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  数篇の童話に就てのメモ

四又の百合 グスコーブドリの伝記 オツベルと象
二十六夜 やまなし 風の又三郎
北守将軍と三人兄弟の医者 土神ときつね ひかりの素足
銀河鉄道の夜 付・戯曲「イーハトーボの劇列車」


「四又の百合」

 初めて「四又の百合」を読んだのは、高校生のとき小遣いで買った文庫本で、だった。このころ買い集めた賢治童話の文庫本の中ではかなり遅い購入だったから、賢治の世界はすでに親しいものになっていた。

 この短い作品が私にとって印象的なものになった理由は、最後の一行に尽きる。
「二億年ばかり前どこかであったことのやうな気がします。」

 これを読んだとたんに、この作品の舞台が広大な宇宙の中の一点に位置づけられた。二億年前というからには地球上のできごとではありえない(人類が発生したのは、たったの百万年前のことだ)。これは遠い昔、どこかよその惑星で起きたできごとなのだ。

 そういう連想が直ちに働いたのは、仏典にくりかえし登場する、はるか過去の世の他の仏国土の物語による。

 仏教というのは、本質的にはどこの惑星に発生しても不思議はない宗教だ。それはこの世の法則を見極めることによって打ち立てられる体系だから、ユダヤ・キリスト教のような特定の神話を必要としない。

 よその惑星に発生した人類においても、いずれだれか慣性の法則や相対性理論を発見する科学者が現われるであろうように、ゴータマ・シッダールタのような個性が現われれば、仏教が起こるだろう。

 たとえば、なにごとも原因があって結果が生ずる(因果)のだとか、ものごとには根本的な原因と直接的な機縁(因縁)があるとか、あらゆる事柄は相関して起きる(縁起)とか、きわめて客観的な認識を基に導き出された宗教なのだ。当時のインドにはゴータマ・シッダールタの外にも多くの優れた思想家がおり、中でも優勢だった六人は仏弟子からも「六師外道」と呼ばれて、それなりに尊敬を払われている。彼らと仏陀の差は紙一重だ。ほかのだれかがゴータマ・シッダールタと同じ悟りを開いたとしても、いっこうに奇妙ではない。真理とは、発見されるものだからだ。

〔古い経典の詩句に「太陽が昇らないあいだは蛍が輝いている。しかし太陽が昇ると、にわかに暗黒色となり、輝かない。/そのように、如来が世に現われ出ないあいだは、(仏教外の)思索者たちが照らしていた。しかし世の中が仏によって照らされると、思索者は輝かないし、その人の弟子も輝かない。」(中村元・訳「ブッダの真理のことば 感興のことば」岩波文庫)とある。外道とは、悪魔のような忌まわしい者ではなく、太陽の前の蛍火のようなものだった。世を照らす力はないけれど、それも光だと仏教側から認められているのだ。〕

 原始仏教においてすでに過去七仏という概念が現われている。未来に弥勒仏が想定された起源も古いようだ。歴史上の仏陀は真理を発見した偉大な人の一人に過ぎない。それだから、大乗仏典にはきら星のように現われる異世界の宗教家たちの布教のさま、説法のさまが描かれ、たたえられている。

 最後から二行めまでは「四又の百合」の舞台を、仏陀在世中のインドだと思った。仏陀に帰依する国王がいたマガタ国やコーサラ国などが思いうかんでいた。
 最後の一行はどんでん返しである。
 どこかの星にも二億年前、仏陀がいたのだ。そこでも人々は仏陀を慕い、大人も子どももそわそわして街に迎えたのだ。二千五百年前の地球で、インドの人たちがそうしたように。
 それが私にはとてもまぶしく、すがすがしかった。

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「グスコーブドリの伝記」

 高校の地学の授業で、教師が「火山が爆発すると気温が下がる」という話をしたことがあった。私はよっぽど納得のいかない顔をしていたのだろう。「逆のような気がするかもしれないが、下がるのだ」と教師はくりかえした。

 それはおかしい、と私は思った。グスコーブドリは気温を上げるために火山を爆発させて死んだのではないか。その話を書いた宮沢賢治は「文学者というよりも、むしろ科学者として一流だ」(というように、私は賢治のことばを記憶していた)と、自負していたほどの人ではないか。だから、火山を爆発させれば気温は上昇するに違いない。

 きわめて非科学的な根拠により、私はそう確信した。(そもそも、私が地学を選択したのは宮沢賢治の影響なのだから。)

 地学の教師に向かってそのように議論を吹っかけていたら、きっとおもしろい場面が展開されていただろう。先生のほうでも、呑み友達の娘に素面で絡まれたのではさぞ迷惑したに違いない。けれども、途中で面倒臭くなって、そのままやり過ごしてしまった。

 私はそれ以後もかたくなに賢治を信じつづけた。そのころはまだ精神が幼くて、宮沢賢治の言うことに間違いがあるとは考えられなかったのだ。

 この最も科学的な題材の童話のなかには、科学的に矛盾する点がいくつかあるらしい。たとえば、人工的に雨を降らすことができるのなら、時限爆弾を用意できないはずがない、とか。理系人間の賢治にはそれを予測することができたはずだ、とか……。
 それでも、賢治はブドリを犠牲的に死なせなくてはならなかった。

 時代によって姿や形を変えながら、最後に主人公が英雄的な死を遂げるストーリーは、平均的日本人を感動させ続けている(私もまた他愛なく感動する一人だ)。そういう民族の精神構造は、宮沢賢治という希有な精神をも、まるめこんでしまったのだろうか。

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「オツベルと象」

 この作品の最後の一行、
「おや、〔一字不明〕川へはひつちやいけないつたら。」

 この最終行は、研究者の間で物議を醸しているらしい。原稿がないために、何か脱文や省略があったのではないかとかも疑われている。

 私が子ども時代に読んだ文庫本では、「おや、君」とまことしやかに一字が補ってあり、なんの抵抗もなく読み終えた。論議を呼んでいると知ったときには驚いた。これは実にうまい、味わいのある結びだと思っていたので。

 牛飼いの語りの枠の中で展開していた世界が、枠を突き抜けてもう一つ外に出ている。そういう文章だと、私は解釈していた。これによって、牛飼いの物語りに集中していた聞き手(読者)は、話の内側から外の世界へ無事に帰還することができるのだ。

 カメラの視座がアップからロングに引いているような、そんな印象をもった。同じ効果は「祭の晩」の最終行「風が山の方で、ごうっと鳴って居ります。」や「よだかの星」の念を押すような最終行「今でもまだ燃えてゐます」にも感じた。語りが終わって周りの景色が見え始める……語りの中を流れていた時間が変わる……そんな状況だ。

 客観的な事実が編集者の省略であろうと、印刷の際の脱文であろうと、作者の書き損じであろうと(それが将来明らかにされようと)、今あるこの結びの文章を、主観的に私は喜んでいる。

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「二十六夜」

 高校二年生のとき、私は演劇部で春の独立公演の練習に励んでいた。そのとき、部員のだれかが死にかけた雀を見つけてきた。体育館の舞台のそでに小道具の藁を敷いて寝かせ、練習の合間にみんなで様子を見ていたが、雀はとうとう死んでしまった。

 面倒を見たついでに、埋葬してやろうと話は決まった。そのとき、私は「鳥のためのお経があるから、持って来て読もう」と言った。友達は「えっ、そんなものがあるの」と、びっくりした。私はきっぱりうなずいた、「そう、あるの」。

 私が考えていたのは「二十六夜」に出てくる経文だった。これこそ、雀を弔ってやるのにふさわしいと思った。

 キリスト教では人間以外の生き物に魂を認めないが、仏教では悉皆仏性という。動物も植物も鉱物も現象も、存在としては同等の意味を持ち、同じように仏になる可能性を宿している。雀も成仏できるだろう。

 童話「二十六夜」は特に好きというわけではないが、心を引かれる作品の一つだった。
 作中、若い梟たちが「何かし返ししてやらう。」「火事で焼けるのはあんまり楽だ。何かも少しひどいことがないだらうか。」「赤子の頭を突いてやれ。畜生め。」と騒ぐ。それを読みながら、赤ん坊に何の罪があるのかと人間である私は憤慨し、梟の側に立った読者の私は、穂吉がいったいなんの悪いことをして足を折られたのかと、若い梟たちの修羅に共感して悲しんだ。当事者の穂吉の静かさが周囲に渦巻く修羅を際立たせる。

 この部分の具体的な仕返しの計画案は、とてもイツモシズカニワラッテイル宮沢賢治先生の筆になるとは思えない。実に実感がこもっており、意地の悪い私はうれしくなってしまう。ときには賢治もめらめらと怒りの炎を燃やしつつ、梟の和尚のように「恨みの心は修羅となる。かけても他人は恨むでない。」と自制して生きていたのであろうと、小人は勝手に想像する。

 この創作経典について、岩波文庫版の解説には「古い漢訳経典の和訳の体を模してなかなかよくできている。賢治が法華経の諸品を常に誦して、その文体を完全に自分のものとしていたことがわかる。」(谷川徹三)と評してあった。だが、当時の私にはそれほど大したことのようには思えなかった。このころには文庫本で読める仏典をかたっぱしから読み漁っており、自分でもこういうものを作ろうと思えば作れそうな気がしていたのだ(実際、原稿用紙二十枚くらいの法華経のダイジェスト版を作ったことがある)。十六歳の凡人の集中力は、成人した賢人の力よりもずっと天才に近い。

 結局、雀のために読経してやる機会はなかった。演劇部の上級生が小枝で十字架を作って地面に埋めてやった。かの雀はキリスト教式で葬られたわけだ。

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「やまなし」

 国語の教科書で出会った読み物の中で「作者の意図」が見え透いていないのは、小学六年のときの「やまなし」が最初だった。それはとても新鮮に感じられた。「やまなし」というと今でも教科書に添えられていた幻燈めいた挿絵をいっしょに思い出す。

 クラムボンとかイサドとかいう「作者がつくったことば」にも魅力を覚えた。そのころまでにかなりの数の童話や小説の習作を重ねていた私は、新しいことばを作ったり、地名を創作したりすることに一種のやましさとあこがれを併せ抱いていた。大人の作家の中にこういう手法を用いて童話を書く人がいるというのを、心丈夫に思ったものだ。

 クラムボンとは何であるか、ということは我が教室では大して話題にならなかった。クラムボンは、そのままクラムボンだった。私個人はその語感から、葛餅をやや固くして弾力を持たせたボンボンのような塊(あるいは生き物)が、透明なくらげのように水面近くの水中にぷかぷか浮いている図をなんとなく思い浮かべたような気がする。なにしろ遠い記憶なので定かではない。

 安易な教訓あてごっこを免れて、かえって真剣になったのかもしれない。卒業してからもしばらく私たちは「やまなし」の意味にこだわりつづけた。これは同級生みんなで共有できる「問い」だった。文学作品と教科書で出合うのも悪くない、と思う。

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「風の又三郎」

 高田三郎が転校したのはとても小さな小学校だった。どんなふうに小さいかというと、なんと三年生が一人もいないというのだ。自分の学年だけで二百人余りという小学校に通っていた私はびっくりして、この学校の規模の小ささを印象づけられた(三年生がいる本文もあるということは、ずっとあとになって知った)。

 「風の又三郎」を初めて読んだころ、私は二年生くらいだったと思う。これが宮沢賢治を読んだ最初の作品だった可能性が高い。作者名を意識しないままに小学生のころ出会った作品に「どんぐりと山猫」「虔十公園林」「さるのこしかけ」「山男の四月」「いてふの実」などがある。どれも借りた本だから、記憶に残っていた文章に後年めぐりあって、これは宮沢賢治だったのかと判明したものだ。「風の又三郎」を収めた本は自分の蔵書だった。次の本を買ってもらうまでは何度も繰り返し読んだはずだ。年齢の割りに早くから作者を意識する子どもだったから、作者名を見たこともあっただろう。ただ、この時点ではまだ宮沢賢治は私にとって特別な作家ではなかった。

 もう一つ忘れられないのは、一本の木ぺんを兄妹が奪い合う場面だ。三郎が木ぺんを譲ってやると手元には一本もなくなるというのも、木ぺんをやるときに覚悟したような表情を見せるのもショックだった。私の筆入れにはいつも先をつんつんに尖らせたえんぴつが何本も入れてあった。それを、恵まれ過ぎていて後ろめたく思うとか、彼らをかわいそうに思うとか、ああ私は幸せだなァと感謝するとかいうのではなかった。ただ、自分の身のまわりと大きく違う事柄に出くわして、記憶にあざやかに焼きつけられた。

 賢治の作品のほとんどは、中学生、高校生になってから読んでいる。「風の又三郎」は最も子どもらしい読み方ができた作品だろう。

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「北守将軍と三人兄弟の医者」

 中学生のころ、この全文を書き写したことがある。そのころ、私はまだこの作品が載った童話集を持っていなかったので、友達に借りてノートに筆写したのだ。全集を揃えられるような住宅事情ではなく、親に全集を買ってもらうなんてことは夢見たこともないほど現実離れした贅沢で、一篇でも多く未知の作品を写すことに情熱を燃やしていた。

 残念なことに、これは宮沢賢治の童話としてはあまり好きな作品ではなかった。写しながら、七五調の文章がいやに鼻についた覚えがある。たいていの宮沢賢治の文章は散文でも自然な律動があって、読んでも写しても心地よいのに、人工的なリズムがあるばっかりに文章の脈動に乗れなかった。それでも全文を写し切ったのは、つまりは熱烈なファンになっていたからに過ぎない。当時最も親しかった友人にも、その不満をもらしている。宮沢賢治のことなら何でも尊敬してしまう私にしては、これは珍しいことだった。

 高名な文学者がこの七五調の文章を誉めているのを読むたびに複雑な気分になる。あのとき書き写さずに音読したのだったら、どう感じていただろうか。生意気盛りの子どもの直感であり、情報ばかりが増えてしまった今では、なんとも言えない。

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「土神ときつね」

 これを三角関係の恋愛のもつれと読むのが、最も一般的な読み方であるようだ。だから、三十歳を過ぎてからこれを好きになったと言ったなら、小賢しい人には「エロス」などという文芸用語を使って、精神分析をされてしまいそうだ。自分では、文学的に不如意な時期とこれを再読した時期が重なったために、過剰に感情移入してしまったのだと思う。

 何よりもまず、私は土神の傷つきやすいプライドにひかれ、同化してしまった。うそつきの狐にも、それなりに共感するところがあった。それに比べると、ヒロインの樺の木は添え物に過ぎない。樺の木は最後まで傷つかず、汚れもしない。同じ動かないヒロインであっても、電信柱のシグナレスとは違う。この童話はあくまでも土神と狐の物語だ。樺の木をなにも恋愛の対象と見なくてもいい。たとえば栄光であっても、名誉であっても、果たしたい生涯の夢であっても、一つのことを争う両者の葛藤と嫉妬、破局の後の共感を読みとることができる。

 つまらない神であっても一応は神のはしくれであると自認しており、相応の尊敬を得ていないことにひがむ者のつらさや苦さ。他人が実際以上にうまくやっているように見え、焦り、煮えるような思いに苛まれる苦しさ。そして、憎い敵が結局は自分と同じつまらない弱い奴であったことを知ったときの、連帯感と悲しみ。

 穏やかな謙虚な人柄の宮沢賢治が実はどれだけ燃え上がるような自意識を抑えることに苦しんでいたかと、土神の修羅を読みつつ、思う。

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 「ひかりの素足」

 賢治の童話の風景は、創ったものではなく見たものであるらしく、時に逢えばまたほかの作品でも語られる。「ひかりの素足」の地獄と極楽にあたる「うすあかりの国」と「光の国」の光景が心象スケッチ『春と修羅』の中にあった。

「わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た(中略)どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は(中略)あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう」
(「小岩井農場パート九」)
 日付は一九二二年五月二十一日、妹とし子の病気療養中にあたる。

 もうひとつは私が見つけたのではなく、分銅惇作氏の論文「ひかりの素足−浄土のイメージについて−」に引用されていたのだが、そこからさらに拾い出させてもらう。

「そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ/あまりにもそのたひらかさとかがやきと/未知な全反射の方法と/さめざめとひかりゆすれる樹の列を/ただしくうつすことをあやしみ/やがてはそれがおのづから研かれた/天の瑠璃の地面と知つてこゝろわななき/紐になつてながれるそらの楽音/また瓔珞やあやしいうすものをつけ/移らずしかもしづかにゆききする/巨きなすあしの生物たち/遠いほのかな記憶のなかの花のかをり」
(「青森挽歌」)

 日付は一九二三年八月一日、とし子の死後、死んだ妹との交信を求めて北へ旅する途上だ。もちろん、これらの日付は作品を完成させた日付ではないが、着想もしくは由来する出来事のあった日付としては、認められるだろう。

 肝心の「ひかりの素足」の制作年代がはっきりしていないが、この作品の一番古い部分の原稿用紙と綴じ穴が共通しているという「蜘蛛となめくじと狸」と同時期だとすれば、「小岩井農場 パート九」と「青森挽歌」のほうが、童話「ひかりの素足」を意識しつつ書かれたことになる。逆に、作品の動機が年下のきょうだいの死を書くことにあったとすれば、常日頃から心に抱いていたイメージをもとに、童話が書かれたことになる。

 私は後者であると考えている。「小岩井農場 パート九」に登場する「ペムペル」は、「ひかりの素足」の兄弟の名前として、それぞれ一度は考えられた「ペル」になった。それを、日本の北国の風土の中で描くために「一郎」と「楢夫」に変更したのだろう。具体的な執筆行為に入る前は「ペムペル」としてイメージされていたものと思われる。だが、一行一行文章を綴っていく営みは、あいまいなイメージを許さない。書いてみてはじめて、外国風の名前がそぐわないものとして排除されたのだと思う。

〔追記*「小岩井農場」と「ひかりの素足」の関連について述べている文章を知らなかったが、続橋達雄氏の論文『小岩井農場』(『国文学 解釈と鑑賞』一九九三年9月号 第58巻9号)に「ユリアとペムペルに〈あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう〉と、『ひかりの素足』をつつみこむような思いを寄せ」という言及があったのを見つけた。さらにまた、入沢康夫氏が既に一九六八年に書いていた文章(「銀河鉄道の夜」の発想について/『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』所収)にも「ひかりの素足」から「小岩井農場 パート九」への言及があった。たぶん、ほかにもあるのだろう。私が気がつくようなことに、研究者が気がつかないはずはない〕

〔追記2*『春と修羅』補遺の「手簡」の最終連に「いま私は廊下へ出ようと思ひます。/どうか十ぺんだけ一緒に往来して下さい。/その白びかりの巨きなすあしで/あすこのつめたい板を/私と一緒にふんで下さい。」という詩句がある。その一連の前には「おゝユリア、」と書いて消してあるという。日付は「小岩井農場」と同じく、一九二二年五月二十一日である。〕

〔追記3*「小岩井農場」の先駆形では、「ひかりの素足」と同じようにチョコレートが登場する。もっとも、賢治は外でもチョコレートを使っているので、関連づけて考えてもいいかどうかは、わからない〕

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「銀河鉄道の夜」

 この作品については、思い入れがたっぷりある。作品としての完成度は高くないのに、ある種類の読者をひきつけてやまない奇跡のような名作だ。少女時代の私にとっては限りない心象宇宙への入り口だった。

 法華経の「薬王菩薩本事品」には菩薩が腕を燃やして供養する話が出てくる。体に火をつけるとは極端なたとえ話のような気がするが、高校生のころ図書館で読んだ本に、インドにはほんとうにそういう修行をやりかねない者もいる、と書いてあった(かなり前のことなので読んだ本を確認できないのが残念だ)。腕を燃やすのがどうして供養になるのだろう。そこまでいくと、凡人には不気味な話としか思えない。やはり奇想天外な寓話として読んでいたほうがいい。そう割り切って読めば、この極端さにも感動できる。

 だが、これが宮沢賢治という媒体を通過すると「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」という清らかな決意表明になる。みごとな転換だ。これによって、法華経の中の一切衆生喜見菩薩(薬王菩薩の前身)の志が、にわかに切なく胸を打ちはじめる。

 この部分についてはほかの解釈もあるようで、法華経勧持品の偈「我身命を愛せず但無上道を惜む」に基づくのだと断言する人もあるようだ。また、賢治独自の発作的なつぶやきと見なして、このことばを受け止めかねているような論稿も見かける。

 「銀河鉄道の夜」の読者が法華経を読めば、薬王菩薩との関連に気づかないはずがない、と素人考えでは思うのだが。

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付・戯曲「イーハトーボの劇列車」

 井上ひさし作「イーハトーブの劇列車」の終盤で、登場人物賢治のせりふとして、次のような一節がある。

〈おれは、日蓮大聖人を偉大なデクノボーだと思っています。日蓮大聖人はよくご自分のことを「だめな人間だ、愚痴の者だ、デクノボーだ」とおっしゃったでしょう。「だから自分はすべてのはからいを捨てて、仏にむかってただ一心に『南無妙法蓮華経』と題目を唱えるだけだ」と、こうもおっしゃったでしょう。〉
(9 最後の滞京)

〈この世の中にあるものはすべてはかない命でしょう? しかし、まことの力があらわれるとき、そのはかない命が、そのまま、かぎりない生命になるのです。〉
〈自分がデクノボーであると思いつめて、徹底すること、それがまことの力です。人間が、自分のことを、世の中にあるもののなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないと思い、それに徹したとき、まことの力があらわれるのです。〉 (同前)

 言うも愚かなことだけれども、これは日蓮ではなく明らかに親鸞の思想である。親鸞の信仰を賢治の語彙で表現すれば、まさしくこういう表し方になるだろう。登場人物の賢治は自分の中で法華信仰と浄土真宗を融合させている。にもかかわらず、本人はそれに気づいていない。そして、作者井上ひさしはそれを百も承知で書いて、ほくそ笑んでいる。

 宮沢賢治について書いている人は多いけれど、これまで読んだ中では、この戯曲が一番好きだ。「日本紀などはただかたそばぞかし……。」賢治の作品のきらめきは、こういう形でこそ表現できる。 あてはないけれど、いつか上演してみたいという望みを持ち続けている。

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