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ヤイユーカラパーク 連載 食いものノート親父料理教室

VOL482004 11 0910

お盆を過ぎても暖かい日々が続き、我が家の四畳半の畑ではキュウリを十月半ばまで収穫した。借りている市民農園も今年は過去最大の六区画になったので、野菜の生長にこちらが追いつけないでいる。

台風18号が吹き荒れる前日に花豆と虎豆を収穫した。ところが、ザルに入れたまま室内に放置しておいて虫を発生させてしまう。豆の表面に浮き出てきた小さな斑点に気づいて、あわてて日に干すと、豆の中から体長二,三ミリの虫が次々と表皮を食い破って這い出してくる。その数およそ千匹。豆の表面には直径一ミリ程の穴がぶつぶつと開いている。薄皮の中に身をこごめている幼虫の姿も見える。

収穫した時には「これで一年間は豆料理を楽しめるぞ」とほくそえんだものだ。それは結局「とらぬ狸の皮算用」になった。すべて廃棄するしかないだろう。ところが、拙者の落胆振りがよほどひどかったのだろう。師匠がめずらしく慰めてくれた。「豆を食べて、動物性蛋白質も一緒にとれるのだから、いいじゃないの」と……。

レシピ 18「閑話休題」

「親父料理術入門」も十回目を迎えた。だが、前回予告した夏野菜の料理は季節外れになってしまった。動物性タンパク質を急速冷凍で封じ込めた「冬虫花豆(?)」は、いまのところ師匠と拙者だけが味わえる貴重な「健康食品」になっている。諸君が冬虫花豆を手に入れるのは難しいだろう。したがって今回は実習を「お休み」にする。


実習はお休みするが、三度の食事をすべてお休みするわけにはいかない。親父料理術の基本に立ち返って「自分の食うものぐらい」はいつでも自分で作れるようにしておきたい。何度もくり返してきたことだが「料理を作るのに、難しい技術はいらない」。ご飯が炊ければ味噌汁ぐらいはすぐにできる。味噌汁が作れるのなら、魚を焼くぐらいは簡単なことだ。

自らの「食」を保障できれば、計り知れないほど多くの「自由」が保証されるだろう。それは、パートナーを亡くした後の男と女の「元気」の差に一番はっきり表れている。


ところで、「健康な生活を維持するためには、一日に三十数品目の食材を食べなければならない」という強迫的な言説が、栄養学者や、それを学んだ栄養士などによって喧伝されているのはご存知だろう。これをそのまま信じて実行している人はそれほど多くはないと思うが、拙者は、「食品汚染は最悪の状態にあるから、少しでも危険を分散させるために」という意味だと善意(?)に受け止めている……。そうでなければ、われわれは世界中から買い占めた豊かな食材で「雲古」をグローバル化するだけの存在に落とし込まれる。


食べものを好き嫌いばかりで判断せず、バランスの取れた食事をすることは大切である。しかし、毎日バランスを計りながら食事をする必要はない。自然には自然のリズムがある。人間のからだも本来は自然の一部分なのだから、自然のリズムにそわせてやればいいのだ。春は山菜を食べ、夏には黄緑野菜をたっぷりとって、冬は根菜を食べる。それだけでも、病気でないかぎり一年間のサイクルの中でちゃんとバランスはとれる。

宮沢賢治のように「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ……」と言うわけには行かないまでも、ヒトが「食べること」を大切に考えて食事をしていれば、自分のからだに必要なものはおのずと分かってくる。

レシピ 19「玄米食のすすめ」

玄米や雑穀がからだに良いのは分かっていても、何かはっきりとした動機づけがなければなかなか切り替えるのは難しい。拙者は師匠と別々に暮らしていたころに「おかずをあれこれ作るのが面倒くさくて」玄米を食べていた。当時は「米が白いと書いて粕(かす)と読む」などと、物知り顔に人に語ったりもした。

美味しく炊けた玄米はごま塩をひとふりするだけで十分に食べられる。肉料理はあまり玄米に合わないのでしだいに食べなくなり、料理のレパートリーも広くはなかったから 「きんぴらゴボウ」や「ひじきの煮つけ」などをよく作る。毎日、メニューは似たようなものだったが飽きることもなく、その上、体調が良くなりからだの動きも軽快になった。栄養学を学んだ方には不満も残るだろうが、試してみる価値は十分にあるだろう。

玄米食は一人暮らしには重宝する。もっとも、おかずを作るのが面倒くさいから玄米を食べるというのは邪道だ。「玄米正食」を欧米に普及させた桜沢如一は、中国の苦力(クーリー)が稗や粟などの雑穀ばかりを与えられながら重労働に耐える姿を見て、「完全食品」としての玄米や雑穀の価値に目覚めたと記している。


我々が白米を主食とするようになってまだ百年しか経っていない。それなのに白いご飯の誘惑はなかなか断ち切りがたいものだ。しかし、玄米の美味しさを一度味わうと、今度は白米がとても味気のないものに感じられる。

現在は、師匠があまり玄米食を好まないので、玄米をそのつど胚芽米にしたり、五分づきにしたりして食べている。「自分の分だけ玄米を炊いて食べてもいいのよ……」と、師匠は優しく言ってくれるのだが、「また、一人暮らしをするようになったらそうするよ」と答えている。だが、それまでに料理の腕が上がって、師匠のように自分で作った料理を「美味しい、美味しい」と嬉しそうに食べられるようになれば気も変るかも知れない。

拙者も玄米は好きなのだが、「白米を食べていたら病気になる」と押し付けてくるような人たちにも賛同はできない。「からだが喜び、こころが笑う」。……そんな食生活がいい。


玄米を炊くときには圧力鍋を使う。最近では玄米を炊ける電気釜もあるし、凝り性の方は「鉄釜で炊くのが最高」だとも言う。圧力鍋をすすめる理由は自分がずっとそれを使ってきたというだけである。どのような方法でもよいから一度美味しく炊けた玄米を味わって欲しい。噛めば噛むほど味があり、その香ばしさには、白米とは別の力強さがある。

玄米食の基本はなんと言っても噛むことにある。かつては「玄米かむかむ運動」なるものまで存在した。玄米正食の指導書には「ひとくち百回噛め」と書かれていて、数えながら食事している人もいた。拙者にその真似はできない。見ているうちに気持悪くなってしまった。だが、白米のようにいい加減に噛んで飲み込むようなこともしない。玄米は噛んでいるうち口の中に美味しさが伝わってくるからである。


そうは言っても「食」は保守的なものだ。遺伝子に組み込まれていたり、生活習慣の影響もある。拙者は全粒粉で作った固いパンを好み天然酵母を使って焼いているが、ある日、訪ねて来た兄に食べさせたところ、即座に「これはフスマ入りのパンか……」と聞かれて返事につまった。食糧難の時代に少年期を過ごした兄には、味わう以前に、からだに拒否反応が生じたのだろう。

健康のために玄米を無理に食べ始めるようなことはしない方がいい。仕事の忙しい人があわただしく玄米を食べるような食事をすればかえって体調を崩す。まずは、ゆっくり食事をできる「環境」を整えることこそ大切だ。それができるようになってから玄米を噛みしめてみて欲しい。

健康にいいという食材は世の中にあふれている。「秘伝の長寿法」も長生きをした人の数だけある。腹八分目で、酒やタバコを一切断って長寿を得た人もいれば、美味しいお酒の晩酌が長生きの秘訣だと語る人もいる。どちらの道を選ぶのも本人の自由だ。だが正直なところ、「長生き」にこだわる理由が拙者にはいまひとつ分からない。それほど楽しく生きている「老人」をあまり見かけなくなったせいなのだろう……。


とりあえず拙者は「からだが喜び、こころが笑う」親父料理術をめざすとしよう。

<次号に続く>