よく子供のことを「ガキ」とか「ガキンチョ」といわれ、「ガキ大将」とか「ガキの使いやあらへんで!!」といいますが、もともと仏教の餓鬼から来ています。私たちが生まれ変わり死に変わりを果てしなく繰り返す世界を「六道(ろくどう)」といいますが、その六道の一つを「餓鬼道(がきどう)」とか「餓鬼界(がきかい)」といい、ある行いをすると、餓鬼道に堕ちて餓鬼に生まれます。では餓鬼道とは一体どんな世界で、どのような原因によって堕ちるのでしょうか。また堕ちない方法はあるのでしょうか?
餓鬼というのは、骨と皮ばかりにガリガリにやせ細り、お腹だけをぷっくりと膨らませ、肌は黒く、鬼のような顔の醜いすがたの生き物です。種類によって大きさはまちまちで、30cm位の餓鬼もいれば、人間と同じくらいの餓鬼、山のように大きい餓鬼も存在します。
餓鬼は、いつもお腹をすかせているので、何か食べたくて仕方がありません。ほとんど何も食べていないので、ダイエット中くらいとは比較にならないほどお腹がすいています。そのため、食べ物を見つけると、猛ダッシュで駆けよります。シャッと手を出して食べ物をつかみ、無我夢中で口にほおばろうとしますが、食べ物は、ボッと青白い炎になってしまい、食べられません。火にならない場合も、口が針のように小さい為に食べられなかったり、口から火を噴いているために食べられなかったり、のどにこぶがあって、それが食道をふさいで食べられなかったり、飲み込んだものが火になって体を焼いて出てきたり、色々な餓鬼がいます。
とにかく共通しているのは、いつも、食べたくて食べたくて仕方がないのにひもじい毎日を送っているところです。もちろん喉もカラカラなので、水を見つけると、駆け寄って一心に飲もうとするのですが、水も口に近づけると火になってしまい、飲めません。そのためいつも喉がカラカラで、飲みたくて飲みたくて仕方がありません。
こうして、過去の行いによって、色々な種類の餓鬼がいますが、とにかく何でもいいから食べたい飲みたいという食欲にかられて、蛾などの昆虫や、人や動物の排泄物などを食べたり飲んだりして命をつないいるあさましく醜い生き物です。その上、餓鬼に生まれた場合の寿命は、人間界の一ヶ月を一日として、500年です。計算すると約1万5000年です。
餓鬼道は、もともと地下深くにありますが、餓鬼は人間界や天上界にも出てきているときがあります。餓鬼に取り憑かれると、自分のことしか考えず、欲深くなるので、よく昔は公家や貴族に取り憑いている絵が描かれていましたが、私たちも餓鬼にとりつかれないように気をつけましょう。では、死んだ後、餓鬼に生まれるのは、どんな行いをした人なのでしょうか?
どんな行いをすると、餓鬼に生まれるかについては、具体的なことが色々と説かれています。例えば、貪欲にお金を集めたり、動物を食べるために殺すと、顔や目がなく、手足が短くて胴体が大きく、大きな胴体の中が火で焼けている餓鬼になります。家族で自分だけ美味しい物を食べて、夫や妻や子供に与えないと、山のように大きくて、食べ物を見つけることができない餓鬼になります。
さらに、家族が見ている前で自分だけ美味しいものを食べると、匂いだけで食いつなぐ餓鬼になります。酒を水増しして売ると、水辺に走り寄って水を飲もうとすると、後頭部を金棒で鬼に殴られて飲めず、橋を渡る人の靴からしたたり落ちた水をすばやく飲んで命をつなぐ餓鬼になります。訪問してきた営業の人から商品をだましとると、植物が生えず、砂しかない海の中州に生まれて、暑い日差しに照らされながら、食べるものも飲むものもなく、わずかの朝露で命をつなぐ餓鬼になります。
このように、生前、布施の精神が乏しく、ケチで、他人のものを盗んだり、お金や食べ物を自分だけ楽しもうとする欲の心によって、餓鬼に生まれるのです。
このように、餓鬼に生まれる原因は、欲の心ですから、欲の反対の布施に心がけて、欲の心がなくなれば、餓鬼道に堕ちなくても大丈夫です。布施とは、他人に親切にすることで、お金や物を人に与えたり、手伝ったり、心をかけたりします。
また、仏法を伝えるのは、法施といって、相手に本当の幸せを届けることになる、極めて尊い布施です。布施をやってみて、もし欲の心がなくならないようであれば、さらに、六道輪廻の根本原因の心をなくして、欲の心あるがままで、六道輪廻を離れることもできます。その場合は、当然餓鬼道にも生まれません。
お塔婆やお施餓鬼に参加するということは、仏様を餓鬼界から救い、また我々の心を救ってくれ、現在の私たちの善根の功徳を積むということです。
※令和元年 8月16日に顕正寺のお施餓鬼の後にさせて頂いた法話です。
顕正寺では春、秋の彼岸会、夏のお盆と施餓鬼を行っております。檀信徒様のご参拝をお待ちしております。
日蓮宗 顕正寺 住職 吉田本晃