・今年、会員の皆様からお寄せ頂いたハガキのメッセージを拝見し、是非、この文章を
お届けしたくなりました。
 ・大分のお告げの聖母トラピスト修道院・内山克巳神父様が修道院の主日の説教の為に
準備されたものです。

信   頼  <<マタイ6章25〜34>>

 きょうの福音は、マタイ6章25〜34ですが、おそらく聖書の中の一番美しく、感動深い箇所です。
自然と世界を眺める宗教的な心の極致です。
ここに一貫して流れる教えは、全知全能、限りない慈しみの神に対する信頼と、委ねに対する招きです。
だから福音のこの章節に一度接すると、自然の野の花を見て、小鳥の声を聞いて、父なる神の愛をひしひしと感じないではいられません。

 ここで、繰り返される「思い悩むな」が、実に六度も……。
ということは、私たちの信仰や信頼が如何に薄くて情けないかということにもなるでしょう。
この福音の美しい言葉に心うたれて、「神と私」とは、何と縁遠いものになっているかということに気付きます。

 どうしてかと自問自答します。
それは、空の鳥、野の花、山の動物など、小さなものにもわけへだてなく、慈しんでおられる神の存在を心に留めぬどころか、我関せずに過ごしているからです。
人間の小賢しい智恵が「神様、そうは言っても」とか「でも、でも、でも」と理屈をこねて、自分の納得出来ないことはすべて批判し悩むのです。

 私たちは、仕事、人間関係、病気などと生活の諸々のしがらみの中で、がんじがらめになってもがきます。
また、子どもは受験と大人のエゴに振り回されています。
欲望の充足のために悩み疲れ切ってしまうこの現実は、あまりにも神の国とは、縁遠いものになってしまっているのです。


 ある時期、ネアカとネクラという語が流行しました。
ネアカとは、暗に無頓着でノンキな人と思っていたら「根っから明るい人」のことだそうです。
反対にネクラは「根から暗い人」だそうです。
 この語は、別に宗教的な意味はないのですが、多分、ネアカの人は思い悩むことは少ないでしょう。
しかし、本当のネアカとは神に対する絶対の信頼という裏付けがないなら、表面的な底の浅いものです。
とするなら、内にある信頼と喜びが、安らぎが、満ち溢れているはずのキリスト者こそ真実のネアカであるべきです。

 この点で信仰の導きを頂いた多くの宣教師の方々に、ひとつの共通した特徴を見ます。
それは、神への信頼に徹したユーモアと清らかな明るさです。
偉大な教皇ヨハネ二十三世が好んで使われた言葉は「キリスト者は徹底したオプチミスト(楽観主義者)であるべきです」でした。
神の愛を信じきっている者は、悲観主義になり得ないのです。


 昨年二月に帰天されたヴィタル田代神父さまは、信頼の故にきびしい病気を耐え抜くことが出来ました。
「もう一寸で、霊魂がこの身体から出ればすべてが終わるのだ。
今だかって見ず、聞かず、口に上らなかった世界がはじまるのだ」と何度も言われました。
「神は真実の方です。力以上の試みにお合わせにならない」(コリント前書十章)と私は繰り返し、神父さまを励まし元気を出し合ったのでした。

 身近に接しながら、心霊生活の極限は「主よあわれみたまえ」と「この盃を取り去りたまえ、されど御旨のままに」の祈りの繰り返しですと、度々聞かされました。
主に絶対信頼していたからこそ、厳しい病気の中で、真剣な一瞬一瞬の生命の燃焼を献げておられたのだと思います。

 とにかく、天地万物、宇宙のすべてが全知全能なる神の御手のうちに在って、私たち人間に特別に係わってくださっていることはたしかです。
しかし今、私たちの中に生きておられること、永遠に存在されるというこの現実を、信じるなら何と幸せでしょう。

 だから、私たちも精一杯愛をお返しして、お応えしなくてはということです。
それが「まず神の国とその義を求めよ」でしょう。
日常生活のあらゆる営みの中で、神を信じきって、委ねきっているなら、思い悩むことは愛する努力と犠牲とを献げることの充実感にとって代わるべきです。


もう一度力強く宣言したい。信仰の極致、それは生ける神に対する信頼ですと・・・・。

          内山 克巳著『愛を観つめて』より (1992年5月30日 発行)