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一切(いっさい)の中に自己があり、自己の中に一切(いっさい)がある     


一切の中に自己があり自己の中に一切がある この言葉は、仏教経典の中に見られるものですが、その意味は、あまりにスケールが大きすぎてよく判りません。
一切とは、《 在りてある生命の働きすべて 》 と理解できます。その範囲は、山川草木、大地、海、空など森羅万象であり、地球上の生命活動のすべてということでしょうか。
更には仏が語る無量光、無量寿の世界観に重ねれば、一切という言葉の範疇は、地球を超えて宇宙にまで広がります。そうした広大な背景の中で考える、一切の中に自己があり、自己の中に一切がある の意味は、超ミクロから超マクロに至るまでも、あらゆる生命活動の中に宇宙的叡智が働いているということではないでしょうか。 

宇宙は果てしなく、その運行を司る宇宙の叡智も果てしなく深遠です。でも大生命とは、マクロ的でありながら、その働きは、超ミクロにまで及ぶといわれています。それはすべての生命の営みとつながっていることでもあります。
有限と無限、そうした異なる生命の働きが地球に存在するとしても、地上に生きる生命の営みは、すべて有限という法則の中で循環しています。悠久の時間が限りなく永遠に近いとしても、有限という法則には必ず終焉があります。一説には地球人類の意識は、宇宙由来に組する永遠の法則性から離れているといわれています。

宗教の分野では、個人も人類もいつの日か有限を軸とする考察から脱却しなければいけないことを種々と説いています。
一切(いっさい)の中に自己があり、自己の中に一切(いっさい)がある、の言葉もそうした視点から見れば、その一切の中心は、人間生命の中心核でもあるという事になります。
宇宙という大きな運行の中に組み込まれている地球があり、その上に私たちの生命もあるのですから、生命の認識や価値観の形成は、地球から宇宙を見るのではなく、宇宙から地球を見るという意識から生まれることが求められるところです。
地球ばかりではなく宇宙の活動のすべてをその叡智の中に収めている大生命こそがあらゆるすべてを生みなす光の大元であり、根源であるからです。
大いなる働きの中では自他を分ける意識の分離が生じることもなく、すべてが大調和しているというのが、本当の生命の姿ということになります。

今日、生命=肉体=人間という常識は固く定なっていますが、時代の進展は、常識に対する柔軟性を開きつつあります。
科学の進展に伴って、人間生命の本質が宇宙大生命から分かれた小生命であるということが理解されやすい時代に至っています。
生命が肉体にあり、肉体の中に生命がある という狭い生命観は生命のひろがりという可能性を生み出しません。
そこで一切という言葉に別の言葉を置き換えるてみることにしました。

例えば一切という言葉を神 という言葉に置き換えると、
“ 神の中に自己があり、自己の中に神がある ”  となります。

更には自己を自己のいのちに変えると
“ 神の中に自己のいのちがあり、自己のいのちの中に神がある ”  となります。神とは大生命であるとすれば、私たちは大生命の中で生かされているという事になります。
“ 神の中に一切があり、一切の中に神がある” も又、真なりです。
言葉を変えると少し意味が変わるようにみえますが、大きく違ってしまう事はありません。
肉体の生命は有限であり、いつか老いが始まります。地上の生命の物語は、肉体に始まり肉体で終わるという事も事実ですが、でも大生命の中に生かされている生命であれば、生死という次元の壁を超えて生き続けることになります。
私達の生命の中に有限と無限という異なる法則が存在するとすれば、そのどちらに生命の源という本道を見出すかは、どこまでも個々の自由ということになります。

人間とは本来神の分霊(わけみたま)であり、業生ではないという教えがあります。ということは人間生命の根源は、有限ではなく、神と人間を全く別次元に大きく隔てることは、正しい認識ではないことになります。
一切の中に大生命のいのちのひとすじがあり、大生命の中に自己の生命の本源があるという事がいえるのです。
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