこ)というペンネームを決める。今の紫式部(今紫)を目指すという意味の、生意気で大胆な名まえ。

中学2年のとき、1年かけて上記の夢から発生した長編「平和部隊」(改題して「風の中の光」)を書き進めるが、失敗を自覚して破棄。ただし、飛躍的に創作能力が進歩したのを実感する。
この後も、高校1年の夏まで、この作品にこだわり、設定を変えながら書き続ける。

このころ、30枚から50枚前後の短編を次々と執筆。

中学3年の夏、学校新聞に創作「夏の子」(原稿用紙2枚)が掲載される。フィクションの作品が活字になった最初。

高校1年の終わり、おもしろい夢を見る。書きとめておく。

高校2年のとき、上記の夢をもとに冒険小説「夢のようにすばらしい」(133枚、のちに加筆して150枚)を執筆。友達の間で回し読み。
現存する作品集「風吹くままに」を編集。小・中学時代の残っていた作品群を収録。

高校3年のとき、受験のため1年間の断筆。大学入試(2次試験)がすんだ日から執筆再開。

大学時代、文芸同好会に所属。中学生のときに決めたペンネーム「今村咲子」で作品を発表。
200円の文芸誌でも、有料になると人はなかなか買ってくれない。ただで読んでもらうこととの違いを痛感する。

在学中、高校生のときに書いた「夢のようにすばらしい」の冒頭のシーンを、イタリア・ルネッサンスに移した長編を書き始める。これが後の「アルジェンタ年代記外伝」となる。

就職後、日本児童文学者協会主催の児童文学サマースクールに9年続けて参加。未熟者がたいそうな筆名を使うのは恥ずかしいと感じ、しばらく本名で書くことにする。(結局、このまま本名でデビューすることになり、「今村咲子」の名で本を出すという中学生時代の夢は実現しなかった。今となっては、どっちでもいいことだけど)

社会人になって、執筆時間は思うようにとれなくなったけれども、自分自身の見聞が豊かになり、世の中を見る目が変わった。生涯2度目の飛躍的な進歩の時期を実感する。

サマースクールへの提出作品がきっかけとなり、出版社との交渉が始まる。それまでアマチュアとして楽しく書いていたが、たとえ作者がアマチュアであっても、プロの編集者が時間を割いてくれるこの作品は、プロの仕事でなくてはならないと自覚する。編集者の要求するレベルを満たすのは、今の自分の実力では不可能かもしれないが、半年後の自分にならできるはずだと考える。
作品提出から出版まで、ほぼ4年。この間、生涯3度目の飛躍的な進歩。

サマースクールへの提出部分をふくむ『アルジェンタ年代記外伝』上・下巻が、3度の書き直しを経て、1991年6月、デビュー作として出版される。その前に30歳の誕生日を迎えてしまい、惜しくも、「20代の新人」になりそこねた。

これが、子どものころからの輝かしいゴールだったはずなのに……、
そこに着いてみたらスタート・ラインだった。


 追 伸

平成14年の2月に、市内のある中学校で開かれた「働く人から学ぶ会」という催しに呼ばれました。いろいろな職業に就いている人たちを学校に招き、生徒が社会人から話を聞いて、働くことについて考えるのだそうです。

そのとき、私が受け持った分科会のテーマは、「作家」でした。生徒たちからは、前もっていろいろな質問をもらいました。
これまでの道筋を含めて、自分を振り返るためには、いい機会になりました。

自分の考えをまとめた手持ち資料を、こちらのページに公開します。


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