[聖なる読書] 著者、エスター・デュ・ワール女史の紹介

 彼女は4人の息子の母として、また聖公会の主席牧師である夫を助けつつ、自身も教職の仕事についておられました。
25年位前にベネディクトの戒律に生きるというテーマで『神を探し求める』という本を書き、それは日本語にも訳されています。
それ以来、出版活動も続けられましたが、2008年に多分、彼女にとって最後の著書となるであろうと思われる『Seeking Life』(生命を探し求める)(聖ベネディクトの戒律に著されている洗礼)というベネディクトの霊性(戒律)についての本を出版されました。
英文の一部の訳文をここに紹介させていただきます。
エスター・デュ・ワール 女史のベネディクトの霊性の深さと広さは修道者だけのものではなく、キリスト者全員に適応され生きる指針となるものです。

ちなみに当会では1991年(平成3年)、エスター・デュ・ワール女史来日の際、札幌修道院に於いて一泊二日で、シスターとオブレートの皆様合同の戒律の研修会を開催いたしました。
懐かしく思い出される方もおられると思います。

聖なる読書(Lectio Divina) 洗礼の賜物

 戒律の序章は、それ自体、聖なる読書(Lectio Divina)の精神によって養われたものです。
Patrick Barryは、どのように序章に接したらよいかの鍵を与えてくれます。
ここに教会の中での昔から続いている祈りの方法があります。
誰でも祈りを始める時、現代でも大切なことは、祈りの心を持ってみ言葉を読み、それを黙想し、聖書のみ言葉と出会い、力を得ることに勇気づけられることです。
Lectio Divinaの言語的な訳は聖なる読書です。

 祈りによって行う読書は、良い考えを与えます。
なぜなら、それは観想的なもので、知識の段階を超えた祈りに導きます。
伝統的に修道院では、常に人間の全体を見ています。
この全人格に対して、神のみ言葉は呼びかけます。

 修道共同体全体、また一人一人の修道者の心は神の言葉を奏でるこだま以外の何ものでもありません。
修道院のメンバーやキリスト者一人一人は、まさに神の家(Domus Dei)なのです。
修道者は、常に聖書を生活の中心に置いています。
それは修道者にとって、日ごとのパンです。それを食べて生命の源泉を見出します。

 「日の出る時、あなたの手に聖書がありますように」と、Evagriusが言っているように、毎日の生活の中で、その日の始まる時から、聖書と共にいるという感覚です。

   聖ベネディクトは深く聖書にひたり、聖書の言葉を引用したり、口にしたりしていました。
聖父の時代の修道生活は、み言葉に日々各人がさらされていることを示していました。

 それは、毎週150の詩編を唱えること、7つの時課での福音書の朗読、それに加えて、聖書からの引用の交唱、賛歌を要求している事を通して分かります。
また食事時には、読書担当者が声を出して霊的読書をする事や、個人的な読書に聖書を読むことを勧め、日曜日や四旬節には、その回数を増やすようにと要求しています。

 しかし、それにしても、人々を驚かせるのは、戒律にはLectioについての章がなく、Lectioはどのようにするのかについて、述べているところが無いことです。
なぜなら祈りの方法とか、テクニックについては、それに生きているので、そのようなことを記したり指示したりする必要はないからです。
また修道生活全体が、祈りと聖書によってもたらされた結果なのです。

 12世紀にカルタゴの修道者Guidoが古典的な4つの方法を説明しました。
それらは、今でも一般に使われていますLectio(読む)、Meditatio (黙想)、Oratio(祈り)、contemplatio (観想)の4つの祈りです。
これをもっと深める必要はないでしょう。
なぜなら、この祈りについては、最近いろいろな本が出版され、この本の終りにも引用して紹介してあります。
時間をとって、神の言葉を、静かに繰り返し、言葉が息づくと、私たちの心の中に、ほのかな響きの調子が整い、自然に祈りに入っていくことができます。

 私たちが、み言葉を尊敬の心で丁寧に扱う時、修道生活におけるホスピタリティーの実践のように、心と考え、耳と目を大きくあけ、注意深く受け入れるようになります。

   一字一句に注意を払って読むのを止めるのは、訓練が必要です。
私たちは、ここで再び、聖ベネディクトが生活のあらゆる面をいかに大切にしているかを思い起こしましょう。
Lectioの場合も、み言葉を静かにゆっくり読みながら聴くことが出来るように、自分自身を落ち着かせ受身にする必要があります。
Ponder(熟考する)は、ラテン語のPondusに由来します。

 私たちの手のひらに置かれるみ言葉を頭の中に描きます。
手のひらは、その重さと形を感じます。
そしてその存在が、少しずつ心地よくなってきます。

 必然的に、聖マリアが心でみ言葉を思いめぐらしている様子が浮かびます。
それはまるで詩を読んでいるようですし、声を出して読むことから、韻やリズムが生まれます。

 これらすべては、時間をとること、注意力を保つこと、集中力とを要求します。
その意味は、他のことに使う時間をさいて、その時間の大切さを認識し、それを優先し、その聖なる場所に何も侵入しないようにする事です。
そうでないと、両刃の剣で骨や髄の真ん中を突き刺されるように、神のみ言葉に対して自分自身、自我に勝つことが出来なくなります。

 この課せられた賜物は、洗礼を受けた者一人一人のためのものです。
Sr. Laurentia Johnは、この賜物と要求されるものの両方がいかに同時に示されるかを美しく記述しています。
その賜物は私たちに、かつてないほど神との深い係わりをもたらし、その神を私たちは探し求め、また私たちをお呼びになるキリストの姿をその中に見出します。

 しかし、もしLectioが本当に私たちを高め豊かにする体験であるなら、Lectioは行いに反映し(Patrick Barryのことばより)、そして私たちの生活の場で実を結ぶはずです。
それは、どのようにしてでしょうか。
また生活のそれぞれの時に、どのように行いに変るのでしょうか。
それは一様ではないでしょう。
しかし、ここでもう一度、ベネディクトはことばを追い求めたのではなく、それに生きることを求めたことを思い起こします。

 そして私たちの生活が、今までと異なっていなければ、洗礼に忠実に生きているとは言えませんし、私たちはそうすることによって、私たちを真実の存在として造られた類のない最愛のお方に、もっと近づくようになるかもしれません。

   私たちは、私たちを超えた広い視野で教会を見ます。
深い考察と祈りの心の中で読書に含まれる祈りは、私たちを、教会を超えた議論の余地のないところに導きます。
それは、私たちがキリスト者として共にする「福音のみ言葉」と私たちに共有の洗礼に表れています。(Patrick Barryのことばより引用)

 中世を通して、修道院や共同体において、読書は声を出して読んでいたことを思いおこすのは意味のあることです。
修道生活は、言葉に取り囲まれています。
聖堂での聖務や食卓での読書によって、修道者、修道女は、自然に福音や教父の教えが耳から入ってきます。
そして自分自身の個人的な祈りの時には、くちびるに言葉をのせて低い声で唱えることを勧めます。
み言葉を耳から聴くことは、目で読むことと同じように大切です。

 それは、Jean Le Clerqがその著書『The Love of Learning and Desire for God 』(学ぶのを喜び、神を求める)の中で、次のように述べているからです。
「ことばを発することで、くちびるの動く感触と聴くことによる耳からの記憶をたどるようにしなさい」と。

 詩人は、詩を声を出して読むことがいかに効果的であるかを知っています。
T.S Eliottが詩人のする事で一番良いことは、声を出して詩を読むことだと言っています。
そして、Ted HughesはSylvia Plathに「静かに詩を読むのは、頭の一部しか使わないので、理解力と感性の両方を失うことになります」と言っています。

 この章でTed Hughesがほのめかしているように、知性と感性の両方を考え、両者が再び活気付くようにと望みながら述べてみました。
 ゆっくりと祈りの心でその序章を読み、聖ベネディクトが述べている、現代の私たちが洗礼の誓願に生きるとはどういうことなのかを考えてみましょう。

[ 聖なる読書 ]