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グランプリ

埴輪発表
※附属資料館等の
臨時閉館に
ご注意下さい。
古代東国の都 上毛野国
◆ 群馬県内の古墳遺跡で、公園として整備されたものをご案内いたします。 ◆

大室公園 (前橋市) 上毛野にはわの里公園 (高崎市)
八幡古墳群 (高崎市) 若田原遺跡群 (高崎市)
観音山古墳史跡公園 (高崎市) 毛野国白石丘陵公園 (藤岡市)
南下古墳公園 (吉岡町)

 ※県内には、古墳の維持管理を兼ねた古墳史跡公園が数多く有りますが、
                         ここでは大規模古墳群に絞ってご案内しています。


  ◆ 上野三碑…飛鳥・奈良時代の現存古石碑
        
2017年10月24日 ユネスコによる「世界の記憶」に登録されました。 ◆
山ノ上の碑   多胡碑   金井沢の碑


  ◆ 取って置きリンク 群馬県庁作成「東国文化」

       ☆ 古代の「大国」群馬県(上野国(こうずけのくに))

       ☆ 古墳時代の群馬県−東国文化の中心地

  ◆ 蛇足です。 (ぐんま古墳めぐりの感想)◆


馬型埴輪
 
武人埴輪
 
盾持ち人
  
 最初に、県内の古墳の多さに改めて驚きました。古墳の体積や積み石の大きさを見ると、これは人力では無いと気付かされます。馬のハニワが沢山出土していることから、馬が多用されていたと思われます。群馬の名の起こりと無関係ではないでしょう。

 その工事力は、時に軍事力となって朝廷に活用され、京の警護や西国への防人として利用されました。鑑真や最澄の高弟が仏教普及に遣わされ、古墳思想は急速に廃されました。朝廷からも多くの廷臣が配されたと考えられ、万葉歌の多詠からも推し量れます。

 また朝廷は、防人や警備者の召集による上野の人員不足を補うため、周辺国の政変に伴う難民の多くを上野に割り振った様です。これが結果して、漢字の普及や繊維・縫製技術などの発展を早めたと思われます。
 また、周辺国の紛争から学んだ朝廷は、【和を以って貴しとなす】とする詔を発し、この思想もいち早く普及させた様です。中央思考は【いざ鎌倉…】の慣用句にも見られる様に、今も保守的県民性として伝わっています。

 平安時代以降には、武力を生業とする武士が台頭し、律令政治は崩壊します。大和に協調していた関東は、これに大きく出遅れて周辺武士団の戦場となり、多くの神社や寺院群が失われました。

 朝廷の令旨による新田氏の鎌倉幕府倒幕や、のちの家康をして先祖の地と言わせるほどに、古代上野は国の主要支配地であったと考えられます。

 


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