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和木浩子は、おもに高学年向きの長編を書いています。趣味で書いた作品は過去にたくさんありますが、商業的に出版されたものはごくわずかです。今はアマチュアとも言えず、プロの作家とも言い難い中途半端な立場の書き手です。 創作の勉強を本格的に始めたころ、ファンタジーと社会派リアリズムは相反するもののように考えられていて、「あなたの作品は、社会派? それともファンタジー?」という質問をしばしば受けました。 子ども時代の読書や創作については、デビュー作『アルジェンタ年代記外伝』下巻(『永遠の剣』)の「あとがき」に、くわしく書いています。 履歴書ふうの自己紹介は、こちらにまとめてあります。 歩み 本州の西の端に生まれる。 小さいころ、自分の空想や作った話を家族に話して聞かせていた。 小学校の1年生のとき、学校の帰り道に、1話完結の創作した「お話」を、家が近所の友達(←今もつきあっている)に毎日聞かせていた。 1〜2年生の頃、いつからか作った「お話」を書き留めるようになる。 3年生の2月15日、現存する最古の作品「のはらの家」(原稿用紙6枚)を書く。 4年生の6月から7月にかけて、初めて2日以上(このときは1か月)にまたがって、長い作品「虹色の道」(現存せず)を書く。 この年、非常に多数の作品を書く。このころ書き始めた創作神話が、自分でも思いがけない展開になり、「作中人物が自らの意思で動き出す」という状態を知る。 6年生の4月、現存する2番目に古い作品「ブルングルックの女王さま」(原稿用紙20枚)を書く。政略結婚した若い王と王妃の誤解と和解。新しい国家の建設など、いかにも後年の和木浩子らしい素材がこのころから……。 6年生の秋ころ、ストーリーを書きとめるだけでなく、場面や心理を描写することがおもしろくなる。このころから、友達にどんどん読んでもらうようになる。 中学1年の冬、夢のシーンをもとに長編に取り組む。社会性の強い作品なので、参考資料を読み、取材して書くことを覚える。創作ノートとして日記をつける。 この冬、「今村咲子」(いまむら・さきこ)というペンネームを決める。今の紫式部(今紫)を目指すという意味の、生意気で大胆な名まえ。 中学2年のとき、1年かけて上記の夢から発生した長編「平和部隊」(改題して「風の中の光」)を書き進めるが、失敗を自覚して破棄。ただし、飛躍的に創作能力が進歩したのを実感する。 このころ、30枚から50枚前後の短編を次々と執筆。 中学3年の夏、学校新聞に創作「夏の子」(原稿用紙2枚)が掲載される。フィクションの作品が活字になった最初。 高校1年の終わり、おもしろい夢を見る。書きとめておく。 高校2年のとき、上記の夢をもとに冒険小説「夢のようにすばらしい」(133枚、のちに加筆して150枚)を執筆。友達の間で回し読み。 高校3年のとき、受験のため1年間の断筆。大学入試(2次試験)がすんだ日から執筆再開。 大学時代、文芸同好会に所属。中学生のときに決めたペンネーム「今村咲子」で作品を発表。 在学中、高校生のときに書いた「夢のようにすばらしい」の冒頭のシーンを、イタリア・ルネッサンスに移した長編を書き始める。これが後の「アルジェンタ年代記外伝」となる。 就職後、日本児童文学者協会主催の児童文学サマースクールに9年続けて参加。未熟者がたいそうな筆名を使うのは恥ずかしいと感じ、しばらく本名で書くことにする。(結局、このまま本名でデビューすることになり、「今村咲子」の名で本を出すという中学生時代の夢は実現しなかった。今となっては、どっちでもいいことだけど) 社会人になって、執筆時間は思うようにとれなくなったけれども、自分自身の見聞が豊かになり、世の中を見る目が変わった。生涯2度目の飛躍的な進歩の時期を実感する。 サマースクールへの提出作品がきっかけとなり、出版社との交渉が始まる。それまでアマチュアとして楽しく書いていたが、たとえ作者がアマチュアであっても、プロの編集者が時間を割いてくれるこの作品は、プロの仕事でなくてはならないと自覚する。編集者の要求するレベルを満たすのは、今の自分の実力では不可能かもしれないが、半年後の自分にならできるはずだと考える。 サマースクールへの提出部分をふくむ『アルジェンタ年代記外伝』上・下巻が、3度の書き直しを経て、1991年6月、デビュー作として出版される。その前に30歳の誕生日を迎えてしまい、惜しくも、「20代の新人」になりそこねた。 これが、子どものころからの輝かしいゴールだったはずなのに……、
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