色麻町
旧加美郡一関村(〜M22)分 |
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一の関遺跡 |
一の関遺跡跡標柱。 |
【所在地】 |
色麻町一の関
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【別称】 |
色麻柵 |
【築城年】 |
天平年間(729-749)初期頃 |
【築城者】 |
大野東人か |
【城主変遷】 |
古代律令政府 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地、宅地 |
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『続日本紀』天平九年(737)の記述に見られる、朝廷によって多賀城とともに東国経営のために造営された天平五柵の一である“色麻柵”跡と擬定されている。
天平九年(737)、陸奥国鎮守府将軍兼安察使として多賀城にあった大野東人は、朝廷による東国経営の強化、拡大のため、日本海側に所在する出羽柵への直通連絡路の整備を図った。そしてその経路上にある出羽国雄勝の征討許可を朝廷に申請、許可を得た東人は、関東、陸奥、そして帰順した蝦夷らからなる軍勢を率いて遠征に出発するが、その際の拠点となったのが当時既に交通の要衝であった色麻柵であった。その後軍勢は奥羽山脈を越えて出羽国大室駅に達し、雄勝の蝦夷を帰順させ、奥羽連絡通路が開かれた。
現在の史跡指定範囲は、457号国道付近を西端、西昌寺付近を北端とする東西、南北約600mほどの方形の範囲となっています。しかし紫桃正隆氏「仙台領内古城・館」ではさらにスケールがでかく、伊達(射盾)神社を中心とする東西、南北約1.5kmの規模で、多賀城を凌ぐ巨大城柵であったと記されています。南東端には真山館が所在しており、平安時代末期頃、色麻柵が廃された後にその一隅を改造して構築されたとか…。しかし流石にちょっとデカ過ぎね?って感じですがねえ(^-^;
国道沿に標柱が建てられていますが、周囲は見渡す限りの水田地となっています。しかし柵跡南端中央部と推定されている付近では、夥しい数の古代瓦や土師器、須恵器などが出土しているとのこと。あくまで擬定地の一ではありますが、古代当地に城柵が置かれていたと考えるとロマンを感じますねー。 |
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真山館 |
真山館跡付近。 |
【所在地】 |
色麻町一の関
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【別称】 |
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【築城年】 |
平安時代末期 |
【築城者】 |
真山三十郎か |
【城主変遷】 |
真山氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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平安時代末期、郡司真山三十郎が居住したとされる。
奈良時代に置かれた古代城柵、色麻柵の南東端を改造して築かれた館とされている。真山氏は当地の郡司として威勢を振るったとされ、後に一族が玉造郡真山、栗原郡長崎に移住したと考えられている。なお北方に所在する磯良神社は真山氏の氏神であったという。
色麻柵南東端に所在し、東西、南北ともに約200mほどの正方形の館であったとされ、周囲には土塁、空堀跡が認められる…と紫桃正隆氏が著述していますが、スミマセン訪問時は資料も全くなかったので位置を特定出来ませんでした(-_-;
しかし「宮城県遺跡地図」を参考にすると、色麻柵の史跡指定範囲からは外れており、また南東端に当たる位置でもない感じ…。実際色麻柵跡の範囲は特定されてはいないとは思いますが、その遺構を云々ってのもちょっと違うんですかね? |
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色麻町
旧加美郡四竈村(〜M22)分 |
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鴻ノ巣館 |
鴻ノ巣館跡付近。 |
【所在地】 |
色麻町四かま官林
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【別称】 |
桜館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
安蘇氏か |
【城主変遷】 |
安倍氏[安蘇氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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仙台藩『封内風土記』に城主安竈前司とあり、『加美郡史』に安倍貞任家臣安竈(安蘇)前司吉春居城とあるという。
館は北側の鳴瀬川に面し、背面となる南側は往時は沼沢地であったものであろう、指浪沼に囲まれた要害であったとされる。前九年合戦の際、八幡太郎源義家は指浪沼を渡り館の背後より急襲、安竈勢は念南寺山なる薬師堂に落ちたのち悉く切腹したと伝わる。
なお東方には峯続きで指浪館、斉田館が所在し、当館同様に前九年合戦の陣所と伝承されているため、一連の城館であったものであろう。また往時は桜樹が茂っていたため桜館とも称されたというが、斉田館の所在地も字桜舘である。
比高約40mほどの丘陵頂部に東西約50m、南北約70mの主郭、その東側に一段下がって東西約70m、南北約80mの平場が見られるという。
156号県道から北に入る小道があり、その先の直角に曲がるところが墓地になっているんですが、画像はそこから北西方面を写したものです。マーキングした地図だけは持っていたので大体の位置は判っていましたが、特に資料も持たず山登り装備でもなかったので、ただでさえゆるゆる城マニアなわたしはそこで撤収。
しかしながらこの追加作業をしていて、鴻ノ巣館から指浪館、斉田館の一連の館跡を再度訪問してみたいと思いました。いつになるかは判りませんけどね〜←ゆるい |
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四竈城 |
四竈城跡に所在する色麻町役場。 |
【所在地】 |
色麻町四かま北谷地
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【別称】 |
北谷地館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
四竈氏か |
【城主変遷】 |
大崎氏[四竈氏]…伊達氏[四竈氏、内ヶ崎氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
色麻町役場、市街地 |
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築城年代、築城者は不明、城主は大崎氏家臣四竈尾張守隆秀と伝わっている。
城主四竈隆秀は、戦国時代末期、衰退する主家大崎氏をよく支えた知勇兼備の武人と伝わっている。天正十六年(1588)大崎合戦の際には、大崎義隆より南条隆信らとともに中新田城守備を命ぜられ見事伊達勢を撃退、大崎氏を勝利に導いている。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で主家大崎氏が所領没収、滅亡すると、翌年大崎氏旧臣や同様の処分となった葛西氏旧臣らの一揆に加わるが、鎮圧のため伊達勢が侵攻してくるといち早くそれに降った。以降は伊達氏家臣として一揆鎮圧の先鋒となり、小野田城主石川長門守頼重とともに、自身同様大崎氏重臣であった笠原氏ら一揆勢の籠もる宮崎城攻撃に加わっている。
四竈氏はその後玉造郡一栗城へと移り、代わって内ヶ崎中務兼宣が居住し、以降内ヶ崎氏代々が所領したとされる。
現在の色麻町中心部、色麻町役場周辺に築かれた平城であり、市街地化され遺構は見られない。往時は東西約250m、南北約300mほどの規模で、各曲輪を水堀で幾重も巡らせた構えであったと推定されている。
役場周辺に何度か脚を運んでおりますが、素人のワタクシが見たところで市街地化されてるとなーんにも判りません。しかし先日再訪し、改めて紫桃正隆氏「仙台領内古城・館」の略図を見てみたところ、ちょっと気になるところが…。ひょっとしたら役場庁舎の位置が変わっているのかな?と思い役場に問い合わせたところ、位置は変わっていない旨の説明と、町史に掲載されている略図を送って頂きました(近隣の図書館には収蔵されてなかった…)。その図を見てみると、役場庁舎並びに駐車場は館跡東側に所在し、主郭部は現在は宅地となっており、役場西側から北西に伸びる道路によって分断されていることが判りました。だいぶイメージが鮮明となって来ましたので、次回訪問の際はその辺りを見て来たいものです。
なお四竈氏に代わって居住したとされる内ヶ崎氏をぐぐってみると、ヒットするのは富谷市の“内ヶ崎酒造”ばかり。大崎氏家臣黒川氏の家老を祖とする様なので無関係ではないでしょうが、良くわからん(-_-; |
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杉山館 |
杉山館跡遠望。 |
【所在地】 |
色麻町四かま東原
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
山林、耕作地 |
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詳細不明。
「宮城県遺跡地図」のデータを基に訪問。色麻町と旧三本木町境界付近、156号県道南側の舌状台地東端に所在している様なんですが…「仙台領内古城・館」にも「日本城郭大系」にも記載がないんですよねー。
台地西側から東端にかけて、最後は民家に行き着く舗装道路が伸びているので訪問は楽なんですが、台地上は一面の耕作地になっており特に遺構と思われるものも見られず。台地の縁や斜面は確認してはいないので、その辺りには痕跡があるんですかね…?
なお当館北東約1kmには斉田館が所在し、その斉田館から峯続きの西側(つまり県道を挟んだ杉山館北方)には指浪館が所在する様ですが、「宮城県遺跡地図」には登録されていないんですよね。至近に所在しているので当然関連したものだとは思いますが、もうちょっと調べてみなきゃです。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981) |
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