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 煩悩即菩提と仏性


「煩悩即菩提」と「煩悩」の意味を調べてみました。

[煩悩即菩提] とは
大乗仏教の概念の一つで、とくに密教においては「煩悩即菩提」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は、「而二不二(ににふに)」といって、二つであってしかも二つではないと説く

[煩 悩] とは
心を強くひきつける欲望、あるいは心身を悩まし苦しめ、煩わせてけがす精神的作用  [対語] 菩提、悟り、正覚 

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人は誰も上記の言葉と意味を自分の心に重ねてみることができます。 
そして生活面や社会背景全般という事では、昔と今では大きな違いがあるとはいえ、人間の質的レベルという点ではあまり大差はなく、煩悩の中身は複雑怪奇で、大いに人を悩ますことでは、今も昔も同じです。仏教では衆生 = 仏の子という教えがあります。
でも生命観が肉体に固定しているところに、宗教が説く生命観をあてはめることはできません。今も昔も善悪混交の想念と欲望を持つことを是としてきました。この世は愉しまなければ命が喜ばないという人間観が好まれるようです。
でも宗教覚者は異口同音に、人間は顛倒夢想していると語り伝えてきたと聞きます。だとすれば顛倒夢想を元に戻すことによって私たちはどんなことを知るのでしょうか。
たとえば、人間の本質とされる仏性の働きが表に現れる事によって、煩悩即菩提という教えが正しく光を得るのかも知れません。

煩悩も菩提心も共に私達の中にあるこころです。その上で、私達の生命が仏の大生命につながっていなければ、煩悩即菩提の働きは成り立ちません。仏教の教えでいうところの仏性の働きがそれを可能にしているという事になります。
それは仏教の教えの根本にある生命の本質にもつながることです。
浄土三部経である無量寿経の中に、法蔵という比丘が菩薩となり、すべての衆生を救済したいとう誓願を釈迦牟尼如来の前で申し立てるという箇所があります。 その誓願は48項目にも上ります。
それらすべてが成就するまでは、自分は仏にはならないと誓うのです。 その内容はすべて実現不可能と思えようなことばかりです。でも驚くことには法蔵菩薩はすでには西方極楽浄土で仏となられているというのです。

誓願が成就したから極楽浄土が出現した、という事でしょうか。阿弥陀如来の前身は法蔵菩薩であった、ということが経文に説かれています。ということは、仏の世界では人間はみんな救われることになっているということでしょうか。阿弥陀仏の教えは大乗仏教です。それは日本では念仏の教えにつながっています。念仏の教えが広まったことの基には法然上人と親鸞聖人の存在があります。そのお二人を比較すると、念仏による衆生救済の道は同じであっても、全く違う使命をまっとうされた生涯であったことが分かります。

法然上人は百万遍の念仏という言葉が示す通り、念仏三昧の生涯は生きながらの大菩薩といった風格があります。 一方親鸞聖人は粗い波動の渦の世俗をいとわず、その中にあっても念仏によって仏道をまっとうすることを自らに課した生涯だったのではないでしょうか。
親鸞聖人は法然上人を生涯の師と仰ぎ尊びました。そして自らも師の教え一念を貫き、ついには自然法爾の心境に達したといわれています。
菩薩道から得阿耨多羅三藐三菩提を得る大乗仏教の教えのお手本がそこにはあります。自然法爾とは、キリスト教の、み心のままに、老子の無為の教えに通じるものです。言葉を変えれば、空観の全託に徹することです。

個々の本体が菩提心であり、誰もが仏の大生命の分霊(わけいのち)であることを信じることから菩薩の道が開く、それが菩提薩達(ぼだいさった)という経文の意味であるとしたら・・・
そしてそこから菩薩という言葉が生まれたとしたら、今日的には菩薩は日々どこにでも生まれ出る事が可能であることになります。
法華経の地涌の菩薩の教えも、私たちの日常世界とかけ離れた唐突な夢物語ではなく、生まれ変わるべきは私たち自身であり、その可能性を秘めていることを教えているのかもしれません。

心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想  究境涅槃
三世諸仏  依深般若波羅蜜多故     得阿耨多羅三藐三菩提


心に去来する暗黒的な想念を本来ないものと見定めて一切遠く離し、ただ常に仏の世界の功徳、大光明だけを観ることに徹したとき、顛倒夢想した想いを脱し、永遠に実在する仏の世界の住人となることが出来る。三世の諸仏も皆、深い般若波羅密多の行 (空を希求して、深く心の奥の真実のみを観じ続ける行)によって、肉体世界に於いて、 得阿耨多羅三藐三菩提(遍満する永遠の大光明、仏の実相世界)との一体化(宇宙的霊位)を得て仏となったのである。

上の経文は、三世諸仏も皆、その前身に於いては、仏弟子として菩提心に目覚め(菩薩となる)、空を観る煩悩即菩提に徹して、仏となることができたのである・・・というお話です。
(と思います)

私たち凡人は、種々と煩悩に迷い、煩悩に悩むからこそ、菩提心の在り様を探求するという事があります。その結果わかったことは、仏性も菩提心も、心の奥の本心の働きであるという事です。
そう考えて間違いはなさそうです。


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