第5話:水は命 | |||||||||||||||
1983年。18歳の夏。私はついに単独での自転車旅行に挑戦することに、、、。 茶色く乾燥した、砂漠のような草原の中、道は永遠と続く、、、民家すら殆ど建っていない。車も数十分おきにしか通らない、セントラルオタゴの田舎道。写真が古くて分かり辛いですが、左側に私の愛車が映っています。
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前々回のコラムで登場した、内陸部のセントラルオタゴという、砂漠の様に乾燥した茶色い草原が見渡す限り広がる地帯を、私は18歳の夏に1人で自転車に乗って横断していました。一番の難関となる(16歳の時に友人の自転車が故障した)ところで、私は水筒に1リットルの水しか持っていませんでした。 「どこかに小川の一つや二つは必ずあるはず。そこで水分補給をすれば良い」と私は思い、炎天下でこぎ続けること2〜3時間。しかも、この日は全く風もなく、肌が汗でベタベタに...。水筒の水も底をつき、ノドをカラカラにしながらやっとた見つけた小川を覗き込んでみると、そこには泥と羊のフンで茶色く染まった水が淀んでいただけでした。あまりにもノドが渇いていた私は、水を覗き込み、何度も飲もうかと、頭の中で格闘しました。でも、いくらニュージーランドの大自然は美しいとは言え、この水は明らかに臭い。虫もたくさん湧いている。いやいやいや.....これは飲んではいけない!私は、フラフラになりながら更に2〜3時間こぎ続け、やっと一軒のgrocery store(昔ながらの小さなコンビニの様な百貨店)にたどり着いたのです。そこも、前々回の話に登場したパブと同様に、当時ニュージーランドの田舎ではごく普通に見かけるお店でした。周りには民家が一軒も建っていないのですが、半径数十キロ以内の農家で住む・働く人々が、週に1回のショッピングをそのお店で済ませるという、ど田舎で暮らすニュージーランド人にとっては貴重なライフラインとなる存在だったのです。 |
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地平線まで続くカラカラに乾燥した草原の中、砂利道がどこまでも続く、、、。 |
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私はそのお店に転がり込み、1.5リットルの冷たいジンジャーエールを買うなりその場で一気に飲み干しました。ついでに水筒も、お店の人に満タンにしてもらい再出発。その日目指していた湖まで、もう3時間こぎ続けたのです。 ようやく湖にたどり着くと、一軒の民家が近くにあったので、私はそこでキャンピング用のアルミ鍋2杯に水をもらい、大きい方の鍋に入れてもらった2リットルの水は、そのばで飲み干してしまいました。ニュージーランド人は本当に皆フレンドリーで親切なのです。その家の人は、私が一人で自転車旅行をしていることを知り、夕飯を食べて行くよう誘ってくれました。私は一瞬迷いましたが、ご家族の方は既に皆、食べ始めている、、、ウ〜〜〜、腹が減った、、、でも、突然の訪問でご飯まで食べていくのはあまりにも図々しい。水だけ有り難く頂いておきました。いやあ、本当に感謝感激です! ダムのほとりに戻り、テントを建て、火をおこして夕食を済ませ、寝どころに付こうと思った時、ふと自分の足を見ると、そこには粗塩でも振りかけられたかの様に、汗に含まれる塩分が無数の結晶となり、すね毛を覆い尽くしていたのです。私は脱水症と熱中症を起こしていたのか、その夜は体調が優れず、疲れていたにも関わらず殆ど眠れませんでした。 |
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その日 目指していた湖まであと数キロというところでパンクに見舞われました。 これは道ばたで修理をしている最中の1枚。 |
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