シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

(24号)
木田金次郎、有島武郎との出会い(1)

 1907 (明治 40 )年、東京・上野竹之台陳列館で第 1 回の文部省美術展覧会(文展)が開催されました。第 1 回展では、日本画が 625 点応募があり 89 点が入選、西洋画は 321 点応募中 82 点入選、彫刻は 44 点の応募で 14 点が入選しています。
 木田金次郎は、中学時代、上野で文展および各諸団体の展覧会を見て歩いたといわれています。当時、早稲田大学で学んでいた佐藤弥十郎によると展覧会には、新進の南薫造、柳敬助、 中村彜、また黒田清輝、和田英作、岡田三郎助、中沢弘光、中村不折、斉藤与里、白滝幾之助、水彩画の三宅克己、大下藤次郎等の作品が展示され、見る者を陶酔させたと認めています。展覧会は、鑑賞するだけではなく見る者に制作意欲をも駆り立てるのでしょう。勉学にいそしむために上京した木田は、学業にも勝り絵画への興味に惹かれていきました。
  1909 (明治 42 )年の第 3 回文展に出品された山脇信徳の油絵、萩原守衛の彫刻に感性の鋭い木田は心揺さぶられます。 1910 (明治 43 )年に神田淡路町に開設された高村光太郎による国内初の個人画廊「琅?洞」へも出向いています。この年、白樺社主催で「南薫造・有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会」がもたれました。これは白樺社の第 1 回目の展覧会で、有島が 70 点、南が 54 点出品しています。日本人の印象派による初めての展覧会でした。木田はここで見た作品について友人に一作一作模写をし解説しています。と、東京での学生生活は意義を見い出すべきものとなっていたのですが、家庭の事情で東京を離れなくてはならなくなります。明治 43 年 10 月に志なかばでの帰郷となりました。戻ってからも、再度札幌で勉学を望み中学への編入を試みますが、かなえられませんでした。しばし札幌の友人宅に身を寄せ市内を彷徨し絵を描いていました。 11 月 13 日、朝鮮鉄道局に勤めている友人と札幌女子尋常高等小学校で開かれている「第 3 回黒百合会展」に出かけます。黒百合会は北大の美術愛好者のサークルで、有島武郎が中心となり美術の動向を享受していました。有島の出品作品は『たそがれの海』で、
  − まるで生きた海のやうに碧色をして拡がった海の向うに、やや緑がかった空に黄色く暮れゆく風景が描かれた − (『先生を憶う』より)もので、その画面に木田は吸いこまれてしまします。この時、有島武郎の名が木田金次郎の心にしっかりと刻まれたのでした。その数日後、白石町にあった有島の家を訪ねたのでした。

(引用・参考文献)
小学館「日本美術館」・北海道新聞社 「『生れ出づる悩み』と私」

R.M
 
 
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