シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

(31号)
木田金次郎、有島武郎との出会い(3)


『私はそちら(東京)で何か適当な仕事でも有れば
          その仕事をしながら画を勉強して行き度いと思ふが』
  

 1917 (大正6)年 10 月 木田から有島への手紙


  雑誌「白樺」が創刊されたのは、 1910(明治43)年4月でした。
  当初の参加者は武者小路実篤、志賀直哉、正親町公和、木下利玄、有島武郎、有島生馬、里見ク、園池公致、児島喜久雄、柳宗悦、郡虎彦でした。文芸誌として、文学、評論、研究が主でしたが、美術関係も誌面を大いに飾っていました。美術の執筆陣は、岸田劉生、有島生馬、高村光太郎、柳宗悦、梅原龍三郎、南薫造、山脇信徳、津田青楓、椿貞雄、河野通勢、中川一政、木村荘八という気鋭の人々でした。
 西洋美術の複製図版もあり、セザンヌ、ゴッホ、マネの作品が数多く掲載されました。有島生馬、柳宗悦は後期印象派の紹介、批評に力を注ぎました。特集号として「ロダン」号が編まれています。東洋美術、東洋工芸もとりあげられました。
 木下杢太郎は「白樺」の美術紹介がほしいままで性急すぎると批判しますが、山脇信徳、武者小路実篤、柳宗悦はそれに応酬しました。
  1923(大正12)年8月の終刊になるまで、13年間通算160号までが刊行されました。

 木田金次郎は「白樺」で有島の小説、戯曲、翻訳を熟読します。 1910(明治43)年の第1回白樺社主催美術展覧会の「南薫造・有島壬生馬滞欧記念絵画展」に出向いています。小説『或女のグリンプス』、またホヰットマンの詩『草の葉』は生涯の愛読書となりました。「白樺」における美術記事は欠かさず読み、複製図版も丹念に見入ったものと思われます。1910(明治43)年、17歳で有島と出会い、1917(大正6)年の24歳に狩太村(現ニセコ町)で再び会うまでの7年間、「白樺」を通し木田は作品に生きづく人々、示唆ある詩句に有島の人となりを見い出そうとしていたのでした。
  1917年10月末、木田は有島に2冊の鉛筆素描画帳と1通の書簡を送りました。
 有島からの返信がありました。「二・三日中に北海道へ行かうと思って居ますがその時は手紙を上げますから一度僕の農場に来ませんか僕の所は狩太村ですから岩内から遠くはありません。
                                                  十一月三日」

『・・・東京に来た処が智識上に多少得る所がある許りで腕の上には何等の所得がないと思います。その地に居られてその地の自然と人々を忠実に熱心にお眺めなさる方がいいに決まっています。・・・』

1917 (大正 6 )年 11 月有島から木田への返信

(引用・参考文献)

  「生れ出づる悩み」と私・北海道新聞
  新潮「日本文学小辞典」・新潮社
  「万有百科大事典」 1. 文学・小学館
R.M

 
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