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出雲おろち紀行    

もう10年も前のことになりますが、『草薙列伝・八岐の大蛇』の構想・執筆中に、二度ほど出雲地方に取材旅行に出かけました。
もちろん、職場は休みを取って、貯金を下ろして、一人で行きました。
山口駅から出雲市駅まで、特急「おき2号」で3時間半くらいでした。

その旅行のとき、自分自身の覚えのために撮影した写真で、ナギヒコのふるさと出雲をご紹介したいと思います。
(ふだん写真を撮る習慣のない人間が小型全自動カメラで撮った写真ですので、お見苦しいところは、お許しください。)

取材に行ったのは、1995年の10月と1996年の6月です。写真の景色も私自身の経験に基づく文章も、当時の景色や実情を反映しています。現在どうなっているかは、確認していません。
文中に書かれた地名や行政区も、当時のままです。

ところどころに引用してあるのは作中の文章です。


斐伊川(肥の川)


JR木次駅からあまり遠くないところ。
久野川と合流するあたりです。

八岐大蛇をイメージしたという橋の近くから見た肥の川です。

物語で言うと、ここはだいたい中流域のナズチ族の集落があるあたりでしょう。
(「八本杉」は川のそばではありませんが、ほぼこの界隈です)
もう少し上流に行ってみました。

八岐大蛇が棲んでいたと伝えられる伝説の地、天ヶ淵(あまがふち)です。


伝説を伝える立て札はありましたが、他にはほとんど何もないところです。
物好きな八岐大蛇ファンくらいしか、訪れる人はありません。

作中では、クサナギ族の領域の最も下流にある場所として想定しました。 (第八章 暴れ川)

第十四章でも、出かける前のナギヒコがここでちょっと足を止めて、振り返っています。

ナギヒコは見慣れた景色をもう一度見渡した。水面には、川土手の木々の緑が、空とクサナギ族の暮らしを支える山々が映っていた。 (第十四章 祝いの酒)

やがて日も暮れて……


さて、日を改めて今度は下流に向かいました。
出雲市と斐川町の境に、神立橋という橋があります。
(全国から出雲に集まった神さまが、ここからお発ちになるという橋です)

その橋のそばから見た斐伊川。


川幅の広さに感動して、パノラマで撮りました。

「これが八岐の大蛇だ」 トヨホギは肥の川を指さした。
「ふだんは穏やかでやさしい。この地に住む者はみな肥の川を慕っている。だが、嵐になれば力のあふれるままに荒れくるって、とどまるところを知らない」

 (第十六章 伝説のはじまり)

八本杉


素戔嗚尊が八岐大蛇の八つの頭を埋めたと伝えられている地です。

最終章の重要な場面の一つ。


川の水音が聞こえるか聞こえないかというあたりに、八本の杉が立ちならんでいた。樹齢十年くらいの若い木々だ。 (第十六章 伝説のはじまり)

もっと大きな杉がそびえ立ってるのかと思っていたら、意外と細くて若い木々でした。
洪水で流されて、何度も植え直したようです。
正面に祀ってあるのはどこの神さまか(素戔嗚尊?)確認しそびれました。

稲佐の浜

神話によれば、出雲王権から大和王権への国譲りが行われたところです。

タケハヤ族の集落で行われた蛇の神の祭りを描くにあたって、このあたりを舞台に想定してみました。稲佐の浜は、出雲大社から歩いて数分です。


海からの風がきつかった。あいにくのくもり空で、空と海の境がぼんやりして見える。
「この海を、いつか越えたいものだな」ナギヒコはつぶやいた。
ナギヒコはかすんだ水平線の向こうに、広い世界を見ていた。海のかなたには、世界で最も文明の進んだ国――大漢帝国があった。 (第七章 ふたたび会う春)



今にも降り出しそうで、本格的には降らない……どんよりした空模様でした。
(画面では実際よりも天気が良さそうに見えますが)
そのため、作品の世界も曇りになりました。晴れていたら、設定が変わっていたかもしれません。

観光パンフレットには、たいていこの岩が載っています。

これ以外には、なにも被写体がないのだということが、行ってみてわかりました。

意宇川(八雲村にて)

松江駅から南に向かってバスで30分くらい。八雲村の熊野大社の近くで撮りました。
撮影している私が立っているのは、川の上……ではなくて、橋の上です。


東の平野、葦原の初国を流れる意宇川……

“葦原の旅人”たちはこのあたりから西の平野に向かいました。

「西の平野の支配者に争いごとの種をまくのは、わたしたち“葦原の旅人”の仕事です。民に幸せをもたらして喜ばせるのと同じように、葦原の王が与えた使命なのです」

(第七章 ふたたび会う春)  

竪穴式住居から

斐川町の荒神谷遺跡から銅剣358本が一気に発見され、それまでの古代史の常識(=出雲国は神話の上では重く扱われているが、考古学的にめぼしい発見はない。出雲が栄えていたというのは、記紀の作者が机の上で作った嘘だとわかる……云々)が覆されたのは、昭和59年のことでした。

その荒神谷遺跡の周辺には「荒神谷史跡公園」というスペースが整備され、古代の住居も復元されています。

ちょっとだけ、竪穴式住居の中におじゃましました。
すみません、すぐに出ます……。
外から見るより、中に入ってみた方が広く感じられます。

ホギの旧宅はこんな感じかもしれません。

写真は内側から外に向けて撮ったところ。

これがふつうに外から見たところ。

古曽志古墳公園

時代は「八岐の大蛇」より後のことになりますが、ここは、古墳を実物大に復元して、遊べるようになっている施設です。(「古墳の丘古曽志公園」とも、呼ばれるようです)

松江市の宍道湖北岸にあります。
一畑電鉄の朝日ヶ丘駅下車で、徒歩5分が10分くらいでした。

古墳の頂に立って、生きているうちに自分の墓を確認した当時の豪族の気分を味わってみました。


古墳公園の中ほどで、墳丘を横から見たところです。

これは墳墓の上から……
復元された焼き物があっさりと足下に置いてあります。

豪族の独り言:
「今、ここから見渡せる限りの土地に自分は責任を負っているのだ」
「自分が死んだらここに葬られて、死後もこの土地を見守っていくのだな」

  

エッセイ

二度目の取材旅行のときのことを、職場の文芸誌に載せました。
「読書室」の随想の欄に追加して、転載します。

 「八岐の大蛇」への序章 

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