モノクロ写真で見る
「伊丹」の昭和50年代(1975年〜)
(写真120枚)
平成20年(2008年)という節目の年を迎えた。世の中、驚異的なハイペースでめま
ぐるしく変転する昨今であるだけに、「昭和は遠くなりにけり」との感慨がますます深まって
くる。
では、いったい、30年ほど前の昭和50年代(1975年〜)、「伊丹」の町はどんな様子
だったのであろうか――。半世紀前の昭和30年(1955年)ごろに撮影した、”撮っておき”
の写真も交え、「昭和時代の後半」をモノクロームで回顧してみよう。
【平成20年(2008年)3月から制作開始】
写真は、下記の順序で掲載していきたい。
(1)伊丹飛行場≪日米共同利用=昭和30年ごろ≫
(2)伊丹空港(大阪国際空港)≪昭和50年代≫
(3)伊丹の周辺部(旧農村地帯)≪ 〃 ≫
(4)国鉄伊丹駅(JR福知山線)≪ 〃 ≫
(5)有岡城跡(忘れられた“戦国の城”)≪ 〃 ≫
(6)伊丹の中心部(旧伊丹郷町)≪ 〃 ≫
(1)伊丹飛行場≪昭和30年(1955年)ごろに撮影≫
当時は、「日本の民間航空」と「アメリカ空軍」が
共同利用した時代だった。
機体には、「高千穂」と記されている。日航機であろうか。セピア色に
変色した、50年以上も前の写真だ。それにしても、一介の青年だった筆者
(当時大学2年生)が、これほどの至近距離から撮影することができたのは、
不思議である。
半世紀前(昭和30年ごろ=1955年ごろ)は、まだプロペラ機だった。機体そのものも、
むろんレトロ調だ。当時はターミナルビルなどはなく、だだっ広いばかりの、殺風景な感じのする
飛行場だったように思う。
黒い機体は、アメリカ軍用機。左上の写真には、「米軍」のマークがくっきりと写っている。
下の写真(ワイド)の右端も、米軍機であろうか。その左側の白い機体は日本の民間航空機だ
から、この写真は、日米が共同利用した時代を象徴する一コマといえよう。
ちなみに、伊丹飛行場は敗戦直後の昭和20年(1945)9月、アメリカ空軍に接収された。その
当時、筆者は伊丹国民学校(船原1丁目)の4年生。学校の前にある「飛行場線」と呼ばれる道を、
ある日、進駐軍(米軍)の車列が通った。神戸に上陸した米兵たちが大型トラックやジープを何台も
連ね、白昼こうこうとライトを照らして飛行場の方へ進むのを、筆者は校門のところで、身をひそめる
ようにして見ていた。
伊丹飛行場に駐留する米軍は、ここを「イタミ・エアベース」と命名。昭和26年(1951)に日本の
民間航空が再開したあとも、日米が共同利用する時代は、同33年(1958)までつづく。
伊丹飛行場は戦後、13年間も、「米軍基地」だったわけだ。
伊丹飛行場でのスナップ写真。当時はまだ、外国人を間近で見るのは珍しい時代だった。
背後の建物は、乗客用の待合室か、PX(アメリカ軍隊内の売店)であろうか。
モデルを囲んで撮影会。右の写真には、尾翼が見える。フィルム・メーカーの主催だったこの
イベントに参加したおかげで、筆者は飛行場へ立ち入ることができたのだった。この「伊丹飛行場」
の項に掲げた14枚の写真は、いずれもその撮影会の日に撮ったものである。
(2)伊丹空港(大阪国際空港)≪昭和50年代に撮影≫
長さ3000bのB滑走路が出現し、
「国際線」と「国内線」が共存した時代である。
ターミナルビルの前(西側=伊丹側)に駐機する、ジャンボ・ジェット機の勇姿。
その手前に、A滑走路(長さ1828b)とB滑走路(長さ3000b)がある。B滑走路が
完成したのは、昭和45年(1970)、ターミナルビルが登場したのは、その前年だった。
超大型のジェット航空機が就航。左=日航機。右=全日空機。ジェット機は昭和39年
(1964)から登場したのであるが、その爆音は、当初、耳をつんざくばかり。「キーン」という
甲高い金属音だった。航空機騒音公害訴訟が頻発したのも、そのころである。
「国際線」を彩った遠来のスターたち。左=ブリティッシュ・エアウエイズ機(英国)。右=
シンガポール航空機。このほか、当時はエールフランス、ルフトハンザ(ドイツ)、パンアメリカン
など、色とりどりの“大物スター”も登場した。
伊丹空港に「国際線」があったのは、「大阪国際空港」となった昭和34年(1959)から、
関空が開港する平成6年(1994)まで。同年、伊丹の「国際線」は関空へ移ったのだった。
左=奥は、滑走する中華航空機(チャイナエアライン=台湾)。手前に、空港の下をくぐる
地下トンネルが見える。右=北方から伊丹空港を望む。離陸する大型機の姿は、迫力満点だ。
着陸するマリンジャンボ(全日空)。機体そのものを巨大なクジラに
見立て、カラフルに彩色されているだけに、この写真はカラーでないと…。
人気絶頂のマリンジャンボが就航していたのは、平成5年(1993)9月
から同7年6月までだった。
≪平成21年(2009)に「開港70周年」を迎える伊丹空港の歴史については、この『伊丹の
歴史グラビア』の中の、「伊丹《再》発見…B」――「伊丹スカイパーク」の項目をご参照ください
(3)伊丹の周辺部(旧農村地帯)≪昭和50年代に撮影≫
当時はまだ、鄙(ひな)びた田園の風情も……。
それは、古き佳き時代の“原風景”でもあった。
昔日の面影を色濃く残した中野地区(中野東3丁目)。場所は、現在の
中野大橋(昆陽池の北西)の少し北側。市バス「中野東」停留所付近から、
西方を望んだ写真だ。奥に見える建物は、有馬街道ぞいに連なる集落である。
昆陽池の北から北西に位置する旧「新田(しんでん)中野村」は、江戸時代前期の新田開発に
よって形成された古い村であるが、この写真に写っているような、水田と畑と竹藪(左奥)が一体化
して存在する風景は、とくに往時の面影をよく残しているといわれる。しかし、現在、付近一帯はすっ
かり様変わりしており、もはやこのような場面を見ることはできない。
“自然”のままの雰囲気だった昆陽池のたたずまい。現在は大きく埋め立てられ、巨大な公園と
化している。しかし、元来、昆陽池は奈良時代の高僧・行基(668〜749)が築造した、灌漑(かん
がい)用の“人工池”であった。
左=武庫川甲武橋の北にあった西国街道「髭(ひげ)の渡し」跡付近(尼崎市西昆陽2丁目)。
近くの国道171号線に、「髭茶屋」という名のバス停が現存している。
右=国道171号線に面した昆陽寺の山門(寺本2丁目)。鮮やかな朱塗りで、県指定の
有形文化財だ。その山門の写真を見ると、思い出す。筆者が伊丹国民学校の1年生だったとき、
初めての遠足は、この昆陽寺(通称「行基(ぎょうぎ)さん」=僧・行基が建立した巨刹)であった。学校
からまっすぐ西へ2`余り。山門の仁王さんが怖かったのを覚えている。
左=西国街道の面影を残した「昆陽」地区(昆陽5丁目)。江戸時代にタイムスリップしたような
雰囲気が感じられる。この付近は昔、昆陽宿(こやじゅく)のある宿場町だった。右=旧稲野村の
中心を示す「稲野村道路元標」(昆陽3丁目)。西国街道と有馬街道との交差点に建っている。
その「稲野村」は、明治22年(1889)から、「伊丹町」と合併して伊丹市となる昭和15年(19
40)まで、存続した。当時の「稲野村」のエリアは広大だった。つまり、「新田中野(中野・東野・
西野)」「池尻」「寺本」「昆陽」「千僧」「堀池」「山田」「野間」「御願塚」「南野」が、その村域だった。
当時、「稲野村」の村役場は、西国街道に面した「昆陽」地区にあったという。この広い「稲野村」全域
が、稲野小学校(昆陽1丁目)の校区であった。
西国街道の雰囲気をとどめた「千僧」地区(左=千僧2丁目・右=同3丁目)。しかし、この街道
筋は、阪神大震災(1995年)で大きな被害を受け、「昆陽」も「千僧」も、こうした歴史的景観は大半 が失われてしまった。
左=“雨乞い伝説”に彩られた妙宣寺(大鹿4丁目)。山門の手前に、紫竹(しちく)の生い茂る
「竹塚」がある。右=伊丹段丘の東端にある伊丹坂(春日丘6丁目)。寛政10年(1798)の
『摂津名所図会』に描かれた、西国街道の難所だった。以前は、樹木がうっそうと茂っていた。
左=伊丹坂の南側、段丘の上にある「伝・和泉式部の墓」(春日丘6丁目)。右=昭和57年
(1982)に伊丹市文化財保存協会が設置した説明板。墓碑は平成12年(2000)、市の史跡
に指定された。
左=摂津国の真ん中を示す「辻の碑」(北伊丹1丁目)。伊丹坂の下、西国街道と多田街道とが
交差する地点にある。市指定の史跡だ。右=サクラの咲き誇る緑ケ丘公園(緑ケ丘1丁目)。奥
に見える池のそばに、梅林がある。
陸上自衛隊総監部の前にある伊丹廃寺跡(緑ケ丘4丁目)。昭和33年(1958)から本格的な
発掘調査が行われ、大規模な古代寺院跡であることが判明。同41年、国の史跡に指定された。また
この伊丹廃寺跡からの出土遺物一式は、県指定の有形文化財(考古資料)で、伊丹市立博物館
(千僧1丁目)の2階に展示されている。
左=「清酒発祥の地」に建つ鴻池稲荷祠碑(鴻池6丁目)。黒池のそばにあり、市の史跡に
指定されている。右の写真は、同じ場所にある稲荷社(奥)と鳥居。この鳥居には、「大正十五年
十月建之、大阪今橋鴻池」と彫り刻まれていた。しかし、鳥居は阪神大震災(1995年)で倒壊、
惜しくも姿を消した。
太平洋戦争中(1940年代)、旧「鴻池村」の東側にあった“陸軍秘密基地”(?)の門柱
(北野1丁目)。レッキとした「戦争遺跡」といえよう。施設の正式名称は、「大阪陸軍獣医資材支廠
長尾分廠」だったという。辺り一帯は大きく様変わりしているが、当時の門柱だけが、65年以上たっ た今も、その場所に姿をとどめている。
【参照】==「伊丹《再》発見…A」――「戦時中、このトンネルを汽車が通った」
なお、「清酒発祥の地」であり、また「戦争遺跡」の残る、伊丹市北部のこの「鴻池」地区は、隣接
する「荒牧」「荻野」「大野」地区とともに、明治22年(1889)から、昭和30年(1955)まで、旧「長
尾村」であった。つまり、これらの地域は同年、「川辺郡長尾村」から「伊丹市」へ編入されたわけで
ある。
左=ジャンボ・ジェット機が上空をかすめるJR北伊丹駅(北伊丹8丁目)。駅は離陸コースの
真下にある。右=猪名川にかかる軍行橋から、伊丹空港を望む。北に向かって離陸した航空機 は、すぐJR北伊丹駅の上空にさしかかる。
ちなみに、JR伊丹駅(中心市街地)は明治中期から存在するのだが、この北伊丹駅は太平洋
戦争さなかの昭和19年(1944)に開設された。猪名川べりの過疎地(農村地帯)に突然、駅が新設
されたのは、軍事優先の貨物輸送が目的だったらしい。付近には、大阪機工猪名川製作所など、
大規模な軍需工場があったからだ。
それと、もう一つ。北伊丹駅は戦後、宝塚・川西方面から県立伊丹高校(緑ケ丘7丁目)へ通学
する生徒たちの、最寄駅としての役割を果たした。筆者は昭和20年代(1945〜)の後半、同校の
在学生だったのであるが、当時、北方から来る仲間の多くは北伊丹駅まで汽車に乗り、大阪機工の
南の塀(へい)ぞいを歩いたという。
そのころ、川西や宝塚に公立高校はなく、伊丹に2校(県立伊丹高校・市立伊丹高校)がある
だけの時代だった。当時、国鉄北伊丹駅はプラットホーム1本だけの、寂しい駅だったように思う。
その後も、この駅は長らく、駅員のいない無人駅だったのではないだろうか。
左=軍行橋の東、西国街道(国道171号線)ぞいにある浄源寺(下河原2丁目)。境内に
そびえるイチョウは、市指定の天然記念物だ。右=猪名川の東の堤防の上(桑津橋の北700
b)にある、紀貫之(866?〜945)の歌碑。伊丹市文化財保存協会が建立したものだ。
左=口酒井遺跡の発掘風景(口酒井2丁目)。この弥生時代の遺跡からは、籾跡(もみあと)の
付いた浅鉢形土器、木棺墓、円型周溝墓などが出土して注目を集めた。右=同遺跡から「穴森第1
号木棺墓」が発見されたときの、発掘現場の状況。この木棺は現在、伊丹市立博物館(千僧1丁 目)の2階に展示されている。
なお、これら猪名川左岸(東側)に位置する地域は、明治22年(1889)から、「伊丹市」と合併する
昭和22年(1947)まで、「神津村」であった。猪名川の東側がそのエリアで、伊丹空港を含む
「小坂田」「下河原」「中村」「東桑津」「西桑津」「森本」「口酒井」「岩屋」が、かつての「川辺郡神津村」
の村域だった。
発掘調査が行われた当時の田能遺跡(尼崎市田能6丁目)。43年前の写真だ。《昭和40年
(1965)に撮影》 この弥生時代の大規模な集落跡は、上に記した口酒井遺跡の少し南側にある。
この田能遺跡からは、人骨の入った箱式木棺、管玉(くだたま=ネックレス)、釧(くしろ=ブレスレット)
などが出土して、脚光を浴びた。遺跡は現在、史跡公園として保存されている。
【参照】――「40年目の田能遺跡」
阪急稲野駅の西側にある御願塚古墳(御願塚4丁目)。5世紀に築造された、周濠(しゅうごう)の
ある帆立貝式前方後円墳で、その全長は52b。県指定の史跡だ。
(4)国鉄伊丹駅(JR福知山線)≪昭和50年代に撮影≫
跨線橋(こせんきょう)のあるレトロな木造駅舎が、
ローカル線特有のノスタルジアを感じさせた。
明治の面影を残した国鉄伊丹駅(伊丹1・2丁目)。現在のJR伊丹駅と
同じ場所に、レトロな旧駅舎は昭和54年(1979)まで存続した。
伊丹における鉄道の歴史は、明治24年(1891)、「川辺馬車鉄道」(伊丹―尼崎)から始まる。
その2年後に「馬車」は「SL」(蒸気機関車)に姿を変え、「摂津鉄道」から「阪鶴鉄道」へ……。レール
が福知山まで延長されたのは、明治32年のことだ。その後、同39年(1906)、「国鉄福知山線」と
なった。
上の写真に示した旧駅舎のあったころ(〜昭和54年)、線路はまだ単線で、駅全体がローカル線
特有の、のどかなムードをただよわせていたものだった。
その後、昭和56年(1981)に尼崎―宝塚間が複線電化され、同時に伊丹駅も酒蔵をイメージした
ような新駅舎が完成。「国鉄」が民営化されて「JR」となったのは、同62年(1987)のことである。
30年前の「国鉄伊丹駅」は、信じられぬほどの“田舎駅”だった。それにしても、現在とは、
雲泥の差だ。7両編成の快速電車がひっきりなしに発着し、すぐ近くにダイヤモンドシティ(超大型
商業施設)や高層マンション群が出現している昨今を思うと、まさしく隔世の感がうかがえる。
線路を跨(また)ぐ木造の跨線橋(こせんきょう)が、ノスタルジアをそそる。橋を支えた鉄の柱に、
「鐡道院」と刻まれていた(左下のカラー写真)。その遺構の一部が、現在、伊丹市立博物館(千僧
1丁目)の1階ロビーに展示されている。
東側(裏)から見た国鉄伊丹駅のたたずまい。レトロな客車が、ゆっくりとプラットホームにすべり
込んできた。ディーゼルに牽引されているのだが、この場面だけを見ていると、蒸気機関車の時代と
錯覚するほどだ。
しかし、現実に、この写真の10年余り前(昭和40年=1965年ごろ)まで、国鉄伊丹駅をもくもく
と黒い煙を吹き上げ、蒸気機関車は発着していたのである。
国鉄伊丹駅の構内は、どこから見ても、鄙(ひな)びた雰囲気だった。右上の写真では、駅舎の
向こう側の高台(有岡城跡)に、荒村寺が見える。駅は城の本丸跡にあるわけだ。
明治の中期、有岡城のあった丘陵(本丸跡の東半分)が大きく切り崩され、そこにレールを通し、
プラットホームや駅舎が設けられたのだった。駅前一帯が、現在も、起伏に富んだ地形となっている
のは、その名残である。
南の方角から、国鉄伊丹駅方面を望む。当時は、左の写真の坂の下(手前)に踏切があり、係員が
遮断機を操作していた。今はもう、踏切はなく、巨大な陸橋が線路をまたいでいる。
新しい駅舎に生まれ変わっても、まだ「国鉄」だった。昭和54年(1979)に木造の旧駅舎(左)が
姿を消し、その2年後に現在の新駅舎(右)が完成する。といっても、もう30年も前のことだ。
なお、国鉄が民営化されて「JR」となったのは、昭和62年(1987)のことであった。それからもう、
20年もの歳月が流れた。
以上、この項目だけで、「国鉄伊丹駅」の写真を25枚も掲載した。そればかりか、このホーム
ページ(『伊丹の歴史グラビア』)では、すでに「B国鉄伊丹駅」で13枚、「伊丹今昔」などでも駅とその
周辺の写真を20枚以上も発表している。ここまでで、合計60枚を超えているのである。
こうなると、筆者自身、いわゆる「鉄ちゃん」(鉄道マニア)ではないと思っているのだけれど、いささ
かその傾向があるのだろうか。
ところで、筆者は67年前の昭和16年(1941)、“汽車場”(国鉄伊丹駅)の前にあった幼稚園に
かよっていた。当時の自宅から幼稚園までは、500bたらず。汽笛の聞こえる丘の上から、よく“汽車
ポッポ”を眺めていた記憶がある。
それから30年余り経った、昭和51年(1976)――。筆者が40歳だったときに、その国鉄伊丹駅
の前で、画期的な出来事があった。駅前の高台にある有岡城の本丸跡が発掘され、戦国時代最古と
される石垣が発見されたのだ。そうして、同54年(1979)、有岡城跡は「国指定史跡」の栄光に輝く。
それは、躍り上がりたくなるようなビッグニュースであった。
この同じ年、有岡城の本丸跡に位置する「国鉄伊丹駅」の旧駅舎が姿を消すと知って、筆者は
付近の写真を撮りまくった。国鉄福知山線の複線電化に伴い、レトロな駅舎は生まれ変わるのだと
いう。こうして、当時の懐かしい旧駅舎の写真を数多く残すことができたのだった。
明治の面影を残した国鉄伊丹駅の改札口。伊丹の昭和時代を象徴する
一コマともいえようか。昭和54年(1979)、「さようなら! 国鉄伊丹駅」と
銘打った写真コンテストが催され、筆者が応募したこのカラー写真は「佳作」
だった。
(5)有岡城跡(忘れられた“戦国の城”)≪昭和50年代に撮影≫
国鉄伊丹駅前の「城山」から、戦国時代最古の石垣が出土。
昭和54年(1979)、城跡は「国の史跡」に指定さる!
戦国武将・荒木村重(あらき・むらしげ/1535〜1586)の居城だった、
有岡城の本丸跡(JR伊丹駅前)。奥に見える土塁の内法(うちのり)部分
から、昭和51年(1976)、石垣の遺構が発見された。
有岡城は摂津一国を支配する摂津守・荒木村重37万5千石の居城であったが、城主の村重が
主君の織田信長に反逆したため、信長の大軍に攻め滅ぼされ、天正7年(1579)に落城した。
以来、城は再興されず、廃城となったまま。城跡は荒れ果て、完全に忘れられた存在だった。
ところが、それからちょうど400年後の昭和54年(1979)、“謀叛(むほん)の城”であった有岡城は
国の史跡に指定される。なんとも皮肉であり、ドラマチックでさえあった。
それにしても、忘れられた小さな“戦国の城”が、なぜ、市・県の指定を飛び越え、いきなり“3階級
特進”で、国史跡の栄光に輝いたのであろうか――。
有岡城についての詳細は、このホームページ(『伊丹の歴史グラビア』)の、「@有岡城跡」「G伊丹
の発掘…有岡城跡」、「伊丹《再》発見C…有岡城の堀が酒蔵の跡地から出土」を参照されたい。
発掘された石垣は、自然石の「野面(のづら)積み」だった。L字型に連なる石組みの中には、
古い墓石などが無造作に突っ込まれている。石垣は天正2年(1574)ごろ、荒木村重が築いたもの
で、城の石垣としては戦国時代最古。発掘された場所(JR伊丹駅前の高台の上=本丸跡の北西部)
で、現在もそのまま保存されている。
石垣が発見された昭和50年代(1975〜)、付近の景色は昔のままだった。それからもう、
30年以上もの歳月が流れた。左=国鉄伊丹駅前の高台(本丸跡)にあった荒村寺。右=駅の東側
に残っていた外堀の痕跡。有岡城の付近は、起伏のある特異な地形であった。
本丸跡からは、築山に泉水(池)を配した日本庭園の遺構も出土。石垣発見の翌年にあたる
昭和52年(1977)、荒村寺の跡地などで見つかった。現在、カリヨンのそびえる辺り(古城橋の西)
や、タクシー乗り場のある付近だ。左=庭園跡の発掘風景。奥の崖下に、国鉄伊丹駅が見える。
右=現地説明会は大にぎわいだった。この写真の100b余り北(奥)が、石垣発見現場だ。
国鉄伊丹駅の向こう(西側=写真の奥)に見える小高い丘は、古くから「城山」と
呼ばれた。それが、有岡城の本丸跡である。しかし、昭和51年(1976)の発掘調査で
古い石垣が見つかるまでは、城の縄張りすらも判然とせず、完全に忘れられた存在だった。
江戸時代の中期、伊丹生まれの俳人・上島鬼貫(うえしま・おにつら/1661〜1738)は、すでに荒廃
していた有岡城跡にたたずみ、このように詠んだ。
古城(ふるじろ)や茨くろなる蟋蟀(きりぎりす)
この鬼貫の句を彫り刻んだ句碑が、荒村寺(駅前)の境内に建っている。それは、慶応元年(18
65)に建立された古典的なものだ。
その忘れられた“戦国の城”跡が、史上初めての“総構え”(町ぐるみの城塞)とわかり、やがて、
国の史跡に指定されるのだから、この筋書きは誠にドラマチックだった。
ところで、石垣が発見された昭和51年(1976)当時、筆者は40歳。大阪の広告代理店に勤務
する、広告プランナーであった。有岡城の石垣発見から国史跡指定までの息づまるような成り行きを、
かたずを呑んで見守っていたのが、昨日のことのように思い出される。
史上初の“総構え”とわかり、有岡城跡は栄光の「国指定史跡」に! 左=“総構え”の城
(町ぐるみの城塞)だったことを物語る『寛文9年(1669)伊丹郷町絵図』(部分=古絵図を接写)
左下の本丸は土塁と内堀で囲まれており、「本丸」の文字が見える。本丸は段丘崖の上にある。
その上(西側)に連なる城下町の外周は土塁と外堀で囲まれ、町全体が城塞化されている。
右=「国史跡」に指定されたことを報ずる新聞記事。ビッグニュースが飛び込んできたのは、
昭和54年(1979)のことであった。それからもう、30年もの歳月が流れる。
(6)伊丹の中心部(旧伊丹郷町)≪昭和50年代に撮影≫
伊丹市の人口は当時、すでに17万人を超えていたが、
中心市街地には古い町屋も点在。まだ、昔の面影が色濃く残されていた。
新旧の建物が混在するJR伊丹駅前通り(伊丹1・2丁目)。高層の
駅前再開発ビル(アリオ)と、古色蒼然たる木造の町屋が、狭い道路に
絶妙のコントラストを描く。
上の写真は、「開発」か「保存」かで揺れ動いた、昭和50年代(1975年〜)を象徴するような
場面といえよう。西方から駅側を望んだもので、突き当たりにJR伊丹駅がある。ちなみに、再開発
ビル(2棟)が完成したのは、昭和63年(1988)だった。≪写真は、同年ごろに撮影≫
上の写真と同じアングルで撮影したJR伊丹駅前通り。左=むかし(昭和50年代=(19
75年〜)。まだ再開発ビルは建っていない。道幅は狭く、昔のままのおもむきだ。右=いま(平成
18年=2006年)。再開発ビルがそびえ、歩道のある新しい駅前通りが出現。手前の古民家も
建て替えられている。
なお、旧伊丹郷町(JR伊丹駅と阪急伊丹駅との間に広がる中心市街地=旧城下町)界隈の町の
様子や移り変わりについては、この『伊丹の歴史グラビア』の、「B伊丹郷町」および「伊丹今昔」など
のページを参照されたい。
伊丹市役所の焼け跡の向こう(東側)に、鬼貫(おにつら)の生家だった
酒蔵が見える(中央3丁目)。≪昭和29年(1954)に撮影≫ 同年1月
の火災で、中央3丁目にあった伊丹市役所の旧庁舎(木造2階建て)は、その
姿を消した。
上の写真は、当時、県立伊丹高校の3年生だった筆者が、南西方向から撮影したものだ。焼け
落ちた跡地に新庁舎を建設する場面だと思う。場所は、現在の伊丹シティホテル(中央6丁目)の
すぐ北側である。
写真奥の右端に見える白壁の建物は、伊丹生まれの俳人・上島鬼貫(うえしま・おにつら/1661〜
1738)の生家だった上島家の酒蔵で、昭和37年(1962)まで存続した。現在、三井住友銀行の
ある場所だ。銀行の前に建てられた句碑には、「鬼貫出生の地」と刻まれている。
写真に写っている酒蔵の左側(北)は川辺郡の郡役所跡で、そこには当時、「白雪」のテニスコート
があった。現在はその場所に、清酒「白雪」醸造元・小西酒造の本社ビルがそびえている。左端は、
法専寺の山門である。
再建された伊丹市役所(当時=中央3丁目)の屋上から、付近を望む。≪昭和30年代(19
55年〜)に撮影≫ 左=阪急伊丹駅前通り。駅は当時、中央4丁目にあった。画面中央の奥、
アーケードの向こうの白っぽい建物が、阪急伊丹駅である。
その駅と市役所との間の、100bほどのなだらかな坂道が、伊丹で一番の目抜き通り。写真に
写っている伊丹市営バスは、昭和24年(1949)に開業していた。なお、阪急伊丹駅が現在地
(西台1丁目)へ移転したのは、昭和43年(1968)のことだった。
右=東方(国鉄伊丹駅方面)を望む(伊丹1・2丁目)。まだ産業道路は拡幅されておらず、その
向こう(東)に黒い甍(いらか)の波が連なっていた。酒づくりで栄えた江戸時代を彷彿(ほうふつ)とさせる
一枚といえよう。高層ビルの林立する現在とは、まさしく雲泥の差だ。
市役所の屋上から、北方を望む(中央2・3丁目)。画面の奥に、猪名野神社の森が見える。
町全体が昔のままの雰囲気を残しているように思えた。左=「宮ノ前」へつづく通り。狭い道幅
だった。真ん中の切妻の屋根は、「大手柄」の酒蔵である。右=その一つ東の道筋。手前は、
法専寺の山門、右上の白壁・黒い板張りの建物は、「白雪」の長寿蔵だ。
当時の伊丹市役所は、こんな建物だった。火災のあと、昭和30年(1955)に再建された市庁舎
は、鉄筋コンクリート3階建て。中央部に、消防署員が監視にあたる高層の“物見やぐら”(望楼)が
あった。
左=伊丹第一ホテル(現伊丹シティホテル)の建設用地(中央6丁目)から撮影。右=アーケードの
ある商店街付近(中央1・4丁目)から撮影。この右側の写真は、昭和30年代(1955年〜)に撮影。
なお、伊丹市役所は昭和47年(1972)、千僧1丁目の現在地へ移転した。その後、元の
庁舎(中央3丁目)は社会経済会館となったが、現在はネオ伊丹ビルに生まれ変わっている。
かつて「本町通り」と呼ばれた、産業道路の界隈(中央3丁目・伊丹2丁目)。この辺り、江戸
時代にはズラリと酒蔵が建ち並び、伊丹は日本一の“酒造産業都市”として栄えたという。
左側の白い建物は、清酒「白雪」醸造元・小西酒造の本社。右側の酒蔵と、右の写真は、同社の
万歳1号蔵だ。しかし、この巨大な酒蔵は平成19年(2007)まで存続したが、今はもうない。
長寿蔵(現在の「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵)の前の通り(中央3丁目)。平成2年((19
90)まではこのような狭い道幅で、「伊丹郷町」の面影をよく残していた。左の写真の300bほど奥
にJR伊丹駅、右の写真の300bほど奥に阪急伊丹駅がある。当時、付近にはまだ、高層ビルは
建っていない。そのため、現在の風景とはかなり違っているように感じられる。
レトロで趣(おもむき)のある、酒蔵のある風景。こうした古典的な酒造蔵から、“酒づくり唄(うた)”
が聞こえてきたのも、もう「今は昔」となった。
左上=小西酒造の南蔵(伊丹4丁目)、右上=同社の万歳1号蔵(伊丹2丁目)、左下・中=同社
の長寿蔵(中央3丁目)、右下=大手柄酒造の南蔵(中央3丁目)。これらの酒蔵のうち、現存して
いるのは、長寿蔵(「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵)だけである。
小西酒造の作業場で、「担(にな)い桶」を作る松井竹男さん(伊丹1丁目)。伊丹市立博物館
が催した、見学会での一コマである。この作業場の場所には、現在、巨大なマンションがそびえて
いる。
巨大な「鬼貫句碑」のあった空間(中央2丁目)。場所は、現在の伊丹シティホテル前の交差点
付近である。上島鬼貫(うえしま・おにつら/1661〜1738)は伊丹生まれの俳人で、松尾芭蕉と並ぶ
元禄俳壇のスーパースターであった。
その鬼貫を顕彰する句碑は、昭和53年(1978)、伊丹で催された「鬼貫翁240年祭」の一環と
して建立された。高さ2.7b(別途基礎の高さ1b)、幅3.2bの超ジャンボ・サイズだ。
右上の写真の右側の建物は、社会経済会館(元の伊丹市役所=中央3丁目)。右下の写真は、
そのビルの屋上から撮影した。西方にカメラを向けたもので、手前に句碑のアタマが見える。当時は
まだ高層ビルは建っておらず、阪急伊丹駅付近まで見渡すことができた。
なお、現在、この場所にもう句碑はない。伊丹第一ホテル(当時)の建設に伴って市街地改造が
行われ、昭和60年(1985)、句碑はJR伊丹駅前へ移転を余儀なくされたからだ。筆者もそのころ
まで、この巨大な句碑のすぐ近くに住んでいたのだった。
中心市街地を「伊丹歴史まつり」のパレードが行く(中央1・4丁目)。パレードには、有岡城主
「荒木村重」や正室「だし」も登場した(左)。チンドン囃子(ばやし)のにぎやかな音色が、酒蔵などに
響きわたる(右=中央2・3丁目)。
信長も見た(?) 法巖寺(ほうがんじ)のクスノキは、樹齢500年超。県指定の天然記念物だ
(中央2丁目)。高さ28b、幹の太さ6b。有岡城のあったころ(1574〜1579年)、このクスノキは
すでに“背高ノッポ”の巨木で、絶好の“物見やぐら”であったのだろう。
ここで、余談を一つ。
「お寺の大クスノキの上には、昔から“砂かけ婆(ばば)”がおってな、夜、人間が下を通りかかると、
パラパラと砂をふりかけるのや」――子供のころからよくそんな“怪談”を聞かされていたものだから、
筆者は大人になってからも、下の道は小走りに通り抜けたものだった。
猪名野神社の門前町だった、「宮前商店街」の南入口付近(宮ノ前1・2丁目)。その角っこにも
古い酒蔵の煙突がそびえていた。現在、「みやのまち3号館」「同4号館」(宮ノ前再開発ビル)の建つ
場所だ。ここから300bほど先(北)に、「伊丹郷町」の氏神・猪名野神社がある。
左=猪名野神社の境内は、今も昔とほとんど変わっていない(宮ノ前3丁目)。しかし、その
門前町だった「宮ノ前地区」が大きく様変わりしたのは、驚くばかりだ。伊丹有数のショッピング・ゾーン
だった、「宮前商店街」のあのにぎわいはどこへ行ったのだろうか。
右=猪名野神社の神輿(みこし)が、「宮ノ前通り」を南下(宮ノ前1・2丁目)。「昭和レトロ」の
感じられるこの古いカラー写真で、とくに注目すべきは、左側の町屋だ。この建物は、石橋家の住宅・
店舗である。現在、「宮ノ前通り」の100bほど東にある「旧岡田家住宅」(国指定重要文化財)の隣
に移築され、県指定の文化財となっている「旧石橋家住宅」(宮ノ前2丁目)は、江戸時代からの商家
で、昭和・平成時代まで、「宮ノ前通り」に面して東向きに建っていたのだ。
このカラー写真は、そのことを如実に物語る“証拠写真”ともいえよう。
ちなみに、石橋家の建物があったのは、現在、「みやのまち3号館」の建っている付近だ。なお、
写真の右奥に見える白壁の町屋は歴史ある医院であったが、現在その場所には「FMいたみ」のサテ
ライト・スタジオ(伊丹商工プラザ)がある。
伊丹小学校の校舎は、昭和50年代に「新」「旧」交代(船原1丁目)。同校は創立130年を超え
る伝統校だ(明治6年=1873年に開校)。明治以来、昭和の中期まで、伊丹小学校は旧「伊丹町」
(伊丹・北村・大鹿・北河原・天津)を校区としてきた。
左=“軍艦校舎”の愛称で親しまれた旧校舎本館。昭和12年(1937)に竣工した市内最古の
鉄筋コンクリート3階建てだった。筆者は昭和17年(1942)から23年(1948)まで、伊丹小学校(当
時=伊丹国民学校)の在校生だっただけに、この“軍艦校舎”の写真は懐かしい。
右=伊丹の酒蔵をイメージした瓦屋根の新校舎。昭和58年(1983)に完成したこのニュー
フェースも、もう「25歳」になった。「昭和」が遠くなるゆえんであろう。
以上、「昭和」が遠くなった平成20年(2008)8月、73歳になろうとする自分が、
50年前・30年前に撮影した写真を掲げて「昭和レトロ」を回顧し、このような“自分史”
みたいなページを制作することができたのは、この上ない喜びである。
【平成20年(2008年)8月、制作完了】