「共に生きる」とは

共に生きるとは―ある「障害者」の言葉

地域で生きるっていう事ですが、地域というのは施設っていうのの反対語ですね。施設というのは、障害があるからといって、ここに居なさいっていうやつで、皆さんと違う所に暮らさなければいけない施設、それの反対語としての地域。だから、皆さんが使う行政区分とか、地図の上での地域っていう意味とは違います。

 で、皆さんは、地域で生きるっていうことを考えたことがありますか?たぶん、健常者の皆さんは地域で生きるっていうことが当たり前なので、地域で生きるってことを考えた事が無いと思います。そういうことを意識しないで生きてこれるっていう事が当たり前です。でも、障害者は施設というところで暮らせということで、自分の意志で地域に出てきた場合、いろんな覚悟をして、意識をして地域で生きるわけです。そこが、健常者の皆さんと違うところです。

目指すところ私達は、地域で健常者も障害者もいろんな人がいて当たり前になる社会、社会というか世の中。当たり前というのは意識をしなくても良いこと。ことさら考えなくとも良い風になる事。それが当たり前と。

 例えば、呼吸をするのに、今私は呼吸をしているという、意識して呼吸をする人はいないと思います。そういう意味で当たり前と言うのは、意識をしないでできること。地域で当たり前に生きるっていうのは、障害者が意識をしなくても、健常者が敢えて意識をしなくても、地域で生きるっていうことを殊更声に上げなくてもできること。はっきり言えばそういうことが言わなくても良いようになる社会、世の中が私達の目指す地域で生きる。

で、今の世の中は健常者の人が作った世の中なので、障害者や高齢者、ちょっとでもハンデがある人達にとってはすごく生きにくい地域。私達の先輩などは地域で生きるってことは、地域の片隅にお邪魔をして、なんとなく仲間に入れてもらう。遠慮をしいしい仲間に入れてもらっているっていう状況が始まりだったのです。で、その次の人が、仲間を集めて、周りの人や市や国などに訴えて、まぁ、分かりやすく言えばバリアフリー法ができて、少しは暮らしやすい状況にはなっていますが、健常者の世の中に、障害者が頑張って意識をして、生きているっていうのが状況だと思います。

 だから、障害者は、私達は、地域で生きるんだということを声を上げて皆さんに訴え、健常者の皆さんは私達の声に耳を傾け、自分たちが常識だと思っていること、それがあるが故に生きにくくなっている人がいるんだなぁ、ということを、常識を疑って障害者の声に耳を傾けて、仲間になっていくことが 今の時点での共に生きるっていう事だと思います。