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 五井昌久著 『空即是色』−般若心経の世界      
 

[ 初めから悟っている自分(P165〜P175)

無限億万年昔から悟っている仏

法華経の如来寿量品に、お釈迦様は菩提樹の下で初めて悟ったのではないて、永遠の昔から仏であって、つねに衆生を教化して仏道に入らしめていたとありますが、これについて説明していきましょう。
お釈迦様は断食したり、身体を痛めたり、いろいろ苦行しまして、最後に苦行は悟りの因ではない、といって菩提樹の下であけの明星をみて悟ったわけです。ところが悟ってからどういったかというと、30何歳で悟りを開いたのではない、自分は無量阿僧祇劫から、つまり、無限億万年の昔から悟っている仏なんだというんです。
ちょっときくとおかしいですね。30何歳で悟りを開いたのに、悟りを開いてみたら、自分は30何歳で悟りを開いたのではなくて、昔はむかし、無限億万年のむかしから、いわゆる生命を得た時から悟りを開いたものだ、というのですね。
矛盾するでしょう。これはどういうことかといいますと、いつも私が申しておりますように、この肉体に現われている人間というものは、あなたとか私とかいうものではなく、あなたであり私であるものの一つの生命の現われとして、肉体人間として生まれてきているのです。だから私もあなた方もすべて本当は神様のみ心のなか、仏さまそのものの姿で生きているのです。
普通この真理がわからないで、50歳で何某、30何歳で誰々、80歳の誰々と、迷いの中の業生の中の波に合わせて生きているのが人間であると思っているわけです。
それが私であり、あなたであると思っているわけです。ところがほんとうは神のみ心、真実の自分が地球界に働きをひろげるために、地球界を開発するために、開拓するために、かりに肉体身に現わしている自分なのです。
お釈迦様はそれがわかったわけです。だから30何歳で悟りを開いたのではなくて、阿僧祇劫以前、いいかえればどんなに数を積み重ねてもはかりしれないくらいの昔の無限年間前から悟りを開いているということは、自分の本体は仏そのものであり、神そのものであるということなのです。そうお釈迦様は悟った、そこでみんなにわかるように阿僧祇劫前から悟っっているのだと説明しただけなのです。
現代流にいえば、永遠の流れというものは、大生命、一(いっ)なるものがいくつもに分かれてこの宇宙が出来ているわけですね。その一なる神のみ心のなかに自分がいたわけですが、その一なるものが各種に分かれて、私流にいえば、七つの直霊に分かれて、さらにそこから分霊魂魄(ぶんれいこんぱく)としてこの肉体界に宿っているのです。ですからもとの自分、本当の自分というものは直霊そのもの、神そのものであるというわけです。これがわかれば一番いいのです。
肉体界で何歳で死のうと、どうなろうとそんなものはなんでもない。消えてゆく姿。泡沫のようなものなのです。時間がたてば忘れてしまうものなのです。ところが永遠の生命というものは、無限時間永遠に生きているものですから、それは忘れようも消えようもない、実在するものなのです。
何の誰がしという名前で現われているものではなくて、生命そのもの、自分そのものが永遠に生きているのです。それでしかも永遠に生きているというものは個性をもっているのです。ただ、唯一の神さまのみ心は働きとして、ほうぼうに分かれている。
その働きの源というものが本体なのです。Aであり、Bであり、Cである働きのもとにいるわけです。ですから、神さまのみ心にそのまま入る、全託すると、肉体界の想いというもの、あるいは幽界の想いというもの、霊界の想いというものが、つまり小我が全部なくなってしまって、神そのものが現われてくる。神のみ心が行動となり、教えとなってゆくわけです。
そういうことが出来る人は、神さまのみ心そのままであるから、今、悟ったのではなく、永遠に生きている自分であり、神そのもの、仏そのものの自分であり、始めから悟りを開いている自分であるということになるのです。法華経の寿量品はそれをいったわけです。

悟りを開くということは
そこで考えなければならないことは何かというと、肉体の生活をよくしよう、肉体生活の幸せを得ようというのは2の次3の次であって、いちばん大事なことは、悟りを開くということなのです。これがほんとうの幸せを得る事なのです。悟りを開くということはどういうことか、というと、自分の本体、自分の本質をハッキリ体覚することです。
その本質は何かというと、神のみこころである、唯一なる神、絶対者のなかにそのまま生きている自分であるということ。それがわかりさえすればいいことなのです。
それをわかるにはどうしたらいいのかというと、頭のなかで右往左往して、これが損だ、これが得だ、こうしなければ、ああしなければ、と思いまどろうこころ、または小智才覚をなくすことなのです。
そこでお釈迦さまは“空”になれといったのです。空になって、空になったところから自分の本体が現われてくるのだ、阿僧祇劫から生きている、永遠が生きている自分がそのまま現われてくる。だから空にならなければいけない、といったわけです。
本体の自分の現われを閉ざして、少しずつたまった知識とか、たまった経験とかで力は出てくるが、空になって出た力とはまるきり違ったもので、消えてゆく姿で諸行無常の力なのです。そこで、色即是空といった。
空になると神さまの力がそのまま現われてくる。そして空即是色とひらけて、空になって現われてきた物事、事柄というものは、すべて本体、神のみ心から出てくるものだから、素晴らしいものだ、だからそうなりなさいよ、と般若心経を説いたのです。
お釈迦さまは悟りを開いたときにそれがわかったわけです。そしてそれを弟子たちに教えたわけです。直接、釈迦さまに教わった人は、現在、生まれ変わって生きています。皆さんの中にも随分います。
お釈迦さま時代にきいた時にわからなかったことが、今日になってだんだんわかってきた人も随分あります。もちろんみなさんも何べんも何べんも生まれ変わっているわけですよ。世界平和の祈りをほんとうに解る人は、相当に古い魂で、何べんも生まれ変わっているのです。
何度も生まれ変わり、霊的体験、肉体体験におけるいろいろな体験を加えていきますと、ああ、この肉体の世界というものはだんだんに消えてゆくんだナ、ほんとうにあるのはお釈迦さまと同体である、
仏と同体である自分なんだナということを、だんだん悟ってゆくわけです。

神のみ心の中に入る祈り
悟るためには空にならないといけないけれども、空になることは非常に難しい。また小智才覚でなんにも思わないということもむずかしい。この現象世界では想いに把われてしまいます。とらわれてはいけないということも、空になるということもなかなかむずかしいことなので、私はどうしたかというと “消えてゆく姿” を使ったわけです。
この頭の中で、いいと思うことも、悪いと思うことも、あいつはいやな奴だと思うことも、他からおかされることも、自分から出てゆくことも、すべて真理に反する事はみんな、消えてゆく姿なのです。あるものは神のみ心だけなのです。
嫌な事があっても、過去世からの業想念が今現われて消えてゆくのだ、消えてゆく姿だ、と神さまのみ心の中へ嫌なことをもったままで入ってしまいなさいというのです。
神さまのみ心の中にはいるにはどうしたらいいか、そこには祈り心がほしい。祈り心といってもどういうことかわからない。・・・・ 
自分と人類は同体で、自分というものは人類の中にあり、人類は自分の現われなのです。人類は自分でもあるのです。だからほんとうは自分が人類の中に入り込んでしまわなければいけない。それにはどうしたらいいのか。
人類すべてが平和でありますように、幸福でありますように、本体が現われますように、というので“世界人類が平和でありますように”という祈り言ができたのです。
そして “日本が平和でありますように、私たちの天命が完(まっと)うされますように” という祈り言がつづいたわけですが、“私たち” というのは、自分たち一家だけではないのです。
私たちを含めて無限の数です。いわゆる世界人類です。
ですから、世界人類の天命が完うされますように、というのと同じことなのです。そういう祈り言をすると、つねに自分は人類の幸せを願う心でいっぱいになっているわけです。一人の人間が30数億の幸せの中に生きているわけです。そういう大きな大きな自分になってゆく。
いいかえれば、神のみ心の中にそのまま入っているということです。
“ 世界人類が平和でありますように” という祈り心で、神さまのみ心のなかに入ってしまうわけです。入る時は自分の持っている業想念 ―誤った想い、とらわれる想い― もそのまま持って祈るのです。そうすると、自我欲望にまつわる、いろいろな小智、才覚、もろもろの間違った想い、人からおかされる想いというものが、みんな世界平和の祈りで一緒に消えてゆくわけです。
これを何回も何回もくりかえして祈り、だんだん深くなってゆくと、しまいには業想念がスッカリ消えるわけです。始めは深く入れないかもしれない。
しかしみんな練習ですから、だんだん深く祈り心のなかに入ってゆくうちに、いつのまにか、自分の幸せだけ願っていたことが、ほんとうに、世界が平和でなければいけないナ、というふうにだんだん心がつよまってくる。
そうすると自分の心がサバサバとしてくるのです。心が青空のように晴れわたってくる。
こういう境地はやっぱり悟りの境地なのです。お釈迦さまはそういうように悟ってくるのだ、という一番のもとを説いているわけです。それをわれわれが、お釈迦さまの心を了解し、悟って、現代的にはこういうように解きあかそう、といって、
消えてゆく姿で世界平和の祈り” という生き方を発見したわけです。

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