シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

No.38/2006.10

木田金次郎  〜 異国・あの人・この人(1) 〜


  1921(大正10)年9月、木田金次郎は上京しました。元老・松方正義宅を訪れるためです。第1次世界大戦で疲弊したヨーロッパでは、海外へ私財を売却しなくてはならない状態となっていました。松方は売り出された絵画を買い集めたのでした。木田は有島宅に宿泊し、それらを思う存分鑑賞しました。西洋絵画を実際手に取って見た貴重な体験となったのです。

 1928(昭和3)年10月〜11月にかけ、木田は満州、朝鮮へ写生旅行に出かけています。満州鉄道に勤務する友人の杉野光孝、加藤譲らのすすめによるものでした。元老・西園寺公望の秘書である原田熊雄からの招待状を持参していました。現地で作品を描き上げます。大連、哈爾賓(ハルピン)、京城(ソウル)、を廻り、「老虎灘(ラオフータン)」「ハルピンの踊り子」「朝鮮金剛山」などの風景画や人物画を描きました。大連の満州倶楽部で2日間の個展が催されました。これは木田にとっての唯一の海外旅行となりました。当時の木田の絵画は、油絵への愛着と追求で印象派の画風、手法を摂取し、あらゆる方法で筆致を試みています。

 木田の著作には、影響を受けた西洋画家が取り上げられています。ピサロ、セザンヌ、ゴッホ、ルノアール、ロダン、ミレー、シャール・コッテ等です。1929(昭和4)年に書かれた『先生を憶ふ』には、セザンヌの複製画を見せてもらったこと、東京の三会堂?でパルツの青いリンゴが三つ白い皿にのって描かれた画を見たこと、ミレーの作品の話が述べられています。ピサロには思いが深く、1954(昭和29)年の『画業40年を顧みて』の中で、「私はピサロのやうに・・・花さく樹々を愛していた。初期の作『果樹園』にみられるように写実の中にリリシズムをもろうとしていた」と認めています。池田雄次郎は『回想の木田さん』で、「・・・絵の方ではポプラや柳の素描を始めた。初めは、前の山の場合の様に葉のかたまりを一つのボリュームとして表現してゐたので、一寸、異様な感じをうけたが、やがてやわらかな葉が、光線をうけて錯綜する感じが表現され、ピサロの影響を受けているのではないかと思った」と述べ、のち木田が、「ピサロを知ったことは大変よかった」と語ったことが記されています。

 

(引用・参考文献)

  『「生れ出づる悩み」と私』北海道新聞社
  岩内ペンクラブ「岩内ペン」 6号、7号
  桜居甚吉文書
R.M

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