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新首都建設と日本のバージョンアップ


U.日本のバージョンアップ
 ●新首都の政治、行政、法体系及び税制度について
  ●ア.政治・選挙制度 '97/10/9 UP
  ●イ.政策の執行体制について '97/10/9 UP
  ●ウ.行政と法体系 '97/10/9 UP
  ●エ.中央省庁と地方自治の現状 '97/10/9 UP
  ●オ.地方自治体の行政執行体制 '97/10/28 UP
  ●カ.税制度について
   ●A.税の哲学(Philosophy of Tax)
   ●B.課税体系(System of Tax)
   ●C.課税制度の要諦(Focus of Tax)
'98/1/7 UP


U.日本のバージョンアップ

●新首都の政治、行政、法体系及び税制度について

新首都の物理的インフラだけでは、新しい活力ある都市の誕生が担保されないと思われるので、政治,行政,法体系及び税制度の分野についてもリニューアルを提案したい。

ただし、ここまでの項目については、私なりに知識・経験に若干の自負もあるが、これ以降については不正確な知識や誤った解釈に基づくものも発生するであろうことを、予めお断りしておきます。

ただ、門外漢な分野ではあってもそこに言及しなければ、この新首都構想が、真の生命体として成長できないのではないかという危惧からだ、ということでご理解をいただければ、ありがたい。

もっともっと良い構想が、多くの方々からどんどん出てくれば、それは大きなエネルギーとなって、日本の未来を再び輝かしいものにする。

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●ア.政治・選挙制度

今日のように交通手段、情報技術が進歩した時代においては、何時でもどこでも各地方、地域の意見を伝えることは可能であるから現行の国会議員定数は明らかに過剰である。

会議のメンバーが10人を超えると各人の意見が十分汲み取れないのと同様、国会の委員会も10人程度までにして各人の意見を十分発表させるべきだ。

国会も200人程度以上の人数になると、誰がどんな思考基軸で、現在どんな政策を指向しているかなど、相互理解が十分でなくなるのではなかろうか。

自分の属する審議委員会に深くコミットしつつ、国会全体の大きなテーマにも総合的な知識があるというためには、大幅な定員減が望まれる。

逆に政策を発案したり検討するために必要な基礎的資料の調査・収集、政策の体系的な研究を行う調査・研究集団は、国会の機構の中に、独立機関として大いに整備・充実すべきである。

こういうところで国の政策についての基礎を学び政策推進のための訓練を経た人が、国会議員となり、国の政策を考えるというように是非なってほしい。

現在の政治家にも優れたビジョンを持った人がいるのかもしれないが、体系的な政策立案、推進能力に乏しいパフォーマンス優先型や利益代表型の政治家しか見えてこない我国の政治には、本当にやるせない気持ちにさせられる。

政治を職業とすること、当選してもいつ落選するかもしれない、かつ多額の選挙資金を必要とするきわめてリスキーな職業に就こうという人は限られる。

本当に有能な政治家は、優秀な経営者と同じく、将来発生するニーズを汲み上げ、それに対するサービス供給体制を構築出来る先見力と実行力を備えていることが求められる。

政治家が孤立した職業でなく、他の色々な分野と交流可能な職業になれるよう選挙制度を変えねばならない。

その為には、選挙に必要な時間と費用を大巾に減らすシステムが必要だ。

インターネットで政治理念や政策案を発表し、選挙民からの各種質問には回答モデルを作成しておく。

また選挙民からの優れた政策提案についてはインターネット上でフォーラムを開く等々、現在の情報技術でも大きな改革は可能であり、その時々の情報技術に対応できるフレキシブルな選挙制度にすれば、たくさんの優れた人々が政治や政策に参加するようになると思う。

もちろん、情報技術をマスター出来ないテクノロジー弱者選挙民に対しては、選挙実施機関でビデオや印刷物等を制作して補完すれば良い。

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●イ.政策の執行体制について

政策の執行権者を選ぶ手法は、直接民主制の大統領制と国会議員を通じて間接的に選ぶ首相制がある。

私は、現在の派閥型政治の弊害を除去し、また政治執行者の若返りのためにも大統領制が優れていると思う。

私の提案は、大統領のみを国民が選ぶのではなく、大統領と重要省を統括する5人程度の副大統領を候補者の一単位として選ぶようにすれば、選挙後の政策理念や運営手法が国民に予測しやすいものとなると考える。

現在のアメリカのように、当選後に大統領が重要閣僚を決めて行くという手法は大統領にあまりに政治権力が集中しすぎるリスクがある。

そもそも現在の全世界レベルの政治に大統領一人の能力では対応できない。

各分野のスペシャリストにどんどん権限を委譲し、それらを総合調整することが精一杯だろう。

大統領の任期は4年、2期目は2年のみ最長6年とする。

副大統領5人のうち、4人が決議すれば、大統領を罷免できる、副大統領は死亡等特別な場合を除いて、2名以上更迭辞任できないなどどするのはどうであろう。

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●ウ.行政と法体系

「規制緩和!行政改革!」とここ数年呪文のように唱えられているが、これも行政組織と法律体系を組み替えずには少しも前には進まないような気がする。

経済構造や時の変化に伴い各種の法令が誕生し、それを主管する行政組織が増設拡充されて今日の行政機構は創りあげられている。

時代の変化から存在意義がほとんどなくなった法令も廃止されることはほとんど無く、時の変化を若干取り入れ改装して生き延びている。

このような法令でも、あれば行政の担当者が付き、運用マニュアルも学んでおかなければならない。

カースト制度が残るインドではメイドさんも、食事を作る人、掃除をする人など職種が分かれていて、自分の担当業務以外はしないので、日本人の現地駐在員クラスでも、何人もメイドさんを雇わなければならないという例を、笑ってなどいられない。

民間企業であれば、売れ行きが落ちる趨勢にある商品・サービスについては、製造中止,設備廃棄等いつも検討・実行されていることで、これなくしては企業自身の存続もありえない。

各法律を一瞥してみても、憲法、国会法、裁判所法、行政組織法などは、戦後の成立だけにまだ読みやすいが、

   民法・・・・・・明治29年
   商法・・・・・・明治32年
   民事訴訟法・・・明治23年

このあたりになると、ドイツ等の法律のまねをしてその基を作ったことからも、用語や概念が現在の日常からかけ離れその道の専門家の、体系的解説が付かないと、分からなくなっている部分が多い。

そもそも、現在の我国は、国民一般の知識レベルにおいて、世界の冠たる水準であろうことは誰も否定できない。

ある元最高裁判所長官が「法の判断は常識であり、どちらが悪かは、長年の裁判官経験から直感的にすぐ決まる。

あとはその判断をいかに論理付けして判決とするかである」というようなことを書いておられたが、今日の国民にして考えれば、多くの法律の骨組みとその基本理念と思想がはっきりしていれば、あとは法律的な常識に従えばよく、事細かに記述することにどれほどの意義があるのかと思える。

一度文章化してしまうと、このスピード時代にすぐ現実の社会と適合しない部分が生じてしまう。

是非について微妙な事は裁判にて決すれば良い。

判決だって時代の空気を取り入れやすいだけに、裁判日程のスピードアップも計れるだろう。

急激な変化が危険な場合でも、これらの古い法律を現代口語に改め、もっと簡潔なものにすべきであろう。

折角、法のスペシャリストとも言える内閣法制局があるのだから、上記大法律に限らず各種の行政法令も整理統合して、若干の法律の基礎知識が有れば理解出来るものにすべきだ。

行政マンも含め各分野の専門家も自分の専門分野の法令は一応知っているが、分野が違えば体系的に取り組まなければ、容易に理解ができないのが現状であろう。

もちろん、法律の専門家たる弁護士や裁判官にしても、その必要に応じて各種法令を学んでいるのであるから、これは誰からも非難されることはないのではなかろうか。

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●エ.中央省庁と地方自治の現状

行政組織には、大きく全国に及ぶ中央省庁の組織と、都道府県や市町村の地方自治体がある。

中央省庁は国全体としての施策を、地方自治体は各地方の住民自治に基づいて、というのが基本理念なのであろうが、現状は地方の自己財源が小さく、中央からの地方交付税及び各種補助金で補わなければ政策を実行できないこと、自治体の借金である起債をするにしても自治省の認可がいる等々、中央省庁 > 道府県庁 > 地方自治体と完全にヒエラルキー階層になっている。

東京都の場合、大会社の本社が集積し法人市民税が大きいので、それなりに独立性をもっている。

中央省庁が策定した政策には地方は従わなければならない。

地方の特性に応じた施策は自治省や補助金を交付してくれる各省庁の審査を経、承諾を得て初めて実行出来る。

中央の了解なく自前の予算でやることも可能であろうが、後でどんなイジメにあうかわからない。

このような官庁間のヒエラルキーは、その官庁の構成員一人一人の意識に大きな位置を占めている。

これは民間企業における親会社と子会社、下請会社の構成員の意識と同じである。

企画、頭脳中枢は中央省庁が担うべきことであり、創出された法令、通達を都道府県は市町村に連絡し、実行を見守ることとなる。

中央で考えたことが全国各地にうまく適合するとは限らないが、ここをこう変えれば地域の実状に合うとか、政策効果が大巾アップするとかいう、日本の民間企業が得意な「カイゼン」とは無縁な、一方通行型意思決定システムになっている。

道府県の知事は、東京支所を構え、年間を通じて、予算編成期は特に知事本人はもちろん、局長・部長クラスを動員して、自県出身の国会議員の応援を得て、いかに多くの補助金を中央省庁から引き出すかに翻弄されている。

その補助金を得て、自県とその傘下市町村に、より大きな立派な施設を造り、後援者や選挙民の歓心を買うかが、知事の政治生命を大きく左右する。

冠婚葬祭,各種有力団体の各種セレモニー,イベントへの出席・挨拶と、予算獲得,議会が県庁・大型自治体の首長の執務構成比に大きなウエイトを占めており、当該県や自治体の政策長期ビジョンやその実現手法などを体系的に学び,考え,研究する時間などほとんど無いはずであろう。

民間企業のように、商品,サービスを売り収入を得なければならないという組織ではないだけに、組織をスリム化してコストを削減するという発想とは対極にある。

お金さえ中央からうまく引き出せば、すべてが解決するという思考パターンから抜け出せるのは、上流の中央省庁ダムの水が無くなることが明らかになってからであろう。

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●オ.地方自治体の行政執行体制

地方自治体が自治体たろうとすれば、独自の財源と独自の政策立案組織をもたなければならないだろう。

その為には当該自治体エリア内に相当大きな産業基盤があり、そこから大きな所得が発生してはじめて自活・自治が可能なわけである。

各自治体は、現在の政令都市を核とした都市規模、又は人口100万人以上の経済圏ゾーンをひとくくりとし、最低でも自治体の規模を50万人〜70万人程度の経済ゾーンに集約する必要があろう。

県及び市町村という地方行政機構にどのようなメリットがあるか解らないが、国と前記50万人〜70万人の自治体が直接的に繋がると、やや無理がある場合もある。

その間に、地方ブロック圏つまり全国を7ブロック---北海道・東北,関東,北陸,中部,近畿,中・四国,九州---に再区分するという方向で検討してはどうであろうか。

地方自治において最も大切なことは、首長への権力集中に伴う、各種リスクを低減させるシステムである。

中央政界の場合、ジャーナリズム等の監視力が大きい。地方の場合、人的な繋がりが強くなったりして、監視機構が育ちにくい。

首長と議会、首長と報道機関、首長と地元経済界、いずれも馴れ合い、まぁまぁ的な関係になり易い。

首長に絶対的権力が発生しやすい。たとえ首長と3人程度の補佐官を1セットで選挙で選んでも、行政機構はもちろん、警察機構さえ下部機関であり、国のように裁判所が行き過ぎを監視するというわけでもない。

先年全国が、ゼネコン汚職列島となった事は記憶に新しいが、茨城県の建設省OB知事などは長年月に渡って建設ワイロ行政を行っていても、内部からは何ら情報が漏れなかったように思う。

私は当時、5年位茨城新聞を郵送購読していたので、かの知事が小は保育所、社会福祉施設の完成新聞公告に顔写真入りで挨拶文を寄せているのをよく読んでいた。

当時は茨城県の発展に貢献するバイタリティーのある立派な知事だなぁと思っていたのだが・・・。

最高権力の座に長くいるとハダカの王様になりやすいし、人間は歳をとるにつれて頭の柔軟性も失っていく。

地方において、独自の政策立案組織を持ったとしても、国の政策のように、各研究機関,大学,シンクタンク等々の研究者が、常時検証・提言してくれるというものでなく、その質・量において、大幅に見劣りする事は否めない。

ただエリアが小さいだけに、緻密な政策を立案できるというメリットは期待できる。

首長のワンマン行政を防ぐ為には、質の高い情報公開によって住民が行政を監視できるシステムが制度化されなければならない。

前記のような選挙制度の改革を経ていれば、地域内の経営感覚の優れた経営者や、地方行政に長く携わった行政のプロ等が、その能力を首長として生かす道も現状とは比較にならない位大きくなるはずである。

自治体首長の任期は4年、2期8年までとすべきであろう。

選挙の時間と費用の負担が小さくなれば、他の職業との交流が容易になる事によって、地方自治首長職に関心を持つ人が増え、色々な地方行政施策ビジョンが提示され、競われる事によって地方自治が本当に身近なものになり、開かれたものになるだろう。

地方行政は、行政執行者が頻繁に直接住民に行政執行状況,施策を説明すべきであろう。

あたかも民間会社の社長が社員各位に会社の経営理念や新商品・サービスの製造方針を説明して協力を求めるように。

地方自治のことについては、平成8年3月の地方分権推進委員会中間報告を読ませて頂いたが、中間報告が住民参加型の住民自治での行政、比較的小規模な人口規模での自治体合併を前提としていること、地方税の独自制定も可能と考えているのに対し、私はこれからの地方自治は、正に地方経営であり、いかに地域の経済を活性化し、経済基盤を強くすることによって、税収を増やし、また不断に行政コスト削減するかが問われるわけであるから、各方面のプロを集めた組織でないと無理なように思っている。

住民は、各種政策に対して賛否を通じて参加する。

自治体規模は経済的に自立できる規模にまで大きくする事が望ましい。

地方税といえども、課税項目は全国統一的でないと問題が大きいなどと考えている。

中間報告が改良型であるのに対して、当提案はスクラップ&ビルド型といえよう。

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●カ.税制度について

A.税の哲学(Philosophy of Tax)

税金は、どのような経緯で今日の姿になったのか。

また「その徴税権限は歴史的にどのように確立されたのか」について考える税金学及び税学については未だ学問として成立していないようである。

税金学は税金額、税学は税額と連想されるからかな。

税は大変奥深く、大きい影響力を持っている。税を課税するためには、生産性の上昇によって、人間の生産力>人間の生存費の不等式が成立しなければならない。

近代以降の経済における生産の3要素は土地、資本、労働であるが、それ以前の人類の長い歴史における生産要素の中心は土地と労働であろう。

狩猟や食物採取においては土地、即ち支配地域の立地と、範囲が生産物の大小を決める最大の要素であったであろう。

定住して農業生産を始めてからは、生産性の高い農地、地域を巡って武装集団を組んで領土を争った事は、平家時代以降の各幕府、戦国時代に顕著である。

平安以前も、もちろん生産性の高い領地を巡って争われたはずであるが、大和朝廷の武力が格段に強力であったため、それが武力ではなく、朝廷中枢とのコネクションの争いとなって現れていたと考えられる。

西洋における戦争史も宗教、民族、政治等が表看板にはなっているが、実体は皆、これ領土争いであろう。

自己の領土で奴隷を使って農産物を収穫し、自家消費を超える余剰を他の財と交換・交易することが財産形成の基本パターンであったであろう。

生産性が上昇すれば、余剰が増え、交易が活発になる。このような生産形態の時代には、交易ルートの陸上の隘路海峡での山賊,海賊等が通行税を取ってその通行を許す、という税くらいであろう。

日本の戦国時代は、鉄器製農作業道具等の普及 → 農業生産性の上昇 → 農業就業者の兵士等への一時転用可能 → 万人単位での遠国での戦闘可能 → 領土の大規模化 → 戦国時代式のM&A(併合・合併・提携)を通じての全国統一 という図式が成立する。

徳川幕府は、大規模な直轄領土からの収入で財政を賄い、諸藩に神社・仏閣の建築、河川の改修等を命じるも、直接税を徴収する事はなかったようだ。

ではヨーロッパにおいて何時成立したのだろうか。

それはやはり、中世の地方領主制が自治型であるのに対し、絶対君主制以降のことであろう。

絶対君主がその絶大な武力をもって、各地の領主から徴収し、国家の財政を賄うようになったと推測される。

B.課税体系(System of Tax)

税が、武力等を背景に、その支配地域内の人間に、強制的,強権的に賦課されてきたものである事は歴史的な事実である。

それは、世界のどの国の小説,映画,物語,小話にも、徴税吏、税官吏は破産した家にも取り立てに来る冷酷な人物として登場する役回りであることから示されている。

間違っても、貧しい家の子供達にプレゼントを配るサンタさんのイメージとは対極にある。

支配権力者が、税の替わりに米等の現物で小作料を徴する農業経済時代が過去のものになった以上、政治行政機構を運営するために税は徴されねばならない。

農業時代のインフラは道路や河川改良、新田開拓などが大きいものだったが、近代経済のインフラは莫大なお金を必要とする。

現実に徴した税金で整備していたのでは間に合わないので、将来入ってくるであろう税を担保に、先進国の銀行や世界銀行等々から借りてきて整備を先行させた。

借金によるものではあるが、タイミングの良い投資は、そのケインズ的波及効果から何倍もの経済成果を生み出す。

国民も豊かになり、貯蓄も大きくなるにつれて、徐々に投資効果の高い分野は小さくなり、限界投資効率は低下していく。

しかし一度経済的にビルドインされた投資部門は全需要の一部を構成しているのであるから、減額すると逆回りの波及効果で需要減を引き起こす事になるのは自明である。

人間の脳細胞は「欲望を大きくする」という回路パターンしかか書かれていないので、その条件が具備されると直ちに全器官に伝達される。

総生産力、国民所得の増加 → 税収の増加 → 借入れ能力の増大 → 投資規模拡大 → 総生産力、国民所得の増加 という循環が、インフレ基調のもとでの貨幣価値の低下、債務の実質負担減とあいまって、どこからも、誰からも、苦情が起きない優れた国家経営システムの確立となった。

投資にみあう生産性の上昇が行きづまり、成長にみあって累増され積み上がった借金を、今後15年〜20年位で元利均等償還するとした場合の、国民所得に占めるそのウエイトの大きさに愕然としたわけである。

ここに至っては、こんな借金を作った責任者は誰だ!!と言っても、結局、国民自身がそういう選択をして来たという結論は、微動だにしない真実である。

それによって受けた便益には大小あったであろうが、それはともかく、この借金を「国民全体で、どのようにして返済していくのか」のコンセンサスが確立されなければならない。

我国の税制は歴史的と言えばいいのか、戦後の流れだけみても極めて複雑である。

経済の成長が早かった為、いろんな税が出来たという面も若干あるかもしれないが、多種多様な勢力が政治献金や票を使って政治家を動かし、行政に陳情し、自らに有利で、かつ、その利益が、外部からは、絹のカーテン越しのようにボーッとしか見えないシステムの大集合である。

内部でそのシステムの精緻さをメンテナンスしている人も、そのシステムの存在意義が何かなどを考えられるほど離れたところには立っていない・・・

もちろん、自分達自らの為の利益システムには、優れた頭脳と緻密な注意力が注ぎ込まれている。

「モダンタイムス」はこのことを暗示していたんだなぁ・・・(^o^)

我国の税制を、納税事務代行分野関連産業の雇用増大や頭の体操、巨大コンピュータデータシステムの増設の為などの具としてはならない。

普通の道が有るのに、わざわざ迷路を通っていかに早く隣の家に行けるかを競っているのは、小学校世代では評価を高めても、大人の世界では憐憫をかうだけであろう。

「税は”各種行政サービス”に対する対価なのだ」と納得出来やすい様に、分かり易く、かつ計算が簡易で、経済の活力が出易い様、大改廃されなければならない。

C.課税制度の要諦(Focus of Tax)

世界各国の現下の経済活力とその国の課税システムには極めて高い相関がある。

中国・・・国有企業等の利益からの徴税が主力で、個人レベルでは、よほどの高所得者でないと課税されない。

働き盛りのほとんどの人が、昼間の正規の仕事は別に、もう一つの仕事や、自営店舗・サービス業経営を行っている。

これらの副業は統計上把握できないので、中国の人達の月給の低さとその消費水準の高さに、我々が違和感を抱く原因がここにある。

ロシア ・・・社会主義体制から初期資本主義へ急激に移行中の為、課税、徴税システムは未だ確立されておらず、

国家の税収はほとんどなく、国有企業、国有財産を売却して現金収入を得ており、民間企業の利益は丸々自分達のもの、という西部開拓者時代そのままに、お金、利権を得る為の殺人、ソ連軍の武器・兵器の横流しなど日常茶飯事である。

イタリア・・・現在は若干改善されているように見えるが、国家財産は慢性的な赤字で恒常的にインフレ率が高い。

でも不思議に、国民の生活は豊かでおおらか、楽しげに見える。

これは全て地下経済のウェイトが大きい事に基因するのではなかろうか。

バック,クツ,ネクタイ,衣料,車などのデザインセンスに優れているのも、課税システムがいい加減な事と関係あるのかも・・・・・・

アメリカ・・・言わずと知れた資本主義の総本山であるから、個人の所得にも、企業と類似し、
『収入 − 必要とした経費 = 所得』の原理が貫徹されている。

全ての人が1月〜12月の1年間の所得を申告納税する。

源泉徴収税制下で、一生を税金体系の一片も理解なくとも過ごす事も可能な日本の一般サラリーマンとは違い、あらゆる税及びその支出に対して、納税者の意識と監視のレベルは高く、各地方自治体レベルでも、固定資産税率やその使途についての大リコール運動や市民運動が活発である。

アメリカ経済が好調なため、ついついその結果だけ見て、羨ましがりたいが、80年代における中進国からの繊維、雑貨等の怒涛の流入、製造業の大幅減退、と同時に「日本的経営」、日本の自動車産業の「優れたケイレツ関係」という喧燥の中で、彼らがいかにもがき苦しんだかに、理解を致さねば、我々も進歩が無い。

アメリカ経済再生の起点は、某航空局長の航空運賃の自由化、規制撤廃といわれるが、確かに当時のレーガンさんのイメージは「ソ連憎し」のへんこつおじさんで、経済はラプライサイド経済学の某先生のいいかげんなワク組みで、とてもモノになりそうに無かった。

なぜ、それでも今日レーガン殿が評価されるか、それは、『減税をしても必ずしも税収が減るとは限らない』という仮説に乗って大幅減税をしたからである。

その後、うまく米経済は大復興したので、今、アメリカの経済人は、日本の苦境を見て、早く大幅な減税をしないからだと声高らかに大合唱している。

アメリカ航空運賃の自由化
  → 航空業界の大価格競争
  → 予約管理への超大型コンピュータシステムの導入による経費大幅削減
  → 他産業,生活一般へのコンピュータ,パソコンの普及
  → 企業・社会の経費大幅削減
  → パソコン・パソコンソフト産業の飛躍的大発展。

これは全ての国に当てはまるセオリーではない。

いくつかの事象がうまく絡み合った経済イノベーションである。

ベンチャー精神、ベンチャー企業、ベンチャーキャピタルエンジェルの隆盛・・・等々についてアメリカが非常に優れていると、よく喧伝されるが、もう一歩観察を鋭くすれば、その源流は『税制度』にあることが認識できる。

収益から投資費用、経費、利子などなどの必要とした経費は費用として認められ、控除される。

我国の個人所得税制のように、競馬でさえ、儲けた時は一時所得、損した時はおかまいなし。

競馬、競輪、ボート等々、胴元が全売上げの20%以上を経費として天引きした残りを、色々な情報誌代や交通費用と労力・時間を掛けて、その経費が認められずに課税される制度・・・。

つい横道に外れてしまったが(^_^;)、要は、収益と費用の対応が認められる税制。

利益が上がった投資については申告義務を課せられ、経費が上回った投資行為による損失については個人の勝手だから・・・という税制では『企業家精神』を発揮する前に、絶対に意欲や資金が続かない。

行政の人達や、学者・評論家の人達は企業を起こすことの困難さとまるで縁遠いから、特にここの所は理解しにくいが、もちろんサービス産業に属する私自身も一般企業経営者のそれとは雲泥の差がある事は、率直に認めます(^_^;)。

でも、期間利益と予納で前期利益の約75%のお金を納税しなければならないのに、一体何処にお金があるんだ!!ということは実感している。

「国税徴収法」という法律でいかに税が優先されるべきか、という根本原理は理解しているつもりだ。

税も、国内の企業や国民が、多くのリスクにチャレンジして、困難を乗り切って始めて利益が出るようになるのだ、という根元のところをわかっていますよという制度にしなければならない。

明治初期の”有る所から取る”式の『地租税』や、大正・昭和の『富国強兵』のために国民から有無を言わさず徴税する、という徴税哲学から進化しないと、ついには草木一本生えない砂漠経済の国家・国民に陥ってしまうであろう。

ソ連、中国の社会主義を始め、多くの社会主義体制が崩壊したのは、ガンバル人もそうでない人も、ほとんど所得に差は生じない、というその現実に基因するものであり、計画経済の市場経済に対する敗北などと大上段に構えるほどのものではない。

かつてマルクスは、「生産関係」、即ち下部構造が思想、法律等の上部構造を規定するという「唯物史観」哲学を確立したが、私はいつか『課税制度、徴税システムがその経済活力水準を規定する』という大理論を打ち立ててみたい(^o^)

我国の税務当局は多くの人材を各先進国税制システムの研究、調査に派遣しているが、いずれも新たな徴税項目を増やす為には有効に機能しているが、税を減少させる制度の輸入には、ほとんどお目にかかったことがない。

先進国のほとんどは、高速道路は無料であるし、ガソリン税がこれほど高い国は無いであろう。

これらの利用料金は大半の国民が支払っており、実質は税金と同じである。

税本体の所得に占めるウエイトとが諸外国と比べて云々の解説にも、これらを含めて議論しないものであっては、ただ国民は『勝手に言いくるめてくれ』という感情から一歩も近寄らないであろう。

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