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『アルジェンタ』創世記 外国を舞台にした庶民の生活とはかけ離れた非日常的なできごとを描いた散文作品がまともな吟味の対象にされようとは、夢にも冗談にも思っていなかった。それが何年か後には出版されてしまったのだから、先のことはわからないものだ。 高校一年のある夜に見た夢が『アルジェンタ年代記外伝』のそもそもの始まりだった。高校野球のエースだの、悪の組織の女首領だのが登場し、忘れてしまうには惜しいドラマチックな夢だった。一年後にはその設定とキャラクターを借りて現代日本の高校生が暗躍する冒険小説を仕上げた。高校時代の創作の中では、一番愛着のある作品だ。 これが大学一年の秋にはなんと作品ごと中世ヨーロッパに引っ越してしまった。通学途中の道でふと、あの作品の登場人物たちを移動させたらどんな話になるだろう、などと変なことを考えたせいだ。(そのころ私はまだ自転車に乗れなくて、大学まで早足で三十分の道のりをえんえんと歩きながら日替わりの空想を楽しんでいたのである。自家製の映画を見るようなものだ。) きっかけさえ与えてやれば、空想はそれ自らユニークに展開していく。私はただそれを追いかけて眺めるだけでよかった。一週間もするうちには、プロットもキャラクターも前作を離れて、全く別の物語に育った。原『アルジェンタ』の誕生だ。 それから三年の間に、空想はどんどんふくらんでいった。劇的な要素が強すぎる幼稚な素材だと思ったので、文芸作品として実際に書くつもりはなかった。だが、この話の舞台をイタリアに定めたことから、それまでほとんど知らなかったイタリアという国に興味を持つようになり、調べるのが面白くて調べまくった。知識が増すにつれ空想の映像は細部まで明らかに見えてきた。物足りないと思えば画面を巻き戻して何度でもやり直す。創作者の役回りは〈神〉よりも〈大統領〉か〈映画監督〉に近い。場面ごとの具体的な会話や動作が頭の中にあふれた。互いに矛盾する内容をもふくみながら、何通りもの映像のバリエーションがひしめきあった。こうなるともう映像の全体を紙の上に移しかえなくては自分が破裂しそうだった。 卒業論文が大詰めを迎えていた時期である。趣味のお話なんか書いている場合でないのはよく承知していた。だが、中学・高校時代の定期試験の前がそうであったように、書いてはいけないときほど創作意欲をそそられるものだ。まして、このように作品世界が熟しきっていると本人にはどうしようもないのだ。 当初はだれにも見せないつもりだったから粗く一気に書きあげた。それでもつい二人の友人に見せた。おもしろいということだった。それに気をよくして書き直しにかかった。結局卒業までに第二稿を書き、就職してから腰をすえて第三稿をはじめた。推敲というよりは改作である。この第三稿がのちに編集者に読んでもらった原稿になる。 当時この世界では今より以上に社会派リアリズムが主流だった。周りの空気に揺さぶられ、もうこんな絵空事を書くのはやめよう、良心的な好短編を書こう、と何度も心に決めた。だが、登場人物が愛しくて見捨てられなくて、とうとうおしまいまで書き続けた。 昭和六十二年夏、頼んで全編を読んでもらった作家から葉書を頂いた。原稿を出版社の人に見せたという。秋には編集長からの手紙が届いた。「なんとか出版にこぎつけるよう、さらに努力してもらいたい」とのこと。「出版」という言葉にめまいがした。小学生のときから願いつづけ、高校に入ってからは疑いつづけ、思い切ろうとして思い切れなかった非現実的な夢の出発点が、にわかに実現の可能性を帯びて見えてきたのだ。それも、二十代の半ばという早い時期に。 あとは改作と推敲があるのみだった。 『シソーラス』創刊号 1991年10月 夢のゆくえ 子どものころ夢に描いていた人生設計は、大人になったら売れない作家になって、屋根裏部屋で飢えと寒さをしのぎながら世に認められない傑作を書きつづけ、若くして不遇のうちに世を去り、死後、遺された作品が脚光を浴びて文学史に不滅の名をとどめる――といったものでした。 さて、その子どもが成長した段には、卒業と同時に地元の市役所に就職して、堅気の仕事と創作を並行させるという、きわめて堅実な道を選びました。 架空の世界や宇宙の彼方や過去や未来など、私がのめり込んで描く作品の舞台は、どこか日常から外れています。それらは、ふだんと違ったことを経験させてくれ、日常生活では口にするのも恥ずかしくなった「友情」や「信頼」や「勇気」や「信念」をプロットに織り込める格好の舞台でした。とはいえ、作者がこういうことを計算したうえで舞台を選んでいた訳ではありません。とりとめもない空想の切れっぱしをあたためていくうちに話が大きくなって、つい日常からはみ出してしまうのです。 あてもなく書きあげた「アルジェンタ年代記外伝」は、その後『銀色の仲間たち』と『永遠の剣』の上下二巻に分けられて出版されることになりました。わずかでも出版の可能性が見えて来たときには仰天しました。もし初めにそんなつもりがあったら、外国の架空の歴史なんていう大胆な素材で書けたかどうかわかりません。 昨年、アルジェンタの聖ジョバンニ教会が火事で焼失しました。――というのは、執筆中それになぞらえて見学に行ったサビエル記念聖堂(市役所の近くのカトリック教会)のことですが。あの鐘の音はもう聞けなくなりました。 『日本児童文学』1992年4月号「新人登場」 子ども劇団 今から十八、九年前、山口市内に子どもの手で運営されている子どもだけの劇団があった。その名は「青空劇団」。メンバーは同級生の女子九人だ。 ※ 新聞掲載のときには「子ども劇場」というタイトルが印刷されていましたが、自分で原稿に書いたタイトルは「子ども劇団」でした。こだわるほどのことでもありませんが、元に戻しておきます。 「山口新聞」1992年3月8日「東流西流」 分からなくても面白い 「能面のような顔」という表現は実際に能面を見た後では使えない。本物の能面は、静かだが、とても豊かな表情をしている。 「山口新聞」1992年3月22日「東流西流」 金子みすゞのこと 巷に「山口県が生んだ天才童謡詩人、金子みすゞ」という謳い文句が流れ始めたころ、私の反応は冷淡だった。県がなにかヘンな観光キャンペーンを始めたな、という感じだった。筆名も詩集の題も甘ったるく思われ、どうせお上のもてはやす文学に碌なものはあるまい(おっと、過激な発言)と決めつけた。 ※ この文章を書いた当時、金子みすゞは今ほどメジャーな存在ではありませんでした。 「山口新聞」1992年3月29日「東流西流」 「八岐の大蛇」への序章 旅行ガイドブックによると、松江駅前から熊野行きのバスに乗って約三十分ということだから、風土記の丘資料館前が行程のおよそ半分にあたる。道はまだまだ続くはず――。それはわかっていたのだが、景色がめっきり鄙びてくるにつれ、「私はどこまで行くのだろう?」と、不安は募った。 松江市内を走っていたころ標準語をしゃべっていた運転手氏が、だんだんズーズー弁になり、乗り込んで来る乗客といかにも親しげに会話を交わし始めた。車内アナウンスが言うことには、「これより終点まではどこでもお申し出のあったところで停車しますので、お早めに運転手にお知らせください」…………。 一年前の夏から、古代出雲を舞台にした先史小説を書き始めた。今回の旅はその取材旅行だ。作品の直接の舞台となるのは出雲市や木次町などの斐伊川流域だが、いま、私がバスに揺られて行こうとしているのは、一時期(といっても大昔)出雲大社よりも格式が高かったという八雲村の熊野大社である。熊野大社の前を意宇川という川が流れている。古代の出雲の中心地の一つは、この意宇川の流域にあったらしい。その流れを自分の目で確かめておきたいと思う。もちろん川の流れなどは時代によってたやすく変わってしまうものだから、私が描こうとしている弥生時代とはずいぶん違うだろうけれども。 突然、窓の外の景色が様変わりした。レジャー施設であるらしい都会的な建物が沿道に見えた。その隣が熊野大社だ。駐車場に大型の観光バスが何台も停まっている。ここらが八雲村の目抜き通りなのだろう。さすがに大社は鳥居が大きい。 鳥居をくぐる前に、帰りのバスの時刻を確かめた。滞在時間は十五分、それでなければ二時間だ。十五分の方を選ぶことにする。道が遠く感じられたせいか、熊野大社の社殿を前にして、私は妙に厳かな気持ちになっていた。便利のよい出雲大社では、ついぞ感じなかったことだ。 なによりの目的は意宇川なので、橋に立って上流と下流をそれぞれ写真に撮った。一級河川の斐伊川に比べると、ずいぶん小さい。しかし、古代出雲の王権を最終的に握りかけたのは、どうやら意宇川のあたりを治める支配者であったらしい。完全に出雲全域を制覇する前に、大和の王権によって、なし崩しに従えられたらしいが……。 以上は、神話と考古学から推理したもので、歴史的に根拠のある、私のプロットである。どこまでが学者の立てた仮説で、どこからが自分の創作だったかは、忘れてしまった。 取材だけでは申し訳ないので、ついでにお参りも済ませた。大和朝廷が神々の系譜をまとめるために与えた祭神の名はあまりあてにしない。だが、遠いはるかな時代、この地域にクマノの有力な神を祭る一族がいたことは確かだ。 大和史観の歴史物語なんか、今さら書いてもつまらない。古代といえば邪馬台国、というのにも飽きた。東日本の書き手たちは日高見国に注目し始めている。西の私が書くとすれば、やっぱり出雲王朝だ。故郷に近くて、しかも異郷である。親近感はあるが、郷土愛に溺れる心配はない。 時計を見ながらバス停に向かった。食事をする場所がないかもしれないと思って、あらかじめ市内でパンと缶コーヒーを買ってあった。これは正解だった。バスを待つ間、ベンチに腰かけて昼食にした。写真を撮って賽銭をあげただけのことだったが、不思議に豊かな満ち足りた気分だ。 風土記の丘資料館前まで戻ると、ひどく懐かしいような気がした。神仙郷から現実世界へ――、往路とは逆に、運転手はだんだん事務的になっていく。やがてバスは無事に松江市中心部に帰還した。 『シソーラス』第6号 1996年10月 Back Next |
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