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「ひかりの素足」の信仰 宮沢賢治が「法華文学ノ創作」を志したことはよく知られている。 比較的初期に構想されたと推定されている「ひかりの素足」は、たびかさなる推敲の跡にもかかわらず、賢治の童話には珍しい露骨な宣教的語句を残している。「にょらいじゅりょうぼん第十六」と。つまり、妙法蓮華経第十六品の題名「如来寿量品」を唱えることによって、「うすあかりの国」の一郎たちは、如来と思しき人に救われているのである。これを「妙法蓮華経」の題目にはせず、またその語句の表記をひらかな(漢字と違って意味がとれない)にしたのは、説教臭さを消すための心配りだろうか。 この「にょらいじゅりょうぼん」というつぶやきは作品の世界を地獄から浄土へ、一気に転換する役割を担っている。苦しみの極まったとき、そのことばが「かすかな風のやうに又匂のやうに」一郎に感じられたのだという。見たのでも聞いたのでもなく、触覚と嗅覚で掬いとったのだ。それを一郎がつぶやいたとたんに周りの状況が変わる。「光のすあし」の人が現われ、地獄だと見ていたその場所が、すでに浄土に変わっている。 これを字句どおり解釈するならば、法華経信仰に熱心であった賢治が法華経二十八品の中でも最も尊重されている「如来寿量品」をたたえるために創作した救済物語となるだろう(この場合の救済とは、生物体としての生死は問わない。帰還した一郎も、死んだ楢夫も、ほかの子どもたちも、それぞれに救いに預かっている)。それにもかかわらず、私にはここに描かれた「光の国」のありさまが実に浄土教的に読める。 信仰の対象を口にすることによって救済されるという発想は、浄土教のものである。日蓮宗にも題目を唱えるということがあるが、唱名念仏ほど徹底したものではない。 光が阿弥陀仏の重要な個性の一つであることにも注目したい。阿弥陀とはサンスクリット語(A-mita無限)の音訳だが、意訳して無量光仏(別名として無量寿仏)ということもある。阿弥陀仏のサンスクリット語の原名は「アミターユス」または「アミターバ」で、この「アミターバ」が無量光と訳されている。 賢治の生家の宗旨である浄土真宗が、念仏を唱えることによって救われるという教えを骨子としていることは周知のとおりである。十八歳のときに読んで異常な感動を受けたという法華経とともに、幼いころの家庭環境で育まれた浄土真宗の影響も、かねてから指摘されている。 日常会話で「他力本願」と言うと、他人の力をあてにして自分で道を切り開こうとしない無気力な態度のことを指すようだが、本来の宗教的な意味に立ち返れば、せっぱつまった状態に陥った者が(「うすあかりの国」における一郎と楢夫のように)、如来という唯一無二の他者(「他力」の「他」とは周囲にいる有象無象の他人ことではない)に自分を委ねて救いを得ることを言う。そのとき、助けを求めている無力な人が為すべき(為し得る)たった一つのことが、念仏を唱えるということだ。 うすあかりの国の鬼たちは「罪はこんどばかりではないぞ」と言い、罪を犯したとも思えない小さな子でも容赦なくむち打つ。それに対して、光のすあしの人は「おまへたちの罪はこの世界を包む大きな徳の力にくらべれば太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のやうなもんだ」という。この罪はおそらく「宿業」であろう。 健全な現代人は自分のことは自分で責任を負うべきであると思い、かつ負えると思っている。道徳的にはそれで正しいし、そう考えなければ社会秩序は混乱する。けれども、人よりも怒りっぽく生まれついてしまったのはその人の罪なのか。迷いが多くてどうしても勤勉になれない人は、努力しないでもまじめでいられる人よりも罪深いのか。ろくに躾をしてくれない親のもとに生まれるのはその子の罪か? 気が弱いのは罪か? 体が弱くて疲れやすいのは罪か? この世にほんとうの平等というものはない。個性だと言い替えることもできるけれど、不公平であることに変わりはない。その不公平さを、自分の生まれてから後の行動や責任に関係なく、引き受けて背負わなくてはならない。それを、昔の人は嘆じて「宿業」と言った。現実に、この世の中には宿業によってむち打たれている幼い子どもがたくさんいるはずである。 ところが、うすあかりの国において一郎がつぶやいた一種の信仰告白によって救いがもたらされ、宿業は断ち切られる。信仰告白によって全てを一変できるというのが、実に浄土教的な救済の構図だ。「にょらいじゅりょうぼん」ではなく「南無阿弥陀仏」としてあっても、少しも不自然でない。むしろ、そのほうがふさわしい。 たとえば、浄土経典の一つである観無量寿経に次のような箇所がある。(註1) また、少し後の別の箇所では、《かくのごとく、至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉を称えしむ。仏の名を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き、命終る時、金蓮華の、なお日輪のごとくにして、その人の前に住するを見ん。》とも言っている。 一郎が「にょらいじゅりょうぼん」と唱えることによって訪れた、「うすあかりの国」から「光の国」へ……地獄から浄土への劇的な変化は、浄土門の念仏の救いに似たものがあるのがわかるだろう。 賢治が「ひかりの素足」に描いた浄土の風景について、経典にあたってみよう。 分銅惇作氏の「『ひかりの素足』−浄土のイメージについて−」(註2)では「賢治の描く壮麗な浄土のイメージは寿量品自我偈」の経文に依っていると論じている。分銅氏の論文では妙法蓮華経の漢訳のまま引用してあるが、これを書き下し文で引くと「わがこの土は安穏にして 天・人、常に充満せり。/園林・諸の堂閣は 種種の宝をもって荘厳し/宝樹には華・果多くして 衆生の遊楽する所なり。/諸天は鼓を撃ちて 常に衆の伎楽を作し/曼陀羅華を雨して 仏及び大衆に散ず。」(註3)となる部分である。たしかにこれも「ひかりの素足」の浄土のイメージに沿っている箇所ではある。 しかし、法華経の偈のうち有名な箇所であるという以外には、特にこの部分を持ち出す理由は見当たらない。妙なる音楽が奏でられ、花びらが降るのは仏典の常套句であり、この部分に限ったことではない。宝石の樹も鈴の網もよくある風景だ。むしろこれらは『浄土三部経』、すなわち「無量寿経」(註4)、「観無量寿経」及び「阿弥陀経」に豊かに表現されていると思う。 作中において、具体的な浄土の描写が始まるのは、「その人は少しかゞんでそのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました」からである。以下、「ひかりの素足」の本文(註5)にそって経文を参照してみよう。 @「沢山の立派な木や建物がじっと浮かんでゐたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋根を持ったり虹のやうないろの幡が垂れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真珠のやうに光る欄干のついた橋廊がかかったり高い塔はたくさんの鈴や飾り網を掛けそのさきの棒はまっすぐに高くそらに立ちました。」 《また、講堂・精舎・宮殿・楼観あり。みな、七宝をもって荘厳せられ、自然に化成す。また、真珠・明月摩尼(註6)の衆宝をもって交露(註7)となし、その(堂舎の)上に覆蓋す。》〔無量寿経〕 《無量寿仏のその道場樹は高さ四百万里、その本の周囲、五十由旬なり。枝葉、四に布くこと、二十万里なり。自然に合成し、月光摩尼・持海輪宝(註8)の(ごとき)衆宝の王たるものをもって、これを荘厳す。(宝樹の)条の間に周そう(ソウは「市」の上の1画がない漢字)して、宝の瓔珞を垂れ、百千万の色、種々に異変す。》〔無量寿経〕 《無量の宝網は、あまねく仏土を覆う。みな、金縷・真珠の百千の雑宝の、奇妙珍異なるをもって、荘厳し校飾(註9)す。(その宝の)四面に周そうして、垂るるに宝鈴をもってす。》〔無量寿経〕 《妙なる真珠の網は樹上に弥覆し(註10)、一々の樹上に七重の網あり。一々の網の間に、五百億の妙華の宮殿ありて、梵王宮のごとし。》〔観無量寿経〕 A「またたくさんの樹が立ってゐました。それは全く宝石細工としか思はれませんでした。はんの木のやうなかたちでまつ青な樹もありました。楊に似た木で白金のやうな小さな実になつてゐるのもありました。」 《また、その国土に七宝のもろもろの樹、あまねく世界に満つ。(以下、鉱物名を用いた宝樹の具体的描写が続く=和木註)》〔無量寿経〕 《極楽国土には、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹ありて、みな、これ四宝をもって周そうし、囲遶せり。》〔阿弥陀経〕 B「みんなその葉がチラチラ光ってゆすれ互にぶっつかり合って微妙な音をたてるのでした。」 《清風、時に発りて、五つの音声を出し、微妙の宮商(註11)、自然にあい和す。》〔無量寿経〕 《微風、しずかに動いてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演べ出す。》〔無量寿経〕 C《微風吹動し、もろもろの宝行樹および宝羅網は、微妙の音を出す。》〔阿弥陀経〕 「それから空の方からはいろいろな楽器の音がさまざまのいろの光のこなと一所に微かに降って来るのでした。」 《かの仏国土は、常に天楽をなし、黄金を地となす。昼夜六時に、曼陀羅華を雨ふらす。》〔阿弥陀経〕 D「ある人人は鳥のやうに空中を翔けてゐましたが」 《時に応じて、すなわち能く飛行し、あまねく十方に至り、諸仏に歴事す。》〔観無量寿経〕 E「かなしい地面が今は平らな平らな波一つ立たないまっ青な湖水の面に変りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀石の色に何条もの美しい縞になり、その上には蜃気楼のやうにそしてもっとはっきりと沢山の立派な木や建物がじっと浮かんでゐたのです。」 「その影は実にはつきりと水面に落ちたのです。」 「けれどもそれは湖水だったのでせうか。いゞえ、水ぢゃなかったのです。硬かったのです。冷たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板でした。板ぢゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光ってゐたので湖水のやうに見えたのです。」 《つぎに水想をなせ。(中略)すでに水を見おわらば、まさに氷想を起すべし。氷の映徹せるを見なば、瑠璃想をなせ。瑠璃地(註12)の内外に映徹(註13)せるを見ん。》〔観無量寿経〕 《瑠璃地に映じて、億千の日のごとく、つぶさに見るべからず。》〔観無量寿経〕 《極楽国土に、八の池水あり。一々の池水は、七宝の所成にして、その宝は柔軟なり。》〔観無量寿経〕 《もし、宝池に入りて、意に、水をして足を没さしめんと欲せば、水、すなわち足を没す。膝に至らしめんと欲せば、水、すなわち膝に至る。腰に至らしめんと欲せばすなわち腰に至る。頸に至らしめんと欲せば、水、すなわち頸に至る。身に灌がしめんと欲せば、自然に身に灌ぐ。還復さしめんと欲せば、水、すなわち還復る。》〔無量寿経〕 《極楽国土には、七宝の池あり。八功徳の水、その中に充満す。》〔阿弥陀経〕 F「金と紅宝石を組んだやうな美しい花皿を捧げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧や黄金のはなびらを落して行きました。/そのはなびらはしづかにしづかにそらを沈んでまゐりました。」 《その国の衆生、衣こく(註14)(コクは衣偏に「戒」を旁とする漢字)をもちいて、衆の妙華を盛り、(後略)》〔阿弥陀経〕 《一切の諸天も、みな、天上の百千の華香・万種の伎楽をもって、その仏およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を供養す。(すなわち)あまねく華香を散じ、もろもろの音楽を奏し、前後に来往して、かわるがわるあい開避す。》〔無量寿経〕 G「楢夫がやはり黄金いろのきものを着、瓔珞も着けてゐたのです。」 《もろもろの天童子、自然に(その)中に在り。一々の童子は、五百億の釈迦Q楞伽摩尼宝をもって瓔珞となす。》〔観無量寿経〕 H「『こゝのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげよう。』その大きな人は一寸空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。」 《もし食せんと欲する時、七宝のはつ器(註15)(ハツは「友」の肩に点を打ち、「皿」の上にそれを載せた漢字)、自然に(かれの)前に在り。》〔無量寿経〕 I「その手はまばゆくいゝ匂だったのです」 「しばらくたってからだ中から何とも云へないいゞ匂がぼうっと立つのでした。」 《身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。》〔無量寿経〕 J「うむ。博物館もあるぞ。あらゆる世界のできごとがみんな集まってゐる。」 《たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天、天眼を得ず、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。》〔無量寿経〕 《たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天、天耳を得ず、下、百千億那由他の諸仏の所説を聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ。》〔無量寿経〕 K「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなのもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある。お前たちはよく読むがいゝ。」 《大悲の観世音菩薩および大勢至(菩薩)は、大光明を放ちて、その人の前に住(立)し、ために甚深の十二部経を説きたもう。》〔観無量寿経〕 《観世音・大勢至は、梵音声をもって、かの人を安慰し、ために大乗の甚深の経典を説きたもう。》〔観無量寿経〕 ……以上、「 」内は童話の本文、《 》内は経文より引用。経文の末尾に経典の名を記した。 このうちIの比較は「銀河鉄道の夜」の文章「苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなからちらけてしまふのです」を間に挟んでみると、関連がよく見えるのではないかと思う。執筆順序は逆(「ひかりの素足」が先)だが、共通の発想の下に書かれているのがわかる。 Kの例は、浄土というところが基本的には往って仏道を修める場所であることから提示した。浄土には良い師匠がいて必ず修行を完成できる。それで、往生する(極楽に往って生まれる=この世で死ぬ)ことを先走って「成仏する」などと称するわけである。ここで授けられる教えの集積を現代風に解釈すれば図書館に置き換えられる。 その前のJも同じである。この部分は法蔵菩薩(阿弥陀仏の前身)が将来の自分の浄土のあるべき姿について誓いを立てる場面だからストレートな表現はしていないが、《こうでなくてはならない》とは、現在そうなっているということだ。つまり、極楽浄土にはあらゆる世界から情報が集まっているのである。 JKの例は本文と経文の一致点として挙げるのはやや強引なように見えるかもしれない。だが、経典に描かれた理想世界には、通信・運搬・交通・都市計画・冷暖房など、現代の科学技術によってそれに近い状態が作り出されているものがある、と指摘する人もいる。図書館・博物館という読み替えは、経文の意図に従った受け取り方だろう。経典をもとに現代に通じる物語を創作するとすれば、是非やってみたい転換である。 前にも述べたように、これらは特定の経典だけに限定されるものではなく、大乗仏典ではしばしば見ることができる浄土の光景である。それは阿弥陀仏の浄土に限らない〔たとえば、未来仏である弥勒の浄土を語った「弥勒大成仏経」でも、こういう光景を表現した経文に出会う〕。ただし、浄土教の聖典である浄土三部経では、この描写にとくに力が入れてある。 賢治は十八歳になっていきなり法華信仰に入ったのではなく、幼時から幅広い仏教の教養に養われていた。御伽噺のように親しんだ浄土の光景は、見慣れたふるさとの景色のように馴染んだものとなっていただろう。仏典には宝石を用いた荘厳な情景描写が多く、宝石を金銭的価値に置き換えてしまう凡夫は勝手に辟易するが、石の好きな賢治少年はそれも魅力だったのではないかと想像する。 賢治が経典から吸収したものは、本文に溶け込んでおり、厳密には指摘しづらい。あまりに多くを挙げなくてはならないし、創作するときに経文を参照しながら置き換えるわけではないので、そのものずばりという文章は少ない。だが、無関係とは思えない箇所が、ざっと見ただけでこれだけあり、この作品の浄土の風景の典拠として「如来寿量品」しか参照されていないというのは、あまりに対象が狭過ぎると思う。 経典の浄土の描写も、童話風にスケッチされると「ひかりの素足」のごとくになる。それはたしかに伝統的な地獄極楽の類型を脱してはいない(註16)。だが、賢治はここでは脱・類型を心がけてはいないだろう。経典に書かれた浄土の光景を、念入りに童話の表現に置き換えていく作業を楽しんでいるようにさえ思える。 『校本宮澤賢治全集』第七巻の校異(『新校本宮澤賢治全集』第八巻の校異篇といってもいいが)を見ると、原稿用紙四十枚めの末尾「冷たかったのです、な」は、「な」だけがマス目からはみ出して書き込まれているという(この「な」は四十一枚め冒頭の「めらか」に続く)。現在とあまり違わない先行原稿があり、それに手を入れたものが現在の三十五枚から四十枚めの原稿になったのだろう。書き込んだり削ったりしたうえで、それでは足りずに紙を改めて書き直したのかと思う。このあたり、字句の手入れは多いが、根本的な変動は見られない。安定した浄土像の存在と、浄土を描写することへの思い入れがうかがえないだろうか。 忘れてはならないのが、大きな人が最後に言った「お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ。」ということばの意味するところだ。キリスト教の天国とは違って、浄土というのは行ったきり安住するところではない。仏陀の指導の下に成仏すると、還って来て、まだ救われていない者に手をさしのべることになっている。それが万人が救われることを意図した大乗仏教の考え方だ。 こちらの世界では、浄土から派遣されて来た人たちがたくさんいて、ほんとうの道を教えようとしている。一郎は帰ってそれを習うように示唆されたのだ。 あちら側(彼岸)よりもこちら側(此岸)でよい世界を築くべきだというのが、浄土教を非難する場合の常套句だ。ただ、こちら側をよりよくするにあたっての手段は、浄土教的な発想と交じりあっている。賢治の信仰は幼時に刻印された浄土教の教義を忘れてはいないのだ。 もちろん、ここに登場する「大きな人」を、賢治が阿弥陀仏として書いたというつもりは毛頭ない。賢治の意識のうえでは、これはまぎれもなく法華経の如来寿量品に描かれた久遠実成の本仏、久遠仏だったろう。それが、阿弥陀仏の要素をまとって現れてくることに注目したい。 さすがに近ごろでは見直されているようだが、一昔前までは宮沢賢治の信仰について論じたものというと、法華経しか問題にしない論調のものが目立っていた。それは今でも消えてはいない。宮沢賢治といえば法華経、という画一的な思い込みから離れなければ、賢治を育てた仏教の豊かさ、賢治が差し出す世界の豊かさを見落としてしまうのではないかと懸念する。 なお、経文の引用にあたって、難解な語句には主に岩波文庫の解説を参考にして註をつけたが、あまりに註が多いと煩わしいので、童話本文との比較を理解するのに必要と思われる最低限の語句だけにとどめた。 註 (1)引用した経文は『浄土三部経』上・下(岩波文庫)による。以下、同じ。 Back Next |
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