オブレートの集い 講話録 (10月11日)

 冨来 正博神父様(札幌マリア会)

 ノーマン・カズンズというアメリカのジャーナリストがいた。
広島の原爆乙女をアメリカに招待して治療を受けさせたことで有名である。
彼は膠原病にかかって、あまり長生きは出来ないと言われた。
入院して体の痛みを我慢しながら治療を受けていたが、治療が功を奏さない。
ところが、面白いテレビを見たりして笑い出す。
その笑った後は痛みがうすれた。
でも時間が過ぎるとまた痛みが戻ってくる。
このことを繰り返しているうちに彼は「笑うと痛みが取れるんじゃないか」と考えた。
そこでコミックのマンガの本を沢山読んでみた。
すると不思議なことに、だんだん病気が良くなった。
そして病気を克服して退院し、自分の体験談を書いて発表した。

彼は「笑いは病を克服する」という考え方を広げた。

医者の中では、そんな馬鹿なことはあるかと賛否両論であったが、カリフォルニアの医学部が彼を客員教授に迎えた。
このようなことから世界中の各地で
「心が体を克服することが出来るか」、
「体の痛みをとったり、病気を治すことが出来るか」
という実験が行われるようになってきた。

 日本でも旭川医大では、動物実験で、「ストレスがどんなに体に大きな負担をかけるか」という実験で、サルの体を針金で縛って冷たい水と熱い湯とに交互につけ、胃カメラを見ていると瞬く間に胃潰瘍が出来上がっていった。
このことから、ストレスをかけると、どんなに体は痛められていくかが分かった。

また日大医学部では、同じ人物に催眠をかけて、心地よい気持ちになった時と嫌な気持ちになった時では、どういう影響があるかを調べる為に、血清検査をした。
「あなたはとても素晴らしい人です」と言われて心地よい気持ちになった時、血液を採って血清を作り赤痢菌を培養してみると、菌は死んだ。
人間の血清で菌を殺してしまった。
逆に「お前のような馬鹿なやつはいない」と言われて嫌な気持ちになった時、同様の検査を行った。
菌は瞬く間に広がった。

このことから私たちが気持ちいい状態にいる時…つまり平安な、心地よい、安心した状態の時には、体は外からのウィルス(ばい菌や細菌)に抵抗する力がある。
逆に嫌な、怒りやうじうじした気持ちの状態の時には、ウィルスに抵抗できない状態になり病気になる。
これらのことを日大医学部が証明した。

 それなら人間は、健康になりたいと思うならば、毎日笑って生活すればいい。
こう聴くと私たちは、心底笑える状態でなければ笑えないと思うが、否、表面だけでもとにかく、腹の底からワァーッと笑う状態に体を動かしてみたら、体が精神を支配する事になる。
だから体を笑える状態にもっていくと気持ちもそれに沿ってくる。
「笑いは健康のもとである」とよく言われるようになった。

このようにして私たちの思いと体の関連性がずっと研究されてきて、本当に喜びを感じて生きていくことがどんなに大切なことかを、今の医学、心理学でも証明し、その実践を進めている。
 そういうことに対して、「否、それは若い間、力のある間、そしていい環境にいる間は出来るかもしれない。
年を取ってきて、あと何年生きられるか分からない状況になったら、あるいは、例えばアウシュビッツみたいな収容所に入れられたりして、もう自分の周囲には絶望の材料しかないという環境に置かれて、なおかつ喜びを感じて生きていくことが出来るか。
そんなこと出来っこないと思えるような状況があちこちにある。
そういう人たちはもう絶望するしか他にない」と一般に思われている。

 ところが日本にも何度かお見えになって講演会を開いているヴィクトール・フランクルという精神医学者がいる。
精神医学者の中で非常に有名なのがフロイトで、「快楽を求めるのが人間のエネルギーの根源である」と言った。
その後に出てきた精神医学者で同じくウィーンで活躍したアードラーは「快楽を求めるのが人間のエネルギーの根源では無くて、力を求めるのがエネルギーの根源だ」と唱えた。
名誉を得たい、地位につきたい、人を支配したいというような欲望が、人の生きがいのもととなると唱えた。

先程のヴィクトール・フランクルはこの二人と関係があり、弟子でもあったが、彼自身は、別の考え方を持つ。
意味…私の存在の意味が分かったら、そこからエネルギーをもらうことが出来る。
生きていく生きがいを感じる事が出来る。
意味が分からなければ、生きていく力をもつことは出来ない。
こうして「意味への意志」を唱えた。

 ところが、彼はユダヤ人であるゆえに、ナチスに捕らえられてアウシュビッツに入れられた。
それから幾つかの収容所を転々としてまわり、その収容所の中で、奥さん、両親も殺されてしまう。
彼は幸いに解放された。
解放された時に収容所の中で自分が考えたことを思い出して書き、発表した。

フロイトのように「快楽を求めるのが人間の根源」ではない。
「力を求めるのも人間の根源」ではない。
「意味を求めることが、生きがいの根源である」と考えた。
だからこの苦しみの意味が分かれば、苦しみに耐えることができると考えた。

 彼は収容所の囚人の中で死を願う人たちに「あなたがこの世に何かやり残したことはないか」と問いかける。
ある学者だった人は「実は自分は本を書き残していた。それを完成したい」という気持ちになる。
ここで「本があなたを待っている」と言い自殺を思いとどまらせた。

またもう一人の囚人には、「あなたを待っている人はいないか」と問い、
「実は一人、愛している子どもがいた。今はどうなっているか分からない。」
と答えたことに対して、
「生き延びて彼に会おうと思わないか」と自殺を思いとどまらせた。

この体験をもとに彼は
「私に意味のあることが示される時、生きていく力を得ることが出来る」
と書いている。
これはどのような状況にあっても有効な考え方だと思う。

今までの人類の歴史の中で、アウシュビッツの状況ほど悲惨な、そして非人道的な場はなかっただろうと言われるが、その中で生き延びていった人たちに「苦しみの意味は何なのか」を説いて周り、その中で自分の生きる道を見出させる。
「人間はどのような状況にあっても生きることが出来る」と述べ、苦しみの意味が何なのかと、生きる意味を解放された時から亡くなるまで追求し、一つの学派を作り上げていった。

この三人の精神医学者はウィーンの三学派と言われ、世界的に大きな影響を残したことで有名である。

 ヴィクトール・フランクルは次のようにも述べている。
私たちは日々体験する出来事の中で、普通「人生は私たちに何を与えてくれるか」と考える。
けれども、そういう発想ではなくて
「人生は私に何を求めているか」
と考えなければならない。

「私はこれから先、生きて何を得ることが出来るか」ではなく、
「これから先、死ぬまでの何年、何十年間か、人生が私に何を求めているか」
と自分に問うことによって、その問いかけに応える義務がある。

そうするとその数年、何十年は、それにふさわしく生きて行こうとする。
問いかけに答える生き方、仕えるという生き方をすることになる。

 例えば家庭のお母さんが味噌汁を作る、ご飯を作る。
そのことに全霊を注ぎ込む。
家族の呼びかけに精一杯応えることが、自分のものを作り出す生きがいとなる。
問いかけに応える生き方、芸術家などがものを作り上げる創造活動から始まって、仕える生き方をする。
これを「創造価値」と呼んでいる。

 ところがそういうことが出来なくなる時が来る。
年を取り、病気になる。
だがその人は他の人から慰めや愛の言葉を受けることが出来る。
音楽を聴いて楽しむことが出来る。
絵画を見て、芸術作品を見て美しいと言うことが出来る。
そういう体験をする事によって生きがいを感じることが出来る。
これを「体験価値」と呼ぶ。

 しかしそれも出来なくなったとしたら…
今晩死ぬ、数日の命しかないとしたらその人には価値があるか。
価値があることを彼自身が体験した。

彼が病院に勤めていたときに、一人のデザイナーがいた。
彼は元気なときには非常に素晴らしいデザインを描いて色々な賞をもらい創造価値を実現していた。
だが脳腫瘍になり仕事が出来なくなった。
その時彼は、芸術作品を観、音楽を聴き、人と交わり会話することに喜びを見出して、体験価値を実現した。
 だが病状が進行し、いよいよ今晩亡くなるかもしれないというときに、主治医が「今晩モルヒネを打ちましょう」と言った。
その言葉を聞いた彼は、「ああ、今晩亡くなるんだな」と感じた。
フランクルが部屋に入ってきた時、彼はその話をして、「先生、夕方、その注射を打ってくれませんか」と頼んだ。
「そうすると先生方も安らかに過せるでしょうし、看護婦さんをわずらわせなくていいでしょう」と。

それを聞いたフランクルは「これこそ生きている価値の極限だ」と考えた。
今までの創造価値、体験価値を超える程の素晴らしい価値がある。
そういう価値のことを「態度価値」と名付けた。

 この話を聞いたある人は、このような話は日本でもあると体験談を語っている。
死が間近に迫っている6歳か7歳の男の子がもう2・3日のうちに亡くなるかも知れない、息がぜいぜいして苦しい状態にある。
そういう子どもの主治医が病床を見舞って、慰めの言葉が出なくて「先生、疲れちゃったよ」と言った。
その話を聞いた子が、ちょっと体を動かすだけでも痛いはずなのに、少しずつ少しずつ体を動かしてベッドの壁のほうにより空間を作って、目でその空間をさしながら「ここに寝たら」と言う態度をした。
子どもは自分が死ぬという感覚があったかどうかは分からないが、そういう状況に置かれても、先生の苦しみを受けとめて慰めてあげたい、憩わせてあげたいという生き方こそフランクルの言う「態度価値」ではないかと思う。

どういう状況に置かれても、
人を思いやる、人に配慮しながら生きていくことが可能である。

これこそ他の活動のエネルギーの根源となる。
さらに突き詰めると「意味だけで生きる」、
人間にはそういう価値があると述べている。

 私たちは存在するだけで、実は価値があるんだといえる。
その存在は、他の人に配慮を示すことによって何かいいものを作り出したり、日本の社会を変える力は無いかもしれない。
だが、日本の全ての人、キリストを知らない全ての人の為を思う。
そして思うが故に、こんなことをやってみたい、働きかけたい、こういう姿勢を示してみたいというような生き方、生きがいが出来るなら素晴らしい価値と言えるのではないかと思う。

フランクルは団体の価値には触れなかったが、個人の精神状態について説いている。
私たちが個人的な元気一杯の生活をする為にも、フランクルの言葉に耳を傾けてみてはどうだろう。
団体の生きがいが活気付く為にも、そういう奉仕のあり方を私たちが示すことが出来たら、自分達の中にも力を得る事が出来るのではないかと思う。
これは今後も研究し考えて、お互いに話し合っていく事柄ではないかと感じた。

私も後期高齢者になった。
今は健康パスをもらって、精一杯利用し役立て喜びを感じている。
これも体験価値(参加者の笑い)。
今後は、一人でも他の人を配慮できるような態度価値を身に付けたいと思っている。

[ オブレートの集い ]