『盂蘭盆御書』 昭和定本日蓮聖人遺文より

 

 ー 詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆえぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわんや他人をや。しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。此の時こそ父母も仏になり給へ。故に法華経に云はく「我が願既に満じて、衆の望亦足りぬ」云云。目連が色身は父母の遺体なり。目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。ー

 

◆現代語訳◆
 大事なのは、目連尊者が仏に成っていなかったということである。自分が仏に成らなくては、父母さえも救うことができないのである。まして他人などなおさら救うことはできない。
 ところが、目連尊者は法華経の中に出てくる「正直に方便を捨て」という経文に従い、それまで固く守り続けてきた、小乗の二百五十戒をその場で投げ捨てた。そして、釈尊の真の教え法華経を実践された。それは今、我々がお題目を唱えることとまったく同じである。やがて目連尊者は多摩羅跋栴檀香仏という名前の仏となった。この瞬間にこそ、目連尊者の父母も仏に成ることができたのである。
 だから、法華経に「我が願いは既に満たされ、衆の望みもまた充分に叶えられた」と説かれているように、目連尊者の願いである父母の成仏がかなえられ、同じようにお題目を唱える者の願いもかなえられるのである。
 目連の身体は、父母が遺してくれたものである。(目連の身体は父母の身体そのものである。)その目連の身体が仏となれば、同時に父母もまた仏と成ることができたのである。>

 

 

令和3年7月
法華山 顕正寺 吉田本晃