伊丹《再》発見……E    さらに、遺跡探訪などをつづけます。


      伊丹の鉄道―――JR福知山線≪市内2駅≫
                                 阪急伊丹線≪市内3駅≫
        中心市街地の東と西に、明治からJR(国鉄)、大正から阪急。
                                           (写真66枚〈JR35枚+阪急31枚〉)

         【JR福知山線(伊丹駅/北伊丹駅)】

         JR伊丹駅を、“昭和レトロ”ともいうべき「こだま」型の特急列車が、フルスピードで通過(伊丹
        1丁目)。午前11時9分――、昔懐かしい「こだま」型の列車が駆け抜けて行く。このことは、「撮り鉄」
         (鉄道写真撮影マニア)以外の人には、あまり知られていないのではないだろうか。
           「こだま」といっても、新幹線ではない。昭和33年(1958)から在来線(東海道本線)に登場した、
         “ビジネス特急”のことである。たしか当初、それは東京―大阪間を6時間50分で突っ走ったと記憶し
         ている。≪ちなみに、昭和33年は、映画『ALWAYS三丁目の夕日』に描かれた時代、東京タワーが
         完成した年である≫
           そのボンネット型をした旧「こだま」の車体にそっくりの、特急「北近畿」(新大阪―福知山)が、いま
         JR福知山線を走行しているのだ。上の写真が、それである。JR伊丹駅の近辺で初めてその優美な
         姿を見たときは、一瞬、幻(まぼろし)かと目を疑ったほどだった。
           特急「北近畿」は、福知山線の全線が電化された昭和61年(1986)、運行を開始。宝塚や三田に
         は停まるのに、伊丹を通過するのはシャクだが、筆者(74歳)のような高齢者には、「こだま」を彷彿
         (ほうふつ)とさせる車体がなんとも懐かしい。

         昭和56年(1981)に完成したJR伊丹駅(伊丹1丁目)。明治の面影をとどめた木造の旧駅舎は
         昭和54年まで存続したが、その後、国鉄福知山線の複線電化に伴い、城郭をイメージした白い建物
         に生まれ変わった。
           現在、駅の周辺一帯は高層マンションが林立し、大型商業施設(右の写真の奥)や巨大な歩行者
         専用デッキ(陸橋)も出現して、大きく様変わりしている。

           【伊丹の鉄道史】――日本の鉄道はまず明治5年(1872)に新橋―横浜間、次いで同7年、
         神戸―大阪間に登場した蒸気機関車が最初だが、伊丹における鉄道史は、SLに先駆けて明治24年
         (1891)、まず伊丹―尼崎間に川辺馬車鉄道が開通したことに始まる。その経営規模は馬27頭、
         客車7両、貨車8両だったという。今から120年ほど前のことだ。
           それから2年後の明治26年、それが蒸気機関車の摂津鉄道となって尼崎―伊丹―池田を結び、
         その後、阪鶴鉄道(大阪―舞鶴)に受け継がれて同30年に宝塚まで、32年には福知山まで延長さ
         れた。さらに、日露戦争が勃発した明治37年(1904)、舞鶴軍港をめざして大阪―舞鶴間に直通
         列車が走ったという。
           こうした経緯をへて明治39年(1906)、鉄道国有法が公布され、翌40年、国鉄福知山線(現在
         のJR)となったわけである。なお、線路は昭和56年(1981)まで単線だった。国鉄が民営化され、JR
         となったのは、昭和62年(1987)のことであった。
           一方、阪急電車が伊丹へ乗り入れたのは、大正9年(1920)のこと。川辺馬車鉄道(JRの前身)が
         登場してから、29年後のことである。
           ちなみに、JR伊丹駅は、馬車鉄道の開通当初から、有岡城の本丸跡に位置する。有岡城は
         町ぐるみを城塞化した先駆的意義が評価され、落城から満400年目にあたる昭和54年(1979)、
         国の史跡に指定された。郷土・伊丹の誇る、かけがえのない歴史遺産である。
           しかし、その本丸跡の東半分にあたる場所に、現在、JR伊丹駅があるのだ。馬車鉄道が登場した
         明治の中期、すでに廃城となっていた、本丸のあった丘陵は大きく削り取られ、そこにまっすぐレール
         が敷かれたのであろう。

         左=JR伊丹駅・阪急伊丹駅の周辺地図(筆者の著書『伊丹ウオッチング』〈1995年刊行〉から
         転載)。二つの駅の中間に、有岡城の遺跡がある。つまり、きわめてユニークな“歴史街区”の東端に
         JR伊丹駅があり、そこから600bほど西側に阪急伊丹駅があるわけだ。そして、JRも阪急も線路は
         城跡に並行するようにして、南北に走っているのである。
           右=南側から見た旧国鉄伊丹駅の遠景。駅舎もプラットホームも、その右側(東)にある貨物用
         の引込線も、有岡城の本丸跡(東半分)にある。写真の右端に見える細い道の付近までが、往時の
         本丸だった。(この写真だけは昭和50年代〈1975年〜〉に撮影。当時はまだ、ディーゼル機関車の
         時代であった。プラットホームに停まる赤い車体が、ディーゼルだ)

         JR伊丹駅のコンコースや改札口は現在、駅舎の2階にあり、2階はイオンモール伊丹テラス
         (大型商業施設)と陸橋で結ばれている。さらに、有岡城跡の丘陵と駅舎(正面)の2階との間に
         は、「古城橋(こじょうばし)」と名づけられた陸橋がかかっている。

                 【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                         「A国鉄伊丹駅」(写真13枚=昭和50年代に撮影
                         「伊丹今昔」(写真88枚)
                         「30年目の有岡城跡」(写真52枚)

         JR伊丹駅のプラットホーム風景。丹波路(たんばじ)快速、快速、普通は停車するが、特急は通過
         する。“上り”は尼崎→大阪→京都方面(福知山線〜東海道本線)のほか、尼崎→東西線→学研
         都市線(片町線)がある。JR東西線が開通したのは、平成9年(1997)のことだった。

           ところで、JR伊丹駅の利用客は、どれくらいなのであろうか。
           平成20年(2008)の調査によると、JR伊丹駅の1日平均の乗車人員(降車は含まず)は23,589
         人。これは、福知山線の駅では第2位だ。ちなみに、1位は宝塚駅(31,305人)、3位は川西池田駅
         (20,555人)である。
           伊丹の場合、以前は、JRより阪急の方が利用客が多かった。昭和56年(1981)まで、JR福知山
         線はローカル線特有の単線で、まだ電化されていなかったからだ。そのため、2:1の割合で阪急が
         リードしていたのである。それが、現在は逆転して、JR伊丹駅が大きく阪急伊丹駅(1日平均乗車人員
         11,942人)を上回っているのだ。
           その理由は、@阪神大震災(1995年)で阪急伊丹駅が倒壊し、以来、4年間も不便な仮駅舎(400
         bほど南方)となったこと、AJR東西線が開通(1997年)し、JRの利便性が向上したこと(1981年にJR
         尼崎⇔宝塚が複線電化)、BJR伊丹駅のすぐ近くに、関西ではトップクラスといわれる複合商業施設
         が出現(2002年)したこと、などであろう。
           それと、伊丹から大阪あるいは神戸へ向かう場合、JRと阪急では、利便性に差があるように思わ          れる。つまり、大阪へ行く場合、競合する阪急が塚口で神戸線に乗り換えねばならないのに対し、JR
         は大阪駅(福知山線)へも大阪都心(東西線)へも直行便だ。また、神戸方面へ向かう場合も、乗り換
         え駅の阪急塚口は特急が通過するのに、JR尼崎は快速が停まる。こうしたことも、JRが優位に立った
         要因と考えられる。

          走行中のJR福知山線。猪名寺⇔伊丹⇔北伊丹はおおむね平坦の直線コース。東を流れる
          猪名川(1級河川)と西に連なる伊丹段丘との間を、列車は南北に走る。(右上の写真に写って
          いるのは駄六川。場所は伊丹駅の北側だ)

          黒い枕木を線路の柵(さく)として再利用。懐かしい風景だ(東有岡5丁目)。昔、レールを
          支える枕木として、この太い木材が使われていた。それをこのように再利用した場面を見るのは、
          今では珍しい。“国鉄時代”の名残をとどめた、ローカル線特有の景色といえようか。

          先頭車両から前方を望む。レールの輝きが印象的だ。この場所に立つと、子供のころ(昭和
          10年代)、電車の運転士になりたかったのを思い出す。……当時、国鉄福知山線は単線で、蒸気
          機関車が走っていたし、阪急伊丹線も単線で、電車は2両連結だった。それからもう、70年近い
          歳月が流れる。

          昼下がりの普通列車は乗客もまばら。ゆったりしたのんびりムードで、ローカル線特有の雰囲気
          が感じられる。見上げると、「つぎは伊丹です」との表示(右の写真)が目についた。

          JR北伊丹駅。伊丹空港を飛び立った大型ジェット機が上空をかすめる(北伊丹8丁目)。
          駅舎の少し東側を猪名川が流れ、軍行橋(国道171号線)の南東方向に、長さ3000bの滑走路
          が広がっている。右下の写真の奥に見えるのは、五月山(さつきやま・池田市域)だ。
            このJR北伊丹駅は、太平洋戦争さなかの昭和19年(1944)に開設された。その理由は、付近
          に点在する大小の軍需工場(大阪機工など)の貨物輸送と、そこへ勤労者たちを動員するためだっ
          たらしい。
            戦後の昭和20年代後半(1951年〜)、筆者は「緑ケ丘」にある県立伊丹高校の生徒だった。その
          ころ、宝塚や川西に公立高校はなく、その方面から列車通学してくる仲間たちは、「国鉄北伊丹駅」
          で汽車を降り、大阪機工の南側の塀ぞいの道を西へ1`余り歩いたという。
            当時、筆者は県立伊丹高校硬式野球部の部員だった。試合で尼崎へ遠征するのに、この北伊丹
          駅から汽車に乗った。尼崎の南へのびる「尼崎港線」という支線があり、県立尼崎高校のある金楽寺
          (きんらくじ)駅までは、北伊丹駅から乗り換えなしで行けたように思う。
            かつて、JR北伊丹駅は過疎地の“無人駅”であった。付近は航空機の騒音公害も深刻で、昭和
          の後期ごろまで無人駅だったように思う。しかし、現在は近辺に住宅地やマンションが急増。2008
          年の調査によると、この駅の1日平均乗車人員(降車は含まず)は、4,977人だという。
            なお、「北伊丹」という駅名は、伊丹の「北」ということで名づけられたのであろう。ただし、開設
          当時、駅のある場所の地名は「北村」だった。その旧村名が昭和46年(1971)、町名変更によって
          「北伊丹」(1〜9丁目)という大字(おおあざ)に変わった。そういう経緯があったのだが、とにかく現在
          は駅名と地名が奇妙(?)に一致しているわけだ。

          高校時代(昭和20年代)、「北伊丹」から乗り換えなしで「金楽寺」へ……。当時の駅名標識
          が、伊丹の高台地区に現存。前記のように、筆者は県高生のとき、野球部の試合で尼崎へ行っ
          た。もう、60年近くも前の話だ。そのとき汽車を降りたのは金楽寺駅だったのだが、その懐かしい
          「きんらくじ」の文字が残る古い鉄道標識が、なんと、筆者の自宅の500bほど北にある民家の庭先
          に現存しているのだ。
            その場所は、ロザリオ幼稚園の北側。上の写真が、それである(高台5丁目)。
            JR福知山線が複線電化された昭和56年(1981)、金楽寺駅のあった「尼崎港線」は廃線となっ
          た。それまでプラットホームに立って乗客たちを見守ってきた駅名標識が、その後、この場所へ移さ
          れたのであろう。(標識はオークションで落札されたということだった)

     ≪備考≫**********

          昭和の後期から、伊丹市域の南部をJR山陽新幹線が疾走(尼崎市猪名寺2丁目で撮影)。
          左の写真の奥に見えるのは、六甲の山並みだ。スパークをきらめかせて突っ走る“夢の超特急”の
          出現には、御願塚(ごがづか)古墳(御願塚4丁目=線路のすぐ南側)の被葬者も、ビックリ仰天して
          いることだろう。
            山陽新幹線(新大阪―博多)のうち、新大阪―岡山間は昭和47年(1972)に開通。JR福知山
          線と阪急伊丹線をまたぎ、高架橋の線路が、伊丹の南町・御願塚・南野・野間地区を東西に横切っ
          ている。


      【阪急伊丹線(伊丹駅/新伊丹駅/稲野駅)】

         生まれ変わった阪急伊丹駅ビル。阪神大震災から3年10ヵ月後(1998年)に完成(西台
         1丁目)。旧駅舎は平成7年(1995)の大震災で倒壊した。その後、長期間にわたった仮駅舎の
         時代を経て、同10年11月、現在の駅ビル(5階建て)としてリニューアル。旧駅舎(3階建て)がレール
         を敷いた“高架橋”だっただけに、その変貌ぶりは目をみはるばかりだ。
           その新しい阪急伊丹駅は、バリアフリーを取り入れた、高齢者や障害者に優しい駅として、「日本
         鉄道賞」を受けたのだという。なお、駅ビルの北側には、タクシー乗り場やバスターミナルが広がって
         いて、19万都市「伊丹」の表玄関にふさわしいたたずまいといえよう。

                【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                        「H阪神大震災」1995年に撮影した阪急伊丹駅の写真など)

          阪急伊丹駅は、駅ビル3階にコンコース、改札口、プラットホーム。阪神大震災のあと、阪急
          伊丹駅の利用客はかなりJR伊丹駅へ流れてしまったようだが、それでも朝夕のラッシュ時は大にぎ
          わい。近年の調査によると、阪急伊丹駅の1日平均の乗車人員(降車は含まず)は11,942人(20
          08年度)、JR伊丹駅のそれは23,589人(2008年度)だという。
            なお、阪急とJRは600bほどしか離れていない。その二つの駅の中間に位置する旧市街地
          は、伊丹の歴史が凝縮されたような特徴的なスポットだ。つまり、そこは戦国時代は有岡城と
          その城下町(史上初の“総構え”の城)、江戸時代は「伊丹郷町」と呼ばれた酒づくりの町(日本一の
          “酒造産業都市”)であった。現在、有岡城跡(JR伊丹駅前)は国の史跡旧岡田家住宅(店舗・
          酒蔵=宮ノ前2丁目)は国の重要文化財に指定されている。

            【阪急伊丹線の歴史】――伊丹線は神戸線と時を同じくして、大正9年(1920)に開通した。
          今から90年前のことだ。伊丹の町に川辺馬車鉄道(JR福知山線の前身)が登場してから、29年後
          である。
            当時、伊丹の中心市街地だった「本町通り」(現在の産業道路ぞい)には、川辺郡の郡役所があ
          った。小さい町ではあったが、兵庫県川辺郡伊丹町は、川辺郡(伊丹市・宝塚市・川西市・猪名川町
          の全域と尼崎市の東部)の“首都”だったのである。その町の東と西に、それぞれ汽車と電車の発着
          する停車場がお目見えしたわけだ。
            それ以来、伊丹の人々は国鉄伊丹駅のことを「汽車場(きしゃば)」、阪急伊丹駅のことを「電車場
          (でんしゃば)」と呼び習わしてきたようだった
            そのころ、「本町通り」の界隈(かいわい)には、古色蒼然たる酒蔵がズラリと軒(のき)を並べていた
          はずだ。伊丹の町は酒づくりで栄えた江戸時代の雰囲気を色濃く残す一方、町場の東と西に蒸気
          機関車と電車が乗り入れたわけで、まさしく明治のハイカラと大正ロマンが“同居”するユニークな町
          であったといえよう。
            全長3.1`の阪急伊丹線(伊丹―塚口)は当初、途中に駅がなく、ノンストップだった。けれども、
          翌大正10年(1921)に稲野駅、さらに昭和10年(1935)には新伊丹駅が設けられた。途中に二つ
          の駅が新設されたのは、それぞれの駅の西方に大規模な住宅地が開発され、阪急電鉄がそれを
          売り出したからであろう。
            以来、線路は単線だった。そのため、駅で電車がすれ違うとき、運転手同士が“輪っか”のような
          ものを交換していた場面をよく覚えている。当時は沿線に人家もほとんどなく、ローカル線特有の
          牧歌的な雰囲気だったように思う。その後、太平洋戦争中の昭和18年(1943)、伊丹線は複線と
          なった。そのころから昭和40年(1965)ごろまで、電車は2両編成だった。

         ハイアングルから見た阪急伊丹駅付近の線路の様子。/阪急伊丹駅前の案内所にあるバス
         路線図。/阪急伊丹駅・JR伊丹駅の周辺地図(昭文社『都市地図・伊丹市』から一部分を転載
         させていただいた)。地図の中に赤色で示した太線は、阪急伊丹駅が現在地へ移転する昭和43年
         (1968)以前の、線路のあった場所だ。その線路の突き当たり(終点)が、旧伊丹駅だった。
           現在、線路は伊丹駅の300bほど南からゆるやかにカーブし、次第に上り坂となっている。そうし
         て、電車は高架の上を走り、駅ビルの3階にあるプラットホームへ滑り込む。
           しかし、昭和43年までは、そうではなかった。伊丹線の線路はカーブせず、塚口からまっすぐで、
         しかも平坦。プラットホームは道路と同じレベルの1階にあったのだ。

           【阪急伊丹線の歴史(つづき)――阪急伊丹駅は、元から今の場所(西台1丁目)にあったの
         ではない。現在地から200bばかり南東、三井住友銀行の仮店舗のある場所(中央4丁目)が、開通
         当初からの伊丹駅であった。当時、プラットホームに立つと、まっすぐ南へのびるレールの向こうに、
         塚口方面を見渡すことができたのである。
           駅の100bほど東には伊丹市役所、警察、消防、その他の官庁、それに商店が密集し、辺り一帯
         は伊丹の中心市街地を形成。さらに、駅の近辺では、昭和24年(1949)に運行を始めた伊丹市営
         バスや、以前からあった阪急バスが発着していた。
           阪急伊丹駅の開設当時、伊丹市の人口は9,537人(大正9年〈1920〉・第1回国勢調査)。それ
         が昭和36年(1961)には10万人、同45年(1970)には15万人を突破する。駅前広場もなく、駅の
         周辺は商店や民家が建て込んでいた。こうしたことから、中心市街地が手ぜまになるのを見越し、
         昭和43年(1968)に阪急伊丹駅が、同47年(1972)には伊丹市役所が、それぞれ現在地へ移転し
         たのだった。
           それまで高低差のない直線コースだった阪急伊丹線は、このとき西へ大きくカーブし、駅は高架化
         されて、3階がプラットホームとなった。1階は小売店が同居する総合店舗、2階が改札口だったが、
         それは駅舎というよりも、いわばガード下。“高架橋”の上(3階)にレールが敷かれ、プラットホームは
         その上に屋根があるだけの吹きっさらしだった。そのころから電車は3両編成となり、やがて4両編成
         へと変わっていく。
           そうして、阪急伊丹駅が移転してから27年後――。
           平成7年(1995)1月17日、午前5時46分、真っ暗がりの中で突如、阪神大震災が発生した。
         マグニチュード7.2(近年の報道では7.3)、震度7だった。阪急伊丹駅はむざんに倒壊する。1階が
         崩れ、脱線した8両の電車(4両編成×2連)もろとも、3階のプラットホームと2階部分が落下したの
         だ。レールの敷かれた“高架橋”(ガード)がつなぎ目(橋脚)のところではずれ、それが2b以上もずり
         落ちて、1階のコンコースやタミータウン(大型店舗)を押しつぶしている。信じられないほどの、目を
         そむけたくなるような光景だった。
           そのころ、阪急伊丹駅の1日平均の乗降客数は、およそ4万人。地震の発生があと1、2時間おく
         れていたらと思うと、ゾッとする。
           それから3年10ヵ月が経過した平成10年(1998)11月、阪急伊丹駅は、「リータ」(Reita)と名づ
         けられた現在の新しい駅ビルに生まれ変わったのだった。

         阪急電車が「出発進行!」。上段の2枚=阪急伊丹線の車内の様子。下段=先頭車両から
         前方を望む。伊丹駅を出てしばらく行くと、レールはまっすぐ南へつづく。

          伊丹線を走行する阪急電車。その車体はすべて、小豆色(あずきいろ)に統一されている。品格の
          あるその車体の色を、阪急電鉄では「マルーン・カラー」と称しているようだ。
            なお、JRの塚口〜伊丹の沿線はおおむね工場地帯だが、阪急の塚口〜伊丹はおしなべて閑静
          な住宅地である。しかし、筆者が伊丹⇔仁川(阪急今津線)を電車通学した50年前(1954〜1958)、
          その阪急沿線は一面の田園風景だった。

            ≪「阪急ブレーブス」の思い出≫
            その途中駅である西宮北口(阪急神戸線)には、阪急ブレーブス(プロ野球球団)の本拠地・西宮
          球場があった。筆者は戦後まもなくの昭和20年代(1945〜)、「阪急ブレーブス子供の会」に入った
          ほどの、熱狂的な阪急ファンだった。以来、一貫してそうであり、大阪の広告代理店や新聞社に勤務
          した時代も含め、阪急ブレーブスはまさしく“生活の一部”だったのである。
            ところが―――。その阪急ブレーブス(1936〜1988)が、昭和63年(1988)10月、「昭和時代」
          の終焉(しゅうえん)とともに突然、姿を消す。阪急電鉄が球団を手放したのだ(現オリックスへ譲渡)。
          それは、筆舌に尽くしがたいほどの、青天の霹靂(へきれき)であった。
            阪急球団は奇しくも、筆者の生まれた1ヵ月後、昭和11年(1936)の1月生まれだった。その
          阪急ブレーブスが球団創設40年目(昭和50年〈1975〉)に念願の日本シリーズ初優勝を果たし、
          上田利治監督の“胴上げ”が始まるとき、長男・次男をけしかけ、我さきにと西宮のグラウンドへなだ
          れ込んだあの興奮……。そうした数々の思い出までも、幻(まぼろし)のように遠のいていく。
            西宮球場での阪急ブレーブスの最後の試合(昭和63年10月23日)、三男を連れて見に行った。
          スタンドは熱気をはらんで超満員。通路までも人々で埋め尽くされ、異様な雰囲気だった。エースの
          山田久志が投げ、盗塁王の福本豊が走る……。だが、目に焼き付けておきたいその光景も、なぜ
          か目にしめっぽいフィルターがかかって、よく見えなかった。
            ―――それ以来、もう20年以上も、球場でプロ野球は見ていない。
            西宮球場は取り壊され、その跡地はいま、「阪急西宮ガーデンズ」(阪急百貨店を中心とする
          大型商業施設=2008年開業)となって大にぎわい。そこは、まるで何事もなかったかのように、
          「昭和時代」とはまるっきり一変している。もはや、何の痕跡も残されてはいないのだ。
            それにしても、この世に阪急ブレーブス(パ・リーグ優勝10回/日本シリーズ優勝3回)が存在し
          たことさえも、やがて忘れ去られるのであろうか。 

          阪急新伊丹駅とその周辺(梅ノ木2丁目)。駅の西側に広がるロータリーは、見事なバラの咲き
          誇る「ローズレー梅ノ木」だ。付近一帯は、昭和の初めごろから伊丹有数の住宅街であった。
            なお、昭和10年(1935)に命名された「新伊丹」なるネーミングは、近年よく散見される「新〜」
          の付く駅名の“はしり”ではないかと思われる。

          阪急稲野駅とその周辺(稲野町7丁目)。伊丹方面行きプラットホームの脇(西側)にあるこぢん
          まりとした児童公園は、大正時代から昭和初期ごろまで存在した、貨物用線路の跡地だという。駅の
          北側にあるガードは、JR山陽新幹線の走る高架橋だ(右上の写真)。
            なお、「稲野(いなの)」という駅名は、『万葉集』にも出てくるこの地域の古代地名、「猪名野(いな
             の)」にちなむ、旧「稲野村」(伊丹の西部・南部に位置した村=明治22年〈1888〉に成立し、昭和15
          〈1940〉まで存続)に由来すると考えられる。

             「猪名野」といえば、この古代地名を詠み込んだ『小倉百人一首』の歌がある。作者は平安時代
の女流歌人、大弐三位(だいにの・さんみ/999〜没年不詳)。紫式部の娘だ。
           ありま山ゐなのささ原風吹けば  いでそよひとをわすれやはする
             この有名な和歌を彫り刻んだ歌碑が、昆陽池公園(昆陽池3丁目)に建てられている。池に近い
           草生地広場、松並木の付近だ。伊丹市文化財保存協会が昭和58年(1983)に建立したもので
あるが、『百人一首』の中に、伊丹を詠んだ歌があるのはうれしい。

         ≪備考≫―――2010年は、阪急宝塚線(箕面有馬電気軌道)の開業100周年。阪急伊丹線
         は大正9年(1920)、神戸線と同時に開通した。しかし、宝塚線が開通したのは、その10年前、明治
         43年(1910)のことであった。
           これが、阪急電車の歴史の始まりである。当時は「箕面有馬(みのお・ありま)電気軌道」という
         社名で、現在の宝塚線(大阪梅田―宝塚)と箕面線(石橋―箕面)が、同じ年にスタートを切ったのだ
         った。人里はなれた北摂山系の山すそを、国鉄福知山線の「蒸気機関車」と阪急宝塚線の「電車」が
         ダイナミックに併走する光景は、けだし“鉄ちゃん”好みの構図であったことだろう。
           2010年(平成22年)は、その阪急電鉄の開業100周年だ。上の写真が、100周年のヘッドマー
         クをつけた記念電車、「阪急電鉄100年ミュージアム号」である。この電車は2010年1月から6月まで
         宝塚線と箕面線を走行した(写真は、宝塚線の川西能勢口駅で撮影)。

                                                  《平成22年(2010年)7月制作》


      伊丹の四季――そのA
                   【水辺の風景】(写真105枚)

                秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端(は)いと近(ちこ)うなりたるに……。
                『枕草子』の一節を思わせるような、昆陽池の夕景だ(昆陽池3丁目)。
                画面の左下に写っているのはアオサギ、暮れなずむ水辺の風景を眺めている
                のであろうか。
                  このページは『水辺の風景』と題し、「猪名川」(写真8枚)、「駄六川」(10枚)、
                「緑ケ丘上池・下池」(27枚)、「天神川」(1枚)、「黒池・西池(鴻池)」(7枚)、
                「千僧今池」(7枚)、「昆陽池」(45枚)の順に取り上げていきたい。
                                        《平成22年(2010年)7月から制作開始》

      【猪名川(いながわ)

         伊丹の南部に架かる神津大橋付近。東詰の辺りの堤防にはサクラ並木があり、絶好のお花見
         スポットとなっている。右の写真は西詰で、駄六川(だろくがわ)が猪名川に注ぐ合流地点だ。のどか
         な雰囲気のただよう一コマといえようか。

         桑津橋の東に伊丹空港(大阪国際空港)がある。猪名川は北摂・大野山(標高754b/川辺郡
         猪名川町)に源を発する、全長44.7`の1級河川だ。桑津橋の東詰の700bほど北の堤防の上に、
      歌碑が建てられている。平安時代のスーパースター、紀貫之(866?〜945)の歌碑だ(左下)。
   千鳥なくゐなの河原を見るときは  大和恋しく思ほゆるかな
           大和(やまと)が思い出されるほどだというのだから、1000年前の猪名川流域は、よほど風光明媚
         な景勝の地だったのであろう。その歌碑の上空を、離陸した大型ジェット機がかすめる。かの貫之も、
ビックリ仰天していることだろう。

         伊丹の北方に架かる軍行橋付近。橋のない時代、この近くに旧西国街道の“渡し”があったという。
         現在、軍行橋は国道171号線だ。左=奥は五月山方面(池田市域)。山は紅葉している。右=橋の
         南東に、伊丹空港がある。

      【駄六川(だろくがわ)

         菜の花の咲くころ、コイ(鯉)が産卵する場面に遭遇した。駄六川は猪名川の西、JR福知山線
         ぞいを南流する小さな川であるが、コイは川を遡上(そじょう)しながら産卵するものであるらしい。
         猪名川本流から駄六川を遡上するのだという。珍しい光景であった。
           右下=奥に見えるのは坂口橋(北伊丹1丁目)。伊丹坂(西国街道)を下った所にある。橋の
         名前は、「伊丹坂の入口にある橋」の意味であろう。コイが産卵していたのは、この菜の花の咲く風景
         の、少し手前(南=下流)だった。

          駄六川には、シラサギもアオサギも……。近年、なぜか猪名川ではあまり見かけないが、駄六川
          ではよく姿を見る。川辺にシラサギが10羽ほど集合している場面もあったが、そのときカメラを持って
          いなかったのは残念だった。

         カルガモが生まれたばかりのヒナを連れて……。ヒナは7羽だ。“子だくさん”の部類であろうか。
         水辺の草むらから親子がゆっくりと姿を現し、突然、元気よく泳ぎ出したときは、大いに感動した。
         上段の2枚は2010年5月13日に撮影、下段の2枚はその9日後に撮影したものである。
           なお、カモ類はほとんどが渡り鳥(候鳥=こうちょう)であるが、このカルガモだけは日本で繁殖する
         のだという。渡り鳥ではなく、留鳥(りゅうちょう)だからだ。ともかく、伊丹の駄六川でカルガモの子育てが
         見られるのはすばらしい。

      【緑ケ丘の「上池」「下池」】=緑ケ丘1丁目

         夏の「上池」「下池」は、トンボたちの天国だ。上=ギンヤンマの産卵。逆光に輝く水面…、そこ
         へ産卵する光景が印象的だった。
           中段の左=イトトンボの産卵。雌雄が連結し、協力し合って産卵している。中=チョウトンボ。清楚
         (せいそ)な感じのブルーが美しい。右=オニヤンマ。長さ7aを超える巨体だ。
           下段の3枚=赤トンボ(アキアカネやナツアカネではない?)。右=オニヤンマに赤トンボが異常
         接近。……トンボたちはどれもこれも、いとおしい。

          「上池」の水面には、四季折々のたたずまい。左=花筏(はないかだ)の浮かぶ光景。サクラは
          咲きはじめ、花盛り、花吹雪などがすばらしいが、ことのほか花筏は風情がある。右=紅葉の
          ころ、いとうつくし。綾錦(あやにしき)の水面(みなも)に映えたるは、さらなり。

          幸運にも、カワセミの撮影に成功! サクラの咲きはじめたころ、その枝先に憧れのカワセミが
          飛んできた。めったに見ることのできない、優美な姿の珍しい鳥だ。
            しかし、撮影位置から距離があるので、200_の望遠ズームでは、この大きさでとらえるのが
          精一杯。それでも、憧れのカワセミだから、神経が高ぶる。シャッターを押す手が震えたが、なんと
          かピントは合っているようである。

          「上池」の湿原。ヌートリアやカメたちが、なごやかに同居。ヌートリアは一見、ビーバーのよう
          にも見える。しかし、実際はネズミを巨大にしたような体形で、ネズミの仲間であるらしい。右側の
          写真は、春の昼下がり、親子がたわむれる一コマである。
            ヌートリアは外来種だが、太平洋戦争中、日本軍が毛皮を取るため、岡山県で大量に飼育された
          のだという。それが野生化したのであろうか。昆陽池や駄六川でも、その姿を見かけた。

          フナ(鮒)たちが、「下池」でダイナミックに産卵。サクラが満開の日、水草の生い茂る浅い場所
          で、激しく水しぶきが上がっていた。あちらでもこちらでも、大きなフナが産卵しているようだ。春の
          息吹が感じられる光景であった。

          シラサギやアオサギは、季節を問わず水辺の主役。いつも水面に目をこらして狩りをしている
          ようだが、大きな魚をくわえる場面はそうそう見られない。

          水・陸に、カモもハトも……。のどかな光景だ。緑ケ丘の池には、「上池」にも「下池」にも柵(さ
          く)がなく、すぐ手の届きそうなところに水面がある。自然そのものを身近に感じることができるのは
          すばらしい。

          老いも若きも、水辺のすばらしさを満喫。池の上を渡ってくる風のにおい、野鳥のさえずり、ふり
          そそぐ太陽、水辺の生きものたち……。そうした自然の恵みに惹(ひ)かれ、人は池のほとりへ誘われ
          るのであろうか。「緑ケ丘」は筆者のホームグラウンド(自宅から1`たらず)であるが、池畔がにぎ
          やかだと、うれしくなる。

      【天神川(てんじんがわ)

          5月中旬の天神川に、マガモがなぜ……???  静かなせせらぎの中に、そのキレイな鳥の
          姿を見つけたときは、一瞬、目を疑った。それは、5月中旬には居るはずのない、マガモの雄(おす)
          だったからだ。場所は昆陽池の北西、中野大橋(中野東1丁目)の近くだった。
            マガモ(真鴨)は、いわゆる“冬鳥”である。つまり、秋の終わりに北方から渡来して越冬し、春に
          は帰っていく渡り鳥だ。そのマガモがなぜ、この時期(5月中旬)、天神川に居るのだろう。理屈に
          合わない、ミステリアスな出来事であった。
            彼は“北帰行”(渡り鳥 北へ帰る)のとき、群れからはぐれたのではないだろうか――。
            カモ類は集団行動をするという。もし、仲間たちから取り残されて帰れなかった、独りぼっちの
          “迷い鳥”だとしたら、哀れである。冬になったら、彼はまた仲間の群れに会えるのだろうか。                                                    

       【黒池・西池】=鴻池6丁目

         「西池」に白鳥カップルが定住。2010年は7羽ものヒナが生まれた!  池の中州の静かな
         場所で巣づくりをし、白鳥は抱卵していた。2010年5月15日に現地を訪れたとき、まだ孵化(ふか)
         していなかったので、心配だった。
           ところが、その直後に無事、7羽ものヒナが誕生したという。その報に接し、筆者が5月28日に
         「西池」へ行くと、ヒナは6羽だった。倒木の上に陣取ったカメたちに見守られ、白鳥ファミリーが楽し
         そうに泳ぐ。それは「平和」を象徴するような光景で、すばらしかった。
           とにかく、この池でのヒナの誕生は、前年(2009年)が3羽だったから、出生率は大幅アップだ。
         めでたしめでたしである。
           伊丹市みどり公園課によると、親鳥のペアは2005年、2`ほど南東にある昆陽池(こやいけ)から
         飛来して、住みついたのだそうだ。

         「黒池」は、「鴻池(こうのいけ)村」の地名の由来となった池だ。左=アオサギが「西池」から「黒池」
         (奥)の方を見ていた。二つの池は、小規模な堤防で仕切られているだけである。右=東屋(あずまや
         のある池畔から、「黒池」「西池」を望む。奥に見えるのは、宝塚方面の山々だ。
           『摂津名所図会』(1798年刊)という史料は、鴻池について、「鴻池村にあり。広さ三百畝(せ)。一          名畔池(くろいけ)といふ」「此池岸に鴻多くあつまるゆゑ此名をよぶ」と伝える。現在の「黒池」のほとりに
         当時、「鴻」(ヒシクイ=ガンカモ科の水鳥・大型の雁〈がん〉)がたくさん集まったので、池は「鴻池}と
         呼ばれた。そのことにちなんで、「鴻池村」という村名が生まれたらしい。

      【千僧今池(せんぞいまいけ)=千僧1丁目

          白鳥カップルが飛来し、初めて抱卵。昨年までは千僧今池に白鳥の姿は見られなかったが、
          2010年の春、若い“つがい”がやってきて住みついたという。5月中旬、池畔で卵を2個、抱いて
          いた。伊丹市役所の東側、図書館のわきだ。しかし、この年、ヒナは生まれなかったらしい。

         現在、池は“長グツ”の先っぽ(ツマ先の部分)だけが残っている(上の写真=千僧1丁目)。
         千僧今池(千僧池)は昔、大きな“長グツ”の形をしていた。その池は昆陽池(こやいけ)の南の堤防に
         接していたのだが、昭和の中期に大きく埋め立てられ、現存している水面は昔の7分の1ぐらいで
         あろうか。
           伊丹市役所の東側、博物館や図書館のそばにある小さな池(?)が、千僧今池である。上は、南西
         の上方から池の全景を望んだ写真だ。

         左=上空から見た昭和20年代(1945年〜)の「千僧今池」付近。伊丹のグラフ情報誌『いたみ
         ティ』(第72号=2007年7月号・伊丹経済交友会発行)から、許可を得て、転載させていただいた。
         この写真を見ると、「千僧今池」は見事に“長グツ”の形をしている。その池の北端は、昆陽池に接して
         いたのだ。現在は大部分が埋め立てられ、北から千僧浄水場、国道171号線、伊丹市役所、博物館
         などに姿を変えている。
           右=市役所前の緑地帯にある、「千僧今池」の水門遺構(?)。この場所に大きな池があった
         ことを記念し、水門と思われる遺物が保存されているのだろうか。写真の奥に見えるのは、国道171
         号線だ。

             【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                     「伊丹《再》発見A」……「千僧今池」の跡地に、伊丹市役所や博物館など。

      【昆陽池(こやいけ)=昆陽池3丁目

          ナイス・キャッチ? それとも、残酷物語?  水辺のハンターであるアオサギが、大きな魚を
          くわえて、丸呑みする場面に出くわした。それも、驚くばかりのチョー至近距離だ。願ってもない
          シャッター・チャンスに恵まれたのは、幸運だった。

           風薫る5月……。円形の貯水池上空に、♪♪屋根より高いこいのぼり……♪♪、その
           下でコイ(鯉)も負けじと競演。波打ちぎわの観覧席では、カメたちも声援を送る? ユーモラス
           で、ほほえましい光景といえようか。

             いま、「円形の貯水池」と書いたが、それは昆陽池と通路でへだてられた、手前(南側)の
           池のことだ。しかし、昔は貯水池などなかった。昆陽池そのものが、巨大な溜池(ためいけ=農業
           用水池)だったのである。
             つまり、昭和40年(1965)ごろまでは、現在の昆陽池も、貯水池も、公園(草生地広場・多目的
           広場・ふるさと小道など)も、昆虫館の場所も、一つの池であった。これらはすべて、「昆陽池」の
           水面だったわけである。
             そればかりではない。昆陽池公園の東隣にある広大な住友総合グラウンド、同社の社宅や寮、
           そしてマンションなどの場所も、昔はみんな「昆陽池」であった。つまり、昭和の中期、池は大きく
           埋め立てられたのだ。
              旧来の「昆陽池」は天平年間(729〜743)、奈良時代の高僧・行基(668〜749)によって
           築造された、灌漑用の溜池である。伊丹の誇るかけがえのない歴史遺産といえよう。
             埋め立てられる以前の「昆陽池」は、総面積50万u。瑞ケ池(ずがいけ)の2倍以上もある、
           超ビッグ・サイズの池であった。それが、現在は、昆陽池(12万5千u)と貯水池(4万5千u)
           を合わせても、水面は17万uだ。埋め立てられる前の、ほぼ3分の1である。

                 【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                         「伊丹《再》発見C」……「昆陽池公園にある文学碑を
                         訪ねて」⇒⇒昔の昆陽池はどれほど大きかったのであろうか

           渡来するユリカモメの数は、めっきり少なく……。20年ほど前の平成時代初頭、昆陽池の水面
           は、2000羽以上のユリカモメで埋め尽くされていたように思う。その“白い大群”が何かに驚いて、
           一斉に飛び立つ光景は、誠に圧巻であった。
                   名にし負はばいざこと問はむ都鳥  わが思ふ人はありやなしやと
             『伊勢物語』の中で在原業平(ありわらの・なりひら/825〜880)が詠んだ、隅田川の「都鳥(みや
              こどり)というのは、このユリカモメの雅称であるらしい。

          冬場にはオナガガモ、マガモ、キンクロハジロなどが飛来。近年はカモ類の渡来も少なく、ひと
          ころに比べると、冬の昆陽池はやや寂しい感じだ。それでも、ユリカモメなどとともに、渡り鳥たちが
          毎年やってくるのはうれしい。

          水辺には、アオサギやシラサギがいつも……。 どちらもコウノトリ目サギ科の鳥であるだけに、
          首・脚・くちばしが細くて長く、スラリとしていて、品格が感じられる。アオサギは羽を広げると、2bに
          も及ぶ。一方、シラサギはやや小ぶりで、コサギと呼ばれる種類なのだろう。

          鳥の飛ぶ姿は美しい。白鳥も、ユリカモメも、アオサギも……。 昆陽池で白鳥の飛ぶ場面は、
          めったに見られない。けれども、風の強い日、白鳥は風に向かって飛び立つ習性があるらしい。その
          とき、水しぶきを上げて水面を“滑走”(助走)する姿も、迫力があってすばらしい。

         白鳥の抱卵風景。果たして、その結末は……??? 2009年は4組のカップルが、昆陽池の
         水辺で卵を温めていた。卵はおおむね薄緑のような色で、ずいぶん大きい。それを雌雄がバトンタッチ
         して、交互に抱卵するようだ。5月のゴールデン・ウイークのころだから、暑い日もある。卵を抱く役目の
         白鳥は、飲まず食わずで、汗だく。涙ぐましいほどの献身ぶりだった。
           しかし、この年、ヒナは1羽も生まれなかった。無精卵だったのか、永年の近親交配が災いしたもの
         か。それは、わからない。卵がカラスに襲われたとの説もあるらしい。とにかく、卵が6個もあった巣に
         白鳥カップルの姿はなく、ハトがそれをのぞき込んでいる場面は寂しい。なんとも不憫(ふびん)を誘う
         光景であった。
           なお、昆陽池ではもう数年来、なぜか白鳥のヒナは誕生していないのだそうだ。右下に掲げた、
         ヒナを連れて泳ぐカップルの姿は、同じ年(2009年)西池(鴻池6丁目)で撮影したものである。「今年
         も西池でヒナが生まれた」との声を耳にして、駆けつけたのだった。
           ちなみに、2010年も、昆陽池では白鳥のヒナは生まれなかった。けれども、西池では、7羽もの
         ヒナが産声(うぶごえ)を上げた。親鳥は前年と同じ、若いカップルだった。

          水しぶきを上げ、羽ばたく白鳥。沐浴(もくよく)しているのであろうか。昆陽池に定住する白鳥は、
          コブハクチョウだ。くちばしはオレンジ色で、基部に黒色のコブ状突起がある。
            この昆陽池のコブハクチョウは昭和38年(1963)、山口県宇部市から10羽が贈られたものだと
          いう。その後、100羽以上に増えたが、現在はずいぶん少なくなっている。

             【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                     「I伊丹の風景」……ヒナを連れて泳ぐ白鳥ファミリー、大集団で群舞する
                     ユリカモメなど、昆陽池の鳥たちも出てくる。(1990年ごろに撮影)。

          昆陽池のほとりには、13基もの文学碑が点在。左=観鳥用デッキの近くにある上島鬼貫(うえ
             しま・おにつら)の句碑。右=貯水池の東側にある「読み人知らず」の歌碑。写真は、伊丹市文化財
          保存協会の主催で行われた“文学碑めぐり”(2007年11月開催)の一コマである。

          遠足シーズンは、草生地広場などが大にぎわい。お弁当の時間になると、テレビ局の取材
          クルーもやってくる。右下は、多目的広場で行われた「昆陽池まつり」の一コマだ。

          昆陽池の貯水池付近で行われた、消防出初式の放水シーン。真っ青に澄みわたった冬の空、
          弧を描いてきらめく水しぶき……。背高のっぽのクレーンに乗る消防署員は寒い? 快い? 怖い?
          その下では人々が集まり、一斉放水の場面を見守っていた。

         山の端(は)に夕日が沈む、暮れなずむころ、空も池も茜色(あかねいろ)に染まる。鳥たちの
         シルエットが美しい昆陽池の夕景……。その時間帯は不思議なほど静かで、一瞬、時が停まった
         かのような錯覚にとらわれる。このすばらしい「平和」がいつまでも続いてほしい。
                                               《平成22年(2010年)10月制作》


      伊丹の銘酒「剣菱」の酒蔵跡から、カマド、堀跡などが出土。
      「花摘み園」の場所(宮ノ前3丁目)は昔、巨大な酒蔵だった。
                                                     (写真12枚)
                                         《平成22年(2010年)10月制作》

          発掘調査で見つかった戦国時代の堀跡。有岡城の防禦施設であろうか。すぐ近く(北西)に
          猪名野神社があり、その境内は“総構え”(町ぐるみの城塞)だった有岡城の北のはずれ。そこには
          戦国時代、北の守りを固める砦(とりで=出城)があったという。神社の境内には、今も当時(430年
          前)の土塁が長さ100b以上にわたって残っている。
            今回の調査で発見された堀は、断面がV字状で、幅3.7b、深さ3b、長さは東西30b以上。
          “総構え”の城下町を分断するための空堀(からぼり)とみられている。
            しかし、この堀は、これまでに“城内”で見つかった「中堀」(城下町の中の堀)と形状が異なって
          いるようで、必ずしも「有岡城時代の堀」とは特定できないということだった。

         江戸時代の地層から出土した半地下式のカマド。酒蔵跡の発掘現場では、よく見る光景だ。
         ここには、江戸時代の中期から昭和の初めごろまで、伊丹を代表する清酒「剣菱(けんびし)」の巨大な
         酒蔵があったという。
           儒学者の頼山陽(らい・さんよう/1780〜1832)は、この「剣菱」の大ファン。当時、しばしば伊丹
         の町を訪れた山陽は、その蔵元に入りびたり、酩酊したといわれる。
           なお、「剣菱」は今も“灘(なだ)の酒”として存続している。インターネットのWikipediaで「剣菱酒造」
         を検索してみると、「室町時代から大正時代にかけては、伊丹市で営業していた。昭和4年(1929)
         になって、現在の神戸市東灘区に移転し、現在に至る」と記されている。

         現地説明会は、伊丹市教育委員会が開催。大勢の郷土史ファンでにぎわった。2010年8月
         28日(土)、「猛暑日」のつづく炎天下、この日の大阪の最高気温は36.9度Cだった。熱中症を警戒
         し、筆者も500_g入りのスポーツ・ドリンク持参で参加した。
           なお、今回、発掘調査が行われたのは、「花摘み園」の跡地だ。同園は13年間(1998〜2010年)、
         ポピーやコスモスの咲くお花畑として市民に親しまれたが、近々ここに伊丹市立図書館が建つという。

          左=有岡城“総構え”のエリアを示す説明プレート。猪名野神社(宮ノ前3丁目)の鳥居の近く、
          参道にある。古絵図の最北端がこの神社で、戦国時代には、ここに有岡城の北の砦があった。
          今回、発掘調査が行われたのは、神社のすぐ南東。近年まで「花摘み園」があった場所だ。
            右=猪名野神社の境内(本殿の西側)に残る有岡城時代の土塁。その外側(西)にある
          道路は昔、城の外堀だった。その外堀は、“総構え”の西側から神社の北側までめぐらされていたと
          いう。当時、掘った土を城側にうず高く積み上げ、土塁が築かれたのであろう。こうして、砦や城は、
          凹凸の防御施設で守りが固められていたと考えられる。

               【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                       *「伊丹《再》発見A」……有岡城の土塁が、猪名野神社の境内に今も。
                       *「G伊丹の発掘」……有岡城跡
                       *「30年目の有岡城跡」


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