70年目の“ふるさと”伊丹
――2010年は伊丹市の市制施行70周年
(写真41枚)
≪平成22年(2010年)12月制作≫
伊丹市立博物館の前に掲げられた、企画展開催の告示看板(千僧1丁目)。
その「伊丹市の70年――昭和・平成そして未来へ」展は、2010年7月10日から
9月5日まで、博物館で催された。概要は、企画展パンフレット『伊丹市の70年』
(A4版・カラー16ページ)に掲載されている。博物館で、400円で発売中。
今から70年前の昭和15年(1940)11月10日、伊丹に市制がしかれた。それまでの兵庫県
川辺郡「伊丹町」と、同郡「稲野村」が合併し、「伊丹市」となったわけだ。全国で174番目の「市」の
誕生であった。
では、市制が施行される以前、これらの地域はどういうエリアであったのか――。旧「伊丹町」の
区域は、中核をなす「伊丹(町)」をはじめ、「北村」「大鹿」「天津(あまつ)」「北河原」の、合計5地区。
一方、旧「稲野村」は南北に細長くて、「新田(しんでん)中野」(東野・中野・西野)「池尻」「寺本」「昆陽
(こや)」「千僧(せんぞ)」「堀池」「山田」「野間」「御願塚(ごがづか)」「南野」の、合わせて10地区(10ヵ
村)だった。
この旧「伊丹町」(6.6`u)と旧「稲野村」(10.43`u)は、どちらも明治22年(1889)に成立。
その体制は、「伊丹市」となる昭和15年(1940)まで、半世紀余りもつづいた。
さて、「伊丹市」となった当日のことを書いておきたい。その日(11月10日)の伊丹市内は、
市制施行の祝賀と、「皇紀2600年」(神武天皇即位の年〈紀元前660年〉から起算)の奉祝
行事が重なって、昼も夜も大にぎわい。秋祭りのときに出る太鼓みこしや地車(だんじり)が、威勢
よく町へ繰り出し、伊丹市役所(当時:中央3丁目)の周辺は、提灯(ちょうちん)行列や旗行列の人の
波がつづく。
当時、筆者は満4歳。羽織・袴(はかま)姿の祖父が先導する「中少路」(中央地区)の地車に乗せ
てもらい、大はしゃぎしていた。鉦(かね)や太鼓の音、「オータイ、オータイ」の掛け声……。地車は「宮
ノ前通り」や「本町通り」(産業道路)を通ったように思う。
あの日のおぼろげな記憶は、幻(まぼろし)のように遠のき、もうすっかりセピア色となった。あれから
70年もの歳月が流れるのだから…。今年2010年(平成22年)は、伊丹市の「市制施行70年」
の節目の年である。それは、伊丹に生まれ育った筆者自身(75歳)の、まさしく“自分史”そのもの
でもあった。
上=現在の伊丹市役所(千僧1丁目)。昆陽池(こやいけ)の南、国道171号線ぞいにある。昭和
47年(1972)、中心市街地からこの場所へ移転してきた。
左下=昭和29年(1954)の火災で焼け落ちた、旧伊丹市役所(木造2階建て・近衛家
会所跡の建物を含む)の跡地(中央3丁目)。その場所に新庁舎を再建する場面だと思う。なお、
画面の右奥に見える白壁の建物は、伊丹生まれの俳聖・上島鬼貫(うえしま・おにつら/1661〜1738)
の生家・上島家の酒蔵だ。現在の三井住友銀行の場所である。この56年前の古い写真は、当時、
県立伊丹高校の3年生だった筆者が、昭和29年、西方向から撮影したものだ。
右下=奥に見えるのは、火災の跡地に再建された伊丹市役所の旧庁舎(中央3丁目)。
昭和30年(1955)に完成した。鉄筋コンクリート3階建てで、一部に消防署員が監視に当たる高層の
望楼があるこの庁舎は、市役所が千僧1丁目へ移転したあと社会経済会館となり、昭和63年(1988)
まで存続した。現在の伊丹シティホテルの北側である。なお、筆者は50歳になる昭和61年まで、
この旧伊丹市役所のすぐ西側(中央2丁目)に住んでいた。
上=現在の町並み。伊丹シティホテルの前から、北方を望む(中央6丁目・3丁目)。奥の真ん
中に見える白っぽいビル(ネオ伊丹ビル)の場所に、昭和47年(1972)まで、伊丹市役所があった。
なお、ホテルは昭和62年(1987)、「伊丹第一ホテル」の名で開業した。
左下=旧伊丹市役所の屋上から、西方を望む。100bほど西(写真の奥=中央4丁目)に、
昭和43年(1968)まで、阪急伊丹駅があった。道路の突き当たり見える白い建物が、それである。
右下=旧伊丹市役所の屋上から、東方(JR伊丹駅方面)を望む。産業道路の東側に、清酒「白
雪」の万歳1号蔵などが写っている。これらのモノクロ写真2枚は、昭和40年ごろに撮影。
上=現在の産業道路、清酒「白雪」醸造元・小西酒造の本社前付近(伊丹2丁目・3丁目)。
左手に同社がある。その昔、この通りは「本町通り」と呼ばれた。江戸時代、酒づくりで栄えた「伊丹
郷町(ごうちょう)」の中心地で、往時、この付近には80軒以上もの酒蔵がズラリと建ち並んだという。
その様子を、井原西鶴(1642〜1693)は、「軒(のき)を並べて今のはんじやう(繁盛)」と描写した
ほどだ。
筆者が少年だった昭和20年代(1945年〜)、空襲をまぬかれた「本町通り」の界隈(かい
わい)には、まだ酒蔵の多くが健在だったように思う。
左下=「伊丹郷町」の面影を色濃く残した、小西酒造長寿蔵の南側の通り(中央3丁目)。
平成2年(1990)までは、このような狭い道筋だった。この酒蔵は今、地ビールの味わえる“「白雪」
ブルワリービレッジ長寿蔵”として、有数の人気スポットとなっている。
右下=在りし日の、同社万歳1号蔵(伊丹2丁目)。築400年ともいわれた巨大な酒蔵だった
が、2007年に姿を消したのは惜しまれてならない。この酒蔵は、上のカラー写真の中央、建設工事
中のマンションの場所(右側の角地)にあった。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「C伊丹の酒蔵」
*「伊丹《再》発見C」……有岡城時代の「堀」が出土!⇒⇒在りし日の
万歳1号蔵(小西酒造)
上=伊丹有数の商業ゾーンだった「宮ノ前通り」。しかし、再開発のため町は大きく変貌し、
今は人通りもまばらだ(宮ノ前1丁目・2丁目)。「伊丹郷町」の最北端に位置しており、通りの
突き当たり(北)に、郷町の氏神・猪名野神社がある。「宮ノ前」は江戸時代から、その門前町として
栄えた。
左下=昭和50年代(1975年〜)の「宮前商店街」(南の入口)。上のカラー写真が、その
同じ場所だ。ここから神社まで、300b以上もアーケードがつづき、さまざまな老舗(しにせ)が軒を
連ねていた。この宮ノ前地区の再開発事業は、昭和59年(1984)にスタートし、同62年に「計画
決定」がなされたあと、平成13年(2001)までの長きにわたった。ちなみに、同じころに着手された
JR伊丹駅前再開発事業は、昭和63年(1988)に完了。伊丹第一ホテル(現在の伊丹シティホテル)
も、同62年に完成している。
右下=画面左側の古民家は、「宮ノ前通り」にあった当時の石橋家。東向きで、雑貨店が営 まれていた。この江戸時代後期の町屋は現在、100bほど東にある「旧岡田家住宅」(国指定重要
文化財)の東隣に移築されており、平成13年(2001)、「旧石橋家住宅」として、県の有形文化財に
指定された。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「B伊丹郷町」
*「伊丹今昔」……産業道路・宮ノ前通りの周辺
*「伊丹《再》発見D」……むかし懐かし、「伊丹郷町」かいわい
祭りの日には、猪名野神社の神輿(みこし)や宮ノ前のふとん太鼓が、にぎやかに南下。
上=現在のふとん太鼓。2005年に新調された“2代目”だ。左下=“初代”(先代)のふとん太
鼓。明治・大正から昭和・平成までの長きにわたって、祭りの主役を演じた。右下=猪名野神社の
神輿。左側の建物は「宮ノ前通り」にあった当時の石橋家、右奥に見える白壁の建物は小東医院
だ。(下段の2枚は、昭和50年代〈1975年〜〉に撮影)
10月中旬の土・日曜日、「宮前まつり」の日は、神社の境内も「宮ノ前通り」もお祭りムード。この
日ばかりは縁日を思わせるようなお店が立ち並んで、大にぎわいをみせる。古い町並みは大きく
様変わりしたけれど、祭りの日の風景だけは昔とあまり変わらないようだ。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「D猪名野神社の祭り」
*「伊丹《再》発見B」……祭りだ、ワッショイ! 「秋の宮前まつり」
& 「伊丹だんじり・みこしフェスティバル」 in 伊丹郷町
真っ黒に塗りつぶされた伊丹小学校の“軍艦校舎”(船原1丁目)。昭和12年
(1937)に竣工した伊丹市内最古の鉄筋コンクリート3階建てで、戦艦「陸奥(むつ)」を
かたどったといわれるが、太平洋戦争中は、米軍機B29の爆撃を恐れ、白い校舎に
迷彩(カムフラージュ)がほどこされていた。
上は、それをバックに撮影された、筆者も写っている卒業記念写真だ(前列右
から6人目が筆者)。戦後3年目、6年生のときの写真だが、校舎はまだ黒いままだった。
「宮ノ前通り」にあったサクライ写真館が昭和23年(1948)に撮影した、62年前の写真
である。画面はもうすっかり、セピア色に変色している。
思えば、伊丹小学校の校舎を真っ黒に塗りつぶしたスミは、自分たちがすったものだ
った。ある日、全校生徒(初等科6年制・高等科2年制=合計3600人)が一斉にスミを
すった。筆者が2年生のときだったろうか。スミは校庭のドラム缶に集められ、旧式の
消火ポンプやホースが持ち出された。そうして、みんながすったスミは、先生がたの作業
によって校舎にぶっかけられたのである。みんな、悲しそうな顔をして、その不思議な
光景を見守っていたように思う。
上の写真に写っている内藤学級の仲間たちも、少し前まで(戦時中)は防空頭巾(ずきん)をたずさえ、
男子はゲートル、女子はモンペ姿だった。校内に「警戒警報」(空襲)のサイレンが鳴り響くと、みんな
大急ぎで突っ走り、自宅の防空壕にもぐり込む。そんなとき、高度1万bの上空を飛ぶB29の後ろに、
見たこともない白くて長いしっぽ(飛行機雲)が、不気味にたなびいていた。
当時、日本の軍用空港となっていた伊丹飛行場は、繰り返しグラマン(米軍戦闘機)の機銃掃射を
浴びた。その銃声が間近に聞こえる。暗い防空壕に緊張感が走った。筆者も、伊丹上空を低空飛行
するグラマンの操縦席の窓越しに、アメリカ人(パイロット)の眼がギョロリと光ったのをかいま見たよう
な気がする。
昭和20年(1945)の夏、日本は戦争に敗けた。当時、筆者は伊丹国民学校(小学校)の
4年生。満9歳だった。
「爾(なんじ)臣民ニ告グ……。朕(ちん)ハ、帝国政府ヲシテ、米英支蘇(べい・えい・し・そ)四国ニ対シ、
其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨(むね)、通告セシメタリ。抑々(そもそも)、帝国臣民ノ康寧ヲ図リ、万邦共栄
ノ楽シミヲ偕(とも)ニスルハ、皇祖皇宗ノ違範ニシテ……」
その年(1945年)の8月15日、正午、ラジオから“現人神”(あらひとがみ)である天皇(昭和天皇)の
声が流れた。しかし、9歳の少年(筆者)には、何のことやらさっぱりわからない。それでも、敗戦を告げ
る「玉音放送」(終戦の詔勅)と知らされ、身体がこわばっていたように思う。
やがて、伊丹の町にも、アメリカの進駐軍(占領軍)がやってきた。その日のことは、今も
忘れられない。65年前の、白昼の出来事だった――。
伊丹国民学校の前の広い道路(飛行場線)を、神戸に上陸した進駐軍が、幌の付いた濃緑色の
大型トラックやジープを何台も連ね、白昼、こうこうとライトを照らして、ゆっくりと東へ進む。伊丹飛行場
へ向かうのだ。
それにしても、「鬼畜米英」と教え込まれた、かの国の兵隊たちを乗せた車列が、スローモーション
のようにゆっくりと目の前を通る。G I (アメリカ兵)たちはみんな“丸腰”で、ジープから脚を投げ出して
いるのもいる。彼らは、伊丹国民学校の黒い校舎を見ただろうか……。その異様でおぞましい光景
を、筆者は国民学校の正門のところで、身をひそめるようにして見つめていた。
あれは、4年生の夏の終わり。足がすくみ、ノドがからからにかわいた。
上=現在の伊丹空港(大阪国際空港)。ターミナルビルの展望デッキから、西方を望む(豊中
市蛍池西町3丁目)。信じられぬほどの、「平和」な風景だ。画面の奥が伊丹市域。その背後に
六甲の山脈(やまなみ)が見える。
下段のモノクロ写真2枚は、55年前の昭和30年(1955)に撮影。伊丹空港の様子をとらえた
もので、当時、筆者は関西学院大学の2年生だった。撮影に使ったのは、父親から借りた、蛇腹
(じゃばら)の付いた旧式カメラである。
左下=黒い機体は米軍機だ。アメリカ空軍のマークがくっきり。筆者が伊丹国民学校の4年
生だった終戦直後、伊丹飛行場は米軍の「イタミ・エアベース」となった。その「米軍基地」の時代は、
昭和20年(1945)から筆者が大学を卒業する同33年(1958)まで、14年間もつづく。
そればかりではない。戦時中の日本の軍用空港だった時代を含めると、通算20年間も、伊丹飛行
場は「軍事基地」であったわけだ。昭和14年(1939)に開港した飛行場は、すでに日中戦争が始まっ
ていたので、すぐさま軍用空港に転用されたのだった。
右下=日航機であろうか。乗客はタラップで乗り降りしていた。手前を歩くのは、アメリカ兵のよう
だ。左の写真と同じ日に撮影したのであるが、当時、伊丹飛行場は、日本の民間機とアメリカの軍用
機が“同居”する、「日米共同利用」(軍民共用)の時代であった。
以上のように、自分の身辺で起こった「グラマンによる機銃掃射」、「アメリカ占領軍の進駐」、「日
米共同利用(占領体制)の時代」……といった経過をみてくると、“戦中派”の筆者はどうしても、伊丹
空港は『戦争遺跡』とのイメージを払拭(ふっしょく)し切れないのである。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
「伊丹《再》発見B」……伊丹スカイパーク(大阪国際空港周辺緑地)は、
空港を一望できる“パノラマ”展望台/伊丹空港の歴史
上段の2枚=現在のJR伊丹駅(伊丹1丁目)。昭和56年(1981)、福知山線の複線電化に伴い、
駅舎は城郭をイメージした白い建物に生まれ変わった。JR伊丹駅は、明治24年(1891)の馬車鉄道
開通以来、現在と同じ場所にある。そこは、有岡城(国指定史跡)の本丸跡だ。右の写真は、アリオ
(駅前再開発ビル)1号館の11階から撮影したもの。駅(手前)の向こうに、イオン・モール(大型商業
施設)が見える。
下段の2枚=明治の面影をとどめた旧国鉄伊丹駅(昭和50年代〈1975年〜〉に撮影)。跨線橋
(こせんきょう)のあるレトロな木造駅舎は、昭和54年(1979)まで存続した。右は、裏側(東)から見た
旧国鉄伊丹駅のプラットホーム。古典的なディーゼル機関車が停まっている。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「A国鉄伊丹駅」
*「モノクロ写真で見る伊丹の昭和50年代」……国鉄伊丹駅
*「伊丹《再》発見E」……「伊丹の鉄道」⇒⇒JR福知山線
上段の2枚=現在の阪急伊丹駅ビル(左)と、プラットホーム(西台1丁目)。阪神大震災から
3年10ヵ月後の平成10年(1998)11月、総合商業施設などのある「リータ」(Reita=5階建て)と
して、リニューアル・オープンした。阪急伊丹駅は3階にある。
下段の2枚=1995年の阪神大震災で倒壊した旧阪急伊丹駅。1階が崩れ、2階と3階(プラット
ホーム)が電車もろとも落下した。右の写真=ビルの壁面に掲げられた大時計が、「5時46分」(地震
の発生時刻)で止まっている。
なお、駅は元からここにあったのではない。大正9年(1920)の伊丹線開通以来、昭和43年(19
68)まで、現在地の200bほど南東(中央4丁目)にあったのだった。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「H阪神大震災」
*「伊丹《再》発見E」……「伊丹の鉄道」⇒⇒阪急伊丹線
昆陽池公園は伊丹市民の憩(いこ)いの場だ。バード・ウオッチングも楽しめる。
池は昭和40年代(1965年〜)に大きく埋め立てられ、公園化された(昆陽池
3丁目)。上段の4枚の写真は、現在の昆陽池公園の様子。草生地広場や池のほとり
は老若男女でにぎわう。水面の鳥たちも楽しそうだ。
その下は、昭和20年代(1945年〜)に撮影された航空写真。埋め立てられる
以前の姿そのままに、昆陽池(こやいけ)や千僧今池(せんぞいまいけ)が写っている。
昭和40年(1965)ごろまで、二つの池は、堤防一つをへだてて、つながっていたのだ。
この貴重な写真は、伊丹のグラフ情報誌『いたみティ』(伊丹経済交友会発行)から、許可
を得て、転載させていただいた。
筆者が新聞社の編集局に勤務したころ、業界には、「100行の記事よりも1枚の写真」
という格言があったように思う。まさしく、上に掲げた「1枚の航空写真」は、もう余分な
説明がいらないほど、昔の昆陽池付近の様子を如実に物語っていよう。
旧来の昆陽池は、奈良時代の高僧・行基(668〜749)によって築造された、灌漑(かんがい)用の
溜池(ためいけ)であった。千僧今池も、しかりであろう。以来、二つの巨大な池は1200年以上も、変わ
らぬ姿を保ってきたのだった。
それが、現在はどうだろう――。昭和時代の中期(昭和40年代)、その付近の“地形”(景観)は、
劇的に変貌したのだ。二つの池は大きく埋め立てられ、昆陽池の大きさは昔の水面の3分の1に、
千僧今池は7分の1に姿を変えた。その千僧今池の跡地(埋立地)のちょうどド真ん中に、現在、伊丹
市役所の庁舎(地上7階・地下2階/延べ床面積21,000u)がそびえているわけである。
つまり、千僧今池のあった場所は今、北から順に千僧浄水場、国道171号線、伊丹市役所となり、
市役所の両脇には総合教育センター、保健センター、博物館、図書館、中央公民館などが建ち並んで
いるのだ。そうして、博物館の東側に残る小さな(?)池が、“長グツ”の形をしていた旧来の千僧今池 の“ツマ先”なのである。
なお、伊丹市役所の庁舎(1972年建設)は、2021年以降に、およそ64億円をかけ、新しく建て
替えられる予定だという。2010年12月、新聞でそのように報道された。
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「伊丹《再》発見C」……「昆陽池公園にある文学碑を訪ねて」⇒⇒昔の
昆陽池は、どれほど大きかったのであろうか。
*「伊丹《再》発見A」……「千僧今池」の跡地に、伊丹市役所など。
なお、今から70年前――。市制が施行された昭和15年(1940)当時、伊丹市役所は「伊丹郷
町」と呼ばれる旧市街地のまん真ん中、中央3丁目にあった。現在の伊丹シティホテルのすぐ北側で
ある。付近一帯は、江戸時代から酒づくりで栄えた町場だった。近くには国鉄伊丹駅(現JR)、阪急
伊丹駅があり、昭和24年(1949)に開通した伊丹市営バス、それに阪急バスも、市役所の辺りから
発着していた。
しかし、市制施行から30年が経過した昭和45年(1970)、伊丹市の人口は15万人を突破する。
人口の急増で、中心市街地は手狭になったのであろう。伊丹市役所は周囲にあった官庁街を引き
連れて、同47年(1972)、現在地の千僧1丁目へ移転したのだった。
市制施行70周年の2010年(平成22年)、伊丹市の人口は19万6千人余り。「伊丹町」と「稲野
村」が合併する70年前(33,579人)の、ほぼ6倍にふくれ上がった。そうして、伊丹市役所の所在地
は「中央」が32年間、「千僧」が38年間となって、現在に至っている。今後とも、“ふるさと”伊丹がどう
か「平和」で、住みやすい町であってほしい。
≪伊丹市内にある「国指定」の史跡・重要文化財≫
“ふるさと”伊丹には、国指定の文化財が4件もある。いずれも「昭和」の後期から「平成」の初頭
にかけて指定を受けた、郷土・伊丹の誇るかけがえのない歴史遺産だ。それは、以下に示す4件で
ある。
@伊丹廃寺跡(緑ケ丘4丁目/陸上自衛隊総監部前=奈良時代の寺院遺跡)。
昭和41年(1966)に指定される。《国指定史跡》。
A有岡城跡(伊丹1・2丁目/JR伊丹駅前=戦国時代の城郭遺跡)。
昭和54年(1979)に指定される。《国指定史跡》。
B慈眼寺(じげんじ)の木造釈迦如来坐像(鴻池6丁目=鎌倉時代の仏像、快慶の
作といわれる)。平成2年(1990)に指定される。《国指定重要文化財》。
C旧岡田家住宅〈店舗・酒蔵〉(宮ノ前2丁目=江戸時代の酒造遺構)。
平成4年(1992)に指定される。《国指定重要文化財》。
これらの歴史遺産について、筆者は伊丹のグラフ情報誌『いたみティ』(伊丹経済交友会
発行)に、文章を書いた。その連載を執筆した時期は、平成2年(1990)以降だった。伊丹の「輝
かしい歴史」を長く記録にとどめるため、国指定文化財について書いた部分を、以下にそのまま
転載させていただく。
▼伊丹廃寺跡(緑ケ丘4丁目)
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
「50年目の伊丹廃寺跡」
▼有岡城跡(JR伊丹駅前)
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
*「@有岡城跡」
*「G伊丹の発掘」……有岡城跡
*「30年目の有岡城跡」
▼慈眼寺の木造釈迦如来坐像(鴻池6丁目)
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
「伊丹《再》発見D」……伊丹の北郊に、なぜか
快慶(?)の遺作が…(慈眼寺)
▼旧岡田家住宅〈店舗・酒蔵〉(宮ノ前2丁目)
【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
「伊丹《再》発見」……旧岡田家住宅に
おヒナさん/酒造用具などを展示
≪伊丹の近代・現代史(年表)≫……主な出来事
――「明治」・「大正」から「昭和」・「平成」へ
▽明治11(1878)――伊丹本町通り(中央3丁目)に、川辺郡役所が設置される。
伊丹は、兵庫県川辺郡の“首都”だったわけである。
▽ 22(1889)――伊丹町が「町制」を施行
▽ 24(1891)――川辺馬車鉄道(尼崎⇔伊丹・現JRの前身)が開通、伊丹駅
開設(伊丹1丁目)
▽ 32(1899)――阪鶴鉄道が開通(のち国鉄→JR)
▽大正 9(1920)――阪急伊丹線が神戸線と同時に開通、伊丹駅開設(中央4丁目)
/伊丹町の人口9,537人(第1回国勢調査)
▽ 10(1921)――阪急稲野駅開設
▽昭和 6(1931)―― ≪満州事変が勃発≫
▽ 8(1933)――伊丹町役場が完成(中央3丁目)
▽ 10(1935)――阪急新伊丹駅開設
▽ 12(1937)―― ≪日中戦争が勃発≫
▽ 14(1939)――伊丹飛行場が開設、さらに拡張へ。
≪ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発≫
▽ 15(1940)――伊丹市が「市制」を施行(伊丹町と稲野村が合併=「伊丹市」と
なる)/伊丹市の人口33,579人
▽ 16(1941)――コメ(米)の配給制度が発足/小学校が「国民学校」と改称/
伊丹飛行場が軍用空港となる。
≪太平洋戦争開戦≫
▽ 18(1943)――伊丹市役所が完成(中央3丁目)
▽ 19(1944)――国鉄北伊丹駅開設(JR)
▽ 20(1945)――グラマン延べ120機が伊丹飛行場を襲撃(機銃掃射)/B29が
伊丹上空に飛来/伊丹市内の一部に空襲の被害が出る。
≪日本が降伏(終戦)≫
アメリカ軍(占領軍)が伊丹飛行場を接収、「イタミ・エアベース」
(米軍基地)となる。
▽ 22(1947)――伊丹市と神津村が合併/新制中学が発足(6・3・3・4制へ)
▽ 24(1949)――伊丹市営バスが開通
▽ 26(1951)――警察予備隊(のち陸上自衛隊)第3管区総監部が緑ケ丘に開設
▽ 29(1954)――伊丹市役所の庁舎(近衛家会所跡の建物を含む)が全焼
▽ 30(1955)――伊丹市が長尾村の南部を編入合併/火災跡地に伊丹市役所
の新庁舎(中央3丁目)が完成/伊丹市の人口68,982人
▽ 33(1958)――アメリカ軍が伊丹基地(伊丹飛行場)を返還
▽ 34(1959)――伊丹飛行場が大阪国際空港(第1種空港)に昇格/陸上自衛隊
第3師団が設置(千僧)
▽ 35(1960)――陸上自衛隊伊丹駐屯地に中部方面総監部設置(緑ケ丘)
▽ 36(1961)――伊丹市の人口が10万人を突破
▽ 39(1964)――伊丹空港にジェット機(ボーイング727、ダグラスDC8)が就航、
騒音問題が深刻化
▽ 41(1966)――伊丹廃寺跡が「国の史跡」に指定される/瑞ケ池公園が完成
▽ 43(1968)――阪急伊丹駅が西台1丁目の高架新駅舎(現在地)へ移転
▽ 45(1970)――伊丹市の人口が15万人を突破/伊丹空港に長さ3000bの
新滑走路(B滑走路)が完成
▽ 47(1972)――伊丹市役所の新庁舎が完成、千僧1丁目(現在地)へ移転
▽ 48(1973)――伊丹市が「大阪国際空港撤去都市」を宣言/『伊丹市史』全7巻
が完成
▽ 49(1974)――昆陽池公園が完成
▽ 54(1979)――有岡城跡が「国の史跡」に指定される
▽ 56(1981)――国鉄福知山線のうち、尼崎⇔伊丹⇔宝塚の複線電化が完成、
伊丹駅の新駅舎が完成
▽ 60(1985)――伊丹市の人口182,731人
▽ 62(1987)――伊丹第一ホテル(伊丹シティホテルの前身)が開業
▽ 63(1988)――JR伊丹駅前再開発事業が完了
▽平成 2(1990)――伊丹市「市制50周年」/伊丹市が「平和都市」を宣言/慈眼寺
の木造釈迦如来坐像が「国の重要文化財」に指定される/伊丹
市の人口186,134人
▽ 4(1992)――旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)が「国の重要文化財」に指定される
▽ 6(1994)――伊丹空港が国内線専用となる(関西国際空港が開港)
▽ 7(1995)――阪神大震災が発生、阪急伊丹駅が倒壊したほか、伊丹市内にも
大被害が出る(市内の死者23人、負傷者2,716人、全半壊家屋
8,894棟)
▽ 8(1996)――FMいたみ(ラジオ放送局)が開局
▽ 10(1998)――阪急伊丹駅ビル(新駅舎)が復興オープン
▽ 13(2001)――宮ノ前地区再開発事業が完了/旧岡田家住宅が伊丹郷町館と
して開設
▽ 19(2007)――伊丹市が「大阪国際空港と共生する都市」を宣言/伊丹スカイ
パーク開設
▽ 22(2010)――伊丹市「市制70周年」/伊丹市立博物館が企画展「伊丹市の
70年――昭和・平成そして未来へ」を開催/この年の伊丹市の
人口は196,219人(9月1日・伊丹市推計、それ以前の人口は
いずれも国勢調査)
2010年12月、筆者は後期高齢者(75歳)となった。伊丹に生まれ育ち、今も伊丹の春日丘
に住む筆者にとって、「伊丹市の市制70周年」を記念して制作したこのページ(「70年目の
“ふるさと”伊丹」)は、まさしく“自分史”そのものともいえよう。それはまた、2006年(平成18年)
から発信を始めたこの『伊丹の歴史グラビア』の、“集大成”だとも思っている。
それにしても、本来“機械オンチ”であるはずの自分が、パソコンを操作できたのは不思議であり、
驚きであった。それと、2008年6月、筆者は大腸がんの手術を受けた。その後も抗がん剤治療をつづ
ける身であるが、気力を失うことなく、ホームページを完成させることができたのは、この上ない喜びで
あった。
これまでに筆者が自分のホームページで発信した写真は、新旧あわせて1,000枚を超え
た。それを成し遂げた達成感は筆舌に尽くしがたく、この幸運を感謝するばかりである。
ご精読、誠に有難うございました。
≪2010年(平成22年)12月≫