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肉体と幽体
『愛平和祈り』 から


  般若心経と空について (1)    


仏教の経典には、その成立と伝承の歴史や、今日までの歩みを含めると、膨大ともいえる生命の足跡が刻まれています。そのため経巻、経典を仏の慈愛と衆生救済の意志に満ちた、大きな存在として尊ぶ意識も生まれたと考えられます。
仏教の歴史そのものが 悠久の時間と大きな宇宙的経綸を経ており、日本仏教の先人達は、そうした悠久を越えて受けつがれてきた仏教の教えの核を、しっかり理解し守り伝えたといえるのではないでしょうか。
そして今時代の急速な流れの中で様々な大切な心が見失いかけているとしても、誰もが心の奥にはすぐれた資質である仏性を持っているとは、仏の教えから導き出されることでもあります。
私達のいのちが続く先の世界がどこまでも光に満ちた世界であったなら、どんなに素晴らしいことか、と願わない人はいません。そして静かで心地よく澄んでいる、そんな心の穏やかさを実感したいという気持ちが、写経や巡礼への興味となり、静かなブームが続いているのではないでしょうか。
それは人が心のどこかで宗派を超えた仏の教えに触れたい、真髄を得たいと願っているからといえます。でも人は宗教という言葉に対して、人それぞれの垣根も持っているのではないでしょうか。
それが無意識に人のこころを窮屈にするものであれば、偏りのないおおらかなこころの道に出るためにも、正しい普遍的な教理が求めらられます。般若心経も本当は脱宗教的な、それでいて常識を超えた人間と仏の関係をつなく真実を語っているのかも知れません。
般若心経は不垢不浄、不増不滅というように相対的現われを否定して、すべて『空』と見定めています。そして現象世界の現われのマイナス面を、無、無、と観じることで、心の中を仏の実相世界に置き換えることができるとています。
そうした功徳もすべては諸仏の加護があればこそ可能であるという精神性に貫かれています。
そんな般若心経は(正式には摩訶般若波羅蜜多心経)、今日では宗派の別なく広く在家用のお経としても用いられているようです。
般若心経は仏が舎利子という仏弟子に教えを解き明かしているという形式になっていて、経文の中で仏は舎利子よ、と語りかける形で教えが説かれています。
法華経の中では舎利弗という名の僧がよく登場します。般若心経の舎利子と名前がよく似ています。どちらも仏の傍近くにあった弟子という点からみて、同一人物であるかも知れません。
その舎利弗は、法華経の経文から推察すると、最初は小乗仏教の悟りを志した仏弟子であったことが伺えます。ところがその後、仏になるためには、小乗の悟りを超えて、更に進まなければならないことを教えられます。
それはこれまでの歩みをゼロに帰してもまだマイナスが残る、そんな道を進むことであることが、教えを聞かされる僧の当惑ぶりからも推察されます。法華経は仏に至る菩薩行法の教えとも云われます。その中では、衆生、僧、菩薩、仏という関係に隔たりがなく、いのちの線で一本につながっていることを教えています。
般若心経は、無と断じる世界を超えたところに、真実の実在があり本当の消え去らない世界があることを観ています。本当はみんな仏の永遠の生命の中では光あふれる生命の本質を輝かせているのだから、仏の教えを信じて本当の自分の輝きを顕わしましょう、という事は、いのちの本住地を日々心の中に会得してゆきましょう、ということではないでしょうか。
法華経の中で、菩薩行の道を仏より授かる舎利弗と、般若心経の仏弟子の舎利子が同一人物だとすれば、経文のなかで、観自在菩薩の行を教示される舎利子は、まさに菩薩としての使命に邁進することを心に誓ったのでしょうか。
そしてその崇高な誓いも、衆生が生きる社会生活の中に足をつけてこそ成就することを経典は語っているようです。私たちは今日誰でもが般若心経を写経し読通する事が出来るという時代に生きています。ということは、自分自身を舎利子に投影し、仏から観自在菩薩の行法を聞く気持になることも出来るのではないでしょうか。
何故なら人間は誰もが仏性を内在しているといわれているからです。といっても、現実には菩薩様とはほど遠い人間なのですから、ただただ奥深くにある仏性を信じ、その光明に感謝すれば、いいのではないでしょうか。それは簡単にできる煩悩即菩提なのかもしれません。

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