シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

(29号)
木田金次郎、有島武郎との出会い(2)

『君は画をやる気なんですか』
       『やれるでしょうか』
  『有島武郎『生れ出づる悩み』より

木田金次郎が有島武郎に憧憬を抱くようになったのは、 1910(明治43)年11月13日、札幌での黒百合会第3回展で『たそがれの海』をみてのことでした。脳裏に強く焼き付いた暮色の海景。その描き手の「有島武郎」という名は17歳の少年の心を引き付け、記憶の行き届く隅々まで牢記されたのでした。想見での存在は、やがて実在としての「有島武郎」となっていきます。

絵をみて数日経った日、豊平川の川ぶちを歩いていると <有島武郎>という表札を見い出すことができました。憧れの画描きの住む家。門の内に本人の姿を捜し求めます。しかし、その日は見かけることができませんでした。寓居にもどってさえ、魅せられた画描きへの思いがこみあげ、自作の画をみていただきに行かなくてはという念にせきたてられるのでした。

数日後、札幌で描いた画をあるだけ集め、風呂敷に包み有島宅へ向かいます。豊平橋を渡り有島宅の前まで行きますが、会ってもらえるかどうかという不安が先立ち、とってかえし橋までもどります。豊平橋は「行こうかもどろうか」の思案橋となってしまいます。行きつもどりつ、動揺する気持ちを鎮めるともなく思い切って門を通り抜け玄関までたどり着きます。が、なすすべもなく立ちつくしていると、北大予科生の松尾俊一が現れ「用件は」との問いに、「先生はおいでですか」と尋ねると、「先生は執筆中で忙しいので、約束していない人とは会わない」と拒みます。「絵を見てもらいたいのです」と切願しているうちに、二階から男の人が降りてきました。「有島武郎」その人で、話の事情を知ってか、木田を二階に案内してくれたのでした。まず来意を告げるので精一杯の木田でしたが、有島は忖度し「そうですか」と肯き、「どうぞ見せて下さい」と一枚一枚を見て、「大変いいじゃないですか」「個性的な見方をしている」といいながらも、また「技巧が危なっかしい」「自然の見方が不親切」「モチーフが耽情すぎる」との厳しい評もありました。そのあと、セザンヌの複製画に接し、コローやミレーの人となり作品の見聞を語ってくれたのでした。
これらは、 17歳の少年にとり絵画の世界への第一歩であり、人と真摯に向かい合う姿勢を間近に感じとれる一時となったのでした。

この時の有島の心理状況は『生れ出づる悩み』の第二章の初頭部となったのでした。


『とにかく君は妙に力強い印象を私に残して私から姿を消してしまったのだ』
                                            有島武郎『生れ出づる悩み』より

 


(引用・参考文献)北海道新聞社「『生れ出づる悩み』と私」
R.M

 
 
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